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    ふかひれ

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    ふかひれ

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    これまで上げたカピオロのオメガバ。
    完結しました!

    「それちょうだい」
    出会い頭、何を言うかと思えばこちらに拒否権は無いと言わんばかりにすっと差し出された手のひら。
    「…俺の意見を聞くつもりは毛頭ないようだな」
    その手のひらをじっと見つめ、何を、何故、何のためにちょうだいと言っているのか考える。主語もなければ修飾語もなく、彼が言うのは単なる要求のみ。それに、昨日や一昨日まではオロルンが何かを欲しがる素振りを見せることはなく、これまで通り与えられた天幕の中で寝て起きて食べて周囲を調べて…という生活をしていたはずだ。その時オロルンと何度かは言葉を交わしたが、どちらも忙しく、こんな出会い頭に何かを要求されるような会話はしていない。
    つまるところ、全く分からない。考えた時間が無駄だった。
    何を、何故、何のために使うのかを説明してもらおうと口を開けようとすれば、ようやくあちらも気がついたらしくワタワタとした様子で口を開いた。
    「あ!…ご、ごめん、僕言うだけ言って何も伝えられてなかった。…僕、明日から発情期になるんだけど君のコートを貸してもらいたくて。勿論汚さないし洗濯して返すけど、嫌だったら断ってくれても構わない」
    すっと差し出されていた手は説明している最中に下ろされ、身振り手振りに多用される。先程のちょうだい、とまるで断られていると思ってもいない強欲さも消え失せ、今更殊勝なことを言い始めた。
    そして何よりも驚いたのが、彼がオメガだったということ。確かに言われてみれば顔がいつもより赤く、火照っているような気がする。
    「……お前、オメガだったのか。貸す分には構わないが、薬はどうした」
    別に彼がオメガだからどうという訳では無いが、他国との交流がほとんどないナタであろうと、第三の性に対する薬は流通しているはず。ファデュイにもオメガは勿論いるため、薬の予備は余分な程にある。無いのなら、それを渡してやればいい。コートに関しては、コートは上官という示しをつけるためのものであり、別に戦闘になれば脱いでしまうのだからあろうがなかろうが余り変わらない。
    「あぁ、僕薬が効かないんだ」
    「…何?」
    しかし彼は、あっけらかんとした様子で言い放った。それに怪訝な声を出してしまったのは仕方がない。なぜなら、薬が効かないというオメガは、そう聞いたことがないからだ。もしや効果が薄いとか持病で飲めないとか、そういうことだろうか。
    「魂が不完全だから、薬がどうもかなり効きにくいらしい。でも安心してくれ。不完全な分、僕は普通のオメガよりもフェロモンは薄いし、発情期と言ってもちょっと熱っぽい感じがするだけで大したことないんだ。前伝え忘れて発情期の時にばあちゃんが来たんだけど、僕が言わないと気が付かない程にはね。計画に支障は出ないようにするし、不安ならそこの草むらにでもほっぽってもらっても構わない。ナタは僕の庭だ」
    両手の親指を立てて、得意げに笑う。何も笑い事では無いが。溜息をつきたい心境に駆られるが、ここはぐっと抑えてどう動くべきか考える。
    彼の話をまとめると、薬は効かないがフェロモンは薄く、計画に支障はないとの事。だが一応薬は渡しておいた方がいいだろう。ただ、彼の今の寝床は部下たちと同じ場所。いくらフェロモンが薄いとは言え、噛んでしまった方にも噛まれてしまった方にも間違いがあっては双方に申し訳が立たない。
    ……だとするならば──────、
    「…いいだろう」
    そう言ってやれば、オロルンはぱあっと顔を明るくさせて、ありがとう隊長!と感情が溢れているのか耳をパタパタと喜びを表すように動かした。
    しかし、人差し指を1本立てて「だが」という言葉を続ける。
    「条件がひとつある。お前の寝泊まりする場所は、今日から俺の天幕にしてくれ」
    オロルンの表情が、ピシリ、と固まった。まぁ、そうなるのも致し方ない。会って十数日の相手に、俺の天幕に来るといいと言われてそこまで心を許せるはずも無いのだから。
    だが、女性陣のいる場所で寝泊まりさせる訳にも行かず、男性陣も論外、そして残念ながら薬の予備はあっても天幕の予備は無いというのが事実だ。そのため、俺の天幕しかアテは無い。
    しかし、今の状態を見るに何やらオロルンは勘違いをしている様子。
    「あぁ、誤解するな。俺は天幕に入らん。俺には休息も睡眠も不要だ」
    アルファとオメガがひとつ屋根の下にいるなど、部下たちの部屋から移動させた理由だというのに、それこそ俺がいては本末転倒だろう。流石に一緒にいるという選択肢は最初から考えてはいない。それに、休息も睡眠も不要だと言うのは事実で、夜でも活動し続けることは出来る。見張りの部下を下がらせて、周囲の見張り役をかうのも悪くは無い。
    この条件は飲めそうか、そうオロルンの顔を見ようと少し視線をしたに向ければ…
    「……ぇ、一緒じゃないのか…?」
    眉の端を下げ、瞳は迷子の子供のように寂しげな目をし、口はどうしてと言わんばかりに少しだけ開かれていた。その様子を一言で言うなれば、酷く悲しそうな顔であったのだ。
    隊長は思った。何故そのような表情をするのかと。戸惑いを通り越して、心底不思議に思った。
    「……どういう意味だ」
    何が不満なのだ。一緒にいるわけが無いだろう。常識的に考えて。まさか今のナタの常識は違うとでも?俺が500年前に来た時は常識にあてはまっていたが、今は違うとでも言うのか。今の若者の考えることは全く分からない。もしかしなくともオロルンだけかもしれないが。
    「僕、君と一緒にお泊まりできるの楽しみだったのに…」
    しょもしょもと、ピンッと立っていた耳が瞬く間に垂れていく。
    彼の耳は感情に正直だ。だからこれは世辞でも何でもなくて、本心から言っているのだということは確かだろう。
    だが正直言って、唖然とした。混乱もしている。まずオロルンは押し込められたとではなく、お泊まり会だと認識し、急な事に嫌がることも無く、むしろ嬉しそうな顔まで見せた。もしや、さっき急に固まったのは嬉しかったからだろうか。
    それに、アルファに襲われると微塵も考えていないところが理解できない。お前の周りにはアルファが一人もいなかったとでも言うのか。
    「……」
    呆れて言葉も出ない。出会った頃から独特な話し方をし場を混乱させ、感性も非常にぶっ飛…富んでおり、500年間の人生の中で特に印象深い人物だと位置付けたのだが、まさか呆れてものも言えないというのを自分が体験するとは思わなかった。
    しかしオロルンはそんな隊長を気にした様子もなく近くに寄ってきて、口を開く。
    「どうしても…ダメか?君と一緒がいいんだ」
    ゴツゴツとした篭手の嵌めてある手を両手で握り、こてん、と首を傾げる。雨の中、打ち捨てられた子犬のようなうるうるとした情を訴えかけてくる瞳。どこで覚えてきたんだそんなこと。
    明らかに媚びて、お願いというものをしているというのに、不思議と苛立ちは感じなかった。職務上、よく媚られることはよくあるのだが、そのどれもを一蹴し、蹴散らしてきた経験があるのだが、どうにもオロルンだけは一蹴することが出来ない。…これが、父性と言うやつだろうか。
    特大のため息をつく。
    叱られると思ったのだろうか。オロルンの肩がビクッと大きく跳ね、それでも諦めてはいないのか隊長の手を離すことは無い。
    「……いいだろう」
    特大のため息とともに放たれたその言葉は、一言でオロルンの悲しげだった表情を明るくするのには充分だった。自分でも、どうして了承してしまったのだと言った矢先に後悔の念が押し寄せてくるが、言ってしまったものは仕方がない。
    「だが自分の身は自分で守れ。万一の時があれば絶対に抵抗しろ。いいか、お前はアルファと一緒にいたいのだと言っているに等しい。ゆめゆめそのことを忘れるな」
    取引先が怯えるので低い声と凄むのはやめてくれ、といつかの部下に言われたそれら全てを投入し、半ば脅すようなことも言ったのだが、残念ながらオロルンにそんなものは効かない。わかっているのか分かっていないのか、夢中になって、うんうん!と何度も首を縦に降り、ありがとう!なんて言ってくる始末だ。あまりに無邪気な姿に毒気を抜かれてしまったような気がするが、逆に気を引き締めなければならないだろう。万が一、億が一にも等しいが、間違いがあってはならない。これからを生きる者に、足枷を付けてはならないのだから。


