わがままのゆくえ わがままと名付けられる行為には、実に様々な種類がある。
「最近ずっとソイツにかまけてるよな、アンタ」
平板だが棘のある声が、ちくりとこちらを刺してきた。物言いこそ粗野ではあるが、その響きは実に涼やかだ。生まれ持った艶もあり、言葉遣いさえ整えれば途端に高い品格を備えるだろう。
そんな声の主を振り向けば、同じ寝台で眠っていた男が、その美しい細面に不機嫌さを滲ませていた。
「起きていたのか。少しも気が付かなかったぞ」
「だろうな。そんだけ、その板っきれにご執心なら」
「板っきれではない。タブレットという情報端末機器だ」
ラムダから借り受けているこれは、紙の本の数十ページ分にも満たない厚みでありながら、何百、何千、何万もの書籍に匹敵する情報を有している優れものだった。
彼があまりにも熱心に読んでいるので興味を持ったところ、快く端末ごと貸してくれたのだ。自分は、もう数えきれないほどに読み返しているから——と。
この端末に収められている物語は、実にバリエーション豊かだった。兄弟を軸に据えた物語が多いが、そのほとんどに共通しているのは、円満な結末を迎えながらも作中にどこか寂寥感を感じさせる作風だ。きっとこれが、この書き手の持ち味なのだろう。
だが、中でも一際心を掴まれたのは、それらの物語とは一線を画す読み物だ。
他と違って、それだけは表紙の画像も奥付も——ほとんどの物語は、ラムダの母星における一千年ほど前の書物だった——保存されていなかった。
ただのテキスト情報に過ぎないそれは、物語というよりは、随筆や回顧録と呼んだ方がしっくりくる。肝心の中身も、劇的な山場を的確に擁する他の話と違って、ささやかな日常をそのまま書き記したような素朴なエピソードが多かった。
その上、主に登場する三人の名前が実に興味深い。乱数、幻太郎、そして帝統。表記こそ違えど、自分たち三人と同じ音を持つそれに運命的なものを感じた。もっとも、同じなのは響きだけで、人物像は誰一人として似ているところがなかったが。
書き記されていた彼らのやりとりからは、三者三様な自由さを強く感じた。それらを思い返すだけで、ふと笑いが込み上げてくる。
「……ホンット、随分とお楽しそうなこって」
明らかに刺々しさが増した男を見下ろせば、こちらを拒絶するように背を向けられた。不貞寝を決め込む彼の方へ身を乗り出して、細くやわらかな栗毛に指を通す。
「お前も読んでみるか? なかなかに愛おしい日々が描かれているぞ」
「いらねぇ」
「そう言うな。お前が望むなら、いつでも読んで聞かせて——」
「いらねぇって言ってんだろ!」
彼に触れていた手が、勢いよく振り払われた。読んで聞かせてやる、という物言いが彼の矜持に障ったのだろうか。
彼は教養こそあるが、文字の読み書きには秀でていない。その知識のほとんどを、貴族の館で行われる子息への講義を盗み聞きして得たという。
そんな彼を尊敬こそすれ、侮る気持ちは微塵もなかったが、そうは伝わらなかったのかもしれない。詫びて真意を伝えようと思った矢先、思いもよらない言葉が発せられた。
「あんたがやたら熱心に読んでるもんは、俺も読んだ」
「いつの間に……」
「あんたが、剣の稽古をしてるとき。ラムダに教えてもらって、翻訳と読み上げ機能を使った」
いよいよもって、彼の習得力に舌を巻く。本当に、この男には敵わない。
「そうとは知らず、失礼な物言いをした。許してくれ」
「……別に、そこは気にしてねぇ」
言いながら、彼はその痩躯を掛布ごと一層丸く縮めた。さらに殻に閉じこもるような態度に困惑する。
「では、何故それほど気を尖らせているのだ」
「……」
今度は、彼の頭までが掛布の中に潜り込んだ。全身でこちらを拒絶する彼に身を寄せ、そっと肩に触れる。
「頼む。教えてくれ、ゲンタロウ。お前からこうも拒絶されては、とても悲しい」
正直に吐露すると、掛布越しにその肩がぴくりと震えた。束の間の逡巡のあと、彼が掛布の中でみじろぐ。
「拒絶とかじゃねえよ。ただ——」
そこでまた言い淀んだ彼は、掛布をさらにギュッと抱き込んで声をくぐもらせた。
「……あんたが、板の中のそいつらにばっか構うから」
面白くねぇ。
ぼそりと言い捨てられて、目を瞠る。
「同じ名前でも、俺はそいつみたいに博識でもねぇし、お綺麗な、品のいい物言いでもねぇ。王族のあんたには、そいつみたいな言葉選びの方が耳馴染みがいいんだろうけど、俺には無理——って、おい……!?」
気がつけば、その体を掛布ごと抱きしめていた。分厚い布地越しでも彼の体の感触がわかるほどに、強く。
「ゲンタロウ」
「何だよっ」
「愛している」
心から言い切れば、腕の中で彼の体が強張った。
数秒の沈黙が落ちて、やがてぶっきらぼうに撥ね付けられる。
「そんなご機嫌取りが欲しくて言ったわけじゃねぇ」
「機嫌など取っていない。偽りない余の——俺の本心だ。俺は心から、お前を愛している。お前の知識や言葉遣いを、ではない。不時着した宇宙船から拾った俺の命を救い、母星を出て共に旅することを選び、俺と同じものを見て、笑って、同じ時間を共有してくれたお前自身をこそ、愛しているのだ」
