Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    H.K.

    ☆quiet follow
    POIPOI 4

    H.K.

    ☆quiet follow

    フレがボヌとピィにホワイトデーのお返しをする話(完)

    ワイズの鳥籠 2 (完)「実際にはこんなガラクタ、1円にだってならないんだろうね」

    改めて探索を再開したピィは、地面に落ちている埃と傷まみれの絵画を収集しながらボソリとそう呟く。
    語りかけているとも独り言とも取れるその発言に返事をするかどうか、フレはボヌと一緒に彼の後ろを歩きながらちょっと悩んだ。

    「ね、アンタはこの“ネカ”って通貨の相場、どれくらいだと思う?」
    「え?相場ですか?」

    突然首だけクルッと回してきたかと思うと、ピィはフレにそう尋ねてきた。
    予期しない質問に彼女は一瞬面食らう。

    「収集アイテムの価値設定はフラットにしてあるけどさ、最初に主人公が目標金額を10,000ネカにしてたじゃない? 日本円だったら1万円って旅行代には少ないから……でも10倍にしての10万円ってなったらお小遣い稼ぎにはちょっと多すぎか…」
    「……」

    質問するようなことを聞いておいて結局ピィはひとりでに考え込んでしまう。しきりに辺りを見回し、歩き回りながらブツブツ…と、思っていることを口に出して頭を整理させているようだった。
    フレはその様子を見て(あ、なるほど…)と妙に納得をした。
    ピィは普段から言葉数が多い…それも否定的で皮肉めいた言葉ばかり。だからフレは、彼は常に不満を抱えていてそのせいでずっと不機嫌なのだろう、と少し不憫に思っていた。

    (でも……きっと逆なんだ)

    そう、彼の口数が多くなるのは決して不満があるからではなく、実際にはその逆で、目の前の出来事にのめり込み集中しているからこそなのであった。つまり彼は今、ブツブツと独り言を呟き続けながらこの状況を大いに楽しんでいるのだ。

    「ふふっ」
    「? どうしたの?」

    彼の本質に気づいたフレは、そのちょっとした嬉しさから思わず小さく笑ってしまった。
    すると隣でその笑い声を聞いたボヌが不思議そうに顔を覗き込んでくる。

    「うん、ピィ君が楽しんでくれてるみたいで良かったな〜って思ってたの」
    「ふーん?」
    「ボヌ君はどう?楽しい?」
    「うん、楽しいよ!君とこうして手を繋いで、知らないトコをお散歩できて、とーっても楽しいっ!」
    「ふふっ、そっか、良かった!」
    「あ、でも…」
    「ん?どうしたの?」
    「……」

    キャッキャと楽しそうに話していたボヌは突然萎んだように顔を曇らせ、モジモジと何か言いづらそうに地面を見つめた。
    その様子に疑念を感じたフレは再び「何かあったの?」と優しく問いかける。

    「、んー…」
    「…うん?」
    「あの、ね……、君が僕たちのためにいっぱい準備してくれたのはわかってるんだけど…」
    「うん」
    「……本当のことを言うと……準備よりも、もっと…遊びに来てほしかった」
    「…!」
    「君がいない間、すっごく寂しかったよ…」
    「……」

    フレはその言葉とあまりにも悲しそうな表情を受けて、ズドンッ…と一気に胸が重くなるような気持ちがした。
    だってボヌの言うことはもっともだったから。
    もちろんフレは2体のためを思って、この1ヶ月間佐佐城たちと共にゲーム制作に取り組んできた。しかしそのせいで彼らを蔑ろにし、寂しい思いまでさせてしまったのでは本末転倒ではないか。
    ……そういえば1ヶ月ぶりにピィに会った時彼はどうも怒っている様子であったが、今思うとあれは「寂しかった」「楽しみにしてた」の裏返しだったのかもしれない。そう考えると彼らには随分と酷いことをしてしまった。

    「……ボヌ君、ごめんね」
    「あっ、ち、違うよっ!怒ってるわけじゃないんだ…っ、謝ってほしいわけでもっ、……だって君はこうしてまた僕に会いに来てくれたんだもん!僕はそれだけでとっても嬉しいんだよっ?」
    「…うん、でも、やっぱりごめんなさいだよ。……だって私は2人に辛い思いなんて絶対させちゃいけなかったんだもの」
    「…?」

    この2体は元々ボヌの暴走のせいで廃棄データとして処分されるはずだった。それを「嫌だ」と言って止めさせたのは、他でもないフレなのだ。
    だから彼女には2体の面倒を最後まで見る義務がある。捨て犬を拾い上げておいて、そのお世話を途中放棄していいわけがないのだから。

    「これからはもっと頻繁に会いに来るね!毎日……は無理かもしれないけど、出来るだけたくさん。たとえちょっとの時間しか会えなくても、来れそうなら絶対に来るよ!」
    「…! 本当っ!?」
    「うん!……だからボヌ君ももっと我儘を言っていいんだよ?何か私にしてほしいこととかない?」
    「えっ!…あ、う……でも…」
    「遠慮しないでっ」
    「……いいの?」
    「もちろん!」

    するとボヌは悩ましげに、しかしポツリ…ポツリ…と話しはじめた。

    「じ、じゃあ……その、…もっと僕と遊んでほしい…」
    「うんうんっ」
    「……それから、」
    「それから?」
    「もっと君の話を聞かせてほしい…僕と会ってない間なにをしてるかとか、全部。…それと、君はいつもこっちに来た時、彼に先に会いに行くけど、僕の方に先に来てほしい……、もっと言うなら本当は彼のトコには行かないでほしい」
    「……うん?」
    「ずっとずっとずぅーっと僕と一緒にいてほしいし、ちょっとだって離れたくない。今こうして話してるけど、目の前の君は作り物だってわかってるから……やっぱり本物の君にこっちに来てほしい」
    「……」
    「でもそれをするためには、彼や僕を作った人たちが邪魔だから……今度こそ…「ボ、ボヌ君!」」

    淡いイエローの瞳が深淵の如く黒く濁っていく気配を感じたフレは(これはマズいッ)と慌ててボヌを静止した。

    「…! なあに?どうしたの?」
    「……やっぱり1%くらいの我儘でお願いします…」
    「? うん、わかった!君にもっと会いに来てほしいなっ!」
    「ああ、良かった。闇を知らない光のボヌ君だ…」

    (人の本性なんて覗くもんじゃないな…)と反省しつつフレはホッと一息つく。
    すると、ちょうどそのタイミングで少し遠くの方から「お、やっぱりあった!」とピィの楽しげな声が聞こえてきた。
    なんだなんだと2体が顔を前に向けると、先ほどまで目の前に居たはずの彼の姿がない。おや?と辺りを見回すと、階段裏の柱の影にその特徴的なピンクの髪が見え隠れしていた。
    フレが「何があったんですか?」と聞きながらボヌと一緒にその階段裏に回り込むと、そこには小さな紙切れ一枚を手に持ったピィが嬉しそうにワクワクと佇んでいた。

    「これ。ここに落ちてたんだよ」
    「なあに?この紙切れ」
    「たぶんサブクエのキーアイテム。ほら、収集できないから」

    そう言ってピィは左手で持ったそれを見やすいように2体の方へと向けた。
    その紙切れは随分とボロボロになっており、よく見ると何かが手書きで書き記されている。……どうやら破られた日記のページのようだ。

    「さぶくえ…きーあいてむ…って?」
    「あー…このゲームをもっと面白くする追加要素ってことだよ。……絶対あると思ったんだよね、アイツがただの宝探しで終わらせるはずがないもん」

    いつもなら「アンタには言ってもわからないよ」と嫌味で返すところだが、今はよほどテンションが上がっているのか、ピィはボヌにも伝わりやすいように簡単な説明をしてあげた。

    「ほら見てこの紙切れ、顔を近づけると『読みますか?』ってテキストが出てくるんだ」

    少年のように瞳を輝かせたピィは「何が書いてあるんだろうね?」とドキドキしながらテキストの下の『はい』という文字をタップする。あまり現状を理解できていないボヌも彼の雰囲気にあてられて、同じようにドキドキと何かが起こるのを待った。
    すると、すぐさま紙切れから映写する様に彼らの目の前に日記の内容が大きく映し出され、そのまま誰ともわからない声で読み上げが始まった。

    『──_月_日(日付の文字は掠れて読めず、音声にもノイズが走っていて聞き取れない)
    今日私は従兄弟の家へと向かうはずだったのだが、その道中、嵐に見舞われてしまった。
    進むことも戻ることも困難であったため近くの屋敷へ助けを求めると、幸いなことに屋敷の方々は私を快く迎え入れてくれた。
    使用人の方たちは雨に打たれて凍えきった私のため、すぐに風呂まで準備してくれた。私は風呂だけではないその温もりのおかげですっかりと温まることができた。
    風呂から上がると着替え、夕食、寝床の準備まで。彼らは「嵐はまだ止みそうにございませんので、どうぞこのお屋敷で一晩お過ごしください」と言ってくれた。こんなにありがたいことはない、私はその申し出を喜んで受けた。
    しかし、こんなに良くしてもらったのだから休む前に屋敷のご主人に一言お礼をと思い、使用人の方にその旨を伝えたら「主人はもうお休みになられております、ですのでご挨拶はまた明日の朝に」と言われてしまった。
    確かに、もう夜も遅い。
    この素晴らしい屋敷のご主人には明日の朝お礼を伝えることにして、今夜はこのまま休ませてもらうことにした。
    明日ご主人に会えるのがとても楽しみだ。』

    日記の最後にはまだ何か書かれているようだったが、これも日付と同じように掠れて読めなくなっていた。
    テキストの読み上げが終了すると破れたページはシュワシュワ光の泡となって消え、全員の視界の右上にページのアイコンとなって表示された。そこに触れればいつでも日記を読み返せるようだ。
    ボヌは「またキラキラしてたーっ」と意味もわからず無邪気にキャッキャと楽しんでいたが、ピィは眉間に皺を寄せてウンウンと今の日記について考え込んだ。

    「……ふーん、なるほど。この日記はだいぶ昔のものみたいだね」
    「だからこんなにボロボロなの?」
    「ん、そうみたい。……でもこれだけだとまだ何の情報も得られない、きっと別の場所にもページが落ちてるんだろう」
    「じゃあそれを探すの?」
    「うん、そうなるね」
    「わぁー、探し物がいっぱいで大変だねー」
    「……まぁ、宝探しってそういうものだからね」
    「へぇー」

    ピィの独り言のような呟きにもボヌは構わずに相槌を挟む。
    黙ってその様子を見ていたフレは(…2人って意外と相性がいいのかも?)とちょっとだけ思った。
    次々思案を巡らせるピィと思ったままに疑問を投げかけるボヌ……。

    (探偵さんと助手さんみたいで悪くないね!)

    そんなことを考えながら、フレはその後も2体のことをのほほ〜んと見守った。
    ひと通り考えをまとめ終えたピィは「じゃ、そろそろ次の部屋に移ろうか」と言って部屋の西側にある扉の方へ歩きはじめる。するとボヌが焦ったようにその背中に声をかけた。

    「えっ!う、上は?上には行かないの?」

    どうやら目の前の大階段がよほど気になっているようで、一刻も早く上ってみたいといった様子である。

    「上は後、まずは一階のフロアを全部回らなきゃ」
    「えーっ、なんでなんで!こんなに大きな階段が目の前にあるのにっ?」
    「いやまぁ確かに、ロマン溢れる吹き抜け階段ではあるけどさ。こういう場合はまず、今いる階の部屋を順番に回ってくのがセオリーなんだよ」
    「なんで?」
    「んー……探索ゲーってさ、基本最初はしらみつぶしに部屋を見てくものなんだけど、すでに見た部屋、まだ見てない部屋っていうのを把握してなきゃいけないんだ」
    「ふむふむ…?」
    「そうすると色んな階や部屋をゴチャゴチャに行き来するより、順番を決めて回っていった方が『この部屋はもう見た』っていうのを記憶じゃなくて理屈で覚えてられる」
    「…?」
    「たとえば、今で言うなら俺は部屋の探索を『左から時計回り』で始めようとしてる。するとこの部屋の北側にあるあの扉……そう、階段の向こうのやつね。あの部屋を探索し終えて出てきた時に左右どっちにも扉があるけど『俺は時計回りに探索してるから次は左の扉だ』って分かりやすくなる」
    「…うーん?」
    「わからない?」
    「ううん。もう見た部屋とそうじゃない部屋がすぐにわかるようになる、っていうのはわかったんだけど。……それが何の役に立つのかがわからない…」
    「探索って見て回ってそれで終わり、ってわけじゃないんだよ。その部屋には何があったか、何がわかっていて何がまだわかってないか……考えること、覚えてなきゃいけないことが色々ある。でも人間の脳には限界があるから全部は覚えてられないでしょ?だから探索順とかのパターン化出来るものはやっておいて、脳のキャパを確保しておくのが大事なんだよ」
    「……?」
    「まだわからない?」
    「でも僕らは人間じゃないから全部覚えていられるじゃない」
    「……………確かに」

    長ったらしい説明の全てを無に帰す正論をブチかまされたピィは、めちゃくちゃ素直に心の底からそう口に出した。
    びっくりした。そういえば俺たちはAIだった。佐佐城とかいうド凡人ゴミカス人間の人格が入ってるせいですっかり失念してしまっていた。こんなところで純AIのボヌに気付かされるとは……ちょっと関心してしまう。
    しかし頭では理解していても、順を追って探索したいという気持ちが胸を渦巻く。俗っぽい言い方になるがピィはA型気質なのだ。
    結局彼は「ま、まぁ…フレもいることだし?ここは人間のセオリーに合わせておこうよ」と謎に言い訳がましい言い方をして、当初の予定通り『左から時計回り』の探索方法を取ることを提案した。
    ボヌは「フレ」という単語を聞いて一も二もなく同意し、フレもまた(私は全部わかってるから別にいいんだけどな…)と思いつつも、空気を読んで同意した。
    そうして探索方法を決定した彼らは、ピィを先頭にして早速西側の扉を開く。すると、そこは奥に伸びた廊下となっていた。

    「…なんだ、部屋じゃないのか」

    拍子抜けしたようにそう呟き、ピィはそのまま廊下へと足を踏み入れる。
    そこには3枚の扉が、左右の壁に1枚ずつと突き当たりの壁に1枚あった。

    「ここも左から?」

    ピィの後ろからヒョコっと顔だけ覗かせて廊下を見渡したボヌは、扉を認識するや否や彼にそう質問した。
    ピィは「そうだね」と返事をした後すぐに「……でもあんまり入り組んでたらその限りではないかも」と保険をかけつつ、左扉のノブに手をかけた。
    扉を開くとそこは書斎となっていた。
    天井まで届く壁一面の本棚や立派なアンティークの執務机、革張りのソファ、繊細な装飾が施されたローテーブルなど、どれも古びて埃や傷で汚れてはいたが、それでもなお失われない荘厳さをまとってそこらに鎮座している。

    「ぅわ…最悪……」

    しかしピィはそんな家具や調度品たちには目もくれず、忌々しそうに辺りを見回し悪態をついた。
    彼の目線の先にあるのは本棚から落ちてしまったと思われる散乱した書物たち、それらは机や床の上に無数に散らばっていた。

    「俺は日記のページを探すから、アンタらはそこのソファでちょっと待機してて」

    早速そこらに散らばっている書物たちをどんどん収集していきながらピィは2体にそう指示した。

    「私たちも探しますよ?」
    「いや、いい。アンタにはボヌの面倒をちゃんと見ててもらわなきゃだから」
    「そうですか?……わかりました」
    「ん、よろしくね」

    無心で次々収集していくピィを横目に見つつ、フレは「じゃあここに座って待ってよっか」とボヌをソファへ促す。2体でチョコンと座っても、そのソファにはまだまだ余裕があった。
    フレが愚痴っぽく「ボヌ君にだってページ探しくらいできるのにね」とゲームにあまり参加させてあげないピィのことを恨めしく言うと「僕は君とこうしておしゃべりしてる方が楽しいから全然いいよ?」とボヌは気にもしてない様子であっけらかんとそう返した。
    その言葉にフレはハッとして(価値観は人それぞれか…!)とひとり気付きを得る。
    ピィはもちろん自分1体の方が厄介が起こらないと思ってああいった指示を出したのだが、その指示は偶然にもボヌの利害と一致していた。だから現状は彼らにとってなんの不満もない状況なのだ。
    なーんだ、だったらよかった!とフレは胸を撫で下ろして、足をポーンと前に投げ出し、ソファの座面に“左手”をついた。

    「「わぁっ!?」」
    「!?っ何、どうしたのっ!!」

    ドスンッ!!という音と共に2体の叫び声を聞いたピィは慌てて後ろを振り返った。
    するとそこには、さっきまでソファがあったはずの地面に直接ペタン…と座り込んでいるフレとボヌの姿が、間抜けなびっくり顔と共にあった。
    左上の収集額に+200がされたのを見てピィは全てを悟る。
    呆れたように「どっちがやったの?」と聞くとフレがおずおずと手を上げた。

    「全く、世話役が面倒起こしてちゃわけないよ。ほら、手袋貸して、没収」
    「面目ない…」

    フレはしわくちゃの顔でそう言うと素直に手袋をピィに渡した。

    「ついでにボヌも」
    「え〜っ!?僕はなにもしてないよっ」
    「いいから。この子と話すのにそれは要らないでしょ、変に荷物になるくらいなら俺が持ってる」
    「ぶぇ〜」

    ぶーたれながらもボヌも指示に従った。まあ確かに、フレと話すのにこれは別段必要でもないので。
    ピィは受け取った手袋2枚を雑に自分のポケットにしまい、再び書物収集の作業に戻る。道中一度だけ振り返り「アンタらはそのままそこで待ってるように」とちゃんと釘も刺して。
    フレは再度「面目ない…」と消え入るような声で言い、しわくちゃの顔のまま彼を見送った。
    そうして床の書物の収集を終え、書斎机に取りかかったところでピィは目的のものを発見する。

    「あったあった2ページ目!」

    嬉しそうにそう言うとウッキウキで2体の方へ駆け寄った。

    「見つけたんですね!」
    「わぁ、次はどんなお話ー?」
    「さぁ、どんな内容だろうね?」

    ワクワクしながらフレとボヌの向かいにしゃがみ込んだピィは、1枚目の時と同じようにして日記の読み上げを開始させた。

    『──_月_日
    結論から言うと今日も屋敷のご主人には会えなかった。
    朝、目を覚ましてから昨晩の使用人の方に声をかけると、申し訳なさそうに「主人は朝早くから出かけておりまして…」と伝えられた。昨日に引き続き今日も嵐が吹き荒れているというのに一体どこへ行ってしまったのだろうか。
    しかし、焦ることはない。この嵐ではどのみちまだここに留まらせてもらうことになるだろうから、気長に待つことにしよう。
    私はそう思っていた。
    ……しかし、冒頭に書き記した通り、結局深夜0時を回ってもご主人が帰ってくることはなく、私は今日もお礼を言うことができなかった。』

