彼氏彼女(カレカノ)エチュード今でも信じられないのだけど、東金部長から告白されてお付き合いすることになった。
彼は私が所属する神南高校の管弦楽部の部長で、夏休みに入る直前に転校してきた私を何かと気にかけてくれた。練習に付き合ってくれたり、私の演奏に対してアドバイスをくれたり、旅行もして共に全国学生音楽コンクールに出場して…出会ってそこまで日数も経過していないのに、今までにないくらい中身の詰まった夏休みを部長と過ごすうちに、気がつけば私は彼に対して恋愛感情を持つようになった。
東金部長は女の子にかなりモテていた。誰かと付き合っているとかそういった浮いた話はまったく聞かなかったけど、たくさんの女の子たちの中から部長が私を選んでくれるなんて想像もできなかった。私を気にかけてくれているのも、部長として私の演奏に期待してくれているからだといつも自分に言い聞かせていた。
なので、打ち上げの後、東金部長から告白された時は嬉しくて言葉がでないというのを初めて体験し、その時は「俺を選べ」なんて言われたけど、彼以外の人を選ぶなんて頭に思い浮かぶこともなかったし、逆に私を選んでくれるんですかと半信半疑ですらあった。
その夜、これは夢なのでは?でも覚めたくないと強く思いながらベッドのタオルケットにもぐり込み、祈るように眠りについたら、いつものように朝が来た。
東金部長と恋人同士になったことに意識がいきすぎて、今日が始業式であることを今になって思い出した。私は慌てて身支度をし、お昼ごはん用のお弁当を作り、急いで学校へ向かった。
学校は始業式だけで午前中に終わり、部活の開始まで時間があったので、私はお弁当を食べた後に荷物を持って図書室へ足を運んだ。十月の学祭で管弦学部の定期公演があると聞いているので、自分も何か演奏することになるだろうと今のうちに練習用の楽譜を探そうと思ったためだ。
夏休みの間は学校の図書室が開いておらず、遠い横浜の楽器屋で楽譜を購入していたけども、やはり色んな種類の楽譜を近場で選べる環境はとてもありがたい。神南高校は音楽科がないのに楽譜コーナーの規模も申し分なかった。
ヨハン・シュトラウス二世の美しき青きドナウにショパンの華麗なる大円舞曲…東金部長から、学祭でダンスがあると教えてもらったので、同日に演奏するならロマンチックなウィンナワルツも悪くないのではないだろうか。
そんな時、ふとぼんやり東金部長の顔が浮かび、ドキドキしだした。昨日告白されるまで、私がただ一方的に彼のことを想っていたのが、相手も同じように私のことを想ってくれていたなんて、自分が世界で一番の幸せの絶頂の中にいるのではと勘違いしそうになるほど心が浮き立っている。そして、これが夢でなければ浮かれた気持ちと同じくらいの緊張もあった。
片思いのゴールは相手と両思いになることだろうけど、いざ両思いになったら今度はその状態を継続する努力が必要だと思う。せっかく恋人同士になったのに、何もなくただ関係が終わってしまうのは絶対に阻止したい。けど、そのために私は何をしたらよいのかさっぱりわからない。そんなことを考えながら楽譜コーナーで目当ての楽譜を探そうとしたのだが、前の高校とちがう勝手でまごついた。
前に通っていた高校の図書室にあった楽譜コーナーはカタカナ順だったのに対し、神南高校はアルファベット順で、探したい作曲家の英語名がすぐに思い出せない。
「ヨハン・シュトラウス二世は…『Y』かな」
「バカ、『J』だ」
「ひえあ?!」
頭上から覚えのあるというか、声の主が誰なのかわかっているけど、ついさっきまでその人のことを考えていたタイミングだったのも相まって、変な声がでてしまった。
私の後ろにいた東金部長は私が発した変な声に言及せず、『J』とラベルが貼られている引き出しを開けて楽譜を探しだしていた。今朝は慌てて身支度をしたので、前髪がおかしくなっていないかなと、部長が後ろを向いている間に手で髪をささっと整えた。
「ヨハン・シュトラウス二世は俺も好きだぜ。美しき青きドナウのようなワルツも一般的に馴染みがあっていいし、ポルカも面白い曲が多いしな。アンサンブル用で探しているのか?」
「あ、はい。…東金部長も楽譜を探しに来たんですか?」
「借りていた本を返しに来ただけだ」
もしかして私がいたからですか、とか調子にのって聞いて「そんなわけねぇだろ」とか否定されたら落ち込むなと声かけに迷った。私が悩んでいる間に、東金部長は楽譜を探す手を止めていて、私の方に視線を向けていた。
「あのな、俺も人並みに浮かれているんだ。恋人のお前に会いたいっていつも思っているし、見かけたら何かしらちょっかいをだしたいとか思うんだよ」
「え。あ、こ、恋人…」
部長が口にする『恋人』という言葉に戸惑いはしたけど頭の中で反すうしていくうちに顔がにやけてしまいそうになる。やっぱり昨日の告白は夢じゃなかったんだとほっとしたし、部長が私に会いたいと言ってくれたことが何よりも嬉しい。
「そうだろ」
「そうですね。へへ、東金部長と恋人かあ」
しかしながら、目の前の部長は私の反応にいささか不服そうに見える。普段から不機嫌の元は大体わかるようになったつもりなのだけど、今現在彼をそうさせる原因がまるでわからない。
「東金部長?何かありましたか?」
「お前、その部長呼びはいつまで続けるつもりなんだ?」
「え?」
