窒息ラメンタービレマネージャーから聞かされていたのは横浜の交響楽団が毎年開催している定期公演のゲスト出演ということだけだった。ゲストはもう一人呼ぶ予定であることは知らされていたはずなのだが、自分としたことがスルーしてしまっていた。ここ最近学業やら外部の仕事で忙しくして余裕がなかったのがよくなかった。
そのもう一方のゲストらしき人物は、練習場の片隅でヴァイオリンのチューニングに集中しているのか、部屋の入り口に立っているこちらに全く気づいていない様子だった。
「小日向さん!」
俺を部屋まで案内してくれた交響楽団の広報担当者が名前を呼ぶと、彼女はヴァイオリンを肩から降ろし、視線をこちらに向けた。久しぶりに見る彼女のふわふわの髪は、出会った頃とさほど長さは変わらないものの、顔立ちは大人の女性のそれで、愛らしい大きな目が少しだけ幼く見せていた。
俺が彼女の近くに行くよう担当者に促されると、小日向は黙って頭を下げた。
「調整中にすみません、こちら小日向さんと同じくゲストの東金千秋さんです」
「今日からよろしくお願いします」
挨拶する彼女の表情から、鈴を転がしたような声で「東金さん」と俺の名前を呼ぶ今より少し幼い彼女の顔がちらつき、俺は振り切るように彼女から視線をはずした。
「…こちらこそよろしくお願いします」
何も知らない担当者は双方の紹介を終えたら俺たちを残して忙しそうに退室していったので、俺は小日向と二人、部屋の片隅に取り残された。広い室内を見渡すと交響楽団の団員たちが全体練習のため、各々の楽器の準備や調整の音で騒がしくしていた。
「えっと…その、お久しぶりです」
小日向がこちらを伺うように声をかけた。
「あ、ああ…。小日向が同じゲストで呼ばれていたなんて驚いた」
「オファーをいただいた時、たまたまスケジュールが空いていたんです。横浜だし、経験のために受けてみようかなって」
「そうか、俺も似たようなものだ」
もう一人のゲストは俺だと知ってオファーを受けたのか?と聞かずにはいられなかったが、場所が場所なので、俺もカンタレラを取り出し、チューニングに入ることにした。
小日向もヴァイオリンを肩に戻し、ウォームアップを再開した。
「今日から本番までの一週間、全体練習は今日、前日のリハ含め四日間です。集中して取り組んでください」
指揮者が練習前にスケジュール、各曲について簡単に説明した後、俺と小日向が紹介され、ひと息つく間もなく全体練習が開始された。
俺と小日向はジョージ・ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーとアンコール用のヨハン・シュトラウスのラデツキー行進曲の二曲に参加する。練習する曲順は、ゲスト二人のソロパートがあるラプソディ・イン・ブルーが優先された。
実のところ、演奏曲の連絡があった時、同じくジョージ・ガーシュウィンが作曲したパリのアメリカ人をふと思い出していた。この曲は高校時代に小日向に誘われて入った合奏団のアンサンブルでも練習していた曲だ。結局練習だけして、コンサートでお披露目することはなかったのだが。
俺にとっては華やかで比較的好きな曲だったのにもかかわらず、色々思い出してしまいそうで、あれから久しく弾いていなかった。
たかだか作曲した人物が共通しているだけで昔を思い出して勝手に落ち込んでしまうくらい、小日向が自分にとって大きな存在であることに驚いたことは今でも忌々しく覚えている。
曲の演奏開始からしばらくして小日向との初めてのソロパートに入り、緊張が走る。
練習前に彼女と曲想などの打ち合わせをしたが、短時間でざっくりしたものだったにもかかわらず、演奏内にぴったりと合うと感じる箇所が至る所にあり、弾いていて気持ちのよいものだった。
いつも俺と一緒に演奏している蓬生との演奏とも違うこの気持ちよさは、小日向が俺にかなり合わせてくれているのか、二人のテンポイメージが完全に合致しているのかどちらかと推測するのだが、それができるくらい小日向の演奏技術レベルにさらに磨きがかかったのだろうと想像する。
夏の全国学生音楽コンクールのアンサンブル部門で優勝した彼女もすでに高い技術を持っていた。ただ、小日向の演奏を初めて聞いた時、俺は「花がない」と思ったのが最初の感想だった。
悪くはないがそれだけで、特に惹き付けられることもない、道すがら音が聞こえても足を止めて聞くほどでもないBGMに留まってしまいそうな、そんな演奏に思えた。