    読み上げが終わり、ページがシュワシュワと消えていくとピィはフムフムと首を上下に動かした。

    「怪しいね…」
    「何がー?」

    したり顔で呟く彼に対してボヌは純粋にそう聞いた。

    「この屋敷の主人だよ。丸一日屋敷に戻らない、しかも外は嵐なのに。……俺はこの主人、本当はいないと見たね」
    「でもフレも僕らに何日も会いに来ないことあるよ?」
    「お、今私流れ弾食らった?」
    「それはあそこが家じゃないからだよ。この屋敷もただの所有地だって言うんならわかるけど、使用人の口ぶりからしてちゃんと住んでるみたいだしね」
    「……なるほど」
    「きっと次の日記でもこの書き手は主人に会えてないよ」
    「……フレのお家を僕と一緒にすれば毎日会えるのか…」
    「ピィ君ピィ君、予期しない方向でボヌ君に要らぬ知恵を与えてますよ」

    三者三様、それぞれの思いを抱えながら彼らは共に探索を続けた。
    先に言っておくと、ピィの予想はこの後大きく外れることとなる。
    話し終えた3体は入ってきた扉とは別の、奥に備え付けられた扉から次の部屋へと入っていった。
    入った先はギャラリー室となっており、さまざまな美術品がこれまた古ぼけながらもその存在感を大いに主張している。
    ピィはすぐに辺りをサッと見回して「ここは宝部屋だね」と呟きながら探索を開始し、ボヌとフレは「わぁ…」と感嘆の声を上げつつ歩調を落として、ゆっくりと美術品たちを見て回った。
    ピィの呟きの通り、この部屋はゲーム的にも“宝部屋”であり、佐佐城が用意した救済措置。つまりはピィがこのゲームにハマらなかった時用に作った『ゲーム爆速クリア部屋』なのである。
    しかし、無事ゲームにハマった彼は目の前の“宝”たちには目もくれず、もう一方の目的である“日記のページ”探しに注力した。
    そうしてボヌとフレが美術品を全て見終えた頃、ピィも探索を終える。しかし、隅々まで探したのにも関わらず、彼の手にはページが握られていなかった。どうやらここは文字通り、ただの“宝部屋”だったらしい。

    「次に行こう」

    懸命な探索は徒労に終わったが、特にピィは不貞腐れることもなく淡々とそう言い放つ。そうして、またさっきとは違う次の扉に手をかけた。効率重視の性格はこういう時に無駄がなくていい。
    次に入った部屋は応接間となっていた。
    入って右手の壁には立派な暖炉があり、その前にはローテーブル、そしてそれを挟むようにしてソファが向かい合わせで配置されている。そこ以外にも一人がけの椅子やテーブルがまばらに配置されており、人々が集まり休憩や団欒をしていたであろう姿が目に浮かぶ。
    ピィは何故かこの部屋に入った瞬間妙な違和感を覚えた。しかしその思考はボヌの「あ!」という声によって遮断された。

    「なに?どうしたの?」
    「そのテーブルの上、日記のページじゃない?」
    「え?……あ、ホントだ」

    ボヌが指差したのは暖炉前のローテーブル。その上には彼の言った通り、日記のページが一枚、ポツンと置かれていた。
    エントランスや書斎の時とは違って、いかにも『見てください!』と言わんばかりに置かれているそれをピィは少し不審に思いながらも手に取る。

    (特に変わったところはないね…)

    ページの裏表をペラペラと確認したが前の2枚と変わったところはない。
    ピィは(単にここは探索をしなくてもいいボーナス部屋ってだけか)とそれ以上追究することはせず、今までと同じように読み上げを開始させた。

    『──_月_日
    ここに泊めてもらってから早三日、私はついにこのお屋敷のご主人に会えた。
    しかし、感慨に浸ったのも束の間。彼は私の感謝の意を聞き終えると、特に返事もしないで足早に去っていってしまった。
    何か失礼でもしてしまったかと、近くに控えていた使用人の方に尋ねてみると「不躾な態度で申し訳ありません、主人は普段からあのようなお方なのです」と説明をしてくれた。どうやら人嫌いというものらしい。
    どうりで、私だけでなく使用人の方に向ける視線も冷たかったわけだ。彼はこの温かなお屋敷の中で唯一の異端だった。
    ……そして彼の視線と同じくらい冷たい雨は、嵐と共に、いまだ止む気配はない。』

    読み上げが終わると一同の間に一瞬の静寂が訪れる。

    「……」
    「この人、ご主人って人に会えたんだね!」
    「……うん」

    ピィの予想に反して、日記の書き手は屋敷の主人にあっさり会えていた。

    「てっきり主人は使用人に殺されてて、それを知ってしまったコイツが屋敷から脱出するデスゲームが始まると思ってたんだけど…」
    「そんな物騒な…」
    「でもアイツらなら作りかねないよ」
    「いや、まあ…確かに……でもこのお話には元になった場所があるらしいので、そんな突飛なことにはならないかと」
    「あ、そうなの?」
    「はい、なんでもいわくつきの……あ、」
    「ん?どうしたの?」
    「す、すみません……これってネタバレになりますよね」
    「あー……そっか。アンタは内容知ってるんだもんね、毎回新鮮な反応するから忘れてたよ」
    「内容は知ってても実際に体験するのは初めてなので…」
    「ふーん、そういうものか。ま、でも大丈夫だよ、さっきのは俺的にネタバレのうちに入んないから。今後は気をつけるように」
    「はい!」
    「ねぇねぇ、ですげーむってなぁに?」
    「次アンタが暴走した時に俺が開催するゲームのことだよ」

    順調に日記のページを集めていく一行はその後も探索を続けた。
    応接室の次は広間、浴室、ダイニング、厨房…。
    そうして一階全てのフロアをまわりきった彼らは改めて玄関ホールの階段前へとやってきた。
    探索によって集まった日記のページは現時点で6枚。4枚目以降は広間、ダイニング、厨房にそれぞれ1枚ずつ隠されていた。
    内容は以下の通りである。

    『_月_日
    相変わらず嵐が止む気配はない。
    もう少し暖かい時期なら無理をしても良かったのだが、この冷たい雨に打たれてしまってはきっと病どころでは済まくなってしまうだろう。
    申し訳なく感じながらも使用人の方に「もう少しお世話になるかもしれません」と声をかけると「私共は構いませんよ、どうぞ心ゆくまでここでお休みになられてください」と返してくれた。本当に温かな方たちだ。
    彼女らの厚意に甘えて、私はもうしばらくこのお屋敷で過ごさせてもらうことにした。』

    『_月_日
    ご主人とは3日目以降出会っておらず、私の話し相手にはもっぱら使用人の方たちがなってくれている。
    おかげで随分と仲良くなれたように思う。他愛もない雑談をすることも増えた。
    彼女らは私の話をよく聞いてくれるし、彼女ら自身の話もよくしてくれた。
    ……しかし、その話の中にご主人の話題は一切登場しなかった。
    家主の詮索など不躾かもしれないが、明日タイミングがあればその話を振ってみようと思う。』

    『_月_日
    使用人の方たちにご主人の話を振ってみた。案の定彼女らはいい顔をしなかった。
    しかし、それは私が不躾な詮索をしたからではなく、なんと答えてよいものかを考えあぐねてのことだった。
    だがここ数日で随分と打ち解けたこともあってか、しばらくすると彼女らは慎重に言葉を選んで話をしてくれた。
    彼女ら曰く、ご主人の人嫌いは相当なものらしく、使用人の方たちは結婚や跡目などの将来のことをいたく心配している、とのことだった。せめて友人でも作ってくだされば……と。
    なんとなく最後の言葉は私に向けられている様な気がして、私は彼女らのためにもご主人に歩み寄ってみようかと思った。』

    二階へ上がる前にもう一度日記の内容を確認したピィは、ウーンウーンと考え込みながら先の展開の予想を立てていた。

    「これはあれか?コイツが家主と仲良くなってく話か?ヒューマンドラマ的な……」
    「友達になるの?」
    「うーん…どうだろ。現状じゃなんとも言えないね……とりあえず次の展開で家主に接触するとは思うけど…」
    「じゃあ早く探しに行こうよ!」
    「……ん、そうだね。じゃあそろそろ上に行こうか」

    待ってましたと言わんばかりにボヌはキラキラと瞳を輝かせた。今にも走り出しそうな雰囲気ではあったが『フレをエスコートする』という言いつけを守っていたためになんとかそれは免れた。
    それでも彼は腕をブンブン振り、頭をルンルン左右に揺らしながらピィの後ろについて楽しそうに階段を登っていく。
    階段は途中、踊り場を挟んで左右に分かれていた。
    左の階段は上がってすぐの正面に扉が設置されており、そのままさらに左へ曲がるとバルコニーへと出られるようになっている。
    右の階段の先は少し変則的に十字の廊下が伸びており、右へ曲がるとバルコニーへ、正面と左の先はここからではよく見えなかった。
    ピィは一瞬どちらへ行くか悩んだが、ここは当初の予定通り先に左へ行くことにした。
    右からも行けるバルコニーは最後にまわることにして、ピィはまず正面の扉へと手をかける。

    ガッ

    「?」

    ノブが回らない。
    どうやら鍵がかかっているようだ。
    ピィはそのことに少し面食らってしまった。だって一階の扉はどれも鍵なんてかかっていなかったから。
    地面をキョロキョロと見回したが、当然鍵なんて落ちていない。
    仕方がないのでピィは踊り場まで道を引き返した。
    「開かないの?」「うん、鍵がかかってるみたい」なんてやり取りをボヌとしながら今度は右の階段を上がる。
    正面の廊下は突き当たりと右側に、左の廊下は右側だけに、計3枚の扉が設置してあった。
    ピィはここも左の部屋から探索しようとしたが、正面突き当たりの扉を除いて、他2枚にはこれまた鍵がかかっていた。(ちなみに開いたところはトイレとなっていた)

    (なんだ…?)

    一階とは明らかに仕様の違う様子、そのことにピィは違和感を覚えた。
    しかし、探索ゲーで扉が開かないなんていうのはよくあることでもある。
    (俺の考え過ぎか…)とピィは違和感を振り払い、気持ちを切り替えるためフレに話しかけた。

    「開かない扉なんていよいよゲームらしくなってきたね」
    「……」
    「……フレ?」
    「あ、はい、なんですかっ?」
    「どうしたのさ、ボーッとして」
    「いえ、その……ちょっとびっくりしてしまって…」
    「びっくり?何に?」
    「あ…えっと…………鍵が…、私が聞いた内容ではそんなものかかっていなかったはずだから…」
    「え…?」

    それを聞いた途端ピィは、ないはずの血の気がサァァァ…っと引いていくのを感じた。

    「だから、直前で仕様を変えたのかな…って」
    「へ…?……あ、そうか、そういうことか」

    しかしその戦慄はすぐに納得へと変わっていく。
    直前の仕様変更。なるほど。それならば無理矢理感があって違和感を覚えるのも当然である。
    大方、作っていたギミックが間に合わないとかで、苦肉の策として鍵を取り付けたのだろう。そういった小細工はアイツらの十八番だ。
    こうして無事違和感を払拭できたピィは、安心して探索を再開することにした。

    「えーっと……じゃあ、とりあえず今行けるとこはバルコニーだけだね」
    「そうですね…」
    「わっ!じゃあもうあそこに行ってもいいのっ?」
    「なにアンタ、そんなに楽しみにしてたの?」
    「うん!」

    ボヌはワクワクと体を揺らして期待に胸を膨らませる。
    その様子を見てピィも「それじゃあ行こっか、待ちかねてたヤツもいたみたいだし」と言いながらバルコニーへ向かって足を進めた。
    外へ出る直前の2つの通路からは橋渡しのように階段が伸びており、その上は屋根裏へと繋がっている。
    それを確認したピィは(ここに鍵が無かったら次はこっちか…)と後の探索についても考えながら、そのままバルコニーへと出た。

    「わっ!わっ!わぁーーっ!!」
    「おお、結構広いね」

    外へ出た一行は驚く。下から見た時にはわからなかったがこのバルコニーは随分と広く、テーブルを用意すれば屋外パーティーが開けそうなほどであった。
    ボヌはとても興奮しながらも、走り出したい気持ちを抑えてその場でピョンピョンと飛び跳ね、ピィは思ったよりも広いその様子に思わず感嘆の声を漏らす。
    開けた視界から見える景色は木々ばかり、近くに他の建物がないところを見るに、あたり一帯はここの主人の所有地なのだろう。
    しかし、その遠い遠い木々の隙間から少しだけ建物の屋根が見えた。
    (ん?街でもあるのか?)とピィがもっとよく見ようと足を前に出す、すると……。

    カサッ

    何かが足に当たる音がした。
    魅せられていた意識がその音で現実に戻る。
    ピィはなんだなんだと目線を下へやった。

    「あ、」

    そこには紙切れが落ちていた。
    見覚えのある見た目をしたそれは7枚目の日記のページだ。
    ハッと目的を思い出したピィは慌ててそれを拾い上げ「日記、落ちてたっ」といまだ景色に魅入られている2体へと声をかける。
    その声でボヌとフレも我に返り、トテトテとピィの元へと近づいた。
    2体が側へ来たのを確認すると、ピィは読み上げを開始させようとする。
    ……しかし。

    「えっ…?」

    日記は『はい』と『いいえ』の選択肢を表示することなく、何故かひとりでに読み上げを開始させた。
    その声はどこかノイズ混じりであり、言うなれば、そう……。

    ──まるでゲームにバグが発生したかのような演出であった……。

    『──_月_日
    結局今日もご主人には会えなかった。
    使用人の方が言うにはまた外出しているのだという。おかしい、だって外はあの日からずっと嵐のままだ。
    だから私は少し外へ出てみることにした。別に彼を探そうというわけではない、ただなんとなく屋敷の周辺を見てみようと思ったのだ。
    ……すると、変なものを見つけた。
    はなれのような、倉庫のような、そんな建造物が屋敷の左手奥の方に佇んでいた。それはそこそこの大きさであるはずなのに、初めて来た時には全く気づけなかった。
    変だと思ったのはその構造。
    なんとその建物には入り口がなかったのだ、屋敷から伸びる渡しもない。
    窓はいくつかあるが梯子が降りている様子もなく、ぱっと見たところでは入ることはできそうになかった。
    もう少し調べてみたかったのだが、あいにくと雨が強まりだしたので私は屋敷へ引き返すことにした。
    しかし、後ろ髪を引かれる思いでそれに背を向け足を前に踏み出そうとした時、私は確かに雨音に混じって、可憐な少女の声をヲヲ、ヲ…ザッ─・・・ザザッ───・・・・・・

    プツンッ──・・・

    ──助けて…』

    「ッ!?」

    途端、少女の声のようなものが聞こえ、すべての音が止まった。

    すると不意に一陣の風がブォンッと吹き荒ぶ。
    その勢いに一同は咄嗟に目を瞑った。
    そして次に彼らが目を開いた時……。

    「わぁー!?」
    「!?」

    ピィは目を疑った。
    目の前にいるのが先ほどまで行動を共にしていた2体ではなかったからだ。
    ……正確には“見た目”が今までの2体と違っていた。

    「フレ……アンタ…」

    それは人間だった。

    ボヌは道化だった頃の面影を残しつつも、服装は打って変わって立派な紳士服となり、今は興奮とパニックから小さな子どものようにはしゃいでいる。
    しかしフレの方はアバターの面影なぞ微塵も残っておらず、服装はボヌと同じように紳士服ではあったが、顔や背丈はまるで……。

    「アンタなの…?」

    アバターの中の人間、画面越しに見ていた姿そのものだった。

    「フレはこっちに来れるようになったの?それとも僕らがフレのとこに来たの?」
    「え、どういう意味……?…って、あれ!?私…どうしてっ」
    「どっちでもいっか!僕嬉しいよっ、やっとフレに会えたんだ!!」
    「そ、そういうボヌ君たちこそ、人になってるよっ」
    「え?……あ、ホントだー!指が5本ある!!」
    「えっ、あ、俺も!?」

    ボヌとフレの見た目が変わっているのだ、当然ピィの見た目だって変わっている。
    指摘されたピィは慌てて自分の身なりを確認した。
    まずは手を見る。人間の手になっており指は5本。服装は2人と似たようなものだった。
    ボヌもフレも自分も、皆が人間になっている。
    …これは演出か?
    ……いや、きっと違う。
    だって制作に関わったはずのフレでさえ状況把握ができていない様子なのだから。
    よくよく考えてみれば、二階に上がってきてからずっと何かがおかしかった。
    フレの把握していない仕様、バルコニーに誘導してくる展開、勝手に読み上げられる日記……そして現状。
    しかし、演出でないのならこれはいったいなんだ……?
    ピィが落ち着いて現状を把握しようとした、その矢先……。

    「あ、あの……あなた方はいったい、誰ですか?」

    そんな声が屋敷の方から聞こえてきた。
    3人は驚いて、一斉にバッと顔をそちらへ向ける。
    すると全く見覚えのない男が、ピィたちが使ったのとは違う方の出入り口に立ち、怪訝そうにこちらの様子を伺っていた。
    ピィは頭で考えるよりも早くボヌの方へ向き直り、小さな小さな声で「俺がいいって言うまでアンタは喋らないで」と指示を出した。
    そしてすぐフレの方にも目線をやる。彼女はそれだけで意図を汲み取りコクコクと小さく頷いた。
    それを確認するとピィは再び、ゆっくりと視線を男の方へと戻す。

    「……」

    極度の緊張状態の中、黙ってただただ男を観察する。
    相手は大層訝しんでいる様子だった。
    しかしそれはこちらとて同じこと。
    現状は未だ飲み込めず、素性のわからない男まで登場した。
    下手な発言はできない、まずはこの男がどういった立ち位置の人間なのかを見極めなければ。

    …見た目は30代前後の青年に見える。しかし、なぜか雰囲気はそれよりも幼く感じ、どうもチグハグで不気味な印象を受けた。
    服装は自分たちと似たようなものだが、随分とくたびれ、所々糸もほつれている。
    ……そこではたと、ピィはあることに気づく。

    (……さてはコイツ、屋敷の人間じゃないな)

    男の服装は、どうもこの立派な屋敷とは釣り合っていないように思えた。使用人にしたって不自然だ。
    であれば可能性はひとつ。

    (日記の書き手か…?)

    見れば見るほどそうとしか思えない。日記の内容からしても彼は裕福な層ではなさそうだったので。
    しかし、確信できるほどの信憑性はない。
    だからピィは少しカマをかけてみた。

    「あー…ごめんね。ちょっと驚いちゃって……。多分、俺らはアンタと同じ立場だと思うんだけど」
    「同じ…?」
    「うん、まぁ…この屋敷の人間じゃないってこと」
    「!、…ではあなた方も嵐に見舞われて?」
    「!」

    ビンゴである。

    「そうなんだよ、それでここにお世話になってさ……」
    「この不可解な状況に巻き込まれたんですね…」
    「……(ん?)」

    不可解な状況…?