    ■■■■■■■■


    「なぁ、君もフェロモンが効きにくい体質だろう?」
    部下たちの天幕から自分の寝巻きや所持品を持ってきて、ちょうど半分ほどに仕切りを作った隊長の天幕に持ち込んでいると、急にオロルンが口を開いた。大人しく寝間着をたたみなおしているかと思えば、とんだ爆弾発言を飛ばしてくる。油断も隙もない。
    「前、君の部下の誰かが薬を飲み忘れていた時、ほかのアルファが苦しそうにしてる中、君はまるで地中に埋まった石のように平然として指示を出していたからな」
    固まった隊長を視界の隅に止めることもせず、オロルンは淡々と事実を口にする。
    「……よく分かったな。確かにその通りだ」
    本当によく見ているものだ。
    そのような事件があったのは彼が計画に参加してからほんの数日後のことで、出会った頃は耳がもろに見えているほどの杜撰でバレバレな尾行だったにも関わらず、その目はしっかりと本質を捉え、学んでいるらしい。
    彼の指摘に間違いはなく、完璧に効いていないという訳では無い。かなり鈍いだけだ。フェロモンが効きにくい体質だろうと言われたことはなく、部下たちも気がつく様子は見受けられず、正直言って訓練も受けていない、この目の前でふにゃりと笑う人間が初めての指摘者だとは思いもしなかった。
    「僕たち似た者同士だね。フェロモンがあまりない僕と、それが効きにくい君。はは、君みたいな人出会ったことないや。1週間世話になるよ、隊長」
    右手が、差し出される。
    差し出された右手を握り返せば、にこりとヘテロクロミアが細められた。信用されているというのはわかるが、余りそう取り巻く状況が似ているからと言って簡単に信用しない方がいいと苦言を呈したくなるのはやはり父性からなのだろう。しかし言ったところで無駄であることはわかっているため「…あぁ」とだけ言って、握手をしていた手を離した。
    「部下たちにはお前が体調不良でここにいると伝えてある。食事は摂れそうなら持ってくるが」
    発情期というものは、聞くに随分と苦しいらしい。それこそ、食事をとることもままならないのだと。それにオロルンが該当するか知っておきたい。
    「あぁ、僕は3食ちゃんと食べれる。君の手を煩わせてしまうな、今度なにか埋め合わせをしよう」
    ケネパベリー、ミツムシの蜜、野菜、お菓子…何がいいだろうかとオロルンが指折りで数え始めると、次々に口から食べ物や物の名前が出されていって、これでは無限に上げそうだったため途中で口を挟んだ。
    「気にするな。1人分も2人分も変わらん」
    「む、そうか。じゃあ個人的なお礼をまた今度しよう。楽しみにしておいてくれ」
    ピタッと数えるのを辞めたかと思えば、またオロルンが握りこぶしを作ったあと親指だけを上げた。サムズアップだ。最近の若者ではやっているポーズなのだろうか。だが残念ながら公子がそれをしている所は見た事がない。
    「よし、こんなものだろう。……あの、それと、重ね重ね申し訳ないんだがお願いがあるんだ…。流石に零時ピッタリに発情期が来ることは無いから、寝る前くらいに貸しては貰えないだろうか。僕は寝相がいいからクシャクシャにしないぞ。……多分」
    先程までの図太さはどこへ行ったのだと言わんばかりのしおらしさを帯びて、オロルンは畳み終わった衣服を抱えてそう言った。
    別に構わないが、そういえば、部下のうちの一人からオロルンの寝相が悪すぎて時々天幕の骨組みにぶら下がって寝ているから何とかして欲しいという苦情が届いていた気がする。それも、つい最近のこと。寝相に関しては残念ながら信用することは出来ないが、その程度でクシャクシャにされる素材でコートは出来ていない。
    「構わん。いつでも言うといい」
    「ありがとう、隊長!」
    花がほころぶような笑みを称え、彼は簡易的な布団の上に転がった。そしてまた、小さく笑って呟くような声量でこぼしたのだ。
    「きみのにおいでいっぱいだ…」

    □□□□□□□

    オロルンは自分をオメガっぼくないオメガなどと揶揄するが、本人が気がついていないだけでやはりオメガだったことに変わりは無い。
    彼が眠っている最中、俺のコートを抱え込んで時折くぐもった声を上げる姿はそうであったし、意識としては無いのだろうがぼんやりと目を開けて、巣作りのようなものを覚束無い手でする姿も、まさにと言うべき姿だった。ただ、俺の方はヒートのオメガが近くにいるにも関わらずやはり何も感じることはなく、オロルンが魂の欠陥品だとするのなら、俺は長年の酷使による本能の欠陥を主張したい。
    朝を迎え、朝食を取りに行って帰ってきた頃ちょうどオロルンは目を覚ましたらしく、茫洋とした目で起き上がっていた。
    「オロルン」
    そう一言声をかけてやれば茫洋とした瞳はゆるゆるとこちらを向き、たいちょう、と舌足らずな声で呼ぶ。呼ぶというより、目の前にあるものの名前をとりあえず言ったような、ぼんやりとした様子。彼の言った通り、ヒートがやってきたらしい。
    「朝食を持ってきた。食え」
    仕切りの向こうへ、オロルンが持ってきた野菜を挟んであるサンドイッチを置いておく。
    仕切りを作ったと言っても、先程オロルンが起きているのを分かったように、向こうが見えるくらいの薄い布で隔てたもので、しかも下から上へ捲れば簡単に出入りできる。万が一襲わないかの防衛線と言うよりかはただ居住空間を分けていると言った方が正しいもの。天幕の出入口は隊長側にしか無く、この仕切りを突破さえしなければオロルンは出ることが出来ない。
    本人はこれで十分と言っているが、この薄い布一枚どこが大丈夫なのかと溜息をつきたくなった。
    布団の中からのそのそと怠そうに起き上がり、昨日貸した隊長のコートを肩にひっかけたまま、仕切りの向こうから渡されたサンドイッチに手を伸ばす。
    「…それは置いておけ。お前にとっては食事の邪魔になるだろう」
    隊長が「それ」と言ったのは、オロルンの肩にかかる分厚くて重い、黒いコート。隊長にとってみれば、もう何十、何百と付き合ってきた重さではあるが、オロルンはそうでは無い。オロルンだって着ることの出来る服ではあるのだろうが、単純に邪魔で重たいだろう。
    そう思ってのことだったのだが……
    「…いやだ。これはぼくのだ」
    奪われると思ったのだろう。食べかけのサンドイッチを床に置いて、駄々を捏ねた子供のようにしてぎゅっとコートにくるまってしまう。
    「いや俺のだが…」
    だが残念ながら隊長のその声はオロルンには届いておらず、未だオロルンの方を見る隊長を警戒している様子だった。オメガは巣作りの材料に対して物凄い執着を抱くと言うから、おそらくその延長線上なのだろう。それに、今のところオロルンが巣の材料として使えるのは隊長が貸してやったコート1枚のみ。それ故に、食事のときだろうが離しはしないし、ずっと傍に置いている。
    「別に奪おうとは思っていない。お前がそれでいいのなら、好きに扱うといい」
    職業柄、部下以外でオメガとそう関わることも無く、ましてやヒート中のオメガと同じ屋根の下で過ごすなど、この500年で1度としてしたことは無い。そのため、オメガをどう扱えばいいのか分からなかったが、どうやら好きにすると良いと言うこの対応は正解だったらしく、オロルンはコートをまた肩にかけ直して嬉しそうにサンドイッチを手に取った。
    「ありがとう、たいちょう」
    こちらを見上げ、あまりに無垢な瞳で礼を言われるものだから、礼には及ばない、とだけ無愛想に言って、自分の分の残りを口に放り込んだ。だが、オロルンはそれに気を悪くした様子はなく、相変わらず何を考えているのか分からない顔でサンドイッチを頬張り始めた。