今思うと、本人にそのことを直接伝えた日を境に、その年の大晦日まで小日向に振り回されることになってしまった。コンクールのセミファイナルで大きな花を咲かせた演奏で俺たち神南を打ち負かし、全国優勝を果たした小日向は、今度は大晦日にジルベスターコンサートを開きたいと言いだして、俺や蓬生までも自分の合奏団に引き込み、大晦日までほぼ毎週のように何かしらコンサートを開いた。
その間、俺は週末の彼女とのアンサンブル練習やコンサートの共演を通して、あろうことか彼女を一人の女性として好意をもってしまった。最初は空気並みに存在感がない小日向を「地味子」と呼んでからかっていたのに、次第に彼女が奏でる音に惚れ込み、ひたむきに音楽と向き合う彼女自身も誰にも渡したくない存在になっていった。
当時、小日向も最初はファンとして俺のことが好きなのだろうと思われる素振りをしていたので、異性としても好意を持ってくれているものだと勝手に思っていた。なので、俺はジルベスターコンサートの後、勝算があると彼女に告白をするつもりでいて、コンサート前夜に彼女に自分をコンサートのアンサンブルメンバーに入れるよう直接伝えた。伝えたのだが、結果、俺はメンバーに入れてもらえず、告白するタイミングを逃してしまったのだった。
それからの俺は、蓬生や芹沢以外のコンサートメンバーとの交流を断ち、小日向のことなんてさっさと忘れて自分の信じた道を進んでいたはずだった。それなのに、小日向と二年ぶりに再会し、共に演奏してみたら何も忘れることができていなかったことに気づいてしまった。
「ソロパートが良かったので、この感じで十一ページの最初からもう一度いきましょう」
指揮者がタクトを振り、指示されたソロパートから演奏を再開する。小日向は指揮者が求めていると思われるポイントをすぐに理解していて修正も早かった。指揮者もうんうんと首を縦に振って満足そうにしている。
セミファイナルの後、彼女を俺が通っている神南にスカウトしたことを思い出す。スカウトされた当人と周りは冗談と受け取っていたようだが、俺は彼女の才能をもっと引き出せるのは自分以外にいないと本気で思っていた。
だが、俺と離れていた二年間で彼女はまた一段と成長を遂げている。彼女をここまで引っ張りあげたのは彼女の幼なじみの如月なのだろうか、それとも高い技術を持った師から指導を受けているのか。彼女は有名な割にメディア露出が無いに等しいので、現状の情報が全く無い。自分から彼女と関わらないようにしていたのに、彼女の成長に自分は必要なかったのかと思うと心の底から面白くなかった。
初回の練習も無事終了し、小日向は見覚えのあるリュックをかついでヴァイオリンケースを片手に帰り支度をすませてさっさと練習場から出ていってしまった。俺はその背中を見て慌てて後を追った。
彼女を追っている間、どう彼女に声をかけるべきか頭をフル回転させて考えた。
二年以上会っていないし連絡もとっていない男からのいきなりの食事の誘いは確実に小日向を怖がらせるだろうから、まずは駅までの道中を一緒に帰らないかと誘ってみるか。
もうこれを断られたら粘らずに直ちに身を引くに越したことはない。
二回目の機会は無いと思って連絡先も消すべきか。いや、それなら本番の後の方がいいのではないか。
彼女に下心を気取られてしまったら終わりと思え。
それなら今回の共演をきっかけにして連絡を再開してもよいのでは――。
自分からのアプローチに対していちいち彼女の反応を気にするなんて自分らしくもないが、小日向相手だとどうしてもネガティブな感情がすぐに沸いて出てくる。
練習場があるビルから外へ出るとすっかり暗くなっていて、ビルの前の道路では車の往来が激しい。タイヤが地面をこする音や信号機の音などの雑音の中、彼女の姿をみつけるため辺りを見渡していたら「東金さん」と後ろから声をかけられた。
高校時代に何度も聞いた鈴を転がしたような覚えのある声だった。
まさかと声が聞こえた方へ振り返ると、小日向が一人ヴァイオリンケースを握りしめて立っていた。
「待ち伏せしてすみません。練習場だと、その、他の人もいるし…」
そう言って頭をさげる小日向の声は明らかに緊張している。
「私、今回の公演でもう一人のゲストが東金さんと聞いて、絶対この仕事を受けたいって思ったんです」
顔をあげた小日向の表情は、高校時代に初めて俺に二人練習をお願いしてきた時のものと重なった。恋愛感情から遠くかけ離れた尊敬とか憧憬といった、そんな感情を含んだ眼差しに思え、体に力が入らない。
頼むからそんな目で俺を見ないでほしい。かといって、俺が下手に期待を持ってしまうようなことは言わないでほしい。そんなことを願いながら、息苦しい空気の中、俺は小日向の次の言葉を待った。