    「そ、うなんだよね、うん、巻き込まれて……あー…っと、で、さ……ちょーっと状況を示し合わせたいから、アンタの話を聞かせてもらえない…?」
    「はい、もちろんです!こんな状況に陥ったのが私だけでなくて良かった……」

    ピィは男の不穏な発言に急ハンドルをきって軌道を合わせた。
    その甲斐あってか男は大層安心した表情になり、完全にピィらを信用しきった様子で話を始めた。

    「あー…、えっと、まず、そもそもは私、従兄弟の家に向かっていたんです。それで、途中で嵐に見舞われて、ここにお世話になって……、何日ほどでしたか…もう覚えていないんですけれども、嵐が全然止まなくてですね、随分とお世話になっていたんです。でも、今朝目覚めたら嵐が止んでいて、それで、今までのお礼を言ってからここを出ようと、お屋敷の方を探したんですが………、誰もいないんです。……いつもなら部屋を出てすぐに数人の使用人の方とすれ違いますし、厨房に行けば必ず人がいるというのに……。それで、なんだか怖くなってしまって……とんだ不義理なんですが、お礼もせずにお屋敷を出たんです。……で、でも、屋敷を出てあの一本道を進んでも、いつまで経っても街へ出ない……それどころか、一度も曲がっていないのに、気が付いたらここに引き返してしまっていたんです。………出られない……、抜け出せなくなってしまったんですよ。……きっとここは悍ましい悪霊が取り憑いたお屋敷で、私はそれに捕まってしまったんです。………きっと取り殺されてしまう。それか贄として捧げられるか……。そんなことを考えながら、脱出の手がかりはないかと中へ戻って、さまざま探しておりましたら……、そうしたらあなた方に会えたんです。………本当に、本当に安心しました。一人ではあまりにも心細くて……」
    「……なるほど」

    男は早口で、一息にそう説明をした。

    ……とんだオカルトだ。

    とピィは心の中でそう思う。…しかし口に出して一蹴することはできなかった。
    なぜなら、隣で一緒に話を聞いていたフレの顔が信じられないほどに青ざめていたから。
    理屈はどうであれこれは、一旦真面目に受け止めなければならないのかもしれない。
    ピィがそのように考えていると、不意にフレが「あの…」と口を挟んだ。

    「ちょっと3人だけで話させてください…」

    その言葉を受けて、男は「わ、わかりました」と身を引いて不安そうに入り口地点に留まり、ピィとボヌはフレと共にバルコニーの手すりの方まで離れていった。

    そうして3人きりになれた時、フレは第一声。

    「ヘッドセットが取れないんです…」
    「は?」
    「?」

    悲壮感漂う声でそう告げた。
    ピィはその言葉の意味を理解できず、すぐさま聞き返した。

    「…どういうこと?」
    「あ、あの…私、今回の宝探しゲーム、佐佐城さんのところの会社から参加してて……それでいつもみたいにモニター越しじゃなくて、VRで操作させてもらってたんです……、ですけど…」

    どうやらフレは佐佐城の会社からVRと場所を借りて、それを使って今回のゲームに参加していたらしい。
    なるほど、どうりで毎回反応が新鮮だったわけだ。没入感が段違いである。
    しかしそのせいで今、予期せぬ緊急事態に見舞われている。

    「あ、あまりにも展開が違ってたんで、佐佐城さんに確認しようとしたら…ヘ、ヘッドセットが取れなくて……声をかけても、返事が…なくって…」

    フレの声は気の毒なほどに震えていた。

    「……それはゲームがバグってるってこと…? ヘッドセットのベルトが馬鹿になったとかそういう…」
    「い、いえ…取れないほどキツくはしてないんです。形だってゴーグルみたいなものだから、本当なら簡単に外せるはずなのに……、今は固められたみたいに、ビクともしない…」
    「……な、」

    ピィは今度こそ本当に戦慄を覚えた。
    彼がここまでの怒涛の展開で、違和感や不信感を抱きつつも冷静さを保っていられたのは、これがあくまで“ゲーム”であるという前提があったからだ。
    多少のバグが発生しようと、変な展開が紛れようと、何ならウイルスに感染しようと、電源を切ってしまえば “はいおしまい”。
    自分やボヌに負荷がかかることはあるかもしれない、しかしコンピューター外に居るフレには絶対に危害は加えられない。その絶対条件があったからこそピィは何が起こっても、全てを一歩引いた目で見ることができていた。
    しかし、今やその絶対条件は守られておらず、フレは何か不穏なものにその身を脅かされている。

    ……早急に解決をしなければならない。ゲームだなんて言っている場合ではない。

    (何が原因だ……?)

    解決を図るにはまず、その原因究明をしなくてはならない。
    何が原因でこんな事態に陥っているのか。
    フレはこう言った。ヘッドセットが外せずに、佐佐城との連絡も取れない状況であると。
    連絡が取れない方は内蔵スピーカーの故障など、いくらでも理由はつけられる。ではヘッドセットが取れない理由は?
    ……そんなものは、ない。
    だって、声が聞こえないだけならまだしも、佐佐城たちの物理的な手助けがないのはどう考えてもおかしい。
    フレが声を上げて不備を訴えているのに…?それを無視?……あり得ない。
    では理由はなんだ……?

    ……これでは先ほどの日記の男の話を笑えない、まるでオカルトじゃないか。

    (……オカルト?)

    ピィは自分の思考に少しの引っかかりを覚えた。
    ……オカルトと言えば、フレが何か言ってなかったか?
    …そう、あれは確か……3枚目の日記の時に……。

    「“いわくつき”……?」
    「へ?」

    ピィのその小さな呟きに、思考を邪魔しないようにと黙り込んでいたフレが咄嗟に反応を返した。

    「アンタ、この屋敷のモデルが“いわくつき”だって言ってたよねっ?それってどういう話だったっ?」
    「え、あ、いえ……その、内容は詳しく聞いてなくて…」
    「そ、そう……」

    ピィの今までにないくらいの焦った様子に、フレは面食らってしまう。
    しかし、今の一瞬で彼が大いに思考を巡らせていたであろうことを察して、その内容を共有してもらうためにも声をかける。

    「ピ、ピィ君……その“いわくつき”って、何かこの事態と関係があるんですか?」
    「………うん、そうだね。…馬鹿みたいって思われるかもしれないけど、俺はこの現状を引き起こしたのは“祟り”か何かなんじゃないかって……そう思ったんだ」
    「た、祟り…?」
    「…お化け屋敷を作る時にさ、実際にある話をモチーフにすることってあるでしょ?…その中には必ず事前にお祓いをしとかなきゃならないものもある、じゃないと祟られるからって」
    「……」

    祟りと言うとファンタジーや都市伝説、古い因習だと思う人もいるかもしれない。
    しかし事実として、現代でもお化け屋敷を作る際には事前にお祓いをするという習わしが全国各地で根強く残っている。
    それは、実際にお祓いをしなかった人たちが不慮の事故に遭う……ということが頻繁に起こっているからである。
    少し調べればすぐにわかるのだが、その中でも特に題材として扱うには注意しなければならない話というものがあり、それを怠った場合には最悪人死(ひとじに)が出るという。

    「……じゃあ、ピィ君はこのお屋敷のことも…?」
    「うん、そういったモチーフのものを踏んだんだと思ってる」
    「……、」

    フレはあまりの衝撃に言葉が出なかった。

    「じ、じゃあ……その祟りを鎮めるには……この現状を抜け出すには、どうすればいいんですか…?」
    「そ、れは……わからない…」

    真剣な表情で淡々と話していたピィは、フレのその言葉に顔を歪めた。
    ……わからない。
    エラーコードが出るような問題であれば、それがどんなに複雑なものでも解決できる自信がある。
    しかし相手は超常現象だ、理屈や理論は通用しない。
    だから彼は今非常に困っているし、とても焦っている。

    「…型がないんだよね。……無限択から選択を迫られてる感じ、しかもその無限の中に解決策はないのかもしれないっていう…」
    「…そう、ですね。……ゲームのクリア条件みたいに目的達成で終了、ってわけには…」
    「……」

    ……いや、待てよ?

    確かに、ゲームクリアが解決策じゃないかもしれない。
    でも、かもしれないということは、解決策である可能性も0じゃない。
    現状、フレはゲームに閉じ込められてはいるが、死んではいない。
    そして、何か差し迫って死の直面にいるわけでもない。

    ……これは、何か手立てがあるのではないか…?

    普通の祟りであれば既にフレは取り返しのつかない致命傷を負っているはず。
    こんなふうに五体満足でいられるはずがないのだ。
    で、あれば。
    この猶予のうちに何か解決する方法があるのかもしれない。

    (何がある……?)

    そういえば日記の男がこう言っていた。「抜け出せなくなってしまった」「捕まってしまった」と。
    ……ということはやはり、ここから脱出する方法を見つけ出すのが解決の手段か?
    ………。
    いや、違う…。
    もしそうなら閉じ込める方法が力技すぎる、脱出方法にギミックも何も付けられたものじゃない。
    ………。
    そうなると、おそらく“この閉じ込められた空間でできる何か”がクリア条件なのだろう。
    であれば、このゲームの本来の達成目的がそれに当てられている可能性は大いにある。
    ……そこまで考えて、ピィはふと気がついた。

    (表示がなくなってる…)

    視界の中にあった日記のアイコンや収集金額の表示が消えている。
    色々ありすぎて気づかなかったが、先程の暗転の後にはもうすでに消えていたようだ。
    そこでズボンのポケットにも手を入れてみる。
    服装が変わっているので当然といえば当然だが、フレとボヌから預かった手袋も消えていた。が、手に持っていた最後の日記のページと自分の手袋はそのまま残っている。

    (……ふむ)

    思案を重ねるうちに少し冷静さを取り戻したピィは、確認のためフレにいくつか質問をした。

    「フレ、ちょっと聞いていい?」
    「あ、はい、何でしょう…?」
    「このゲームってさ、途中でクリア条件が変わる仕様だったりした?」
    「……は、はい、そうです。……日記を一定枚数集めると謎解きに変わるようになってました」
    「それってどういう内容?」
    「あ、えっと……。最後の日記に入り口のない建物の話が出ていたじゃないですか、あそこに入るのが変更後のクリア条件だったんです。……でも、すみません。肝心の謎解きについては教えてもらってなくて……」
    「そう……。…じゃあ、この見た目は?元々用意されてたもの?」
    「いえ、私は聞いてません…」
    「……ふむ」
    「……」
    「……いや、やっぱ一個一個聞いてくのは効率悪いね。フレの把握してる範囲でいいからさ、本来はどういう流れだったか教えてくれる?できれば現状との相違点も含めて」
    「は、はい、……えっ、と…。……まず、その日記のページですね。それを入手したらクリア条件変更のアナウンスが入るはずでした。……それもさっきみたいなのじゃなくて、最初ここに入ってきた時みたいな感じで、目の前にウィンドウが出て、それで説明テキストが表示されるっていう…。そこからはさらに残りのページを集めて建物に入る方法を探っていく……そういうシナリオだったはずです。……見た目が変わったり、システムが変わったり、NPCが出てくるなんてこともなかったはずなんですが…」
    「そっか……じゃあやっぱりあの男もイレギュラーなわけだね……。なんだって日記の書き手だけが具現化されたのかはわからないけど……うん、とりあえず今の俺たちの目的は“本来のクリア条件を達成する”に定めておこう」
    「ということは、あの建物を目指すんですか…?」
    「うん、一旦ね。今ある情報ではそれを目指すしかないから。でももしそっちで何か動きがあったらすぐに教えて、その都度俺の方でも対応を変えてく」
    「わ、わかりました」
    「あ、でもあの男の前ではメタいことは言わない方がいいかも、まだどういう存在かはっきりしてないし……」
    「は、はい」
    「……」
    「……」

    誰も現状を理解しきれない中、気まずい沈黙だけが彼らの間に流れる。
    不器用ながらにフレのことを案じているピィは、最後に気遣うように彼女へ声をかけた。

    「……ごめんね、アンタが大変だっていうのに変な注文ばっか付けて」
    「いいえ、大変なのはピィ君たちも一緒ですから」
    「………なんか……やっぱりアンタってお人好しだね」
    「それはお互い様じゃないですか?ピィ君も相当ですよ」
    「…えぇ?そう?」
    「…ふふっ、はい」

    異常事態ながらも、そんなやり取りでちょっとだけ雰囲気を和ませた2人は、そのままボヌも連れて3人で男の元へと戻った。
    男は不安そうにこちらを伺っており、ピィらがそばに来るとおずおず声をかける。

    「あ、あの……私に何か失礼がありましたか?」
    「ああいや、違うよ。俺たちアンタに会う直前にここに飛ばされたもんだからさ、頭整理するためにちょっと話し合ってただけ」

    いけしゃあしゃあと。

    「そ、そうでしたか…」
    「ん、じゃあとりあえず自己紹介をしよっか。俺はピィ、こっちの白髪はボヌ、でこっちがフレ。見た目と名前からもわかる通り異国の人間でね、旅歩きをしてたところを心優しいこの屋敷の人たちに迎え入れてもらったんだよ。でも何日もここに居たアンタと違って俺たちは昨晩来たばかりだから、色々教えてもらえると助かる」

    よく回る口である。詐欺師に向いていそうだ。
    ピィのその堂々とした様子に圧倒されて、男は特に疑う様子もなく素直に「それは大変でしたね…」と相槌を打った。
    そして彼も自己紹介をする。

    「私は……えっと、そうですね…ユーニス、といいます。先ほどお話しさせていただいた通り、ここには随分とお世話になっておりまして……なので、はい、私でよければご一緒させてください」
    「ユーニスね、うん、よろしく」
    「はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします」

    男は少し困惑しながらもユーニスとだけ名乗った。
    ピィがファーストネームしか名乗らなかったので、彼の国ではそういう作法なのかと思い合わせたのだ。(実際にはファーストネームも何もそれがフルネームなのだが)
    どうも彼は人一倍気を遣う性格のようで、その気苦労はうだつの上がらなさそうな表情からも窺えた。

    「で、早速なんだけどさ、この日記はアンタのもので合ってる?」

    そう言うとピィは手に持った日記のページを彼に差し出した。
    ユーニスは「日記…?」と怪訝そうな顔をしながらもそれを受け取り内容を読む。
    日記は前と同じように映写され、読み上げられる……などということはなく、まるでただの紙切れのように彼の手の中に収まっていた。

    「……」
    「え?まさか、アンタのじゃない…?」

    ユーニスは変わらず怪訝そうな顔でそれを見つめている。
    十中八九彼が日記の書き手だと踏んでいたピィはその様子を見て「嘘でしょ?」と焦った。
    しかしユーニスはすぐに「ああ…っ」と思い出したような声を上げて表情を和らげる。

    「はい、はい、確かにこれは私のものです、…どうしてすぐに思い出せなかったんでしょう、毎日欠かさず書いているものなのに」
    「あ、そ、そう?やっぱりアンタので合ってたんだね、よかったっ」
    「はい、…あの、見つけてくださり、ありがとうございます」
    「ん、いいよお礼なんて、俺もその日記で聞きたいことがあっただけだから」
    「…聞きたいことですか?」
    「うん、そこに出てくる入り口のない建物、それについて教えてほしいんだよね」
    「入り口のない建物……」

    ユーニスは再び考え込む。

    「……すみません、この異常事態のせいか少し記憶が、曖昧で……」
    「……そっか。………じゃあ、アンタさえ良ければ実際にそこに行ってみない?屋敷周辺までなら出ても大丈夫なんでしょ?記憶だって、実物見れば戻るかもしれないし」
    「そう、ですね……。私もその方がいい気がします」
    「よし、じゃあ決まりだね、早速下へ降りよう」
    「は、はい」

    ピィはボヌとフレにも「行くよ」と声をかけ、全員を連れ立ってバルコニーを出た。
    屋根裏への階段や開かず扉のことも気になったが、ユーニスがいる手前、変に探索するのも不審に思われるかと思い、それらのことは後で考えることにした。

    「あ、あの……そちらの、えっと…、お、お二人はどういった方なのでしょうか……先ほどから全く話されていませんが」

    ピィが周りを気にしているとユーニスがそう話しかけてくる。

    「ああ、あの二人は話せないんだよ、言葉が違くてね」
    「あ、そ、それは申し訳ございませんでした…っ、無神経な発言をっ」
    「大丈夫、アイツらは気にしないよ。でも話せなくても聞き取れてはいるから、悪口はくれぐれも言わないでいてね」
    「も、もちろんですっ、そんなこと考えてもいませんでしたよっ」
    「そ、ならよかったよ」

    飄々と返しつつも、内心(二人が話さなくていいように上手いこと誤魔化せたな〜)とピィはちょっと安心した。
    これ以上こちらに突っ込まれるのも嫌なので、彼は早々にユーニスへと話題を振る。

    「そういうアンタはどうなのさ、従兄弟の家に行くとこだったんでしょ?向こうは心配してるんじゃないの?」
    「え、あ……どう、でしょう…、……むしろ、喜んでいるかもしれません…」
    「…? どういうこと?」
    「その…、え、と……今回あちらの家へお邪魔するのは、ちょっとした手続きと言いますか、確認と言いますか……そういったもののために、行くんですが…」
    「なに?はっきりしない言い方するね、ちゃんと順を追って話してよ」
    「あ、えと……その、相続の、話がございまして…」
    「相続?」
    「はい、その…従兄弟の家には、男児がいないんです…、それで…その家の相続人は現在私、ということになっていまして…」
    「ほぉ…」
    「……その上、あちらには娘さんがいらっしゃるんですが…、わ、私は現在独り身、でして…」
    「ほぉ〜…、じゃあ、向こうさんが家を追い出されないようにするために、無理矢理結婚させられそうになってる訳だ?」
    「いいえ、違うんです……あ、いや、半分…」
    「?」
    「あちらが結婚を勧めて下さっているのは本当で……わ、私もそのことに関してはやぶさかでは……というより、むしろありがたいことだと思っているんです、……ですが」
    「ですが?」
    「肝心の、娘さんが……その、乗り気では、なく……」
    「あーあ、振られちゃってるわけだ」
    「……はい」
    「そりゃ複雑だわね」
    「…………はい」
    「………」

    (何の話だ、これ…?)

    話を変えるために自ら話題を振ったとはいえ、なにゆえゲームのキャラクターの話をこんな真面目に聞かねばならぬのか。
    それも随分と込み入った話を、だ。

    (佐佐城はこんなとこまで設定を作り込んでたの……?)