    ・・・・・・
    ・・・・
    ・・


    鈍ることのないようにという訓練と、秘源装置がある場所の捜索をしていればあっという間に夕刻となっていた。天幕を出る際に昼食を置いておいたのだが、オロルンが気がついて食べたのかは分からない。
    「戻った」
    薄暗く顔もよく見えない天幕の下で、急に誰かが入ってくるのは怖かろうと一応声をかけ、仕切りの近くに置いていたスープが空になっているのを確認する。
    だがそれを飲み、声をかけられた当の本人からの返事は無い。今日は一日中篭っていたであろう布団はこんもりと膨れ、端から黒い生地が見えたことからいることは分かるが、眠っているのだろうか。
    「……ン、ぅ…」
    昨夜のようにくぐもった声を零し、布団がもぞもぞと動いた。起こしてしまったのだろうかとも思ったがその様子はなく、安眠とは言えないもののまだ眠っている様子だ。
    そっと何着かあるうちのコートをハンガーにひっかけ、机の脇にあるランプに火をつけた。その僅かな光源でこれからどう動けばいいのかを整理するために作戦を書き出していると、天幕の外から良い匂いが漂ってくる。いつの間にか夕食ができる頃合になっていたらしい。
    カリカリと音を立てていた羽根ペンを元の位置に戻し、ランプはそのままでひっそりと天幕から身をすべらす。それぞれの天幕の中央辺りに大きな鍋が設置されていて、そこから甘酸っぱいトマトの香りが漂ってきた。今日はどうやらミネストローネらしい。いつもこのような食事を摂れればいいのだが、生憎と新鮮な野菜は今の状況下手に入れることは難しい。オロルンが持ってきた野菜も、流石のこの炎天下の下では長く持たない。持ってきたその日か次の日中に全て消費し切り、あとはほとんど軍用携帯食だ。
    「隊長様!すぐさまご準備いたしますね」
    姿を見せれば、働き者の部下たちは更にせかせかと動き始める。何十人分もの料理が作れる鍋から赤い液体が掬い出され、2回ほど器と鍋を往復すれば一人前の完成だ。
    「オロルンの調子はどうですか。残しちゃったら勿体ないし…」
    オロルンの分であろう椀を手にとってミネストローネを注ごうとしたが、ピタリと手は止まり、首を傾げ隊長へと尋ねた。
    「良くはなっていない。通常の半分ほどでいいだろう」
    そう言うと、給仕係はできるだけ細かくなった野菜を選んですくい上げ、仕上げにお玉一杯分の赤いスープを入れて隊長に渡した。
    「早く元気になってくれとお伝えください」
    その言葉に頷き、こぼさぬように天幕へと戻る。両手がふさがっている為足で開けようと室内と天幕の間に足を滑らせると、何かが足の先に当たった。仕方がなく両手に持っていた器を片方に持ち替え、ゆっくりと開けてみれば、そこには真っ黒なナニカが入口近くの床で丸くなっており、おそらく先程足に当たったのもこれだろう。
    その黒い塊を避けて器ふたつを置き、視界の隅でのそのそと起き上がる様子を見せた黒い塊の前に片膝を着いて声をかける。
    「こんな所で何をしている、オロルン」
    黒い塊の正体は、言わずともわかるオロルンだった。隊長のコートを頭まで被り、何を思ってか仕切りを突破して入口近くにいたのだ。先程蹴ってしまったであろう場所に土がついていたらと手で払っていると、もぞもぞと動く布饅頭はゆっくりと顔を上げる。
    「……わからない」
    だが、のぼせた顔を見せて何を言うかと思えば分からない、と。人は分からない状態で動くことなどそうないし、入口近くで力尽きたようだが、明らかに外に出ようとしていたように見える。何を考えていたのだと、目は口ほどに物を言うというようにその目を見てみるが、朝よりも茫洋さの酷くなった瞳からなにかの考えを受け取ることは出来ず、いつもは忙しなく動く二つの耳も今や垂れ下がったままだ。
    今こうやって隊長と会話をしているというのに、オロルンの声や視線はどこか焦点の定まっていないぼんやりとした様子で、どう頑張っても何かを読み取れる状態ではなかった。
    大きな溜息をつくも、昨日はその一つ一つの仕草にも反応を示していたくせに今は何も示さない。
    「仕切りの向こうに戻れ。なんのための仕切りだ」
    後でスープも持っていく、と言えばオロルンは小さく頷き、亀の方が早いのではないかというほどの歩みで床を這って移動する。ここから数メートルしか離れて居ないというのに、一体いつになればあの仕切りの向こうにたどり着くことが出来るのだろうか。
    「……はぁ、持ち上げるぞ」
    今のオロルンの精一杯だということはわかるが、如何せん遅すぎる。
    這うオロルンを雑に転がして仰向けにし、そのまま膝の裏と背中に手を差し込んでぐっと抱き上げた。だがその瞬間、
    「ひっ、ぁ…」
    小さく甲高い声をオロルンが上げたかと思えば、隊長の動きがピタリと止まる。そして今までの動きの遅さとは比べ物にならないほど俊敏な動きで口に手がおおわれ、正気を取り戻したようなオロルンと目が合った。
    「……」
    「……」
    双方目が合ったまま、無言の時間が続く。気まずいことこの上ないが、何かを言い出す前にオロルンが慌てたようにして口を開いた。
    「ご、ごめん!今のは、その、ちが、くはないけど、あの、えぇと、」
    抱き抱えられているというのも羞恥心を煽る要因だったのだろう、首筋から真っ赤になったオロルンの弁明はあまりに支離滅裂な言葉の数々で、いつもの難解なオロルン節とは別ベクトルで難しく、まるで言葉になっていない。
    あまりに慌てた様子が可哀想になり、その場でおろしてやり、言葉をかけた。
    「分かっている」
    その一言と自分が地に足をつけ立っているという事実で幾分かの冷静さを取り戻したらしく、先程の様子とは一転し、顔を赤くさせながらも支離滅裂な言葉は棚にしまったようだった。その代わり何も言えなくなってしまったオロルンの背中を仕切りの方へそっと押し、歩き始める後ろ姿に夕食を持ってきたが食べるかと尋ねる。それに声よりも早く腹で返事をしたオロルンは、引いてきたはずの顔の赤みがまた戻ってきて、食べる!と口でも返事をした。
    台の上に置いた少し冷めてしまったミネストローネとスプーンを手渡し、己も口にする。ミネストローネと言うよりミネストローネ風スープだが、それはそれで酸味が抑えられていて旨い。干し肉と人参、キャベツ、玉ねぎやじゃがいもが入っていて、じゃがいもや干し肉はまだ余分にあるが、明日からは大抵が美味くも不味くもない軍用携帯食になるのだろう。
    そんなことを考えながらスープを口に含んでいると、同じようにスープを飲んでいたオロルンがぽつりと零した。
    「…?いつもより少ない…?」
    「あぁ、お前がどれほど食べれるか分からなかった。少なかったか、追加を取ってこよう」
    オロルンは若いのだから沢山食べるべきだと言うのがこの駐屯地にいる全員の暗黙の了解で、そこに加えていつかの秘源装置で命を落とすのだからという罪悪感から、いつもオロルンの器だけは多めに盛られていた。
    半分ほど無くなった器を脇に置き、取りに行こうとすると慌ててオロルンが大丈夫だ!と叫ぶ。
    「少ないってことを言いたかった訳じゃないんだ。昨日の僕はいつも通り食べれるって言ったけど、なんだか今回のヒートは重くて、お腹が鳴ったはいいものの正直いって食欲はあまりない。君にそれを伝えてなかったからどうしようかと思ったんだけど…、ありがとう、隊長。今の僕にとってこの量はちょうどいいんだ」
    その言葉を聞き、椅子に座り直す。
    「給仕係に言ってやれ。お前の身を案じていた」
    脇に置いた器とスプーンを手に取り、こくりと小さく頷くオロルンを視界の隅においた。
    だが隊長が食べ終わる頃、まだオロルンは半分ほどしか減っておらず、咀嚼やスプーンを口に運ぶ動作などがゆっくりで、先程明瞭になったとと思ったはずの瞳は段々とまたその目が茫洋になってきている。
    「……オロルン」
    もう一度声をかければ、まだ完全には正気を失っていないのか顔を上げ、どうしたんだ、と今朝のような舌足らずな心地で返事をした。これは先程のようになるのも時間の問題かと推測し、手短に尋ねる。
    「今回のヒートが重いとは、どういうことだ」
    不死になってから約500年、隊長は風邪をひいたことがなかった。昨日オロルンが熱っぽい感じがするだけだと言っていたがとうにその感覚は忘れているし、オロルンが言うまでは今の状態が熱っぽいに該当するものだと思っていた。だが実際は違っており、今の状態はオロルンでいう重いヒートなのだと。
    フェロモンの強さなど残念ながら分からないし、ましてやヒートの重い軽いも症状としては知識の中に入れているが、当人を前にしてその判断はつかない。
    故に、尋ねた。
    隊長にとってそれは不測の事態だったし、重いとどうなのかが単純に分からなかったのだ。ついでに自分がどう対処すればいいのかも分からない。
    尋ねられたオロルンはカチャリと小さな音を立ててスプーンを器に立てかけ、舌足らずでゆっくりな口調で説明し始める。思考はまだ侵され切っていないようで安心した。
    「僕のゆう重いは、ほかの人の軽いだとおもってくれ。……いつもなら、食欲の減退なんてないんだ。多少はだるいけど、うごけだってする。でも今日はぜんぶ違ってて、食欲はないし、だるくてうごけないし、きみのこーとがすごくあんしんした。……こんなことははじめてだ。…でも、きっと明日にはなおってる。だから、だいじょうぶ」
    「……理解した。俺に出来ることがあるのなら、何でも言うといい」
    だがオロルンは首を振り、ここまでしてもらってるのに君にそんなわがままは言えない、と。薄々気がついてはいたのだが、オロルンは酷く頑固だ。どれだけ言い募ったとてオロルンが首を縦に振ることはないだろう。
    だが、それと同時に人の好意には滅法弱いきらいがあるというのも事実だ。
    「苦しむ友人に手を差し伸ばさせてくれないほど、俺を薄情な人間にするつもりか?それとも、友人だと思っているのは俺だけか?」
    オロルンは慌てたようにまた首を振る。そして、わざわざ教えてやらずとも自分が嵌められたのだと気が付き、恨めしげな視線を隊長に向けるのだ。
    「きみ、ずるいぞ…。でも、いまは本当に大丈夫なんだ。きみの助けが必要なとき、よばせてもらうから」
    及第点と言ったところか。
    それでいいと言わんばかりに頷き、食事を再開したオロルンを無意識のうちにじっと見つめる。だがオロルンが嫌そうにする様子はなく、と言うよりも話し終えたあとはまた徐々に意識が奪われていっているのか、隊長の視線にも全く気が付かない。
    「…眠るといい」
    全て食べ終わった器を回収し、そう声をかけた。のろのろと床を四つん這いになって動き、あのコートをぎゅっと抱きしめて布団の中へと潜り込む。うっとりとした様子で抱え込むその姿はまるで昨日とは別人で、ヒートというものはこんなにも人を変えてしまうものなのだと今更ながら驚いた。
    ランプの灯りを極力小さくし、また計画書の続きをカリカリと書いて思考を深くめぐらせる。
    オロルンの言う通り、明日にでも収まればいいのだがと小骨に引っかかったような思いが片隅で発現していることを知りながら。


    ・・
    ・・・

    「オロルン。起きれるか」
    予想は見事、嫌な方向へと的中した。
    思考に没頭していればいつの間にか夜が更けており、朝日が見え始める頃合だった。だがまだ部下たちの起床時刻には早く、オロルンを起こす必要も無い。中途半端な時間に思考を切り上げてしまったことに少々の落胆を覚えるものの、どうせ眠れないのだから休憩にはちょうどいい。既に火が消えてしまったランプをそのままに、羽根ペンを置いて凝り固まった体をほぐす。
    そうして、ふと昨日のオロルンは寝たら大丈夫だと言っていたが本当に大丈夫なのだろうかと気になり、振り返ってみると、
    「……っ、は、……っ、ぅ」
    昨日より荒い呼吸、昨日より高くなった体温、昨日より震える声。酷く、苦しそうだったのだ。
    明らかに、昨日より症状が重い。ヒート時のオメガの状態は存じているが、実際目にすることと本で読むことは随分違うらしい。やはりフェロモンは感じないが、世の中のオメガがヒートを厭い抑制剤なるものを作り出した理由がわかった気がした。
    声をかけてみたが反応を示すことはなく、眠っているのか、それとも正気を保つことが出来ていないだけで起きているのか、どちらかは分からないが兎にも角にも起き上がれないのは問題だろう。医療班に頼ろうとも思ったが、ヒートを軽くする方法は薬しか無く、薬が効かぬと本人が言うのだから頼ったところで無意味に等しい。
    どういう、対応をすべきなのか。
    さっぱり分からず、仕切りの前で足踏みをする。苦しむ友人を助けたい気持ちはあるが、自分ではどうにもならない。外部を頼るにしても、意味が無いと。
    「…オロルン」
    やはり、反応は無い。聞こえるのは、荒い呼吸とたまに響く上擦ったような声。
    そっと、背を向けた。酷くないと言っていたオロルンがここまで酷くなったのは恐らく、自分のせいであろうというのは自明だ。それならば、あまり近づかない方がいい。彼が起きるか、もしくは食事係が配り始めるまで、天幕の外にいた方がいいだろう。
    ・・・・・
    ・・・