「え、じゃねぇよ。俺は今日で管弦楽部を引退だ。従来なら全国大会が終わったら引退する決まりなんだが、今年は顧問に頼んで、特別に星奏との真のファイナルまで学校に引退を待ってもらってたんだよ」
「ということは部長じゃなくなる…んですよね」
「そうだな。で?部長じゃなくなる俺を何と呼ぶんだ?」
これは困ったなと首をひねる。部長が求める答えは大体わかっている。だけど私は性格上それをすんなりと口にできなかった。
「東金さん…はお気に召さないですよね」
「わかってるじゃねぇか」
「千秋、さん?」
「まあ、今のところはそれで許してやる」
今のところは許すということは、やはりさん付けは妥協しているんだろうなと部長の表情を見ても想像に容易いのだけど、だからといって年上の先輩に向かって「千秋くん」とか「千秋」と呼びすてにするのはやはり抵抗がある。
星奏学院にいる律くんも年上だが、幼なじみで先輩とか後輩が関係なかった頃からの付き合いだからであって、今の彼と出会っていたらやはり「如月さん」と呼ぶだろう。
「誤解がないように今のうちに言っておくが、俺とお前は対等な立場だということは忘れるなよ」
東金部長…もとい、千秋さんがいくつか楽譜を私に手渡しながら話を続ける。対等な立場とは?彼から楽譜を受け取りながらも私の頭の中がハテナ状態だ。
「俺はお前より歳が一つ上だから先輩ということになっているが、それはあくまでも学校の中での話だ。俺とお前の一対一の間柄でそこは一切気にするな。俺がお前に対して嫌なことをしたらはっきりと嫌と言っていい。そこは尊重する」
「…はあ」
「さすがに呼び名についてはこちらの意見を通させてもらったが、俺が先輩だからって遠慮はするなと言いたいんだ。お前の性格上、先輩は敬うものとか思っていそうだからな。その考えは否定しないし、その通りだと思うが、対俺の場合は例外として考えろ」
最初は何を言っているのかすぐに理解できなかったのだけど、千秋さんは私とどんな関係を築いていきたいか自ら提示してくれているのかなとようやく気づいた。
もちろん、その姿勢はとても嬉しいし、私も倣おうと思うのだけど、ひとつの疑問が頭に浮かび上がった。
「あの…」
「部活まで時間もねぇし、そろそろ行くか。渡した楽譜は再来週まで練習してこい」
「千秋さん」
腕時計を見て図書室のカウンターへ向かおうとしていた千秋さんが私の呼びかけに足を止めて私に向き直した。
「…なんだ、かなで」
「今まで千秋さんからされたことで私が嫌だと思ったことは一度もないです」
私の言葉を受けて、千秋さんは目に見えて面食らった顔をしていた。私は自然に思ったことを口にしただけなので、私は何かまずいことを言ってしまっただろうかと不安になってしまったくらいだ。いつもなら「どういうことだ」とか「何を言ってるんだ」とか、疑問に思ったことはすぐに口にする人なのに、めずらしく黙り込んでいる。
「あの…」
「お前な、そういうことは軽率に言うな…いや、言っていいんだが…とにかく渡した楽譜を借りてこい。廊下で待ってる」
私がカウンターで楽譜を借りる手続きを済ませ、図書室をでると千秋さんは廊下の窓側の壁にもたれて待っていた。彼の背にある窓から廊下へ差し込む太陽の光も夏の強い光から幾分穏やかに見え、少しずつ秋の訪れを予感させた。
図書室のある場所が教室から離れているためか、室内では借りた本を返しに来た生徒が何人か見かけたものの、廊下には私たち以外誰もいなかった。
「部室行くぞ」
そう言って右手を差し出した千秋さんを見て、借りた楽譜を見たいのかなとリュックにしまった楽譜を取りだそうとしたら
「ちがう。手だよ、手。お前の手」
と言われたので、ようやく察した自分の顔がぽぽっと熱くなったのがわかった。
「は、はい!」
慌ててしまったため、彼の右手をヴァイオリンケースの持っていない右手で握ってしまった。これでは双方の歩く方向が後ろ前と逆になってしまう。
おろおろする私を見て、千秋さんは声をあげて笑った。
「お前、さすがに慌てすぎだろ」
「…否定しません」
「俺も出す手を逆にすれば良かったな」
私はヴァイオリンケースを持ち直して千秋さんの手を握る。すると彼の手はすぐに握り返してくれた。千秋さんの手は大きくて骨張っていて、私の指先がそうであるように、彼の指先も硬かった。ヴァイオリニストのタコのできかたは人それぞれって聞いたことはあるけど、千秋さんは私と同じように硬くなるんだなとちょっとした共通点がわかるのがなんだか嬉しい。
「いつでも自然に手を繋げるようになることが当面の目標だな」
「そうですね」
廊下に差し込む光で影になってわかりにくいけど、千秋さん顔が少しだけ赤いように見えるのはきっと気のせいではないだろう。彼とこんなやり取りがこの先もあるのかと思うと嬉しくて仕方がなくて自然と口元がゆるむ。嬉しいの連続で幸せすぎてこれは夢なんじゃないかとまた疑ってしまうほどだ。
私たちは恋人同士になったけど、それはスタートラインに立っただけで、この関係を継続するのも取り止めるのも私たち次第だと思う。けれども私はいつまでも千秋さんの隣にいたいし、彼にも同じように思っていてほしいと願わずにはいられない。
ふと、今繋いでいる彼の手を離したくないなんて欲が出てきてしまい、しっかり繋ぎたくて指の間に自分の指を絡めた。
横から
「たまにそういうことするよな」
と満更ではなさそうな、独り言なのか私に向けた言葉なのかわからない調子で彼がこぼし、そのまま部室へ到着するまでこのままずっと手を握っていてくれた。