    なんて無駄なことを……と思いながらも、ピィは目的地に着くその時まで彼の話を聞き続けた。
    とは言っても、その後の話は「だからあちらは私がいなくなった方が都合がいいんです」だの、ちょっと飛躍して「私は女性と接した経験が全くなくて…」だのといった他愛のないものばかりであった。
    ピィはそれをふんふん…と、聞いたふりをしながらやり過ごす。

    「おぉ、本当にあった……」

    屋敷の外に出て左へ回り込むと、目的の建物はすぐ目の前にあった。
    日記に書いてあった通り、それはそこそこの大きさであり、最初に来た時に気づかなかったのが不思議なほどであった。
    ピィらはその建物の周りをぐるりと一周する。
    やはり入り口らしい入り口は見当たらない。
    一階部分に換気口があるが、それはあまりに小さいので入れそうにない。
    人が通れそうなサイズの窓は二階部分にしかなかった。

    (何とかよじ登って窓を割るか…?……いや、多分そういう強行突破はシステム的にも現状的にも駄目だろうね…。……じゃあやっぱりコイツ頼りか…)

    頭の中でそう考えながらピィはユーニスに目を向ける。
    当のユーニスは建物を見上げて眉間に皺を寄せていた。
    しかし、その眉間の皺は徐々に消え、彼はゆっくりとその瞳を見開いていく。

    「そ、うだ……そうですっ、ここっ、…私はここに来て、確かに少女の…可憐な少女の声を聞いたんですっ!」

    興奮した様子で彼はその声を荒げた。
    ピィはその反応を見て(しめた…っ)と思い、すぐさま「じゃあここへの入り方は…」と聞く。
    しかし、彼はその問いに対して再び顔を歪めた。

    「……も、申し訳ございません、それは……まだ、思い出せておりません」
    「そ、っか……」

    ピィはわかりやすく落胆する。
    フレはこう言っていた……「残りのページを集めて中に入る方法を探っていく」と。
    なので日記の書き手であるこの男が、入る方法を知っていることは確定しているのだ。
    ……それだというのに、肝心のその記憶が頭からすっぽり抜け落ちている。

    (これは……何か方法を取らなきゃいけないね…)

    先ほどからユーニスは実物を“見る”ことで記憶を取り戻している。
    だとすれば、彼と共に探索を続けることで何かきっかけを見つけ、入る方法を思い出してくれるかもしれない。

    「ユーニス、ちょっといい?」
    「は、はい、なんでしょう?」
    「俺たちさ……理由はちょっと言えないんだけど、この建物の中にどうしても入りたいんだよ。だからアンタにはその方法を絶対思い出してほしい」
    「…はい」
    「だからさ、これから俺たちは色々探索するんだけど、アンタも一緒に来てくれない?……記憶もなくて不安な中、連れ回すことになっちゃうけど」
    「い、いえっ、ぜひご一緒させてくださいっ。私も、ここに入らなくてはいけないような、そんな気がしているんですっ」
    「! そう言ってもらえてよかったよ、ありがとう」

    ピィは(この様子なら別段しおらしくする必要もなかったね…)と思いながらも、了承を得たことに内心ホッとする。
    そうして共に探索することを決めた彼らは、屋敷の中へと戻ることにした。
    ピィは一階フロアをもう一度まわるか、二階フロアの途中から探索を再開するかを一瞬悩んだが、すぐに(まだ見ていないところからにしよう)と二階フロアを選択する。
    ユーニスにもそう伝えると、彼は「ええ、大丈夫です」と簡単に了承してくれた。
    一行は屋敷に入り、そのまま正面の階段を昇る。
    周辺景色は相変わらず暗転する前のままで、別段変わったところはない。
    辺りを見回しながらもピィは、鍵のかかっていた最初の扉の前へと足を運んだ。
    そして彼は「ここ、鍵がかかってるんだよね」と言いながら、確認するようにドアノブへ手をかける。

    しかし、その言葉を聞いたユーニスが「え?」と顔を顰め、怪訝そうな声でこう言った。

    「いえ、確かその部屋に鍵は……というより、この屋敷の部屋にはどこも鍵なんてついていませんよ?」
    「へ…?」

    ガチャリ…

    ピィの間抜けな声と共に、扉は音を立てて何の引っかかりもなくスッと開いた。

    「な、」

    ピィはひどく狼狽えた。
    扉が開いたこともそうだが、何より、ユーニスに不信感を抱かせてしまったのではないか、と。
    焦って彼の顔色を伺うと、その顔はわずかに曇っている。
    ピィが何か言い訳を、と考えているうちに彼はその口を開いた。

    「あなた方が訪れた時には何かが引っ掛かっていたのかもしれませんね……ほら、随分と老朽化が進んでいるようですし」
    「あ、……う、うん、そうだね…」

    助かった。
    幸いなことに、彼はこちらのことを微塵も疑ってはいなかったようだ。
    ピィは一安心して部屋に入る、その時に一応扉の鍵も確認した。
    ……彼の言った通り、そこには鍵などついていなかった。
    おそらく、最初にピィたちが来た時にもついていなかったのだろう。
    やはりあの時……二階フロアへ上がった時点で既に異変は起こっていたのだ。

    (……あれ?)

    そこでピィはふと違和感を覚える。

    (そういえば今……いや、違うな……ずっとか…?)
    ちょんちょん
    「!」

    違和感を確信にしようと考え込んだ時、不意に後ろから肩を叩かれた。
    振り返るとフレがヒソヒソ話をするように、片手を口元に添えている。
    ピィはチラッとユーニスを見やった。彼は既に部屋の探索に気を取られており、こちらを気にしてはいない。
    それを確認すると、ピィはフレの口元に耳を近づけた。

    「日記が落ちてます」
    「え」

    最低限の言葉でそう伝えたフレはその在処を指で差す。
    差された先には言葉通り、見慣れた紙切れが落ちていた。
    この部屋は随分と広い寝室となっており、扉のない仕切りで空間が二つに分けられている。
    入ってすぐの左手には扉があるが、ここはおそらくシャワールームだ。
    部屋を真っ直ぐ行くと突き当たりにソファやローテーブルが配置されており、部屋の主人が十分にくつろげる空間となっていた。
    ユーニスは先にこちらを探索している。
    そして、肝心の日記が落ちていた場所は、仕切りで分けられたもう一つの空間。
    そこにはベッドが配置されており、完全に眠るためだけのスペースとなっていた。
    ピィとフレ、そしてボヌはベッドへと近づき、足元の方の床に落ちていたそのページを拾う。
    そして、ユーニスが気づいていないのをいいことに、ピィは彼よりも先にその日記を読み始めた。

    『_月_日
    目が覚めると寝室のベッドの上にいた。
    どうやら私はあの雨の中、建物を調べているうちに倒れてしまったらしい。
    確かに頭が痛い、しかし今はそんなことどうだっていい。
    様子を見に来てくれた使用人の方にあの建物のことを話した。もちろん、例の少女の声のことも。
    すると彼女は少し難しい顔をしながらも、観念したように話し始めた。
    「……実は、あの建物には少女が幽閉されているのです」
    彼女が言うには、ご主人が見初めた少女をあの建物に閉じ込めているのだとか。
    いつも屋敷にいないのも常にあそこへ出入りしているからだと。
    …嘘をついていたことを責めるつもりはもちろんない、主人の汚行を隠すのだって立派な使用人の勤めだ。
    しかし、抱えきれずに私に話してしまったということは、やはりどうにかしてほしいという思いがあるのだろう。
    あそこへの入り方はご主人以外に誰も知らないのだと言う。
    ならば彼女らへの恩返しの意味も込めて、今後の私の動向は決まったも同然だ。』

    ピィは日記を読み終えると、真剣な顔をしてすぐにそれをユーニスへ渡した。
    そして読み終えた彼に「あそこへの行き方は思い出した?」とすかさず聞く。
    しかしユーニスは、やはりと言うべきか、「いいえ……申し訳ありません」とバツが悪そうにそう返すだけだった。
    その返答にピィは深く考え込む。

    (……いよいよコイツがいる意味がなくなった)

    目を細めて疑うような眼差しで目の前の男を見る。
    ピィはてっきり、ユーニスが現れたことによって屋敷内の日記のページはなくなってしまったのだと、そう思い込んでいた。
    だから彼の記憶を取り戻して、最終的にはあの建物の中に入る方法を思い出してもらおうと。
    しかし、日記はいまだこの屋敷に散乱しており、ユーニスの記憶もそれに応じたものしか取り戻されることはない。

    であれば、この男の存在理由とは何か…?

    (考えをまとめ直さなきゃいけないかもしれない…)

    不明瞭なことが多すぎる。
    ピィはこの一連の出来事を最初に“祟り”であると仮定してことを進めていたが、少しそれを考え直す。

    (閉じ込めるだけ閉じ込めておいて結局それっぽいことは何も起こってないし……俺たちが人間になった理由も未だ全然わかってない、そして何より…この男の存在……)

    どこから考えればいいのだろう。
    閉じ込められた空間…人間の俺たち…ユーニス…。
    ……やはり一番理解不能なのはこの姿か。

    (何故俺たちは人間にさせられた?)

    この姿になってから能力的に変わったことは何もない。
    であればどうして姿を変える必要があったのか…?

    「……」
    「あ、あの……大丈夫ですか…?」

    ユーニスは自身の返答以降固まったように動かなくなったピィを心配して、恐る恐る声をかける。
    (あ、っと……まずい)とピィは自分の不審な行動を改めて、言い訳のために顔を上げた。
    そして、彼とバチッと目が合った瞬間…。

    ──コイツのためか…?

    不意にそんな考えが頭をよぎる。

    (……俺はずっと自分たち中心で物事を見ていたから、この男の存在を不要に感じていたけど、もしそれが逆で……)

    ユーニスがこの世界の主役だったなら…?

    (辻褄が合うんじゃないか…?)

    ピィは今までにないほどに目を見開いて、目の前の男を凝視した。
    ユーニスはその迫力に押されて声も出せずにたじろいでしまう。

    (俺たちの姿が人間になったのだって、コイツに合わせるためだと思えば納得だし。そもそもあの建物に入りたいっていうのもコイツの願望で、俺たちはシナリオとしてそれをなぞっているに過ぎない。……記憶を取り戻しつつ、目的地を目指す。…これ以上ないほどに主人公ムーブ)

    俺たちの目的は俺たち自身があの建物に入ることではなく、ユーニスをあそこへ連れて行くことだった…?

    (…いや、まだだ)

    これではまだユーニス自身の説明がついていない。
    たかだかゲームのいちキャラクターに何故こうして姿が与えられ、細かな過去が与えられ、重要なポストがあてがわれているのか…。

    「……あの…」

    ユーニスはピィの異様な雰囲気に気圧されながらも、再び心配そうにそう口にする。
    しかしピィにはもう体裁を取り繕う余裕すらもない。

    (…もう少しな気がする……もう少しで何かがわかるような…)

    グイッ

    「!?」

    誰かがピィの袖口を引いた。
    驚いた彼が振り返ると、そこには不安そうな顔のフレがいた。
    彼女はただならぬ空気を醸し出すピィを案じ、思わず手を引いたのだ。

    思考を邪魔されたはずのピィはしかし、彼女のおかげである答えに辿り着く。

    ──『このお話には元になった場所があるらしいので、そんな突飛なことにはならないかと』

    (あ…)

    彼女の顔を見てその言葉を思い出す。

    (俺はあの時、元になったのは場所だけだと思っていた……、けど…)

    もし、シナリオや……キャラクター自体もそこから持ってきていたら…?

    (この男は佐佐城が作ったゲームの登場キャラクターじゃなくて、元になったユーニスという……実在した人物そのものなのかもしれない)

    ……確か、今読んだ日記では、ユーニスはこの屋敷の主人に幽閉されている少女を救い出そうとしていた。
    ゲーム上ではあの日記が建物へ入る手がかりになるので、きっと彼は中へ入ることができたのだろう。

    ……しかし、実在のユーニスは?
    果たしてあの建物へ入ることができたのだろうか…?
    もし…その願いも虚しく道中、何らかの理由で命を落としていたら…?

    (……地縛霊)

    ピィはストン…と、何かが胸に落ちてきたような感覚がした。

    未練を残してしまった霊。
    その霊が縛られている屋敷。
    それと瓜二つの場所を作ってしまったがためにそれらが繋がって、その霊がこちらへ呼び寄せられてしまった……。

    (霊っていうのはあの世とこの世の狭間に存在するもの……そしてこのバーチャルの世界もまた、架空と現実を曖昧にしてしまうもの……)

    類は友を呼ぶ…ではないが、類似性の高いものというのはどうしても引かれ合ってしまうものだ。
    今回はバーチャルという架空の世界が、奇跡的な噛み合わせによってオカルトじみた非現実的なものと交わってしまった。
    結局オカルトじみてることには変わりはないが、“祟り”なんかよりはよっぽど辻褄が合う。
    それに何より、この考えが正しければ……

    (フレに危険が迫ることがほぼなくなる)

    ピィが一番危惧していたことだ。
    もしこの現象が“祟り”であったなら、その厄災が彼女に降りかかる可能性が大いにあった。
    しかし、地縛霊の未練に付き合わされているだけとあらば、その未練を晴らしてやりさえすれば彼は成仏し、この霊的現象も無事解消されるはず。
    成仏させられなかった場合を除いて、彼女に危険が迫ることはないと考えていい。

    (……)

    ピィはここにきてやっと、その張り詰めていた緊張の糸を少し緩めることができた。
    正確にはまだフレやユーニスに確認することがあるので、完全に安心というわけではないが。

    「……あ、あの……本当に大丈夫ですか?」

    ユーニスから三度目の声がけ。
    ピィは今度こそ冷静に、落ち着きを取り戻してその声に返事をすることができた。

    「うん、ごめんね……ちょっと今までの疲れが出たみたい」

    自分の思案を悟られないように、そう理由をこじつける。
    すると人を疑うということを知らないユーニスは「そ、それはそうですよね…っ、いきなりこのようなことに巻き込まれたのですから…」と心配そうにピィを気遣った。
    ピィはその反応を見て、今度はわざと眉尻を下げ、声色を落とす。

    「だから少しここでみんなと休んでていい?もちろんユーニスは探索を続けてもらっていいから」
    「も、もちろんですっ、休息の邪魔をしないよう、私はあちらのソファの方を探索してきますねっ」

    そう言って彼は、退散するようにそそくさと部屋の奥へと行ってしまった。

    「……」
    「ピィ君…大丈夫ですか?」

    ピィがユーニスの離れていくさまを見送っていると、フレが心配そうに声をかけた。
    しかしピィはその言葉に「ああ、違う違う」と明るく返す。

    「今のは方便。ちょっとフレに確認したいことがあったから」
    「……確認したいこと?」

    そうしてピィは、はて?と頭に疑問符を浮かべるフレに確認したいことを聞く。
    すると彼女は彼が推測した通りの答えを返した。

    「やっぱり……ユーニスは実在する人物だったんだね」
    「?……はい、確かにシナリオ・人物共にあのお屋敷の話が元になっているとは聞いてますけど……ピィ君はどうしてそれを確認したかったんですか?」
    「ああ、そうだね、アンタにもちゃんと説明しなきゃだ」
    「…?」

    ピィは先ほど自分が立てた仮説をフレに説明した。
    本当はなんの確証も持てていないのだが、あえて事実として。
    それは彼女の不安を取り除くために彼がついた小さな嘘であった。

    「…というわけだから、あそこに連れて行きさえすればアイツも成仏して、俺らも無事元に戻れるってワケ。……アンタも、もう祟りだって怯えなくて済むんだよ」
    「……ピィ君」
    「…なんてね。……元々祟りだなんだって言ってビビらせたのは俺だから、心配しないでなんてどの口が言ってんだって話だけどさ」
    「そんなことないです!ピィ君は最初からずっと私を気遣って、心配してくれて……一生懸命解決策も模索してくれて……だから、本当に感謝してるんです」
    「……」
    「ありがとうございます、ピィ君」
    「……うん、俺の方こそありがとう。そう言ってもらえてちょっと救われたよ」

    ピィは無意識にそう口に出して初めて、自分でも気づかないほどに気負っていたのだと気がついた。
    フレにお礼を言われて少し肩の荷が降りたような気持ちになる。

    話を終えたピィたちはその後、探索を続けているユーニスに合流した。
    彼は「もう大丈夫なんですか?」と心配してくれたが、ピィの元気な様子を見て安心したように微笑む。
    そしてそのまま探索の結果を報告した。

    「見つけたもの…というのはないのですが、その、思い出したことがございまして…」
    「え、なに?」
    「その、このお部屋なんですが……ここはお屋敷のご主人のお部屋なんです」

    そう言われてピィは「ああ」と納得したような顔をする。
    確かにこの寝室は随分と広い。
    なるほど、主人の部屋だったのか…。

    「そ、それで……ここにあの建物へ入る手がかりが…」
    「えっ、あるのっ!?」
    「い、いえ…その、ある……気がすると言いますか、あの…思い出せたわけではなくて、ですね……申し訳ございません」
    「……そっか」
    「……」

    期待させるようなことを言ってしまったとユーニスは申し訳なさを感じた。
    しかしピィはその発言を聞いてふむ…と考え込み、部屋の奥のユーニスが探索していた辺りにゆっくりと近づく。

    「アンタ、最初入った時もしきりにこの辺りを見てたけど……ここが気になるの?」
    「あ、いえ…その……何か確証があるわけでは…」
    「それでもいいよ、なんとなくでも、気になることがあったら言って?アンタの勘はきっと出鱈目なものじゃないはずだから」
    「……!」

    ピィは、記憶が失われても潜在的に覚えているものがあるのだろうと、ユーニスの感覚を無碍にはしなかった。
    卑屈なユーニスはそんな彼の発言で救われたような、認められたような心地がする。
    別に礼を言うようなことでもないはずなのに、彼は一言「…ありがとうございます」と言ってから話し始めた。

    「…その、ここの壁が……どうも気になりまして…」
    「……壁」
    「はい、……で、ですが、どれだけ調べても、何もなくて…やはり私の勘違いだったのかも…」

    ユーニスが気になると言ったのは部屋の突き当たり右手の壁、つまりは屋敷の北側の壁だ。
    そこは一部だけにカーテンが引かれており、いかにも怪しさ満点であった。
    そのカーテンを開けると中には額縁にはめられた絵画が一枚掛けられている。
    しかし、絵画自体を調べても、それを外して壁を調べてもこれといったキーアイテムが見つかるわけではなかった。

    (……?)