    と、思ったのだが。
    「…ぼ、ぼくの…っ」
    「いや俺のだが」
    昨日よりも少なくした朝食を持って天幕の中に入れば、昨夜のように出入口近くに黒い布饅頭が転がっており、今度は蹴ってしまうような真似はしなかった。
    朝食だ、そう言おうとしたが、隊長が入ってきているとわかるや否やぐでぐでに溶けそうな熱い体をゆっくりともたげて、2着目のコートをくい、と引っ張っる。最初はオロルンが何がしたいのか分からず、椀を近くにあった机の上に置いて、どうしたのかと目の前に片膝をついて目線を合わせるようにした。
    しかしその瞬間、溶けそうな体のどこにその俊敏性を隠していたのかは知らないが────見切るには十分な速さだったが────隊長の胸目掛けて飛び込んで来、安心したように小さく息を吐いたのだ。
    「……どうした」
    片膝を付いていた体勢を崩し、胡座をかく。そうしてやればいそいそとオロルンもその上へと乗り上げ、すっぽりと収まった。
    尋ねてやるが、オロルンは既に瞼が半分以上落ち、どろりと欲情する色を隠そうとも、いや、隠せないようだった。腕は力無く、手慰みに握られた、オロルンが羽織っている方では無いコートに入る力もそれほどないように思える。口から零れ落ちるのは声ではなく、熱い吐息のみ。
    何かを要求しているのか、それとも己の欲に振り回されて本意では無い行動を取らざるを得ないのか…。兎にも角にも、前述した通り隊長にはヒート中のオメガの扱い方は知らない。知ったところで、最早番を持つつもりのない己には関係の無いことだとすら思っていた。だが、友人が苦しんでいるのだから最も信頼できる医療班の一人に今日中に聞いておくべきだろうと心の内に決める。
    「朝食は」
    「はい」か「いいえ」を判断するほどの理性は残っているのだろう、数秒の空白の後、首を小さく横に振った。食は生命維持をするのに必要な手段であり、特に若いのだから1食であろうと抜くことは推奨されないが、それでもこの状態で食えというのは酷だろう。
    そうか、とだけ小さく零し、机の上に置いた椀を取ってしまおうと身動ぎすると、急にオロルンの椅子が動き出してしまったせいか驚いたように蕩けていた瞳を見開いて、緩く掴まれていたはずのコートは力強く握りしめられた。
    オロルンの驚きように隊長もまた驚き、その動きを途中で止めてしまう。どうしたのかとオロルンの方を見てやれば、必死とも言える顔つきで隊長のことをじっと見つめ、どこにも行くなと訴えかけるようにくしゃりと顔を歪めて何度も何度も首を振った。そして、声にならないのか、何度も口をはくはくと開閉したかと思うと、「ぼ…」とやっとの事で言葉を発した。
    「ぼ?」
    意味がわからず聞き返すと、伝わらなかったことに愕然としているのか、オロルンはさらに必死な顔になってコートを更に引っ張り、小さく口を開く。
    「ぼ、ぼくの…っ」
    「いや俺のだが」
    ほぼほぼ反射だった。デジャヴだろうか。
    オロルンの肩に引っかかる貸してやった1枚を指さそうと視線を顔付近に向け、お前にはその1枚があって俺が今着ているものはお前のでは無いといい募ろうとする。
    「それにお前には1枚貸してやった、だろ、う……」
    だが、それは不自然に止まってしまった。隊長が言葉を失い、再び動きを止めてしまうほどのものか、目の前にあったのだ。
    その愛らしいヘテロクロミアに、透明な膜がはってある。透明な膜……つまり、涙だ。
    これまで、隊長もしくは天柱騎士として生きてきたが、隊長が見たのはどれも恐怖や悔しさによる涙。子供に怖いと泣かれた若きあの頃は流石に少し堪えたが、今や涙で感情はそう動かない。
    ……そのはずだったのだが。
    隊長に拒まれたという事実で、膜を貼るだけだった涙はどんどん縁に貯め始め、ダムが決壊するのももう時間の問題。絶望のどん底にいると言ったような悲壮感溢れる顔は、どれだけ冷酷な、それこそ博士───はさすがに無理か。富者くらいならたじろぐのでは無いだろうかといった様子。人格者である隊長が、たじろがないはずもないのだ。
    「…何故、泣く」
    そう尋ねた。だが何故泣いたのかなど、その引き結ばれた唇をわざわざ開かずとも頭の中では理解していた。今までにないくらい仮面の中の青い瞳を丸くさせながら、オロルンの肩から滑り落ちそうになったコートを掛け直してやるのは心を落ち着かせるための一種の鎮静剤のようなもの。
    隊長自身は無意識下で行っているものだが、それだけ動揺してしまったということ。
    「……泣いてくれるな。お前に泣かれると、どうすればいいのか分からなくなる」
    粋されているという自覚はある。粋されていなければ胡座をかいた上に乗せることも無いし、ましてやコートを貸してやる義理などなかったはずだ。それに、何も手につかないほどの焦りを感じ、何かをしなければならないというのは分かっているのに、どうすればいいのか分からないという未知の感情さえでてきてしまった。
    感じたことの無い感情に、心が荒れ狂う。まるで、嵐のようだ。
    「……換えはある。1枚残してくれさえすれば、何を持っていっても構わん」
    ぴくりと、オロルンの耳が動いた。ほんとうか、と声にならず吐息だけで尋ねるその言葉に頷いてやると、嬉しいと言わんばかりに耳が小さく動く。
    先程の涙はどこへ行ったのやらコートをぐいぐい引っ張り、早くちょうだいと急かすオロルンを軽くいなして小さく息を吐いた。平面上は取り繕っているが、了承以上の意を思わず伝えてしまう自分に動揺しており、オロルンのこの世の終わりかという悲壮に満ちていた顔つきがゆっくりと安堵に変わった瞬間、確かに白波を立たせていた心は少しずつ落ち着いていったのだ。
    隊長とて人であるため、起伏は少ないにしろ人並みの感情はある。だが不思議に思ったのは、オロルンの悲壮感溢れる顔を見た瞬間なぜ自分の心に白波が立ち、オロルンの安堵した顔を見た瞬間なぜ自分の心が落ち着いたのかということだ。
    一般的に、この感情は安心と呼ばれるものの類であることは分かっている。だが、それを何故オロルンによって引き起こされたのかが分からないのだ。
    ……ただの、ただの共犯者のはずだ。別に、なんの感情も抱いていなかったはずだ。
    隊長から無事コートを剥ぎ取り、胡座の上でご機嫌なオロルンをじっと見つめる。何かが、何かが分かるかもしれない。
    でも。ファーに顔を埋める姿を見ても、胸の内にコートを抱き込んで微笑む姿を見ても、うっとりと蕩け始める表情を見ても、何も分からない。
    ただ、心がざわめく。それだけだ。
    不快だった。味わったことの無いこの感情は名状し難いものであり、到底許容できるものでは無い。いつもは身を潜めているくせに、オロルンを目にした時だけ、酷くざわつく。
    「……」
    わからない。分からないが、きっとこれは言葉にするべきではないと直感が囁いていた。その感情に名をつければ、知らなかった日々にはもう戻れぬと囁くのだ。
    「…もう戻れ。今はそれで十分だろう。目を覚ました時、欲するものを言うといい」
    返事を聞くよりも前に、そのまま抱き上げた。あの蕩けた瞳では、明瞭な返事は見込めないだろうから。
    だが敷布へと下ろす際、下ろせば直ぐに立ち去ろうとしたのだがそれは出来なかった。
    爪の少し伸びた指が、コートではなく隊長の今着ている黒い服を握っていたのだ。弱い力であるのにも関わらず、どうしてか振り払うに振り払えない。
    「…ぃ、ちょ…」
    甘い、声だった。
    「……」
    一瞬の迷いの後、掴む指1本1本をゆっくり剥がしていき、全てを引き離したあとは何事も無かったかのように敷布の上へと転がす。
    オロルンの視線から逃げるようにしてそしてそのまま立ち上がり、仕切りという名の薄い布を通り抜け、そのまま天幕の外へと足早に出ていった。
    その間、いや、外に出てからも心臓のどくどくと波打つ音がずっと耳の奥で鳴り響いている。どうしてかは分からない。知る由もない。
    何度が深く呼吸をし、心を鎮める。
    耳の奥で鳴り響く音が落ち着いたあたりで、心臓の上に手を当ててまた小さくため息をついた。
    「…分かっている。お前たちを還すことが、俺の使命だ」
    だから。握られた瞬間に感じた甘い匂いなんて、知らなくていいのだ。

