結果的に同一人物なら浮気にならないってことにしない?「…」
暗闇の中、ゆっくり上体を起こした。嫌な夢だ。
幾度目かの目覚めを経て、動けるようになったのは日もとっぷり沈んだ夜だった。端末で時間を確認すれば時刻は21時過ぎ。いつもシャリア・ブルに食事を持っていっていた時間だ。
…ちゃんと飯は食えているのだろうか、ふとそんな心配が過る。もともと自然で暮らしていたのだから大丈夫だろうとは思うが、これからは独りで生きていかねばならないのだ。あの広い海の中、ただ独り生き残ったタコの人魚として。そう思うと胸が詰まる思いがした。
「ーシャリア・ブル?」
自分の言葉にふと疑問を覚えた。シャリア・ブルとはなんだ?彼にシャリアと名前を付けたのは自分だが、そんな風に呼んだ覚えはない。だけど、妙に口に馴染む響きだ。自分はどこで、その響きを知った?
シャリア・ブルという名を意識したその瞬間、走馬灯のように色々な記憶が頭に浮かび上がってきた。熱にうなされながら繰り返し見た海の記憶、赤い鱗、どこまでも広がる空に憧憬の念を抱いていたこと、「赤い星」のあだ名、そしてー。
『シャリア・ブル。それが私の名前です、覚えていてほしい、私の愛しい貴方、キャスバル』
「ーーッ!」
ー思い出した。思い出してしまった。名前を教えあった愛しい伴侶のこと。その伴侶を、何も言わずに置いていったこと。
魔女との取引で、「大切なもの」と引き換えに地上を自由に動き回れる身体を与えてもらったこと。
伴侶より、空へ行く夢を選んだ愚かな自分自身のこと。
急激な記憶の回復に強い目眩を覚えた。視界が明滅し、頭が痛む。しかし、休んでいる暇はない。
(会わなくては、彼に)
端末を手に、慌てて立ち上がる。立ち上がろうとして激痛に苛まれた。立とうとすると両足が酷く痛むのだ。
ー魔女が言っていた。人魚は人の身体を得ると、歩く度足にナイフで刻まれるような痛みが走ることになる。だが「大切なもの」を差し出すのならその痛みから逃れられるようにしてやる、と。
(記憶を、「大切なもの」を取り戻したから、痛みを忘れることができなくなったということか…)
シャアは唇を噛み締め、壁にもたれながらも立ち上がる。まだ全ての記憶を取り戻したわけではないことが幸いしたのか、“全く動けないほどではない”。なんとか堪えられる。歯を食いしばり、シャアは歩き出す。向かう先は、海だ。
夜ではあったがタクシーを手配することは出来た。歩かなければ足に痛みが走ることはない。人心地ついたシャアは深く息を吐いた。
「あの、お客さん、顔色悪いですが大丈夫ですか?」
バックミラー越しに自分を見ているのだろう運転手から声をかけられた。いつもかけているサングラスは水槽から引き上げていないし、何より夜なので顔には何もかけず素顔をさらしていた。
「そうですか?職業柄日をあまり浴びないので、そう見えるのかもしれませんね」
にっこり微笑み、嘘をつく。余計な心配をされて足止めを食うわけにはいかない。
タクシーは海の手前のコンビニで止まるよう頼んでいる。夜の海に一人で行くのはさすがにおかしいと勘繰られると面倒だからだ。この足で歩くのはかなりしんどいものがあるが…。
タクシーはスムーズに海の近くのコンビニまでシャアを運んでくれた。端末で手早く支払いを済ませ、車外へ出る。地に足が触れるたび痛みが走るが、歯を食いしばって堪えた。
タクシーが走り去るのを見届け、シャアはゆっくり海へと足を運ぶ。傘を杖代わりに一歩一歩、進んだ。
どれくらいの時間がかかっただろうか。長い時間をかけてシャアはようやく砂浜へとたどり着いた。夜はすっかり帷を下ろし、辺りは闇に包まれて何も見えない。波の音と波風の匂いだけが海の近さを教えてくれている。
音と匂いを頼りに、シャアは再び海へ向かって歩き出す。
「シャリア」
一声。波の音にかき消される程度の小さな声。
「シャリア・ブル」
また一声。今度は波風に負けないように大きな声で。
一歩、一歩、砂浜を踏みしめ歩く。痛みはもはや感じていてもないようなものだった。とにかく会いたかった。会って一言詫びたかった。黙っておいていったこと、キミより夢を優先してしまったこと、愚かにもキミのことを忘れ去ってしまっていたことを。
ようやく足先に水が触れた。躊躇いなく前進し、濡れるのも厭わず先へ進む。海の中なら歩く必要はない。早く海の中へ帰りたかった。足も届かなくなり、完全に頭が水の中に沈む深さに到達しても構うことなく進んだ。息も苦しくない。傘を放り捨て、シャリア・ブル、と呼びかけ暗い暗い闇の奥へ奥へ、ただただ潜り続ける。
(シャリア・ブル、何処にいる)
問いかける。何も見えない、何も聞こえない。キミが何処にいるのかもわからない。無心でただただ海の中へ潜る。あの頃は誰よりも早く泳げたのに、今はクラゲのように動きもままならない。情けなくてたまらない。
奥へ奥へ進むほど、水圧が身を押しつぶそうとするのを感じた。鼓膜が押され、耳が痛む。急激に下がる水温に凍えそうになる。
(シャリア・ブル、頼む、返事をしてくれ)
辺りは一面、漆黒である。月の光など、闇に染まった海の中には届かない。もはやどちらの方角が地上であったかすらも定かではない。
(ー寒くて、暗くて、静かなこの場所で、私はキミを独りにしてしまったのだな)
黙って置いていったくせに、みすみす記憶を失って夢を追いかけることもせずにのうのうと地上で暮らしていた。その間、シャリア・ブルはずっと海で自分を探し、そのせいで一度片目を失う大怪我を負った。自分の愚かしさに腹が立つ。…謝りたい、彼にもう一度会いたい。
その気持ちだけで更に潜り続けると、懐かしい吸盤の感触が顔に触れた。
(シャア!何をしているんですか!!)
声がした。シャリア・ブルのテレパシーだ。そしてわずかな間もなく、柔らかく肉厚な触腕がシャアの身体を掴む。人魚であるシャリアの肌に、感じられる程の体温などないが、それでもその感触に安堵した。抱きかかえるシャリアの背中に、シャアもまた腕を回して抱き返した。
シャリアは一息に浮上し、勢いよく頭を海上に出した。空気に触れ、反射的にシャアは咳込む。
「シャア、しっかりしてください!」
声帯に切り替えたシャリアが声をかけてくれる。見上げるとシャリアが怒っているような、悲しんでいるような目で自分を見ていた。
「…探してくれたのか」
「…声がしたので…あの人の…。名前を呼ばれて、間違いないと思って…でも、見つかったのは貴方だったので、驚いて…」
「そうか、聞こえてたのか、良かった…」
「…シャア、貴方は一体…」
シャアは自分を抱きかかえてくれているシャリアの頬を両手で掴むように触れた。
「黙って置いてしまってすまなかった、シャリア・ブル」
「シャア…貴方は、まさか…」
シャリア・ブルの目が驚愕に丸く開かれる。その顔を見つめながら、安堵と疲れ、そして寒さからシャアは意識を手放した。