    そこを確認する最中、ピィは妙な違和感を覚えた。
    その違和感を抱えたまま、今度は仕切りで分けられたベッドがある方の空間へ黙って移動する。
    他のみんなは彼の突然の行動に「えっ!?」と驚きながらも、なんだなんだと後をついて行った。

    (……おかしい)

    ピィはその違和感を確信に変える。
    彼が確認したのはまたしても壁、しかし今度は西側の壁だった。
    この部屋は大雑把に言えば北と南に部屋が仕切られている。
    北側がベッドルーム、南側がリラックスルームとなっていた。
    しかし、部屋は真ん中あたりで仕切られているにも関わらず、ベッドルームが極端に狭くなっている。

    ……つまりどういうことかと言うと、部屋の北西側の空間が一部、四角く切り取られていたのだ。

    収納になっていたのならなんの問題もない、しかしどちらの壁にもそのような扉はついていない。

    ということは、この壁の向こうには断絶された謎の空間が広がっていることになる。

    「ユーニス…」

    ピィは静かに彼の名を呼んだ。
    突然名を呼ばれたユーニスは「は、はい…っ」と畏まって返事をする。
    ピィの表情は険しく何を考えているのかわからなかったので、彼は少し恐怖を感じた。

    「アンタの勘は正しかったんだよ」
    「え…」

    表情は変えないままで独り言のようにピィは呟く。
    その独特な雰囲気にユーニスはどう返していいのかがわからず困惑した。
    しかしピィの後ろについていたフレは(あ…)とその様子に既視感を覚える。

    (ピィ君、今すごく考え込んでる…)

    そう、これは彼が考えを整理するときの癖なのだ。
    だからフレは、何か声をかけようとしているユーニスの裾を咄嗟に引っ張った。
    彼は驚いてフレを振り返ったが、彼女が小さく首を横に振ったのを見て何かを察したようにゆっくりと頷く。
    そして彼女と共にピィを静かに見守った。

    ピィは今目の前にある、西側の壁に手をつく、そしてペタペタと確認するように触り始めた。
    こちらの壁にはリラックスルームのようにカーテンが引かれていたり、絵画がかけられていることはなく、足元に一つ、小さな収納棚が南向きに置かれているだけである。
    ピィはその棚の中も確認する、三つある引き出し全てを開けたが中は空、一応隅々まで確認したが何もなかった。
    次に彼は棚の奥も確認しようとそれらを両手で引き出そうとする。
    すると……。

    シュワァァァ……

    「は?」
    「えっ!?」

    彼が触れた引き出しが光の泡となって消え失せた。
    そう、彼の“左手”が触れた引き出しが……。

    (嘘でしょっ!?)

    ピィはひどく狼狽える。
    手袋の効力が消えていなかったこともそうだが、何より……今の現象をユーニスが見てしまったことに危機感を覚えた。
    これはまずい、言い逃れができない。
    咄嗟に(誤魔化さねばッ)と頭を切り替えたピィは、ノータイムで行動に出た。

    「う、うわぁぁぁ!?ひ、引き出しが消えた〜〜〜!?」

    大声作戦、力技である。
    なんとかな〜れ☆の願いを込めて、彼はゴリ押すことに決めた。

    「ま、ま、まさかっ、これもこの不可解な現象のうちの一つなのか〜〜!?」

    チラッ

    ピィはユーニスを見やる。
    すると彼は……。

    「…も、ものが消え去るだなんて……こんなことも起こり得るんですね……」

    まんまと騙されていた。
    ピィはちょっと彼のことが心配になった。

    しかしこちらが不審に思われることは免れたので、彼はそのまま「怖いね〜」なんて言って引き出しを調べる作業を再開する。
    結果として怪しいものは何も見つからず、ただただ引き出しが一つ消失した棚が出来上がっただけであった。

    一通り調べ終わった頃を見計らってフレがピィの袖を引く。
    それは『そろそろ説明を…』という彼女の無言の合図だった。
    ピィは(ああ…)と思い出したような顔をして、ごめんごめんと説明を始める。

    「悪かったねユーニス、何も共有せずに俺一人で考え込んじゃって」
    「いいえ、そんな……それで、その…私の勘が正しかったというのは…?」
    「うん、アンタが言ってた“あそこへ入るための手がかり”ってやつ」
    「! やはりあったんですか!?」
    「ううん」
    「え…」
    「手がかりどころじゃなくて、ここがその入り口なんだよ」
    「えっ」

    ピィの発言にユーニスは度肝をぬかれた。

    「こ、ここが入り口……なんですか…?」
    「うん、……と言っても、まだ入る方法はわかってないんだけどね」
    「で、でも…どうして……どうやって?……橋がかかっているわけでもないのに…」
    「ここから直接行けるわけじゃないんだよ」
    「?」

    わからないと疑問符を並べ続けるユーニスにピィはこう返す。

    「下だよ、こことあそこは地下で繋がってるんだ」

    地下…。

    思いもよらなかった彼の発言にユーニスは言葉を詰まらせる。
    しかし、そんな彼をよそにピィは話を続けた。

    「一階の応接間、あそこに入った時にも違和感を感じたんだけど、よくよく考えたらここみたいに間取りがちょっとおかしかったんだよ」

    (今思うとあそこの日記はそれに気づかせないために、わざわざ見つけやすいところに置かれてたんだ)

    ここと下の階は同じように隔絶された空間が広がっている、しかもその空間はこの屋敷内であの建物から一番近い場所に位置している。
    ということは、この壁の向こうがあの建物へ行くための通路と繋がっているのだろう、それもおそらく地下で。

    (一階からじゃなくわざわざ二階の自室から通路を伸ばしたのは、万が一にも使用人に見つかることを恐れたからなんだろうね)

    そして自室であろうとも簡単に扉を見つけさせない徹底っぷり。

    「本当に人を信用してないってのがひしひしと伝わるよ、流石は人嫌いと言うべきか…」
    「で、では……その、通路へ入る扉を見つけるまでここの探索を続ける、ということですね…?」
    「……うーん」
    「あ、え、ち、違いましたか…?」
    「いやね、続けてもいいんだけど……俺、アンタの残りの日記のことも気になってるんだよ」
    「え?」
    「もしかしたら何か手がかりを見つけてるかもしれないし、ここでやみくもに探すよりも……うーん…」

    (コイツがここで殺されてるなら、入る方法を見つけてた可能性が高いと思うんだよね…)

    ピィはユーニスが殺されていたであろうことを加味してそう考えた。
    しかしその根拠を本人に伝えるわけにはいかない。
    自分が地縛霊だと気づいてしまった霊がどんな行動を起こすのか、全く検討がつかなかったので。
    だが、ユーニスからすれば手がかりになるかわからない日記よりも、目の前の扉探しを優先したいだろう。
    ……なんと説得したものか。

    「わかりました」

    しかしピィの考えとは裏腹に、ユーニスは彼の提案をあっさりと飲んだ。

    「え、いいの?アンタはここの探索の方が優先したいんじゃ…?」
    「はい。……ですがいいんです。貴方は先ほど私の不明瞭な意思を尊重してくださいました、だから私も貴方の考えを尊重したい……まあ、私の書いた日記がお役に立てるかは、少々自信がないのですが…」
    「…ユーニス、アンタ」

    一瞬(気弱な彼のことだから我を強く通せないのかもしれない)と思ったのだが、ピィが彼の言葉を真剣に取り合ったことが功を奏して、知らぬ間に信頼が培われていたらしい。
    ピィはここに来て初めて、ユーニスに対して少し仲間意識を芽生えさせた。

    (ちゃんとコイツをあの建物に連れて行ってあげなきゃね…)

    そう静かに心に誓って、彼はみんなを連れてこの部屋を後にする。

    部屋を出てピィたちが向かったのは、階段の向こうの部屋。こちらも暗転する前には開かなかった扉だ。
    二つあるうちの左の扉に先に手をかける。

    ガチャリ

    ユーニスが言った通り、この部屋にも鍵などはかかっておらず、ピィがノブをひねると簡単に開いた。
    中に入るとそこは寝室となっており、部屋の奥にはベッドが一つ配置されている。
    もちろん主人の部屋ほど広くはないが。

    「ああ、そうでした!こちらは別の寝室でしたね、私はもう一方のお部屋をお借りしていましたが、……ということは、こちらはあなた方が借りられていたお部屋ですか?」

    ユーニスは部屋に入るや否や思い出したというように声を上げた。
    どうやら二階フロアの部屋は全て寝室となっており、東側の部屋の一室は客室としてユーニスに貸していたらしい。
    それを聞いてピィは彼の話に合わせるように相槌を打つ。

    「いいや、俺たちはまだ屋敷に招かれたばかりだったから、部屋を借りるところまではいってなくてね。二階に上がったのだってこんな状況になってから初めてだったんだ」
    「ああ、そうなんですね。でも確かに、お部屋をお借りしていたなら私たちは出会っていたでしょうし……本当に訪れたばかりだったんですね」
    「うん、だからアンタがいてくれて本当に助かってるよ」
    「恐縮です」

    破綻がないようにと、慎重に言葉を選んで返事をする。
    そうして気を遣いながらも日記探しは怠らない。
    寝具以外は何もないこの部屋を見回すと、ベッドの下、少し影になっている奥の方に見慣れた紙切れを見つけた。
    ピィは「あったあった」と言いながら近くへ行き、それを拾い上げる。
    内容はやはり、ピィが思っていた通りのものだった。

    『_月_日
    私は今日、ご主人の部屋へと忍び込んだ。
    忍び込むこと自体は簡単だった、なぜなら彼はほとんどの時間、この屋敷にはいないので。
    そうして彼の部屋であの建物へ入る手がかりを探していると、明らかに異質な、一部分にだけカーテンの引かれた壁が気になった。
    カーテンを開けるとそこには絵画が。
    怪しいと思い時間をかけて調べてはみたが、結局はなんの手がかりも得られず。
    今日はこれまでにしてまた明日調べようと、私は彼が帰ってこないうちにあの部屋を出た。』

    日記の中の男は先ほどの自分たちと同じ行動をとっている。

    「やっぱりこのユーニスも部屋の異変には気づいてたんだね」

    ピィは自分の予想が正しかったことを確認して小さく頷いた。
    おそらく、次の日記ではもう少し進展があるだろう。

    「ほ、本当ですね……、ですが、私が人様の部屋に忍び込んで物色をしていただなんて……自分のことながら、少々、信じ難いです…」
    「それだけアンタの正義感が働いたってことでしょ?」
    「正義感……。ありがとうございます、そう言っていただけますと、罪の意識もいくらか和らぎます…」

    真面目で小心者。
    ピィはここまで行動を共にしてきた彼のことをそう評価する。

    (俺たちといる時はそんな感じだけど……日記の中だともうちょっと大胆だよね。こう、キッカケがあると突発的に動くタイプなのかな…)

    そのように分析をしながら、今いる寝室を後にした。
    そして次に、ユーニスが借りていたという、このフロア最後の部屋へと足を運ぶ。

    「へぇ〜、ここがアンタが借りてた部屋ね…」
    「…なんだか、改めてそう言葉にされますと……自室を覗かれたような、気恥ずかしい気持ちがしますね」

    ピィがあえて茶化すような口調で言うと、ユーニスは気まずそうにそう返した。
    部屋の形や家具の配置が多少違えど、先ほどの寝室とほとんど変わり映えのしない部屋だ。
    日記のページを見つけるのもそう難しいことではなかった。
    今回はユーニスがそのページを発見し、皆の前に見やすいようにと差し出す。

    『_月_日
    相も変わらず、彼の部屋へ入るのは容易かった。
    そしてまたあの壁を調べる。
    しかし、やはり、何もない。
    昨日の時間も足すともう随分と調べたことになるのだが…と、私は訝しんだ。
    そこで別の場所も調べる。
    …すると、見つけてしまった。
    あの小さな収納棚の奥に……。
    明日私は再びあの部屋へと向かう。
    おそらく、今日がここに泊まらせてもらう最後の日となるのだろう。』

    “あの小さな収納棚”。
    …というのはおそらく、ピィが一段消失させたベッドルームの棚のことであろう。
    ピィは(……あそこはちゃんと調べたつもりなんだけどね)と思いながらも顎に手を当てて考え込む。

    「あの棚、ですか……。先ほど調べた時は何もないように思われましたが…」
    「うん、そうだね…」
    「またあの部屋へ行きますか?」
    「うん、…屋根裏も調べたらもう一度行こう」
    「え、屋根裏も探索されるんですか…?」

    ピィの言葉にユーニスは驚いたような顔をする。

    「どうも確信めいたような内容ですので、これ以上探索するよりはもう一度あの棚を調べる方が良いのではありませんか?」
    「いや、探索ってわけじゃなくて、これはただの好奇心。……まだ行ったことのない場所だから行ってみたくて」
    「……」

    日記のユーニスがこの後建物へ入れたにせよ、その前に殺されたにせよ、おそらく日記自体はこれが最後なのだろう。
    であれば、ここからの新規探索はさほど意味がなく、彼の言う通り主人の寝室へ行くのが道理ではある。
    しかし、ピィは単純に屋根裏のことが気になってしまった。
    ここまできて全てのエリアを見ずにゴールへ進むのは、なんだかモヤモヤが残るような気がして。

    「だから先に上に行っていい?」
    「……」

    ピィは(まあ、いいって言うでしょ)と思いながらも一応形だけの確認を取った。
    ……しかし。

    「…いえ、申し訳ありませんが、……やはり先にあの部屋へ行きませんか…?…その、状況が状況ですので、あまり好奇心で動かれるのはよろしくないかと」
    「え、あ、そ、そうだね………、ごめん、軽率な発言だったよ」
    「あ、いえ……こちらこそ申し訳ございません、失礼な物言いをしてしまいました」

    意外にもユーニスは難色を示した。
    いや、彼の置かれている状況を考えればなんらおかしいことでもないのだが……。
    しかし、ピィは「まさか彼が否定するわけがない」と思っていたために少しばかり動揺してしまう。

    (本音を伝えられるくらいに打ち解けてきたってことなのかな…)

    動揺を抑えるようにそう解釈をして、彼は皆と一緒にあの部屋へと向かった。

    「でも結局屋根裏には何があるんだろ…」
    「あそこは使用人の方々の生活圏となっておりますよ」
    「あ、そうなんだ……そっか、住み込みなら部屋が必要だもんね」
    「ですね」

    ピィの素朴な疑問はユーニスによってあっさり答えられる。
    足は運べなかったが、何があるのかはわかったのでひとまずはそれで納得しておく。

    そうして一行は肝心の主人の部屋に着いた。
    皆はそこに入るや否や、日記に書かれていたあの棚の元へと足を運ぶ。
    相変わらず引き出しは一つ消失したままだ。

    「日記にはあのように書かれていましたが……やはり何かあるようには思えませんね…」
    「うーん……、もう一回引き出し抜いてみようか」

    そう言ってピィは再び引き出しを全て抜いて棚の中を調べた。
    しかし中には何もない、メモ書きが隠されていたり、直で何か書き記されているなんてこともない。
    抜いた引き出し自体を調べたが、こちらも特に何もなし。

    (でも日記にはああ書いてあったんだし……絶対に何かあるはず…)

    空の棚を前にしても、ピィはまだ何かがあるはずだと踏んでいた。
    通常であれば「手がかりをは既にここにはない」「持ち去られている」と諦めてもいい頃合いだ。
    しかし彼は「あれほど他人を信用していない男なんだからこの空の棚でさえブラフの可能性がある」と僅かな可能性を捨てきれないでいた。

    そしてピィのその勘は見事に当たることとなる。
    それは、彼が棚の中の壁を内側から叩いていた時のこと。

    コンコン……コンコン……カタカタ…

    「ん?」

    右側の板がほんの少しだけ、カタカタと動いた。

    一見すると、古くなって取り付けが悪くなっただけにも思えるが、もちろんピィはそのように考えない。
    すぐさまその動いた板を掴み、左右にユサユサと揺らした。
    すると、それが手前に引けるようになっていることに気がつく。

    スッ…と腹の中が浮くような感覚になる。

    (ああ、きっとこれだ……)

    ピィはなぜだか、根拠のない確信を持ってそう思った。

    そうして、ゆっくりとその板を手前に引く。
    板は最後まで引き抜かれることなく、少ししたところですぐに止まった。
    ピィは棚の右横に移動して、今動作によって生まれた壁と棚の間の隙間を覗き込む。

    (あ…)

    するとそこには取っ手のついた板が入れ込まれていた。
    ピィは考えるよりも先に手を伸ばし、その取っ手を掴み、そのまま引き出そうとする。
    しかし……。

    ガ…ッ

    「!」

    板は何かにつっかえているようで、ガタガタと揺れはするもののそれ以上は動かない。

    (これも何か仕掛けが……?)

    ピィがそう考え込もうとした時、不意に後ろから「あ…っ!」という声が聞こえた。
    彼は驚きながら、なんだなんだと振り返る。
    するとそこには、ピィと同じように驚いた顔をしたユーニスの姿があった。

    「どうしたのさ?」
    「……そこです」
    「え?」

    彼は驚いた顔のまま、こぼれ落ちるような声でそう呟く。

    「そこが、道を開くための仕掛けになっていて……階段、が…」
    「!……ユーニス、アンタ、思い出したの!?」
    「はい……、いえ、…でも、そこは開かなくなってしまって……あれ?」

    記憶の混濁があるのか、ユーニスは呆けた顔のまま視線を彷徨わせた。
    ピィはそんな彼に「落ち着いて」と声をかけ、困惑を取り除くように肩をさすってやる。

    (多分、死因と直結してる記憶だから脳が危険信号を出してるんだろう…)

    そう思ったピィは決して彼を急かさずに、落ち着くまで時間をかけて見守った。

    「も、申し訳ありません……」
    「謝らなくていいよ。…きっと確信に迫る記憶でショックが大きいんだ、だから無理をしなくて大丈夫」
    「は、はい……」

    ピィの言葉でユーニスは少し落ち着く。
    それを確認すると、ピィは再びあの棚へ視線を向けた。

    (棚が仕掛けになってるって言ってたよね……でも開かなくなってる、とも言ってた…)

    困惑しているユーニスをこれ以上問い詰めるのは酷だ。
    なので先ほどの僅かな手がかりから考察をする。

    「フレ」

    ピィはフレを呼び、ユーニスをベッドで休ませるようにと頼んだ。
    そして自分は棚の近くまで行き、もう一度取っ手のついた板を引っ張る。

    ガ…ッ

    やはり、つっかえたように動かない。

    (ユーニスの言うことが正しいなら、この板が引けないのは仕様じゃないよね……、単純に何かがつっかえてる…?)

    ガッ、ガガ…ッ、と多少強引に引っ張ってみるが、やはり引き抜ける気配はない。
    今度は棚自体を動かそうとしてみる。
    しかしこちらは動くどころか微動だにしない、おそらくこの位置で固定されているのだろう。

    (そうなるともう…)

    ピィはちらと自分の左手を見た。
    そこにはあの手袋がはめられている。
    最終手段……という言葉が脳裏に浮かんだ。

    (本当は使いたくないんだけど…)

    板を消すのは至極簡単だ。
    しかし、仕掛けがわかっていない以上それをしてしまうのは、取り返しがつかなくなる可能性を考えるとリスキーでもある。

    (でも、そうも言ってられない)

    ゴールはもう目の前。
    ユーニスの不安定な状況を加味しても、ここは強硬手段に出てもいい場面だ。

    (ここで躊躇うのは流石に潔癖が過ぎるのかもしれないね…)

    ピィは意を決して、自身の左手を恐る恐るその板へと伸ばした。

    「……」

    板は光の泡となって消えていく、もう随分と見慣れた光景だ。
    しかし、何か仕掛けが動くような気配はない。
    ピィは板が消え去ったその隙間を覗き込む。
    中は板が入っていたであろう分だけの空間が空いている。
    いや、よく見ると形が少し歪で板が出っぱっている部分があった、おそらくこれがつっかえの原因だったのだろう。
    しかしこれはただの老朽化で、仕掛けとは関係がなさそうだ。

    「……なんだろ」

    ぐぐ…っと棚を押してみる、しかし動く気配はない。
    ……やはりあの板自体が何か重要なものだったのだろうか、だとしたら相当のやらかしだ。
    しかしピィも考えなしで消すことを選んだのではない。
    彼はもう一度、最初に引っ張った方の板を見やる。

    (これを最初に引いて……その次にあの板……)

    “秘密箱”……。

    最初の板を引いた時彼は、そのことを頭に浮かべていた。

    秘密箱というのは、いくつもの手順を踏まないと開くことのできない箱のことである。
    一見すると蓋とは関係のなさそうな場所を引っ張ったり、ずらしたり……そうして最後にはメインの蓋が開くという仕組み。
    手順を覚えればなんてことはない、と思われるかもしれないが、毎回手順を踏んで開け閉めするのは何気に億劫だったりする。

    しかし、そんな面倒な仕掛けこそ、この屋敷の主人の性分には合っているのではないか。
    ピィはそう考え、仕掛け部分は最悪消しても問題ないと判断した。

    (この棚自体が秘密箱みたいになってるのかと思ったけど…)

    秘密箱とはその名の通り、秘密……つまりは大事なものを入れておく箱だ。
    しかしこの棚は既に開かれているし、これ以上何かを隠しておけるようなスペースもない。

    (この仕掛けはなんのためのものだ…?……屋敷の主人の秘密は……)

    それであれば考えるまでもない。
    あの建物に幽閉されているという少女の存在だろう。

    「…!」

    そこでピィはある考えに思い至る。

    (主人の秘密が少女なら……この屋敷自体が秘密箱になってるのか…?)