己にできるのは、この気持ちを言葉に込めることだけ。思いの丈をすべて声に託して、彼を抱き締める腕に力を込めた。
またしばらく黙り込んだ彼が、小さく言い返してくる。
「初っ端から、その首を叩き落としてやろうとしたのに?」
「あれはなかなかに刺激的な、かけがえのない思い出になったな」
「このドマゾ野郎が」
ラムダの母星に伝わる俗語を返されて、つい笑いが込み上げた。
掛布の中で彼がもがき始めたので、それに応じて腕の力をそっとゆるめる。顔を出した彼が、こちら側に向き直った。
「ああいうのが、好みなんじゃねぇの」
「お前だけが、俺に『好み』というものを教えてくれたのだ。それは、今も変わらない」
む、と彼の唇が曲がる。しかしどう見ても、それが不満の表れだとは思えなかった。
目元をほんのりと赤く色づかせた彼が、若干刺々しさの残る声で問いかけてくる。
「じゃあ、なんであんなに熱心に読んでたんだよ。二回も三回も」
繰り返し読んだ回数まで把握されていて驚くが、それほど気にかけてくれていたのかと嬉しくもなった。その思いも乗せて、口の端をゆるめる。
「自分も、こうありたいと思ってな」
どういう意味かと問うように、彼がこちらを見上げたまま首を傾げた。その視線を受け止めて、手元の薄い端末に目を向ける。
「ここに書き残された彼らのように、この船で共に旅をしているお前たちと——ゲンタロウやラムダと、心のままに生きていきたい……と」
彼に視線を戻し、さきほどは振り払われてしまった手でその前髪をそっと撫でた。今度は、彼がそのまま目を伏せる。
嬉しくなって頬にまで手のひらを滑らせても、彼は嫌がらなかった。
「それに、読み返しながら、ラムダが言っていたことをよくよく噛み締めてもいた」
「ラムダが言ったこと?」
「言葉は……文字は、時も場所も超えると」
もう一度、手元の端末に目を落とす。そこに残された言葉たちが生まれたのは、気が遠くなるほど遥か昔の、今はその遠影すら目にすることができない遥か遠くの星だ。
これを書き記した者にとって、その言の葉がこんなところにまで届いたことは思いもかけぬ僥倖だろうか。それとも、してやったりとほくそ笑むものだろうか。
どちらにせよ、これを残してくれた彼の者に、それを繋いでくれたラムダに、感謝の念を禁じえない。
そのおかげで、本来ならば存在すら知ることのない彼らの楽しげな様子を、こうして脳裏に思い描くことができたのだから。
「……文字は、時も場所も……」
「ゲンタロウ?」
口の中で小さく繰り返したかと思えば随分と長く黙りこくった彼に、今度はこちらが首を傾げる。すると、彼は黙したままその場に身を起こした。
その目が、今はこちらの手にある端末をじっと見つめる。
「なあ、その板——タブレットに向かってしゃべれば、それを文字に変えてくれるんだよな」
「ああ、そういう機能もあるそうだな。俺は、まだ使ったことがないが」
こちらからの肯定を受け取った彼が、よし、と一人呟いた。
「決めた。俺も書く」
「書くって、何を——」
「お前らとの、この毎日を」
思いもかけない発言に、目が丸くなる。
こちらを驚かせたことに気をよくしたのか、彼の顔に勝ち誇るような笑みが浮かんだ。
「お前はさ、俺の語りも気に入ってくれてたろ?」
それはもう、声を大にして頷きたいほどに好きだ。彼が語る話は筋も面白く、さらにその声の心地よさと言ったらない。
「だから、そういうのも文字にしてみてぇなって」
「なるほど、それは俺にとっても喜ばしいことだが……この端末を使えば、声をそのまま記録することもできると聞いたぞ。わざわざ文字にしなくともよいのでは?」
これには、すぐさま首を横に振られた。
「それを書いた奴に負けたくねぇ。俺はそいつと同じ土俵で、お前をもっとずっと夢中にさせるようなものを書き上げてぇんだ」
だから、文字にする。
きっぱりと言い切る彼の目は、陽の光を受け止める若葉のように瑞々しく、生気にあふれていた。
……なんて眩しい。
この俺が心を掴まれてやまない、唯一無二の輝きだ。
「俺の、一生に一度のわがままってヤツだ」
「ふむ……お前のわがままは、日常茶飯事の域ではなかったかな」
「ハァ!? そんな言うほどじゃねぇだろ!」
「カウントしてみるか?」
「はっ、面白ぇ。なら、俺とあんたでどっちがわがままか、いっちょ白黒付けようじゃねぇか」
「望むところだ」
勝負事となると目の色を変える血気盛んさが、無性にこの胸をくすぐる。
込み上げる愛しさのままに、彼の目元を指の背でするりと撫でた。
「……だが、その前に一つ、俺のわがままも聞いてくれないか」
「お、いいぜ。まずはそれでイーブンだな」
「感謝する。それでは——」
今すぐに、お前を愛させてくれ。
耳元に囁くと、不敵な表情を見せていた男の顔がボッと首まで赤く染まった。
愛しくて愛しくてたまらないその存在を腕の中に閉じ込めて、俺は彼を寝台へと押し倒した。
その後、書き物にのめり込んだゲンタロウに「構ってくれ」と泣きついてわがままの称号を見事に押し付けられるのだが、それはまた別の話である。