子狐が子蛟を拾った話小さい子狐は、自分のしっぽを抱きしめながら空を眺めていた。小さな手からはみ出るふわふわの毛が、風にそよぐ。
その子狐には尾が九つあった。普通の狐は一本しかないはずなのに、九本もある。おまけに毛並みは老狐のように白かった。そのせいで、子狐はいつもひとりぼっちだった。
仲間からは除け者にされ、たまに優しく声をかけてくれる者がいれば、それは恐ろしい下心を持っていた。
子狐は、良くも悪くも人目を引いた。
だから、自分を守るために生まれた故郷の山を離れることにした。未練を感じるほど、優しい場所ではなかった。この場所でなくても生きていける。もっと住み良い場所を探して、旅に出よう。
そうしてあてもなく彷徨い続け、山を越えて谷を超えて小さな足で歩き疲れて休憩中であった。
「喉が渇いたなぁ」
道中で見つけた木苺を口の中で転がしながら、子狐は独りごつ。竹で作った水筒に残っている水は僅かだ。そろそろ飲み水を補充したい。
小さな耳をすませれば、微かに水のせせらぎが聞こえた。
「よし」
立ち上がると、水の音のほうへと足を向けて意気揚々と歩き出した。しかし、しばらく歩いているうちに次第に地面がぬかるんできて、足を取られるようになった。
「数日前に洪水があったんだよ」
そう教えてくれたのは、頭上を飛ぶ鳥だった。
「上流の方で雨が降り止まなくて、ここまで水が溢れてきたんだ」
「ふーん」
「ところで君、随分と美味しそうなものを食べているね。ちょっと見せておくれよ」
「はいはい」
子狐が木苺を投げると、すかさず鳥がそれを咥え、そのまま飛び去ってしまった。
川に近づくにつれてどんどん歩きにくくなっていくが、子狐は必死に進む。
すると今度は、泥にまみれた何かが転がっているのが見えた。
「うわ!蛇?魚?」
それは蛟と呼ばれる龍の一種だったが、子狐はそれを知らなかった。
子狐と同じくらいの幼い蛟は目を瞑ったまま浅い息を繰り返し、身にまとっている立派な着物は泥水を吸ってその体にへばりついている。白い手の爪には泥が詰まっており、足の代わりに生えた蛇か魚のように鱗に覆われた尾の先には、這いずった跡がある。
「洪水でここまで流されてきたのか。足もねぇーし、戻れないんだな」
小狐は今にも息絶えそうな蛟を見下ろす。
この世界は非常だ。力なき小さなものは、こうして為す術もなく朽ちていく。
それは誰のせいでもなく、この世界のどうしようもない仕組みなのだと、子狐は幼いながらも誰よりも理解していた。
理解していたからこそーー、子狐は水筒に残っていた最後の水で蛟の顔と手を洗ってやり、その体を背中に背負った。
蛟の体はひどく乾いて衰弱していたが、この先にある川にでも投げ込めば、まだ助かるかもしれない。
自分と同じくらいの背丈のものを背負って歩くことは、大変だった。しかも、足元はひどく不安定なのだ。
子狐は何度も転びそうになりながらも、一歩ずつ必死に進んだ。額には汗が滲み、ふわふわだった九つの尾にも泥がこびり付いている。
耳がとらえる水の音がはっきりしてきた頃に、背におぶった蛟の体がもぞりと動いた。
「あ、気がついた?」
「おまえ、は?」
蛟の声はひどくガラガラだった。
「通りすがりのお節介ってところかな。あともうちょっとで川だから、気張れよ。魚くん」
「さか、なじゃねェ」
相変わらず呼吸は弱々しいが、意識がはっきりとしてきたのだろう。蛟は子狐に問いかける。
「なんで、たすけ、た?……なにが、のぞみだ」
「だから、お節介だって言ってんだろ?望み?俺はただ水が欲しいだけだよ。水筒いっぱい分の水を汲みに川に行くだけ。お前はそのついで」
「……」
「あ!俺さぁ、いろいろあって生まれた山を出てさ。今住みやすそうな場所を探して旅してんの。どっかよさげなところあったら教えてくれよ。っても、こんなところで干からびかけてるお前が知ってるわけないか」
「ひからび、て……ねぇ」
「いや、干からびてただろ。って、やっと川に着いたぁ〜!おら、お前も見ろよ」
子狐の喜色の声を上げて、眼前の小川を指さす。
洪水があったせいで土手が多少は荒れているが、流れる水に濁りはない。