    瞬間、ピィは目の前の棚ではなく、その奥の壁に手をついた。
    謎に切り取られた空間、そこを囲っていると思われる壁だ。
    その壁を力任せに押してみる。
    すると……。

    カタ……

    最初に調べた時とは僅かに返ってくる感触が違う。
    次にピィは上下左右、あらゆる方向に壁を押す。

    ガガ…ッ

    「!」

    今度は確実に、壁は右側に向かって動いた。

    (でもまたすぐに止まった……)

    距離にして数十センチと言ったところか。
    何度か引き戻して左右に動かしてみたがその距離が変わることはなかった。

    (……じゃあまだ次があるな)

    ピィは次の仕掛けの場所を確認する。
    壁は右に動いたので左に隙間ができている、そこを覗き込む。
    すると、隙間の幅は数十センチ程度だが、奥行きはそれよりも長くあった。
    ……そう、言うなれば、人が一人ギリギリ通れるくらいの長さだ。

    (! あっちか…!)

    ピィは即座に、絵画のかかっていた壁に思い至った。
    おそらく次はあの壁が動かせるだろう。
    そして、そのことを伝えるべく、すぐさまベッドに居る皆を振り返る。
    ユーニスもきっと回復している頃だ、と。

    「!」

    しかし、ピィの予想に反してユーニスの体調は戻っておらず、むしろ悪化していた。
    最初は腰掛けていたはずのベッドに、今は倒れ込んでしまっている。
    呼吸も荒く、意識も朦朧としていそうだ。
    ピィは彼らのそばに行き、今後どうするかを考えた。

    (この様子じゃユーニスは連れて行けない。……じゃあフレとボヌを付かせて俺だけ先を確認しにいくか…?……いや、駄目だね、流石にフレたちと別行動するリスクは、冒せない…。)

    ならば、ユーニスが回復するまでここで待機か…。
    ……それもどうか。
    彼の回復はいつになるか予想ができない、そんな中でただただ待つのは時間の無駄だ。
    では彼をおぶって連れていく…?
    …論外だ、それではもしフレに危険が迫った時に彼女を守れなくなる。

    (……ユーニスをここに置いて、先に三人で様子を見に行く、か)

    不調の者を一人にしておくのはどうかとも思うが、背に腹は変えられない。自分達にとって一番大切なのはフレなのだから。
    あらかじめ先の安全を確認して、彼も連れて行けそうな状況であれば後からおぶって行けばいい。
    ピィはそう判断し、横たわるユーニスにもそのように伝えた。
    ユーニスは少し渋る様子だったが、ピィが「ちょっと様子を見にいくだけ、安全そうだったらすぐに引き返してアンタもちゃんと連れてくよ」と説明すると諦めたように了承した。
    ピィは最後に一度だけ、心配するようにベッドを振り返り、フレとボヌと共にその場を後にする。

    仕切りを回り込んで絵画のあるエリアに入ると、ピィは早速その壁に手をついた。
    そして、グッと力を込めて右にずらすように押し込む。

    ギギギ…ッ

    鈍い音を立てながら、壁はゆっくりと右へ動いた。
    そして何かに当たった感触を返し、ピタリと止まる。
    ……次にピィは左でまとめられているカーテンに手をかけ、そのまま捲ってみせた。
    そこには先ほど確認した、人がギリギリ通れるだけの隙間が空いている。

    (なるほどね……本当に厳重だ)

    最初に探索した時は「誤誘導させるためだけのものだ」と、そう思われていたカーテン。しかし、そのカーテンを探索者自身に開かせることによって、それは本当の目的を果たしていた。

    (開いた後に、カーテンを寄せた側なんてわざわざ調べないもんね…)

    壁が動くとなると、いくらピッチリ閉めたとしても隙間は生まれてしまう。だからそれを隠す必要があったのだ。
    しかし、壁というのは本来隠すようなものではない、何か細工をしては逆に疑われてしまう。
    だからこの屋敷の主人はそれを逆手に取った。

    “何もない壁”を隠し、それを暴くことによって“本当に隠したかった隙間”が覆われるような仕掛けにしたのだ。

    おあつらえ向きに絵画まで飾って。
    そんなことをされたら絶対にそっちを調べてしまう。

    (いや〜、お見事………ホント、意地の悪いこって…)

    ピィは(おかげで随分と時間がかかったよ)と思いながら、狭い隙間に体をねじ込み奥へと入る。
    フレとボヌには壁の前に居るよう指示を出す。もちろんカーテンは除けて、隙間から様子を伺えるように。

    「……っと」

    体をねじ込んだ先、正面と左には壁があり、右には少し道が続く。
    先へ進むと壁の向こうのフレとボヌからは見えなくなってしまう、なので二人に「何かあったらすぐ声を上げて」と一言言ってからピィは歩を進める。
    道はすぐに左へ曲がれるようになっており、曲がるとそこは下へと続く螺旋階段になっていた。
    今いる場所は道ではなく、踊り場であったようだ。

    「……」

    ピィは階段を見ると少し何か考え込むような仕草を取り、すぐまた隙間の前まで引き返した。

    「フレ、ボヌ。こっち、入ってきて」

    視界も行き来も悪くなる壁の向こうよりもこっちに来てもらったほうが良い、そう判断したピィは二人を呼び込む。
    呼ばれた二人はえっちらおっちら、一生懸命体をねじ込み入ってきた。

    ちなみに言うとフレとボヌの手はいまだに繋がれている。なので今までも動くのに不便な場面はいくつもあったのだが、ピィはあえて指摘しなかった。
    動きは制限されるが、安全面で考えた時にニコイチになってくれている方が都合がいいと考えたからだ。

    「この先に螺旋階段がある。今から俺は降りるけど、アンタらはここに居て。でもって、前と後ろの両方を二人で見張るんだ。それで、もし何か異変があったらすぐに俺を追ってきて、いいね?」

    フレはこの言葉に小さく「はい」と返事をして、ボヌは黙って頷いた。
    それを確認したピィは螺旋階段を降りていく。
    一瞬壁の隙間を閉じることも考えたが、先がどうなっているかわからない以上退路を断つのは賢明でないと判断し、そのままにしておくことを選んだ。

    階段は石造りとなっており、一歩進むごとにカツン…カツン…と足音が響く。
    これにピィは(これなら何かあったら音でわかるな)と、残してきた二人のことを考えて少し安心した。
    螺旋をぐるりと一周分降りると、そこはまた踊り場になっている。しかし出入りできそうな場所はない。
    おそらくここは一階部分で、現在地をわかりやすくするための目安として設置されている踊り場なのだろう。
    ……階段はまだ下に続いている、これより下はきっと地下だ。

    「……」

    ここまで来てピィはまた立ち止まり、考え始めた。

    (この様子なら二人を連れてきてもよさそうだね)

    念には念を…と、警戒を怠らずに一人先陣を切ったピィだが、どうもこの通路には危険がなさそうだ。
    置いてきた二人を気にして進むより、一緒に進んだ方が自分も安心できる。
    そう思い彼はもう一度来た道を引き返した。

    「ピィ君、どうしたんですか?」
    「危ない感じがしなかったからさ、フレたちと一緒に行こうと思って」

    フレは思ったよりもピィの戻りが早かったことに驚きつつ、彼の言葉に「ああ、そうだったんですね」と納得し、共に階段を降りていく。

    「このまま……あの建物の中へ、行くんですか?」
    「うん、そうだね、……何事もなければ」
    「……それは、何かあるって言ってます?」
    「いやー…どうかな?俺の予想では何もないと思うんだけど、まあ、用心するに越したことはないからね」
    「それもそうですね」

    久しぶりの三人行動でピィたちの雰囲気が和む。
    別段ユーニスが悪いわけではないのだが、やはり気心が知れた者だけで居られるというのはそれだけで緊張も解れるのだ。

    そうして三人は一階の踊り場まで到着し、そのまま地下へと続く階段を降りていく。
    地下と言っても、これまでと見栄えは変わらない。なぜなら、この通路には窓が一切設置されていないからだ。
    だからこそ踊り場があるのは助かる、とピィは改めて思った。閉じられた空間で景色が変わらないというのは、それだけで人を不安にさせてしまうものだから。

    地下まで降りきると、左手には少し開けた空間が広がっていた。
    そしてその奥には通路が。

    「……とうとうやって来たって感じだね」
    「……はい」

    通路を辿っていけば、あの建物へと、入ることができる……。

    先ほど和んだ空気がまた張り詰めたものへと変わっていく。
    緊張、恐怖、そして……ちょびっとの高揚感。

    ゴールは目前だという気持ちを抱えて、彼らはその通路に足を踏み入れた。

    コツ……コツ……コツ……

    通路自体は長くなく、特に扉なども付いていなかったため、ピィらは随分あっさりとあの建物の地下へと入れた。
    そこは先ほどの場所よりも一回り大きい開けた場所となっており、壁沿いに螺旋階段が、今度は上へと続いている。

    「もう……あの建物に入ってるんですか、私たち?」
    「そう、だね……距離的にも、ここは真下で間違いないよ」
    「わ……」

    時別なゲートを通ったり、特殊な演出が入ったわけでもないのだが、ピィたちは言い知れぬ感慨深さを味わっていた。
    そして、いよいよ……いよいよだ……という気持ちを持って、その螺旋階段を上っていく。

    「……」
    「……」

    緊張からか、彼らは自然と口をつぐんでいた。
    そして上った先には踊り場が現れる。体感からしてここはおそらく地上の一階部分だ、まだ先に階段も続いている。
    しかし、今度の踊り場には建物の中心に向かって扉が設置してあった。

    「ピィ君、ここは……」
    「ふむ…」

    ピィは顎に手を当て、考え出す。
    確か、外から見た時一階部分には窓がなく……あったのは、そう…。

    (換気口か…)

    すると、ピィは何の迷いもなくそのドアノブに手を伸ばした。

    「え、ピィ君?」

    一切の警戒もないその様子にフレは驚き、咄嗟に静止するような声を出す。
    しかしピィは「大丈夫だよ」と安心させるように彼女を振り返り、そのまま扉を開いた。

    ガチャリ…

    中を見渡すとピィはすぐに「ね?」という顔をする。
    そこは何も変わった部屋などではなく、トイレやバスタブが設置されているただのユニットバスであった。

    「閉じ込めてたとはいえ、流石にこういう配慮はしてたんだね」
    「そうみたいですね」
    「……それにしてもお風呂、結構大きいな」
    「確かに…。…みんなで入れそう」

    ピィたちはバスルームを軽く流し見しながらも、ここには大して用はないな、と足早に部屋を後にする。
    ちょっとした寄り道を挟んだが、彼らは改めて上へ向かうために階段を上った。
    そして……。

    「……ここが」

    ついに目的の部屋の前へとやってきた。
    その部屋の扉は、とてもじゃないが幽閉部屋とは思えない華美た造りとなっている。
    そして簡素な南京錠がひとつ、これは後から付けられたもののようだが、壊れた状態でただただ扉横の金具部分にぶら下がっていた。

    (錠前じゃなくて後付けの南京錠なんだ…)

    そんなことを一瞬だけ思って、すぐにピィはフレとボヌの顔を交互に見やる。
    ここまで来ればあとはこの扉を開くだけ……なのだが、恐怖心か緊張か…ピィは少し躊躇ってしまった。
    その空気感は二人にも感じ取れたようで、ピィの躊躇いを見て急かすようなことは決してしない。

    ……扉のノブを、じっと見る。

    (……まあ、開けないなんて選択肢はないもんね)

    覚悟を決めるか。

    ピィはそう決心して、ゆっくりと、ノブに向かって手を伸ばした。

    ………ガチャリ

    扉の初動の音、そして、キィ…という甲高い音を立てて扉は開かれる。
    石で囲われたこの建物の中では、その音は酷く反響して響いた。

    ドキドキ、と。人間の姿だからだろうか、心臓の鼓動が耳の中から聞こえてくる。血が、指先まで届き、脈打っている。

    「……っ」

    扉が開ききった時、ピィたちは咄嗟に目を細めた。
    部屋の中には外の光が差し込んでおり、暗い階段からやってきた彼らには酷く眩しかったのだ。
    しかし、目は徐々に慣れ始める。彼らはそれに合わせるように、細めた視界を開いていく。
    そして……。

    「………は?」

    部屋を見たピィの第一声はそれだった。

    彼の正面、部屋の中央にはやつれた少女が。
    蔑むような、困惑したような視線をこちらに向けて立っている。
    薄い生地のドレスを纏っているところを見るに、裕福ではないものの上流階級のお嬢さんであろうことがわかる。
    しかし、随分と薄汚れて所々破けてしまっているそれは、彼女を本来の身分よりも大層低く、……言うなれば、スラム街で安く買い叩かれる情婦の出立ちに見せていた。
    彼女は悲鳴を上げない。
    それは突然の来訪者に驚いて声が出ないのではなく、どう対応するのが正解かを決めあぐねての沈黙であった。

    ………しかし、ピィは彼女を見てあの困惑の声を上げたのではない。
    彼が見ていたのは彼女ではなくその下。
    いや、下どころか、床一面の光景だ。

    そこには

    床を埋め尽くさんばかりの



    大量の女の死体が転がっていた……。



    ピィはあまりの衝撃に言葉を失い、後ろのフレとボヌに気をやることも忘れてしまう。
    だから二人も彼と同じようにその光景を見て、これまた同じように、固まってしまった。

    「……」

    沈黙だ。
    皆が皆、思い思いの理由で黙り込み、動けないでいる。

    どうすればいいのか、わからない。

    ただただ、目の前の女の顔を見つめることしか……。

    (……ん?)

    そこでふと、ピィはある違和感に気づいた。

    ……女の目が、自分達を追っていない。

    先ほどまでは確かに、ピィたちを捉えていた視線。
    しかし、今は少し外れた……後ろの方を見ている気がする。

    それに、なんだか、徐々に……彼女の表情が曇って……。

    「いやァァァァッ!!!!」
    「っ!?」

    耳をつんざく金切り声。

    女の突然の叫びに皆は度肝を抜かれた。
    と、同時に激しい焦燥がピィを襲う。

    (まずい…ッ、フレッ、ボヌッ!)

    彼は振り返ると同時にフレの手を取り、間髪入れずに部屋の中へと投げ込んだ。
    彼女と手を繋いでいたボヌも一緒になって飛ばされていく。

    これは一瞬の判断での出来事だった。

    ピィは、先ほど女の視線が後ろを捉えていたことで、そこに“何か”が居ると確信したのだ。

    そして振り返った勢いで、そこに存在しているものを確認する。

    そこに居たのは──


    見知らぬ、老人、だった……。


    「……ッ!?」

    見知らぬ……そう、見知らぬ老人のはずだ。

    浅黒い肌、落ち窪んで真っ黒に染まった目、痩せこけた頬、まばらに抜け落ちた髪、それとは反対に手入れのされていない伸びっぱなしの無精髭。
    腰も膝も折れ曲がり、膝丈のブリーチズから伸びる脚はまるで枝のよう、立っているのがやっとという様子。

    しかしピィはその男の姿を捉えた途端、妙な既視感を覚え、そして、同時に……言い知れぬ恐怖感に襲われた。
    相手は老人だ、押せば今にも折れてしまいそうな。
    だというのに、動けない。目も、逸らせない。

    そうしているうちに男の手が、目の前に伸ばされてくる……。

    「いやッ、いやよッ、来ないでッ…!!」
    「ッ…!」

    女の続け様の悲鳴に、ピィは正気を取り戻す。そして、防衛本能が働いた。
    もちろん自分に対してではない。
    先ほど自分が部屋に投げ入れた二人、フレとボヌに対して、だ。
    二人の顔を思い出した途端、ついさっきまで動かなかった足が自然と前に出ていた。

    (守らなきゃ)

    この男を中に入れちゃいけない。

    ほとんど無意識だった。

    ピィは右足を下げて重心を後ろに置く。そして左足を軸にして下げた右足を蹴り上げ、グッと力を込めて老爺に回し入れた。
    足はちょうど脇腹辺りにめり込み、踏ん張ることもできない老爺はそのまま体をくの字に曲げて、声も出せずに階段を転がり落ちていく。
    ドッ、ガッ、ゴッ、と体を打ち付ける音が徐々に遠ざかった。
    ピィは肩で息をしながらも、老爺が転がり落ちた真っ暗な階段を、その音がしなくなるまで見つめる。
    そして、完全な静寂が訪れると、彼は部屋の中を振り返った。
    中の3人は呆気に取られた表情でピィを見つめている。

    「あ、ありがとうございます…、」

    しかし不意に、この部屋の現主である女がボソリと呟くようにそう口にした。
    彼女の表情からも当初の不信感は伺えない。どうやら、今しがた男を蹴り落としたことで彼女の信頼を得られたようだ。

    「いや……そんなお礼言われるようなことじゃないよ、俺もびっくりして…訳もわからず回し蹴りしちゃっただけだから」
    「いいえ、それでも言わせてください。貴方の行いのおかげで、私の胸の内にある恨みもいくらか解消されましたので」
    「……そう?、……それじゃあ、その、ちょっと聞きづらいんだけどさ」
    「はい、なんでしょう?」
    「アンタって、あの男にここに閉じ込められてるってことでいいの?」
    「……はい、そうです」
    「……そっか」

    そう言って、ピィは改めて部屋の中を見回す。

    やはり目につくのは女の死体。
    右を見ても、左を見ても、死体死体死体……。
    まだ人の形を保っているものから、完全に白骨化したものまで。
    このことから、あの老爺が随分と長い期間この所業を繰り返していたことがわかる。

    (日記の情報を読んだ時にはまさかこんなにやってるとは思わなかったな……それに主人も、想像よりずっとジジイだった…)

    ピィはてっきりこれが初犯だと思っていたし、屋敷の主人ももっと若い男を想像していた。
    それこそあの、ユーニスのような……。

    「……ん?」

    そこでピィはあるものに気がつく。
    それは数多の女の死体の中で、ただ一つ、異彩を放っていた。

    白骨化した……“男”の死体だ。

    同じく白骨化した一体の女の死体に、寄り添うようもたれかかられている。
    ピィは疑問に思う間も無く、その男の死体についてある考えに至る。

    (もしかして、これ……ユーニスか…?)