    ■■■

    「…壮観だな」
    2着目のコートが奪われて一夜が明けた。あの後もオロルンは何度か目を覚まし、最早意味をなさなくなった仕切りをぼんやりと突破して、隊長がいようがいまいが何をしていようと、お構い無しにクローゼットや洗濯籠を漁り始める。下着を持っていかれそうになった時はさすがに止めたが、それ以外は好きにさせた。
    そして過ぎた日数は1日だけだと言うのに、目の前にあったのはそれなりに盛られた布の塊たち。請われるがままに与えれば、いつの間にやら服のほとんどを与えていて、所持している服が少ないゆえかこんもりと言うほどでは無いが、巣の城壁くらいにはなったのでは無いだろうか。
    「……」
    頭が働かず熱っぽいせいか緩慢な動作で進みは遅く、時おり何かに耐えるかのように小さな甘い声を上げて蹲る。それをかれこれ数時間続けており、よくも飽きないものだと遠目で見遣っていた。
    隊長とオロルンの芸術的感性は随分違っているらしく、隊長から見れば雑多に置いているようにしか見えないが、まずベッドの周りを衣服で覆い、オロルンは納得のいくまで微調整を繰り返す。そして中央に衣服を詰め始めたかと思うと、また微調整を繰り返すのだ。
    昨日、医療班の中の最も信頼できる部下にオロルンのこととその対応を聞いたところ、昨日の好きにさせるという対応はどうやら正解だったらしい。求めるものは与え、巣を作るオメガは邪魔しない、そして完成したところを見せてくれたならばそれは信頼の証であり、絶対に褒めろと。
    だが、オロルンはそもそも見せることが無いだろう。信頼関係を結ぶには短く、ただの共犯者という関係。しかも、相手は悪名高いファデュイでマイナスから始まった信用も信頼も、無いに等しいはずだ。
    今は特段することもないからと椅子に座り、その様子を眺めていれば、オロルンが急に顔を上げて隊長の方をじっと見た。そしてよろよろと立ち上がって隊長の方に寄っていく。
    「……?」
    何がしたいのか分からず首を傾げていると、オロルンはゆったりとした足取りで目の前に立ったかと思うと、随分と控えめな動作で隊長の袖を、くい、と引っ張った。
    「たいちょう…」
    舌足らずな声。だが発せられたのはその一言のみで、やはり何がしたいのか分からず動かないでいると、何度も袖が引っ張られる。
    服が欲しいのだろうか。だがそういう時は勝手に持っていっている。ならば、腹が減ったか?いや、そんなはずは無い。今朝無理矢理食わせた。と、なると…
    そこでようやく、オロルンの望んでいるであろうことについての予想が着いた。
    「来い、と?」
    そう言って立ち上がれば、どうやら合っていたようで隊長の袖をぐいぐいと引っ張りながら仕切りの向こうへと歩いていく。俺だからいいものの、他のアルファにはそういうことをするものでは無いと何度も言っているが、如何せんこの状態故、聞いているのかいないのか分からない。
    そうして辿り着いたのは、先程まで熱心に作っていた巣。ぺたりと巣の真ん中に座り込み、それと同時に視線を合わせるように片膝をついた隊長を少しだけ見上げる。
    「ぼく、ちゃんとできたよ。…えらい?」
    ……存外、信頼されていたらしい。
    オロルンはぺたりと座り込み、とろりと蕩けた上目遣いで首を傾げる。部族で可愛がられているというのは聞いていたが、父性や母性を引き出す魔性にも近いだろう。可愛がられない理由がない。
    よく出来ている、という賞賛と、あまり人を信用しすぎるなと言う警告。よく出来ているが、あまり俺を信頼すべきでない、それを言おうと、口を開こうとした。
    開こうと、したのだ。
    「…っ、……」
    だが、急に口が回らなくなった。
    いや、声がそもそも出なかった。喉が震え、声だけがつっかえてしまったかのように出ず、吐息のみがその口からは零れ落ちる。
    言わなければ。そう分かっているのに、隊長にとっての『変化』がそれを拒む。500年間生きてきて今まで襲ってきたことの無かった変化が、とうに捨てたと思っていた未知への恐怖へと成り果て、言葉が上手く出てこず、頭も回らないのだ。
    本人は言わねばと奮闘しているつもりだろうが、傍から見れば、冷静さを保ちつつも何も言わない隊長にオロルンは首を傾げ、もう一度呼ぶ。
    「…たいちょう……?」
    どくりと、心臓が脈打つ。その甘ったるい声に、どうにも耐えられない。精神の支柱にヒビが入り、今にも跡形もなく崩壊してしまいそうなのだ。
    酷く、甘い匂いがした。くらくらと酩酊してしまいそうなほどにそれは濃く、毒のように身体の内部に入り込み、ゆっくりと思考を侵していく。身に覚えのない感覚だ。身に覚えのない、恐怖すら感じていた感覚だと言うのに、なんというべきか酷く心地がいい。
    「………」
    呼気が荒くなり、唾液の分泌量が多くなって、瞳孔が開く。正気ではないということは分かるというのに、どう頑張ってもその頬に伸ばす手を止められることは出来なかった。ゆっくりと触れた手にオロルンは擦り寄り、花のように笑いさえする。
    だめだ、離れてくれ。今の俺は正気では無い。そう言葉にしようと思うのにやはり声は出なくて、焦燥感を滲ませた呼吸のみが天幕の中に響く。
    「ぼく、できたよ…?」
    不安げな、声。こちらに手を伸ばし、触れようとする。自分の行動一つ一つが、理性を打ち砕くものだとは知らないで。
    手が、指先が、仮面に隠された頬に触れる。たったの、それだけだった。それだけだったと言うのに、耐えていた全ては瓦解してしまったのだ。
    呑まれる、そう思った時にはもう遅く、四方を囲まれ、逃れる術などありはしないのだった。
    「…?たいちょ、」
    さらけ出されたうなじ。白魚のような白い肌。潤む瞳。紅潮する頬。投げ出された足。震える吐息。力の入っていない腕。誰の支配も受けていない、胎。
    目の前にいるのは、何も知らない無垢なオメガだった。
    噛め。本能が叫ぶ。その愛しいオメガを、噛んでしまえ。そうしてしまえば、お前の色に染まり、お前の為だけに発情し、お前の為だけに巣を作り、お前の為だけに腹を疼かせるのだ。
    それをお前は望み、目の前のオメガもそれを望むだろう。なぜなら彼が、彼がお前の運命だ。そうだ、そうに違いない。
    誰の手垢もついていない今、お前のものにしてしまえ。その美しい誰の跡もついていないうなじに視線を寄せ、肩をつかみ、宥めるように舐め、そして歯を突き立てるのだ。
    あぁ、そうしろ、お前はそうするべきだ。
    …だが
    「ぃ、いたい…っ!たいちょう、いたい…!」
    己の下から、声がした。怯えと悲しみの色をした、声が。その瞬間埋もれていた理性がハッと正気を取り戻し、己が今何をしていたかを整理するよりも先に、目の前にある光景に驚きと戸惑いを持って目を見開いた。
    オロルンが、いたのだ。自身に組み敷かれ、ぐちゃぐちゃになった巣の上で泣く、オロルンが。その有様と言ったら酷いもので、抵抗したのだろう、服があちらこちらに飛んでいってしまっていた。痛い、と言っていたのは腕のことで無意識のうちに力を込めて掴んでいたその腕は赤くなっており、青アザが出来るかもしれない。慌てて腕を離して組み敷いていた体を起こすも、その恐怖に染ったその顔はもはや発情どころでは無いのだろう。涙が浮かび、くしゃりと顔を歪ませる姿はまさに悲痛そのもの。
    途端に本能という獣は鳴りを潜め、代わりに壊されたはずの理性が継ぎ接ぎになって現れる。
    「す、まない、オロルン…」
    謝罪をするものの、オロルンはぐすぐすと鼻を鳴らして、とめどない涙を流している。その涙をどうにかして止めようと腕を動かすが、あのような事をしたと言うのに、その涙を拭う資格はないだろうと腕は力無く下ろされる。
    ただただ、己のしたことが信じられなかった。甘い匂いを感じたかと思えば思考が急激に働かなくなり、無意識のうちとは言うが、オロルンを組み敷き、痛みさえ与えたというのだ。叫ぶことのなかった本能が表に出て、オロルンの声がなければ確実に取り返しのつかないことになっていたことだろう。大丈夫だと、思っていた。自分はフェロモンが効かないからとその体質に甘え切り、昨日の甘い匂いを気のせいにしていた。
    彼に対する申し訳のなさと、もう気のせいにはできないほどの強い本能。それらが羽交い締めになって、酷い罪悪感が胸の内に広がる。
    「すまない、オロルン。すまない…」
    その言葉を繰り返すことしか、出来なかった。

    ■■■

    何故、あのようなことをしてしまったのか。何故、アルファの性が再び息を吹き返したのか。
    朝のあの騒動から数時間経ち、あの天幕にはいない方がよかろうと立ち去ってからずっとそんな調子だ。上官の動揺は部下に伝わる。故に自主鍛錬を命じ、一人ナタの大地を宛もなく彷徨っていた。
    何故、あのようなことをしてしまったのか分からない。衝動のまま、と言えば簡単だが、その衝動も問題なのだ。鍛錬を命じた際、部下の中にはオメガ性を持つ者がいたが、その者に対しては何も感じなかった。発情期でないからかもしれないが、何となく本能が、この者は違うと言っている気がするのだ。
    「運命の番…」
    その言葉自体は、聞いたことがある。ただでさえ少ないアルファとオメガ。その者達には運命の番という魂から惹かれ合う存在がいて、たとえ本人たちに別の番がいたとしても、惹かれあってしまう、厄介な代物であると。だが、その厄介な代物となるのは非常に稀で、そもそも幾人いるのかも分からない人類の中からたった一人を見つけ出すなど、到底できない。ましてや隊長など、500年という人間にとっては非常に長い年月を生き、どのタイミングで運命の番が生まれ、死んだのかすら分からない。
    それがまさか、彼だとでも言うのか。
    もし、もしそうだったのだとしたならば、全ての説明はつく。
    感じ取ることの出来なかったフェロモンを感じ取ることが出来るようになったのも、抗えない本能に飲み込まれてしまったことも、全て、魂から惹かれ合った結果なのだとしたら、納得するしかないだろう。
    運命など信じていないというのが現実だった。だが、信じる他ないだろう。
    小さく、ため息をついた。
    どうしたものかという戸惑いと、彼を前にして今度抑えられるか分からない自身への恐れ。
    あの天幕にはできる限り戻らない方がいいのではあろうが、このような事態を全く予想していなかった為、必要なものは全てあの天幕の中。戻らないという選択肢はないだろう。
    また溜息をつき、野営地の方へとくるりと足を向けた。空はとうに暗くなり、自身が悶々と悩み、どれだけ彷徨い歩いていたのか鼻で笑い飛ばしたくなるような時間帯だった。
    既に部下は眠っているだろうし、どうせ天幕に戻ったとしてすぐに出ていき、眠ることも出来ないのだからゆっくり歩くべきだろう、とあまり見ることのなかったナタの夜を眺める。
    ナタ特有の植物が生暖かい風に揺られ、水面が波立った。ナタの野外は竜が多く住んでいるが、餌をやれば友好的な視線を向けてきたり、夜になると大抵は眠っている。そのため、比較的安全ではあるのだが、たまに厄介なやつに出会うこともあるのだ。
    野営地から少し離れたところ、月夜の下に大型の影と地を鳴らす思い足音が聞こえてきた。
    「…ミミックフローラか」
    真っ暗な夜の下、遺跡重機がガチャガチャとやかましい音を立てて歩いている。野営地方面には足を向けていないからと一瞬見逃しそうになったものの、闇夜に紛れる紫色をしていたため直ぐに別のものだとわかった。アビスならば、話は別だろう。相手は多数の変化をするが、そのどれもが隊長にとっては対処可能なもの。そう対した脅威では無いが、討伐するに越したことはない。
    手の内側に氷の剣を顕現させ、相手に気が付かれぬうちに近寄り、先制攻撃を仕掛ける。
    遺跡重機の弱点は膝元のコアだ。誰もいないと思っていたのか無防備にさらけ出されていた両足のコアをすぐさま砕き、理解が及ぶ前に膝をつかせる。あまりに一瞬のことすぎて何が起こったのかわかっていないミミックフローラは抵抗といった抵抗もせず、急に足が動かなくなったという認識なのだろう。氷の斬撃をいくつか喰らわせてやればようやく状況が理解出来たのか、遺跡重機への変化をやめて今度は身軽なヒルチャールレンジャーにしたらしい。
    しかし、隊長にとっては僥倖であった。刃を通しにくい遺跡重機より刃の通しやすいヒルチャールの方がやりやすい敵であり、いくらヒルチャールが身軽であろうと隊長の速さには追いつけまい。
    「ハァッ!」
    決着は随分と早かった。ヒルチャールレンジャーが水元素の攻撃を仕掛けた直後に懐へと潜り込み、その腹に大きな風穴を開け、そしてよろめいた瞬間に首を断ち切り、ミミックフローラは本来の姿を現して絶命したのだ。
    ここにオロルンがいたら、恐らくどうやったんだ?とキラキラした目で尋ねてくるに違いない。以前、目の前で倒してやると子犬にも劣らないその輝いた瞳をしていたから。その様子を思い出しふっと笑うものの、その瞬間にその口を片手で覆ってしまった。
    ……今俺は何故オロルンのことを考えていた?
    冷静な部分の思考が、そう己に尋ねる。前まで、ここにオロルンがいたら、なんて考えたことは無かった。そもそも、誰かがこの場にいたらという想像をすることがない。
    ……あれだけ先程まで考えていたのだから、出てきてしまうのも仕方がない。
    そう片付けることにし、気付かぬうちに零れた一つ溜息をつき、ゆっくりと歩みを野営地…ひいては隊長の天幕の方へと向けた。眠っているだろう彼を起こさぬよう、静かに入らなければなどと思って。