「投げ入れて大丈夫?」
「ああ」
「そりゃ!」
小狐が蛟の体を川にドポンと勢いよく投げ入れる。水の流れによって蛟の身体にこびり付いていた泥がみるみると剥がれていき、またたくまに青白かった肌に血色が戻っていく。
その横で、子狐は清らかな水を手のひらにすくってごくごくと飲み干す。
「フー、疲れた疲れた!生き返る〜!泥だらけになったし、ついでに水浴びでもして行こうかな〜!」
そう言いながら子狐はいそいそと裾を捲り上げて川の中に入る。
「うひー、冷たくて気持ちいい」
「お前……名前は?」
「ん?銀時。てか、声治った?お前も元気になったようでよかっ……」
と、顔を上げてーー子狐は言葉を失った。
そこには先ほどまでいた幼い蛟ではなくーー大人の身体をした蛟が、巨大な尾のとぐろを巻いていたからだ。
「ああ、おかげで生き返ったぜ。それに、とんでもなく幸運な見つけものもした」
懐から取り出した煙管を咥えながらーー蛟は笑う。それは、決して小さく弱々しいものが浮べるようなものではなかった。
「俺は高杉。ちょっとばかし下手打っちまったが、一応はここらの水神と呼ばれているものだ。銀時、住みやすい場所を探してるんだったな?俺が用意してやるよ」
威圧感とでもいうのだろうか。蛇に睨まれた蛙のように、銀時は動けないままゴクリと唾を飲み込む。
「お前ーー俺の嫁になれ」
「へ?は?」
戸惑う銀時の頬に、蛟ーー高杉はそっと手を添える。
切れ長の瞳は昏い翡翠色でーーその底が見えない沼のような深さに、銀時は思わず飲み込まれそうになる。
「俺はちゃんとお前を可愛がってやるぜ?そう怯えるなよ、愛しい子狐ーー」
そして子狐の顔に影が落ちた瞬間ーーボンッと煙が噴いた。
呆然とする銀時の目の前に、先程の幼い姿をした蛟が悔しそうに地団駄を踏んでいた。(といっても、足がないので尾で水面を叩いている)
「くそっ、まだ力が完全に戻っていないのか……っ、銀時!」
低く艶やかだった男の声から、柔らかくまろくなった声を荒らげながら、蛟は小さな手で子狐の手を握りしめる。
「とにかく!お前は俺の嫁に来い!安心しろ、不自由はさせねェ!でも、逃げたらどこまでも追いかけてやるからな!」
「は?え?ええか、勝手なこと言うなよ!なんだよいきなり嫁って!」
「俺は神様だからな!勝手なことしていいんだ!」
「なんだよそれ!わかったぞ、お前そんな勝手な性格だからあんなところで干からびる目にあってたんだな!くそっ、とんでもないの助けちまった!」
「ふん!大人の俺にドキドキしてたくせによく言うぜ」
「し!してねぇーよ!自意識過剰すんな!」
「本当にか?」
再び低い声がして、銀時の体がひょいと宙に浮かぶ。
大きな手が銀時の体を抱え上げて、膝の上に乗せたのだ。
「あ、あひっ」
大人の姿になった高杉に抱えられ、花のようないい匂いにクラクラしそうになりながら、銀時は縮こまって固まる。よく見れば、華やか雰囲気の色男である。優しく細められた目に見つめられ、銀時の心臓がドキドキと高鳴るーーが、長くその姿を保つことはできないようで、再び煙とともに高杉の体が子どもになる。
「ああ……ちんちくりんに戻っちまった」
「ちんちくりんって言うな!」
耳をへたりと寝かせて明らかに落ち込む銀時に、高杉が声を荒らげて抗議する。
「俺の神域はここから山を十つ越えた先にある。そこに帰れれば、力が戻るはずだ」
「十つお前どんだけ流されてきたんだよ!」
「行くぞ銀時」
「いや、何決定事項みたいに俺の手を引っ張ってんだ」
「銀時」
じっと見つめられて、銀時は思わずたじろぐ。
「銀時」
絶対に退かないという、傲慢ながらも強い意志の瞳に気圧されるように、銀時は所在なさげに自分の尾を抱きしめる。
「うう〜〜ったく、仕方ねェな。もともと目的がある旅でもねぇし、お前なんか危なっかしいし……仕方ないからついて行ってやるよ」
「帰ったら祝言だな」
「結婚するとまでは言ってないけど」
こうして小さな小さな子狐と、小さいけれど本当は大きな蛟の長くて短い旅が始まるのは、また別のお話である。