    女ばかりを閉じ込める場所にわざわざ男を連れてくるとは思えない。
    それならば、この男は侵入者であり、それゆえにここで殺されたのだと考えるのが自然だ。
    服装はどうもあのユーニスとは違っているように見えるが、おそらくは経年劣化で変質してしまったのだろう。

    「………」

    彼の最期については見当がついていたとはいえ、実際に目の当たりにしてしまうと少し……悼む気持ちがある。
    ピィは割り切れないような、複雑な表情を浮かべながらそれに近づいていった。
    ……そして彼の目の前に着いたとき、ピィはあるものを見つける。

    それはくたびれた、小さな本だった。

    タイトルも装飾も何もない、ただただシンプルな作りの本。
    初めて見るはずのそれに、なぜかピィは見覚えがある気がした。

    (このサイズ感……)

    馴染みのある大きさ。
    そう、それはここに来て何度も手に取っている、あのユーニスの日記のページと同じだった。

    男のすぐそばに落ちているそれを、ピィは優しく拾い上げる。そしてそのまま1ページ目を開いた。
    最初の一行目には1月1日と書いてある。
    ピィはそれを見て(カレンダーでもないのに、律儀に新年から始めてるんだ)と少し微笑ましく思った。
    内容については『冴えない自分だが今年こそは何かを成し遂げたい』というようなことが書いてある。新年早々自分を卑下するような物言いは彼らしいというべきか。
    パラパラと流し見をするようにページを捲る。すると3月の上旬を境に、ページが何枚か破られた形跡が見られた。

    「……」

    ピィは静かな表情で、破られたページの跡を指でなぞる。
    ここからは自分も知っている内容だ。
    この屋敷に訪れ、秘密を知り、そして……葬られた。
    やりきれない気持ちで彼の過去に思いを馳せていると、不意に次のページが目に入る。
    そこにはまだ続きが書かれてあった。
    ここへ来る直前のものか、それとも最期を悟って綴られたものか。どちらにしてもこれが最後の記しだろう。
    寂しさを押し込めながら、ピィは覚悟を決めて彼の最後の言葉に目を通した。

    『3月14日
    私はついにこの建物の中へと入るとことができた。そして……あの可憐な少女と対面したのだ。
    私は助けに来た旨を伝え、彼女の手を取り、屋敷から連れ出そうとした。
    ……しかし、次に彼女は信じられないことを口にする。

    「私はここに閉じ込められているわけではありません」

    と……──』

    「……は?」

    神妙な面持ちで読んでいたピィは、その文を見て目を見開く。
    そしてすぐさま後ろを振り返り、そこに立っている女の顔を凝視した。
    突然穴が開かんばかりに見つめられた女はもちろん、ピィの突飛な行動にフレとボヌもキョトンとしている。

    (騙されてる……わけではないのか?)

    予期せぬ言葉を目にしたために、疑心暗鬼になったピィ。
    しかし、目の前の女は(突然なんだ?)という顔でこちらを見つめ返している。何かを隠している、という様子ではない。
    そのことにひとまずは安心し、不可解な内容の続きを見るためピィは改めて日記に目を落とす。
    そして、今の行動を疑問に思った3人もなんだなんだと彼のそばへ寄り、一緒になって日記を覗き込んだ。

    日記の女の「閉じ込められているわけではない」という言葉は、いったいどういう意味なのだろうか。

    『──困惑した私は、説明を求めた。
    すると、またしても彼女は理解し難い言葉を口にする。
    「私は閉じ込められているのではない」「この屋敷の主人は良い人だ」「むしろ邪悪であるのはここの使用人たちである」と……。
    ……どういうことなのか、私にはやはり理解ができなかった。
    あれほどよくしてくれていた使用人の方々が悪人で、あの冷淡な瞳を持った男が善人……?
    ……とてもじゃないが信じられない。

    ……だから私はこう思ったのだ。

    ──この少女はここに閉じ込められているうちに、気が狂ってしまったのだと……──』

    このページはここで終わっている。
    ピィやフレやボヌ、そしてここまでの内容を把握していないはずの彼女でさえ異様な雰囲気を感じ取っていた。
    しかし、そんな雰囲気を感じ取りながらも続きは気になってしまう。
    どう転んだってろくな事態にはなっていないだろう。そう思いながらも、ピィは次のページへと手を伸ばした。

    そして彼らの予想通り、先の展開は徐々に悲惨なものへとなっていく。

    『──私は彼女を正気に戻そうと、ここの使用人の方々の素晴らしさ、そして、あの主人の冷徹さを必死になって説いた。
    しかし彼女は「あの人はそんな人じゃない」「あの使用人たちの方こそまるで悪魔だ」と聞く耳を持たず、あまつさえ「彼と私は恋仲である」などと、トチ狂ったことを喚きはじめた。
    ……これはもう駄目だ。
    私がそう思った時、不意に後ろからギィ…と扉の開く音が聞こえた。
    と、同時に、目の前の女がまるで救世主でも現れたかのように瞳を輝かせたのだ。

    ……なんだこれは?
    これではまるで、私が悪者のようではないか。

    ……その時私は、女の姿が、“アリシア”に重なって見えた。

    そして、
    たった今まで忘れていた、
    護身用のナイフが。
    視界の端で
    確かにキラリと
    光ったのだ。』

    その日の記述はそこで終わっている。
    ……その日は、だ。

    翌日以降の日記はまた次のページから再開されていた。
    ただし屋敷の主人と少女のことはその後一切記されておらず、ユーニス自身が屋敷を去って行ったというようなことも書かれていない。

    ピィは一旦日記を読むことを止め、先ほどの寄り添っている2体の死体を振り返った。

    ……

    ある。

    それは、女の方の死体の下に、半分隠れるようにして落ちていた。
    全体が錆びきっており、文中で表現されていたような輝きはない。
    しかし、確かに、そこにある。

    ああそうか、それならば、ここで寄り添い合う2体は……。

    「……」

    ピィは無表情のまま、ゆっくりと彼らから視線を外した。
    そしてまた手元の日記に目を落とす。

    日記の中のユーニスはこの屋敷を出て行かず、何故だかその後もここで日々を送っているようだった。

    ……しかし疑問に思うのも束の間、その数ページ後、彼が出て行かなかった理由が明らかとなる。

    数日後の日記の中に突然、“アリシア”という女の名前が登場した。
    以降、ユーニスとアリシアとの仲睦まじい生活がつらつらと書き連ねられる。
    来る日も、来る日も……毎日、毎日……。
    そしてある時、パタリと彼女の名が途絶えるのだ。
    しかし数日後、何事もなかったかのようにその蜜月の日々は再開される。
    ルーティンと化したその事象は、その日記の最後のページまで続いた。

    ピィは神妙な面持ちで日記を閉じ、改めて部屋全体を見回す。そして、横で呆然と佇んでいる女の顔を見た。

    (この人が最新版“アリシア”ってワケだ…)

    同情をはらんだ目で見つめる。
    女もまた自分の現状を把握して、その想像以上の狂気に顔を青くしていた。かける言葉も見つからない。
    居た堪れなくなったピィは今度はフレとボヌの方を見た。彼女らもピィと同じ思いのようで、なんとも言い難い表情を浮かべながらチラチラと女の顔色を伺っている。

    あまりにも急展開。
    予想とは大きく外れた経緯にピィは頭が追いつかなかった。

    (ちょっと、整理する時間が必要だね…)

    そもそもピィはここまでの目的を『この建物にユーニスを連れてくること』に定めてきた。
    そうすれば彼の未練が晴らされて、この怪奇現象とも呼べる事象から解放されると思っていたからだ。
    しかし、哀れな地縛霊だと思っていた男は実は恐ろしい狂人であった。
    前提から全て覆されたピィは、何もかもを考え直さなくてはならなくなったのだ。

    (ユーニスがもし悪霊だったとしたら……やっぱりこれは祟りなのか…?、……それにあの若いユーニス、あれもいったい…)

    シン…と静まり返る現状はいかにも考え込むのに最適だ。ピィは思う存分考えに耽る。
    ……しかし、そんな静まり返る状況だからこそ、ほんの少しの物音でさえ、かき消えずに耳の中へと入ってくる。

    それは反響音だった。
    ゆっくりと、しかし一定のリズムで、確かに少しずつ大きくなっている。

    コツ……………コツ……………コツ……………

    ある程度近づいてきたところで、考え込んでいたピィもその音に気づく。
    ……足音だ。
    誰かが階段を上ってきている。
    足取りは重く、しかし、音自体は軽い。
    急く様子もないそれに、ピィはまさかと顔を青くした。

    「嘘でしょ…ッ」

    言葉と共に扉の方へ駆け出す。
    そして勢いよく扉をバタンッと閉めた。
    他の三人はそんなピィの行動を呆然と見つめ、一瞬間を置いてからざわつきはじめる。

    「ピ、ピィ君、どうしたんですか…?」
    「きてるっ、あのジジイが…っ」
    「え…」

    ドンッ!!

    フレの言葉をかき消すように、扉の強く叩かれる音が響いた。
    その鬼気迫る勢いにフレと女はゾッと怯える。

    ドンッ!!ドンッ!!ドンッ!!!

    扉は立て続けに叩かれた。
    先ほどの弱々しい老爺の力だとは、にわかには信じられない。
    しかもその威力は徐々に強くなっている。

    (まずいまずいまずい…っ、突破されるってッ)

    焦りに焦りまくっているピィは扉を必死に押さえながらも何かないかと部屋の中を見回した。
    ベッドやクローゼットといったものはあるが、とてもじゃないが彼女らには動かせないだろう。自分が手を貸したって動かせるかわからない。
    扉を押さえる手頃なサイズの家具はこの部屋にはない。

    ……ではどうする?
    ここを押さえきるのはおそらく不可能。
    かと言って出入り口はここにしかない。
    窓から脱出するにもここは二階で、ロープでもない限り……。

    (ん、ロープ…?)

    そこでピィはふと、床一面に転がっている死体の山を見た。
    ロープなんておあつらえ向きのものはここにはない。
    しかし、彼女らは皆生前着用していた衣服をそのまま身に纏っている。

    (…………)

    ピィは眉間に皺を寄せながら心の中で(ごめんね…)呟くと、フレたちの方へ顔を向け声をかけた。

    「みんなっ、その死体から服を取って、それを繋ぎ合わせてロープみたいにしてっ」
    「え、ピ、ピィ君、流石にそれは…っ」
    「ごめん、不謹慎とか言ってられない、突破されそうなんだ、早くッ」
    「は、はいっ」

    ピィの指示に一瞬躊躇ったフレだったが、彼の必死な様子に押され、言われた通りに従った。
    他二人もフレに続いて慌てて作業に取り掛かる。
    その間もピィは体全体を使って扉を押さえ続け、ロープが完成した際にどうやって脱出するかもシュミレートした。

    (ロープはあらかじめ窓の外に垂らしてもらって、……ドアを開けた瞬間にこの死体をアイツに投げつけて時間を稼ぐか…)

    死体蹴りならぬ死体投げ、もはや不届きどころの騒ぎではない。がしかし、他に投げられそうなものもないので仕方がない。
    ピィはもう一度心の中で(ごめんね)と言って作業をしているみんなを振り返る。

    ピィの決死の呼びかけのおかげか、三人は急ピッチでドレスロープを作り上げていた。
    特にボヌは死体から容赦なくドレスを剥いでいるため、乱雑ながらも二人の倍近くそのロープを伸ばしている。
    そして、ピィは頃合いを見て彼女らに声をかけた。

    「オッケー、長さはもう十分だよ。フレとアンタの分のロープは繋いで、ボヌのは繋がなくていいからそのまま端をベッドサイドに固く結んで窓から垂らしといて」
    「は、はい…っ」
    「二人のも繋ぎ終わったらボヌと同じようにしてね、それから強度確認のために強めに引っ張ってみて」

    フレたちはピィの指示通りにロープを結び、強度もしっかり確かめる。そして顔をあげて「次はどうすれば?」と指示を仰いだ。
    するとピィは真剣な顔で全員の顔を見つめる。

    「みんな窓のそばに行って……うん、そう。それでフレはボヌに抱きついて、ボヌはフレを抱えたままロープを軽く腕に巻き付けて。で、こっからが重要ね」

    皆はピィの顔を見て息を呑む。
    相変わらず彼の押さえる扉はドンッ!ドンッ!と勢いよく叩かれている。壁の向こうの人物は疲れを知らないようだ。

    「俺は今からこの扉から手を離す、そして足元の死体を入ってくる奴に投げつけてからそっちに走っていく、そしたらアンタを抱えてロープ伝いに降下するから、ボヌもそれを真似て一緒に降りて、いいね」

    目線を向けられたボヌはフレをぎゅっと抱きしめながら静かに頷く。
    ピィは次に女へと目線を移す。
    恐怖と緊張からか彼女の体は微かに震えていた。しかし、ピィを見つめる視線はまっすぐで、覚悟を決めたように頷いてみせる。
    最後にフレへと目線をやる。ピィが一番守らなくてはならない存在だ。
    そんな彼女の視線は誰よりも力強く、何よりもピィを信頼しているというように深く頷いた。

    一発勝負だ、二度はない。

    最後にピィは自分自身に言い聞かせるように目を閉じて大きく頷いた。
    そして大きく息を吸い込み、目を開く。
    もう一度全員の顔を見回してから……

    「(いくよ)」

    声には出さず、口だけでそう囁く。

    バァン…ッ!!

    言葉と同時に勢いよく扉を開いた。
    そして計画通り足元の死体を入ってきた“やつ”に投げつける。

    (ごめんね…っ)

    三度目の謝罪は走りながら。
    窓枠に体を預けている女に向かってピィは手を伸ばす。
    決して後ろは振り返らない。
    そして女を左腕でしっかり抱き抱えながら、右手でロープを掴み、そのまま走ってきた勢いでバッと外へ飛び出した。

    「キャァァ…ッ!!」

    あまりの勢いに女は軽い悲鳴をあげる。
    体ごと投げ出されたロープはピンッと張った後、振り子の要領で建物の方へと戻っていく。
    ピィは打ちつけられないよう、迫ってきた壁に足をつき、膝を上手く使って勢いを殺した。
    そしてそもまま壁をけんけんと蹴って、徐々に、しかし素早く、下に降りていく。

    ふと横を見るとボヌたちも同じように壁を降りている。
    パッと見たところでは無傷のようであった。

    (ボヌに任せて正解だったね)

    ロープ伝いに降下する経験などもちろんないであろうボヌ。
    しかしフレを守ることに関しては誰よりも信頼がおける。
    だからこそピィは彼にフレを託したし、結果としてその判断は正しかった。

    彼らの無事をちゃんと確認するのは下に降りきってからだ。
    ピィは最後まで丁寧に降下していき、地面に足がしっかりついてから手を離した。
    そして隣のボヌたちが地面に降りるのを手助けする。

    「二人とも怪我とかない?大丈夫?」
    「…は、はい、大丈夫です…その、ちょっとふらふらしますけど」
    「そっか、それなら良かったよ」
    「はい…、あの、ピィく……」
    「フレ、待って」
    「え、」

    ピィは最低限二人の無事を確認すると、すぐに険しい表情になった。
    フレはその様子を不思議に思い、彼の顔を覗き込む。
    するとその顔は上を向いていた。
    どうしたのだろうと目線を追うと、その先には……。

    「ヒィ…ッ」

    今しがた自分達が降りてきた窓に、不気味な男のシルエットが張り付いていた。
    それはまるで虫のように、カサカサと動いている。
    しかしそれをよくよく見てみると、男がおぼつかない手つきでロープ伝いに降りてこようとしているのだとわかった。

    (追いかけてきてるんだ…っ)

    男がまだ諦めていなかったことを悟ると、フレは急いでピィに視線をやる。
    ……しかし、先ほどまで目の前にいた彼は、気がつくとそこにはいなかった。
    バッと首を回し彼の姿を探す。
    すると、ピィは建物のすぐ近く、男が伝っているロープの真下に立っていた。

    「ピィ君…?」

    いたって平静に見える彼の様子に、フレは不思議そうな声を上げる。

    ピィは目の前のロープを右手で掴み、そのまま建物から離れるように後ずさった。
    そして、ある程度の距離を取ったところで上を確認し、「よし」とでも言うように頷いてみせる。
    すると、次の瞬間……

    「あ、」

    フレは間抜けに口を開けた。

    ピィは手袋をはめた左手で、そのロープに触れたのだ。

    だから、そう……

    ──文字通り、老爺の命綱は消え失せてしまった。

    「〜ッ!?」

    声にならない声を上げて、憐れな男は宙を舞う。
    骨と皮だけの軽い体は一番重たい頭が下になり、そのまま真っ逆さまに落ちていく。

    フレはそのさまを
    無抵抗に人間が落ちていくさまを
    目を見開いてジッと見ていた。

    ヒュゥゥゥ…なんて音は聞こえない。

    想像よりもずっと速く、衝動もなにもあったものじゃない。

    気づけばそれは、もう地面に打ちつけられる寸前であった──……



    「ボヌ…ッ!!」


    ──ゴッッッ!!



    突然ピィの叫びが聞こえたかと思うと目の前が真っ暗になり、とてつもなく重たいものが打ちつけられたような鈍い音だけが耳に入ってきた。

    隙間からわずかに差し込む光のおかげで、それはボヌの手であり、自分の目は覆われていたのだということがわかる。

    そこでフレはやっと我に返った。

    彼の手が外されると目の前にはピィが、ジャケットを脱いだ状態で心配するように眉を顰めている。
    フレは少し視線を外し、奥の方の地面を見た。

    「……」

    ……そこには少し山なりに膨らんだピィのジャケットが落ちていた。
    フレは彼の気遣いを受け取って、それに気がつかないふりをする。

    「あー…えっと、……大丈夫、フレ?」

    気まずそうにピィはそう話しかける。「見てない?間に合った?」とは聞けなかった。
    フレはそのことを察して「はい、大丈夫です」とだけ。笑顔を作って返す。

    「……」
    「……」

    二人の間に気まずい沈黙が流れる中、不意に女が「…あの」と声をかける。

    「助けていただいて、本当にありがとうございます」

    ピィはハッとして、呆けたような返事をした。

    「え?あ…いや、助けたっていうか、俺たちも訳もわからず逃げてただけだから」
    「いえ、それでも私を共に連れ出してくださいました、置いていってもよかったはずなのに」
    「まあ、それは……あのまま置いてったって寝覚めが悪いし…」
    「ええ、ですから本当にありがとうございます。ぜひともお礼をさせてくださいまし」
    「お礼?」
    「はい、私の家が近くの街にあるのです。あなた方もお疲れでしょうからそこでお休みになられてください」
    「近くの街…」

    女の言葉にピィは考え込む。
    街というのはおそらく、バルコニーから見えたあの場所のことだろう。
    ユーニスはこの屋敷周辺から出られないと言っていたが……彼が狂人であったことを考えるとその発言も本当かどうかわからない。
    できれば一度引き返して、自分たちと行動を共にしていたユーニスの存在を確かめたいところだ。あの彼はまだ居るのか、それともこの老爺と同一の存在であったのか。

    「……」

    自分の仮説が大はずれだっただけに、もう今はどう行動するのが正解なのかわからない。
    ゲームのストーリーで考えるならこの流れは自然だ。囚われていたお姫様を救出し、最後に礼を受け取る。そしてエンディング。
    しかし、エンディングへ向かうにはあまりにも謎が多すぎる。
    ユーニスの存在、屋敷の主人、アリシアという少女、使用人たち……日記で大まかなところはわかったが、それでも根幹の部分は解明しきれていない。
    もし本来のゲームがこの屋敷内で完結するストーリーだったら?……ここから離れて“エリア外”に出れば、今度こそ戻れない異空間へ入ってしまうのではないか?……そもそもこの女は信用して大丈夫か?ユーニスのように何か秘密を抱えているのではないか?