    ■■■

    「……オロルン?」
    だが、予想は打ち砕かれた。天幕の中に入ると、そこは随分な荒れようだった。座っていたはずの椅子がひっくり返り、寝具や巣の材料がぐしゃぐしゃになり、本は軒並み倒され、書類は散らばり……そして、目の前にはコートを肩にかけて、裸足のまま座り込むオロルンの姿があった。
    そして声をかけてやると、パッと弾かれたように顔を上げて、ぐうっと口を引き結んだかと思えば溜め込んでいたらしい涙をはらはらと流し始める。
    また、なにかしてしまっただろうか。それとも、今朝のことで酷く怯えさせてしまったのだろうか。あぁ、そうだ。そうに違いない。
    すまない、と一言だけ言ってまた天幕から出ていこうとすると、オロルンは酷く慌てた様子で隊長のコートの裾を引っ張り、涙でぐしゃぐしゃになった顔を横に振った。
    「た、ぃちょ……っ、…、どこ、……っ、いって…ぇ……ッ!」
    目元が赤く、喉も酷く上擦っている。
    「どうした、何かあったのか」
    まさか、辺りをうろつく宝盗団や暴漢にフェロモンも感じ取られ、襲われたとでも言うのか。それで、こんなにも荒れてしまったのだろうか。そう思いぐるりと天幕を見回すものの、予想は外れてそんな気配は一切ない。あぁ、当たり前だろう、ここはファデュイの野営地。わざわざそこに入り込む命知らずなんて居ないはずだ。
    気が、動転している。
    何度が深く息を吸って、オロルンの聞き取りずらいぐすぐすとした柔い声に耳を傾ければ、なんとなくだが、聞こえてきた。
    「どこっ、…いっ、てた……の…ッ」
    ぐすぐすと鼻をすする音をさせ、目元を何度も擦りながらそう尋ねるものだからとりあえずしゃがみ、擦るのを辞めさせ、質問に答える。
    「すまない、少し外に出て─────、」
    いただけだ。そう言おうとするが、残念ながらそれは叶わない。
    「はなれないで……っ!…ぼく、を…っ…、……おいて…、いかないで……」
    オロルンが、ぎゅうっと、隊長の胸板に顔を押し付けるように飛び込んできた。離すものかと言わんばかりに背中に腕を回し、首を振りながら今の言葉を放つ。行かないで、離れないで、置いていかないで。何度も何度も、そう言い募る。
    正直言って、呆気にとられた。
    お前に酷いことをした男だぞ、お前を泣かせた男が、目の前にいるのだぞ。それをわかっていて、このようなことをしているのか。
    その背に腕を回すことは叶わず、少しでも正気を保とうと爪を手のひらに食い込ませた。痛みに慣れきった体では微細な刺激でしかないが、ないよりはマシだろうから。
    「オロルン、」
    「きみが、いないとぼく…っ」
    また、泣かしてしまった。
    オロルンが泣いているというのに、腹立たしくも甘い毒は着実に思考を呑み込んでいき、彼を縛りつけろと囁く。
    だが、それはならない。この青年を縛り付けるなどあってはならないし、未来を奪うことなど以ての外だ。話を、話をしなければ。
    「オロルン」
    今度は、しっかりと名を呼んだ。顔を上げ、こちらを見ろと。
    そろそろと見上げその星を宿した青い瞳と目が合ったのを確認すると、小さく息を吸い、覚悟を決めたように、言い訳にしかならないが、と口火を切る。
    「俺は今、お前のフェロモンを感知できる状態にあり、理性もそれほど長い間は抑えられん。故に、このままでは今朝のようにお前のことを襲い、噛む危険性すらある。俺たちは、形ある関係になるべきでは無い。…俺が何を言いたいのか、わかるな?」
    聞かん坊の子供を諭すように、できるだけ優しい声色でそう言った。嘆願のようにも聞こえるが、実際はそうだ。お願いだから言うことを聞いてくれ、という願い。
    だがオロルンはその言葉に首を振り、嫌だと言わんばかりに髪を振り乱す。涙でベトベトになった顔に夜色の髪がはりつく不快感をものともせず、隊長の背に回していた手を、ぐっと握りしめた。
    「…わからない、わかんないよたいちょう…。ぼく、きみと一緒にいたい…!」
    その瞳に映るのは、悔しさでも悲しさでもない。隊長にとっては、感じたことの無いわからないものが映っていた。
    絶対に離れない、そうとでも言いたげな手に戸惑いを隠せない。オロルンが何故、そこまで執着するのか分からなかった。アルファだからだろうか、それとも…、もし、もし仮に運命なのだとしたら、それに引きずられているのだろうか。
    努めて平静な声を出そうと小さく息を吸い、宙ぶらりんだった両手をオロルンの肩に乗せ、胸板に顔を埋めるオロルンを無理にでも引き剥がした。
    「我儘を言うな。お前にとって、俺は天敵に等しい存在だ。いいか、もう一度言う。お前にとって、俺はお前を害するアビスの魔物と変わらん。故に先程のように俺はお前に酷いことを、っ」
    するかもしれない。そう言おうとしたのだが、言葉が詰まった。だが今回はアルファ性によるものでは無く、オロルン個人のものに対して驚いたのだ。隊長の知らない色を抱いていた瞳はみるみるうちに怒りの色へと変わっていき、あまりの激情に眉が吊り上がる。そして口を開き、まるで威嚇するかのような声色で隊長の言葉に異を唱えた。
    「されてもいい!ぼくはそれを望んでる!だってっ……君になら、ぼくは…、」
    今度は、隊長の方に怒りの色が浮かび上がる番だった。何を、何を巫山戯たことを抜かしているのか。わざわざアビスという言葉選びもしたというのに、この青年は何も分かっていない。胸ぐらを掴んで問い正したい気分にさえなるほど、オロルンのその言い様に腹が立っていた。
    「オロルン!自分が何を言っているのか、分かって言っているのか!」
    「わかってる!ッぼくは、君にならなんだってされてもいいんだ!…だって、だってぼく…っ、君のこと、ずっと…、……ッ」
    キッと隊長を睨みつけ、間髪入れずに吠え付く。
    あまりに頑固で強情なこの若い青年に、自分の未来を捨てるような発言はするべきでない、と隊長が言い聞かせようとするが、逡巡の末、口を噤んだ。噤むべきでは無いとはわかっているのだが、オロルンをよく知るものがその顔つきを見れば、これは無理だと匙を投げるであろう、強い意志を感じる顔つきであった。
    この青年が頑固であることは身をもって知っている。故に、その意思を隊長を持ってしても曲げられないということも。これ以上、何を言っても無駄だ。
    頭を抱えたくなった。オロルンに出会ってからそういう気分になる時が多い。難解な節に、突然の暴挙に、奇怪な言動……そして、今のような頑固さ。
    隊長は、頭を抱える代わりに目元を手で覆った。そして余韻を引く大きな溜息をつき、諦めたような声色で未練たらしくも引き下がるのだ。
    「……お前は必ず後悔する」
    「ぼくは後悔なんてぜったいしない」
    だが最後の説得も、1秒も掛からずに切り捨てられて、やはり無駄に終わったらしい。
    「…その言葉、覚えておくといい」
    捨て台詞にも似た言葉を吐き、やはりこらえきれないため息をもう一度吐いた。すっかり涙も止まって落ち着いている様子のオロルンを見やってから、もう離れろ、とだけ言う。少し寂しそうな顔をしてオロルンは先程とは打って変わって大人しく離れ、また来てくれるのかと尋ねた。
    「晩にまた訪れよう。自分の言ったことを、それまでによく考えろ」
    ゆっくりと立ち上がり、オロルンに背を向ける。その考えが、変わってくれるかもしれないという無にも等しい希望を抱いて。
    すっかり明るい朝焼けとなった外へと出て、存外自分は気を張っていたらしくどっと疲れが襲ってきた。どこかに腰を落ち着けるかと休憩できそうなスペースを探そうとするが、己のある違和感に気がつく。
    既にその機能を果たさなくなったと思っていたところが、兆していたのだ。
    その事実に戸惑い三割、生命への関心二割、情けなさ五割が心の中で渦巻く。400歳以上歳下の青年に何を考えているのだという己への非難の声と、あのフェロモンを近距離で浴びていたのなら仕方がないという己を擁護する声が拮抗し合う。だが隊長は、そのどちらの声にも耳を傾けることなく、隊長らしからぬ風に舌打ちをした。いつもより荒々しい足取りで野営地から離れ、やがて姿が見えなくなる。
    そして、隊長の出ていった天幕に残り、少しだけ差し込む朝日をぼんやり見つめるものが1人いた。黒いコートに覆われ、自身が暴れた結果ぐちゃぐちゃになった巣の材料を手に、心ここに在らずといったふうで。
    青年の目は、天幕の向こうにいるはずの、黒い愛しい人を追う。
    「……ずっと、愛してるんだ」
    見えぬ背中に、そう吐露した。