    ぐるぐるぐるぐると思考が巡る。疑心暗鬼になる。

    考えなくてはならないのはもちろんフレのことだ。
    自分がどうなろうが、とにかく彼女を元の世界へ帰さなくてはならない。だからここで選択を誤るわけにはいかない。

    (……でも、どうしたらいい?)

    ここにきてピィはちょっと泣きそうになっていた。
    実は先ほど老爺を倒した時点で緊張の糸が切れてしまっていたのだ。
    道中はまだ我慢できた。道半ばでフレを差し置いて取り乱すわけにはいかないと。
    しかし今は一段落ついてしまった。

    「……っ」

    涙が出る仕様にはなっていない。それでもピィはまるで泣くのを我慢するかのように眉間に皺を寄せ、口を固く結んで歪ませた。

    ──限界だ。

    負荷をかけすぎるとPCが落ちるように、ピィも自身に負荷をかけ過ぎてしまった。疲れ果てたのだ。
    本当なら全てを投げ出して倒れ込んでしまいたい、でもフレの存在がそうさせてはくれない。
    頭の中がぐちゃぐちゃになりショート寸前だ。
    もういっそのこと、この目を閉じてしまおうか……。

    (……)

    自問の末に、ピィは全てを放棄することを選択をした。

    瞼を下ろす余力も残っていない。だから彼はゆっくりと、自然に任せて意識を手放す。

    頭の中の雑音が嘘のようになくなっていく。

    全てがホワイトアウトしていくような感覚だ。

    最後の最後までフレのことは気にかかるが、その思考ももう薄れてしまうだろう。


    ──ああ、やっと……やっと休むことができる。


    「……疲れたなぁ」


    小さく小さく呟いて、彼は最後の感覚を途切れさせる。





    「──ピィ君…ッ!」



    ふとフレの叫ぶような声が聞こえた。

    でも駄目だ。

    彼女の決死の呼びかけにも今は答えることができない。



    「──ピィ君ッ!!」



    今度は体を揺さぶってきた。

    ………流石にこれは、ちょっと眠れない。

    でも起きることもまだできない。



    「ピィ君!」

    ゆさゆさっ

    「ピィ君…っ!」

    ゆさゆさっ

    「ピィ君ッ!!」

    ゆさゆさっ



    『──ねぇ、そろそろ起きなよ』



    ……………は?

    ピィは疲れ果てていたことも忘れてパチリと目を見開く。
    聞こえるはずのない声が聞こえたのだ。
    そう、あの声は……。

    「佐佐城…?」

    見開いた目が光に慣れてくる。
    するとそこは先ほどまで自分が立っていた屋敷周辺の景色とはまるで違っていた。


    ──ゲーム開始前に飛ばされた、セピア色の待機エリアだ。


    「は…?」

    今度こそ呆けた声を出すピィ。
    気づかぬ間に倒れ込んでいた体には未だフレがまとわりついている。
    そして天からは……

    「やあピィ、おはよ」

    つまらなさそうな男の声が聞こえてきた。






    「超常現象を理屈でゴリ押すなよ…ッ!!」



    全てが終わった後の佐佐城の第一声はこれだった。

    終わった……そう、全てが終わったのだ。

    結論から言うと、ピィたちが体験した出来事は全て佐佐城たちのゲームのシナリオであった。
    もちろんフレも仕掛け人側であり、途中のヘッドセットが取れない件も嘘である。(演技だとバレないよう声色に加工を加えるという小細工までして)

    ここまで手の込んだことをしたのはもちろん全てピィのためだ。
    佐佐城はピィの性格をよく知っている。なので、ただの宝探しでは子供騙しだと一蹴されかねないことを危惧した。
    正直ピィのことはどうでもいいのだが、喜んでもらえなかった時にフレが悲しむようなことだけは避けたかったのだ。
    だから手の込んだサスペンスを演出して、ピィに没入感を与えようとした。

    しかし、全てのネタバラシをした後、なぜか騙した側の佐佐城の方が悪態をつきながら苦言を呈していた。

    『俺はアンタが異常事態で慌てふためく姿が見たかったんだよ!日頃の鬱憤を晴らすために!それ見て腹抱えて笑いたかったんだ!!それなのにアンタは〜ッ』

    忌々しそうに拳を握り締め、ワナワナと肩を震わせて彼は続ける。

    『超常現象にブチ当たる度に黙って考え込んで、次に顔を上げたと思ったら真面目な顔して淡々と仮説を述べてさァ!
    どうなってんの…ッ!?冷静すぎるでしょ!?しかもちゃんとミスリードにハマってくれてるし!!なんで異常事態でミスリードにハマれるだけの仮説を立てられるのさ!?おかしいでしょッ!?
    本当なら誘導はフレの役割だったのに…!逆に喋らないようにさせるってどういうこと…!?あの状況でよく建物内まで行けたよね!?ほぼ縛りプレイだったよ…ッ!?
    アンタをビビらせたかったのに逆にこっちがホラー映画見せられてる気分だったわ…!!製作陣一同「ヒェ…もう二度とピィに下手なことできない…ッ」って怯えてたんだからッ!!』

    佐佐城の勢いは止まらず、その後も延々と恨み言を叫んでいた。
    当のピィは「ああ…」とか「そう…」とか、疲れ果てているせいか生返事しか返せない。
    彼は途中で完全に佐佐城を無視することにして、フレを振り返った。
    彼女は見るからに落ち込んだ顔をしている。ピィを楽しませるためだったとはいえ、倒れるまで追い込んでしまったことを気に病んでいるのだ。

    「なんて顔してんのさ」

    佐佐城に生返事しか返せなかったはずのピィは、優しい声色ではにかみながら彼女に声をかける。

    「ピィ君……ごめんなさい。こんなことになるならもっと早くネタバラシをするべきでした…」
    「なんで謝るのさ、アンタは俺のためを思って色々考えてくれたんでしょ?なら何も謝ることなんてないよ」
    「……でも、ピィ君、倒れちゃったし……、」

    フレは今にも泣き出しそうだった。
    ピィたちが単に消去されるのも嫌がった子だ。目に見えて彼が衰弱していく姿を見てしまった衝撃は、それの比ではなかったのだろう。
    ピィは「仕方ないなぁ…」というような優しい顔をして、フレの頭にぽんと手を置いた。

    「ね、俺がなんで倒れるまで頑張ったかわかる…?」
    「……?」

    ピィの問いに、彼女は首を傾げて答える。

    「アンタのためだよ、フレを絶対に元の世界に返そうと思って頑張ってたんだ」
    「え、」
    「だから騙されてたとしてもアンタが無事だったならそれでいいし、せっかく必死こいて守ろうとしてたのにその当人に暗い顔されちゃ本末転倒だ」
    「……、」
    「それに、終わってみればゲーム自体はだいぶ面白かったしね」
    「!…本当ですかっ!?」

    ピィの「面白かった」という言葉にフレは顔をパッと明るくさせる。

    「うん、だってあんな体験滅多にできないじゃない。俺アクション映画とか好きだけど佐佐城は見ての通り出不精だからさ、こういう体験型アトラクションの記録って全くないんだよね。だからすごく楽しかった。
    しかも現実では絶対にできない仕様だったし……その上貸し切り。面白くないわけないって」
    「…!よ、よかったです!楽しんでもらえて…!!」
    「うん、」

    (『アンタのため』ってトコは華麗にスルーか…)

    ピィは優しい表情のまま、目線だけを上にやってそんなふうに思った。

    「慰めるって難しいなぁ…」
    「……?」
    「ところで、今回はアンタもだいぶ頑張ったねボヌ」

    ピィはすぐに話題を切り替えて、ずっとフレのそばにいたボヌにそう話しかけた。

    「そうですね!…ボヌ君、ピィ君と一緒にずっと守ってくれてありがとう」
    「……」
    「……?」
    「ボヌ?」

    ボヌは黙ったまま、身振り手振りだけをワタワタと繰り返している。
    二人はその様子を怪訝そうに見つめていたが、不意にピィが何かに気づく。

    「もしかしてボヌ、声が出せないの…?」
    「えっ!?」

    ピィは急いで天を見上げ、叫ぶようにして佐佐城に声をかける。

    「佐佐城!ボヌどっかバグってんの!?」
    「……っと待って」

    ピィの焦りを受け取り、佐佐城も急いで内部データを調べた。
    カタカタカタとタイプ音だけが響き渡り、そして止む。

    「……いや、どこも破損しては、ないね…、ウイルスに感染した形跡もない……、何も不具合はないと思うんだけど…」
    「そんな……、ピィ君…」
    「なんだ…?なんで声が出ないんだボヌ?」

    フレは辛そうに顔を歪め、ピィは眉間に皺を寄せながらボヌを眺めた。
    当のボヌは、やはりワタワタを手足をバタつかせて何かを主張しようとしている。
    ……が、傍から見ていると、あまり悲壮感は感じられない。
    焦ったり、困ったりしているというよりは、何かを伝えようとしているような……。

    「あッ」

    そこでピィが何かを思い出したように声を上げた。フレと佐佐城は彼の叫びに「えっ、なに!?」と驚く。
    そしてピィはバツが悪そうな顔をしながらボヌにこう言った。


    「あー…、ボヌ……もう喋っていいよ」


    するとボヌは大きな目をさらに見開き、口を開く。

    「! もう喋っていいの!?わーい!!」
    「…ボヌ君!」

    ボヌは決して不具合で話せなくなっているわけではなかった。
    ゲーム中にピィが発した「俺がいいって言うまでアンタは喋らないで」という言いつけを今の今まで律儀に守り続けていたのだ。
    そしてその言いつけはたった今、ピィの言葉により解除された。

    「ねねっ、君はこれからはずっとここにいるの?」
    「え?」

    自分が喋らなかったことについては全く触れずに、ボヌはキラキラと目を輝かせながらフレにそう聞いた。
    フレはもう少し言及したいような気もしたが「まあいいか、不具合はなかったんだし」とそのまま彼の問いに答えることにする。

    「えーと、ずっとここにいるわけじゃないよ?もうゲームも終わったし、少ししたらまたお家へ帰るよ」
    「えー…、じゃあまたフレに戻っちゃうの?」
    「?」

    ボヌの不明瞭な発言にフレは首を傾げた。
    ピィや佐佐城も「何言ってんだコイツ?」という空気を醸し出したが、すぐにピィが「ああ」と手を打つ。

    「ボヌ、アンタこの見た目のこと言ってる?」
    「! うん、そうだよ!いつもみたいにアバターじゃなくて、本物のこの子がずっといてほしいなって!」

    ボヌが言っていたのはフレのスキンについてだった。
    ゲームが終了し、待機場面に戻った今も3人の見た目は人間の姿のままだったのだ。
    そのことについて佐佐城が「ああ、そうだった」と補足を入れる。

    「強制終了させたからアバターを戻し損ねたんだった。正規のエンディングを辿れば待機場面(ここ)に戻った時点で元に戻るはずだったんだけどね。
    いつもの場所に帰った時には普段のアバターになるよう設定しとくよ」
    「えー…、この子もフレに戻っちゃうの?」
    「うん(無慈悲)」
    「ちぇ〜」

    残念がるボヌをよそにピィが「そういえば」と佐佐城に話しかける。

    「この見た目って結局なんのためだったの?俺はなんとなくユーニスと合わせるためかなって思ってたんだけど、超常現象設定だったなら正直蛇足だったんじゃない?」
    「ああ、それは元々コンセプトが違ったんだよ。当初の予定では『ゲームと霊的世界が交わる』じゃなくて『霊的存在に引っ張られて現実世界に飛ばされる』って設定だったんだ。
    まあ、流石にそこまでやったら嘘がバレると思って途中でやめたんだけどね。だからその見た目はその時の名残り」
    「あ、そうだったんだ。…ああ、あとさ、最後ユーニスの日記でどんでん返しがあるじゃない?あれ結構説明不足だと思うんだけど…」
    「あれはアンタらが屋根裏に行かなかったからだよ。上に行ったら屋敷の内情とかが事細かく書かれてた『使用人の日記』を入手できてた」
    「え、マジ?じゃあ行っときゃ良かったー」
    「ちなみに山のように積まれてる使用人たちの死体も発見できてた」
    「行かなくてよかった〜」
    「それから老ユーニスの体を調べると実は二冊目の日記を持ってて、そこに……」

    ピィと佐佐城はそのまま二人でゲームについての話を続けた。
    フレはその様子をぽけ〜と見つめていたが、途中でボヌの方へ向き直り少し聞きづらそうに質問をする。

    「ねえ、ボヌ君」
    「ん?なあに?」
    「その、ボヌ君は今回のゲーム楽しかった?」

    この宝探しゲームは主にピィのために企画したもの。
    もちろんボヌにも楽しんでもらいたいと思ってはいたが、彼は途中で喋らないようにと指示を受け、それを律儀に守っていた。
    ほぼついて来ていただけで純粋にゲームに参加できたとも言い難く、彼が楽しめなかったのではないかとフレは心配していたのだ。
    しかし、彼女のそんな心配もどこ吹く風。ボヌはパァァァっと表情を明るくし、満面の笑みで返事をする。

    「すっっっごく楽しかったよ!!」
    「…! ほんと?」
    「うん!だってフレとこんなに長い時間一緒にいられたんだもん!それに最後はロープを作ったり、それを使ってワーッて飛び降りたり!わちゃわちゃしてとっても面白かった!!」
    「ボヌ君…!…ああ、良かった!!」

    嘘のない真っ直ぐな言葉。
    フレはそれを聞いて心の底から安心した。

    「プレゼントって物をあげるだけじゃなくて、こういうのもあるんだね!フレのおかげで素敵なことを知れたよ!ありがとう!!大好き!!」

    そう言うとボヌは感極まったようにフレにぎゅうぎゅうと抱きつく。
    するとフレは「あ!」という顔をして「違うのっ」とボヌを嗜める。

    「? なにが違うのー?」
    「お返しがねっ、ボヌ君には別であって…」
    「!!、他にもプレゼントがあるのっ!?」

    ボヌはほっぺたに両手を当てて仰天の顔をする。
    解放されたフレは後ろを振り返り、いまだピィとゲーム談義を繰り広げている佐佐城へと声をかけた。

    「佐佐城さん、あの、そろそろ……」
    『ん?…ああ、そうだね、ごめんごめん。今戻すよ』

    フレの呼びかけで佐佐城は話を中断し、キーボードをカタカタと打つ。
    するとすぐにフレら3人の視界がホワイトアウトしていき、次に目が慣れた頃にはいつもの場所、いつものアバターに戻っていた。
    しかし、見慣れたはずの空間に見慣れない扉が、ピィの部屋の向かいに設置されている。

    「!?!?!?!?」
    「お、なるほどね…」

    それを見たボヌは声にならない声を上げて髪を逆立たせた。
    そしてピィの方は何か納得したような声を出して、そのまま邪魔をしないようにと自室へ帰っていく。

    「ボヌ君、バレンタインの時はありがとう。こっちがボヌ君への本命のお返しだよ」
    「…!!、ふ、フレ…これって…?」
    「うん、ボヌ君の部屋だよ」
    「!!!!」

    目の前の扉は彼の装飾と同じ色の黄色で塗装されている。
    ボヌは恐る恐る、といった様子でそのノブに手をかけ、ガチャリ…とゆっくり回す。

    「わ、わ、わぁ……っ!」

    扉を開いたボヌは感嘆の声を上げる。
    中は外の扉同様、ボヌの服装の色が使われたカラーリングとなっていた。そして、ピィの部屋とはだいぶ様相も違っている。
    まず目につくのは部屋の中心。そこにはラグが敷かれており、その上に二人掛けと一人掛けの座椅子、簡易なトイボックス、いくつかのクッション、そしてボヌの装飾の柄が施された毛布が置かれていた。
    そして正面と右、二面の壁は埋め込み型の棚となっており、ほとんどなにも入っていないが一箇所にささやかな“プレゼント”が置かれている。

    「わぁー!!僕らのクッションだー!!」

    ボヌはバタバタと一目散に棚の方へと走っていき、ボヌ、フレ、ピィ3体のプリントクッションを両手に抱えて抱きしめた。
    その嬉しそうな様子をひと通り眺めたフレはヒョコっと彼の後ろから顔を覗かせ「ボヌ君、喜んでもらえた?」とニコニコしながら問いかける。

    「うん!うん!とって嬉しいよ!!ありがとうフレっ!本当に!すっっっっごく嬉しい…!!」

    「嬉しい!嬉しい!」と同じ言葉を繰り返しながら、ボヌはクッションと一緒にフレのこともぎゅうぎゅう抱きしめた。
    その言葉と行動でフレまで気持ちが高揚し、心が温かくなる。

    (ああ、ボヌ君のこういうところが私は好きだな…)

    そんなふうに思いながら、フレは彼の気がすむまでされるがままになったのだった。





    『アンタは見に行かなくていいの?』

    早々に自室へと帰って行ったピィに対して、佐佐城がそう声をかける。

    「見たいと思ったらいつでも見れるし、別に今じゃなくても良いよ。それに、絶対イチャモンつけるからね俺、それで興醒めさせるのも野暮ってもんでしょ」

    足を組んでベッドに寝転がりながらあっけらかんとピィは返す。
    佐佐城はつまらなさそうに『ふーん』とだけ返事をして、それ以上は何も言わずに音声を切った。


    「俺はもう十分お返しをもらったからね。アイツの分にまで便乗したら今度こそバチが当たるよ」


    自分以外は誰もいない空間で、宙に向かってそう吐き出す。


    「それに、今は死ぬほど眠い」


    とてもそうは見えない顔つきで、ピィは口角を上げながらゆっくりと目を閉じた。





    ──おわり──
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💖💖💖💖💖😭😭😭😭🙏💖💖💖💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works