    「…オロルン」
    晩、天幕へと足を踏み入れた。甘い匂いに理性の箍が外れそうで、獣のように襲ってしまわぬよう手をぐっと握りしめる。爪がくい込み、血が流れ落ちるほどだったがそうでもしなければ、正気を保っていられなかったのだ。
    山盛りになった巣がもぞもぞと動いたかと思うと、ゆっくりとオロルンが顔を出した。昨夜の激情はなんだったのかと思わせるほどにぼんやりと蕩けきった顔は、隊長の方に視線を向けたかと思うとふにゃりと笑う。
    「たい、ちょ…」
    僕はもう大丈夫。準備できているから、早く来て。そうとでも言いたげな声色に、理性がぐらりと傾き流されそうになるのをぐっと我慢し、短く浅い息を吸う。ここで深呼吸してしまっては、それこそ手のひらに食い込ませた爪の意味が無いから。
    「本当に、いいんだな」
    低い声だった。今にも決壊しそうな堤防を必死に守るような、声だった。しかしそれはどこか期待している声色も含まれていて、オロルンが拒むことをまるで望んでいるかのような、あまりにふたつが相反した感情だったのだ。
    自身の感情の揺らぎに気が付かぬほど追い込まれていて、無意識のうちに息を潜めながら静かにオロルンからの返答を待つ。
    「……きて」
    そうして巣の中から返ってきた答えは、是という言葉。迷いはなく、これからの事柄に対して万事上手くいくと思わせるような、甘露の如き響きだった。
    まるで魔性だ、そう思った。オロルンが何人いようが隊長に勝ることは無いというのに、許可を意味する言葉を待っていたかのように足は勝手にズルズルと巣の方へと動き始めたのだ。言葉一つで堅固な隊長の理性を壊すことが出来るのだから、これを魔性と言わないでなんと言うべきだろうか。
    きて、と言われたその瞬間から思いとは裏腹に足は歩み初め、理性の箍を外さぬよう力む必要はないのだと手の中の力は抜かれていた。仮面の中の瞳孔が広がり、手の内にあるオメガを犯してしまえと本能が叫ぶ。浅く短い呼吸は落ち着くためのものではなく、熱と興奮を表すもの。
    オロルンという一人の人間で、隊長のこれまで積み上げていた壁を瓦解させるにはあまりに十分すぎた。
    巣の前に立ち、見下ろし、そして片膝を着く。この期に及んで入ってもいいかという律儀な様子が面白かったのだろうか、オロルンは少しだけ微笑んだあと隙間を開ける。
    「どうぞ、たいちょう」
    巣に迎え入れるということは、そのアルファを受け入れたということ。身も心も全て明け渡して、思うがままに乱し乱され、熱を交わし合う。
    例え明確な言葉を持ち合わせる仲ではなかったとしても、少なくともオロルンはそれを望んでいたように思えた。
    その言葉に頷き、だが空けてくれた隙間に体を滑り込ませることはなく、オロルンの顔のすぐ側に手を付け、押し倒すような格好になって上から見下ろす。長い黒髪がサラサラと肩を滑って落ち、互いの空間に黒が広がった。俗世とか隔絶されたかのような、二人しかいないような。互いを見つめ合うこと以外を許されず、他に視線を寄越すなど出来るはずもなかった。
    見つめ合い、視線を交差させ、何かが、ぐらりと傾く。
    本能と理性の比率は八対二、極わずかな理性は既にこの行為を肯定し、乱暴にするなと、それだけを大声で叫ぶ。分かっていると返せたならよかったが、如何せんそのような余力は既にない。
    ただ、口にすることが出来たのはたったの一言。
    「お前が嫌だと感じたなら、殴ってでも止めろ。いいな」
    正直言って、それで止まってやれるかと言われれば自信はあまりない。本能に飲まれるという経験はした事がなく、それ故に今から行う行為については己が酷く恐ろしくもあった。
    だが、目の前のオロルンが本気で嫌がる素振りを見せれば気が付かないなどという愚行は絶対にしないだろうという確信もあった。
    あの日、彼を押し倒してしまった日。怯えと悲しみの混じったあの顔が、何度も頭に浮かんでくる。氷に包まれたかのような冷たさを帯びたかと思えば、目の前の光景を理解した途端、心臓が冷たくなり、頭が冷え、言葉にならなかった。自身がこのようなことをしたのだと理解するも時は既に遅く、後悔と自責の念に覆い尽くされ、その悲痛な顔はそれ以上なのだと、思い知ったのだ。
    だから二度とあのような顔をさせないと心に誓った。
    絶対に、あってはならないと胸の内に刻んだ。
    だがその隊長の決意とは裏腹に、すっかりと口元を蕩けさせて心の声を胸の内にしまうことの出来なくなったオロルンはぼんやりとした様子で呟く。
    「きみになら……ぼくはなにをされてもいいっていったのに…」
    隊長がその言葉を聞こえなかったはずもないだろうが、ゆっくりと頭を撫で、何も聞こえないふりをしていた。狡い男だと、オロルンは今度こそ心の内で零す。
    「……」
    頭を撫でていた手は、やがて頬に触れた。熱くなった頬と手はもや境界線がないくらいにまで溶け合い、オロルンの左目の下にある燃素銘刻を優しくなぞる。触れられる、それだけで満たされたような感覚になりそっと目を伏せ、心地の良い感覚に体を預けた。
    そしてまた手はゆっくりと下へと移動していき、今度は唇に触れる。ふっくらと色の薄い唇を、まるで壊れ物を扱うかのようにふにふにと何度も押す指はこそばゆく、隊長もこんな幼い子供がするような手慰みをするのだと、目尻が緩んだ。
    「……きす、してくれないの」
    少しだけ強請った。別にしなくてもいい。オロルンの恋心が少しだけのわがままを訴えただけなのだ。
    隊長はゆっくりと仮面の奥の瞳を瞬かせ、手慰みに押していた唇からそっと手を離し、やっぱりダメかとオロルンが視線を逸らすよりも先に、顎を指先で少しだけ掴んだ。逸らすなと、言わんばかりに。
    隊長の顔がゆっくりとオロルンに近付き、あ、と思った時にはやがて唇と唇が触れ合う。それは、ただただ熱を交換し合っただけ。舌を入れ、呼吸すらも掻き乱す熱烈なものではなく、触れ合い、互いを蕩けさせ、じんわりと心の底から沸きあがる温かさを望むものだった。お互い少しカサついていた唇は、やがて湿り気を帯びてその体温を色濃く感じるものとなり、それがあまりにも倒錯的だった。
    オロルンは隊長の背中にそろそろと腕を回して、最初は控えめだったのが拒否されないとわかると、もっと大胆に腕を回し、口付けの延長を願う。離そうとしていた隊長の唇を追いかけて、まだ足りないと訴えかければ、隊長は甘んじてそれに応えた。与え続けられる春の陽光のような心地良さにゆっくりと瞳を閉じ、触れるだけの口付けを何度も交わす。
    いくらほどそうしていたかは分からないが、オロルンが満足した頃、ようやく隊長は顔を上げて、己の下で恍惚とした表情をうかべるオロルンに、小さく舌なめずりをしたのだ。
    「脱がしても?」
    律儀に聞いてくる隊長に、オロルンは笑う程の余力はなかった。愛する人からの口付けを受け、それが長時間と来た。それが精一杯で、言葉に頷くことしか出来ない。
    オロルンの服の構造は比較的分かりやすく、脱がすことも容易い。服の内側に手が触れた感覚も、外気に触れた感覚も、随分とビクつき、だがそれは怯えている訳では無い。今まさに訪れようとしている初めてのことに、期待と興奮が一緒くたになって混ざり合っているだけだ。
    既に隊長の目はその色を捕らえており、逃がそうと言う意思は全くと言っていいほどなかった。
    「…オロルン」
    まるで請うように、名を呼んだ。
    伏せていた瞳はそろそろとまぶたを開き、真っ暗でただ一人しかいない隔絶された空間に、思わずと言った様子で笑みが零れた様子だった。
    隊長の背から滑り落ち、巣の上に投げ出されていた腕をもう一度持ち上げて、隊長の頬を撫でる。
    「……うん、きて」
    君の全てを、受け入れたい。

    ■■■

    その頬を、撫でた。濡れた目元にそっと触れ、先程までグズグズに蕩けていた飴玉のような瞳を思い出す。味わったことの無い快楽に犯され、小さく呼吸を繰り返す唇をなぞる。
    オロルンが拒めば、すぐに背を向け出ていくつもりだった。お互い無かったことにして、計画が終わればお互いそれきりの関係だったはずだ。いつでも手を離す準備は出来ている。出来ていたはずなのに、どうしてこんなにもこの手を離しがたいのか。
    失うばかりの人生、もう二度と何者にも執着はしないと決めていたのに。
    彼を貪り食う前は、何もかもが煩わしく思えて思考することが酷く億劫だった。彼を前にし、理性を手放し、この手の内に閉じ込めてしまいたいとさえ、思っていた。だがいざ、そのうなじを目の前にすればその考えは瞬く間に霧散し、手放したはずの理性は頭を徐々に冷やして「それはならない」と訴えかける。たとえ彼にどれだけの執着を、欲望を、願望を、愛を持っていたとして、あってはならないのだと。
    もし噛んだとして、秘源装置の件が成功すれば彼の人生はそこで終わるが、失敗すればどうにもこうにもならない。そのような事、彼の人生を奪ったも同然だ。本来ならば交わることの無いはずの人生だったのだから共に在ることを願うべきでは無いし、いずれ離れる運命に多少の取っ掛りをつけた所で彼の元に戻れる訳でもない。
    それをオロルンも分かっているはずだ。だから、情事の最中でも噛めということは言わなかったし、それを願う素振りもなかった。
    ただ一つ。お互いにあったのは、その長く短い人の一生で、多少なりとも胸の内に閉まっておける傷が作れたらいいと言う思い。ちぎれかかった紐の方が強固な関係を望み、だが完全に途切れさせる決心まではつかなかった。お互い中途半端に想い合い、だがそれを言葉にしてはっきりとした関係に位置付けることを厭う。
    希薄な関係を、望んでいた。
    あぁ、白状しよう。いつからかは分からない。かの蝙蝠に、惹かれていた。不必要だと捨てていた感情の片鱗を、拾い上げてしまっていた。
    死人のような存在が、若き芽を愛したのだ。
    オロルンは己の心を、天幕に入り込んでくるよりも前に自覚していたのだろう。下心ありきで、それを悟られないと確信して訪れたはずだ。運命だったというのは流石に予想していなかったようだが。
    抱擁を交わし、口付けを交わし、そして外聞も何もかもから目を背け、愛していないという言葉が浮かんでくる方が、難しかったのだ。
    「……オロルン」
    あぁ、5文字。たったの5文字。
    言葉にすることさえ、容易ではなかった。

    ■■■

    あの天幕から数日が経ち、言葉を交わすことはすれど、お互い踏み込むようなことはしない。天幕より前の関係性に戻ったような気がして、まるであの日は夢だったのではないかと錯覚し始めた頃。
    「……少しだけ、ちょっとだけでいい。お願いだ」
    そう請われたのは、秘源装置に関する全ての計画を実行するその瞬間のことだった。
    手をかざし、起動さえさせればもう彼の命は失われてしまう。地脈に溶け、その全てを持ってしてナタを救うのだ。
    だが、死を求める隊長とは違い、まだ二十そこそこしか生きていない青年にとっては、不安と喜び、相反する気持ちが拮抗し、漠然とした言いようもない思いを抱え込んでいるのは確かだった。
    その言葉に頷き、どうした、そう尋ねる。ここには部下もいないのだからと片側だけ出た頭をゆっくりと撫で、口篭る様子のオロルンに話すよう促した。確かな、愛おしさを持って。
    「…抱き締めてくれないか」
    指先が、小さく震えている。俯き、死という未知に対する恐怖と戦い、それでも溢れ出る恐怖に尻込みし、1人では耐えきれない様子。普通に生きてきた人間に、いきなり命を捨てろと言われても無理なように、オロルンとて例外では無い。
    だが、役目を放棄したくは無いからと懸命に抗い勝利を掴まんとするのだ。ただ、少しだけ今は恐怖が優勢で、その手助けをして欲しいと。
    ゆっくりと首肯すれば、オロルンの表情は少しだけ明るくなって、でも遠慮がちに少しだけ手を伸ばしてくる。あまりにいじらしくて焦れったいものだから、その手を引き寄せて分厚いコートの中に入れてしまう。しっかりと目を丸くさせるオロルンの背に手を回し、遠慮などさせぬようにと己に押付けた。
    戸惑っていた様子のオロルンもやがて背に腕を強く回し、心を落ち着けるように深呼吸をし始める。だが、その息はまだ震えていた。彼の心情を考えるのなら、震えないはずがないだろう。
    あぁ、止めてやらないと。それは最早、衝動に近しいものだった。恐怖に染まるその顔をどうにかしてやりたい。不安に揺れ動くその瞳を正してやりたい。震えを、止めてやりたい。
    顔を上げさせ、オロルンが何かを言うよりも早く口付けを落とした。震える息を止めてやるように、安堵をもたらすように。
    触れるだけの、お遊びのような口付けを。
    あまりの驚きにオロルンの震えは止まり、もう大丈夫だとゆっくりと唇を離してやる。少しだけ開いた唇を右手でなぞるが、もう、愛おしさを隠しもしない。
    「……すぐに向かう」
    誰に、どこへ。なんて言わない。すぐ、なんて言ったが、いつになることなのかもわからない。だが、オロルンの微かに残っていた震えはその一言で止まり、服が強く握られた後、2度の深呼吸をして、小さく「…うん」とだけこぼす。
    数分、あるいは数十秒ほど。外で見張りをしていた部下たちから襲撃の連絡を地脈を通じて受け、コートの中に隠したままだったオロルンをそっと促す。
    もう時間だ、と。
    その言葉にゆるゆると再び顔を上げたオロルンの顔にはまだ若干の不安が残っていたものの、覚悟を決めたように目を見開き、もう大丈夫だ、とコートから離れてしまう。自分から離れることを促したくせに、その熱の離れ難さに寂寥を覚え、それを悟らせぬようにそれでいいと頷いた。
    だが。
    秘源装置の方へと足を踏み出そうとしていたオロルンが振り返り、泣きそうな顔になったかと思うと1度離れたはずの隊長にまた抱き付いて、今度はオロルンからその唇と唇を重ね合わせた。
    慣れていないのだろう。稚拙で、拙く、下手くそで、それ故に、溢れ出る感情は満たされた感覚を抑えもしない。
    何度も数秒にも満たない口付けを交わし、やがて口が離されると今度はくしゃりと顔を歪めてしまって、縋るような苦しげな声が響き渡る。
    「……隊長。ぼく、…僕、君のこと…っ!」
    ──────でも。
    水を被せられたかのような、突然正気に戻った狂人のような、そんな顔でハッとした様子になり、自分が何を言おうとしていたのか信じられない様子で口を覆ってしまった。流れのままに口にしようとした言葉があったらしいが、途中でその流れは失せ、やがて停滞し、あらぬ方向へと向かっていく。
    誤魔化すように小さく口を何度か動かしたあと、先程の激情がまるでどこに行ってしまったのかと言わんばかりに口を何度か開閉した。
    「………。…僕、君のこと待ってるから。いつか君が死んだ時、会いに来てね」
    何を言いかけたのか。察せぬほど隊長は未熟ではなかったし、かと言ってそれを口にするほど情緒がないわけもなかった。ただその言いかけた言葉には言及せず、会いに行こう、とだけ。
    オロルンも知らぬフリをして、抱きついたままだった隊長から離れ、そのまま小さく後ずさった。
    そして余韻を許さぬよう遠くから聞こえてくるギミックの解除音に思ったよりも早くに到達しそうだと目線で合図すれば、オロルンは素早く秘源装置に手をかざし、発動を試みる。
    隊長も無防備になったオロルンの前に立ちはだかり、3人の人影がこちらへと向かってくるのを確認した。そして剣をいつでも出せるよう構え、武力行使も決して厭うことはない。
    たとえ別れがこのような形であったとしても、あの鮮烈な太陽に、己の夜を奪われたくはなかったのだ。

    ■■■

    結果的に、彼が死ななかった。それに安堵してしまったのは、もはや隠しようもなかっただろう。
    ───────だが
    「……すまない」
    逢いに行く者。待つ者。そうだったはずの口約束は、どうやら立場が反対になってしまったらしい。いくら謝ろうと、懺悔しようと、言い訳を並び立てようと、絶好の機会を逃すことは出来なかったし、彼には辛い思いをさせてしまうのは確かだった。
    言えなかった五文字さえ言えたなら。言うことが出来たなら。
    ……どれだけ、この世を美しく見ることが出来たのだろうか。

    □□□

    行動を共にしなくなってからも、彼は度々訪れてくれた。あの日のように僕たちは互いを埋め合うような何かを探すことは無かったけれど、それでも共に在ろうとしていた。少なくとも、僕はそう思っている。
    僕も彼も口数が多いという訳では無いから、必然的に無言の時間だって多くなってしまうが、それも心地いいものだったことに変わりは無い。
    でも夜猟者の戦争が終わってからは、毎日彼は僕の元を訪れた。
    これまではそんな事しなかったのに、まるで何かを惜しむように、慈しむように僕の頭を撫で、頬に触れ、抱き込んだ。『愛している』の明確な五文字があった訳じゃない。ただ、当時の僕はなんとなくその言葉を伝えるべきでないと思っていて、僕のことを見つめる隊長から目を逸らすことなんて出来やしなかった。でも、それと同時に、僕は僕の直感から目を逸らしていたのだ。
    まるで彼が、もうすぐ僕の元から去ってしまうように見えた。永遠に、会えない気がした。
    僕は捨てられた成犬のような気分だった。ここまで育ててくれた飼い主は、選別だと言わんばかりの毛布を下に敷いただけのダンボールという簡素な所に僕を置いて、去り際に頭を撫でてこう言うのだ。
    “優しい誰かに拾ってもらって、幸せになるんだよ”
    無責任だ、僕はそう思う。自己が自己であるという認識をした時から飼い主はそばにいて、何をするにも同じだったというのに、突然その手を離される。あまつさえ、幸せになれと言う祝詞に見えた呪いをかけられて。手を離された犬は路頭に迷い、もう居ない、自分を捨てた飼い主の背中を追おうとする。でも、その小さな手足で何ができようか。結局、路頭に迷った犬は誰にも知らぬところで野垂れ死に、飼い主への愛ごとカラスについばまれて、骨をも残さない。
    僕はそんなことを、されている気分だった。
    偶然だったにしろ、これまでオメガという自覚が希薄だった僕にその自覚を与え、与えるだけ与えて、自分は去ろうとする。そんなの、認められるわけないじゃないか。
    案の定、あの日に彼は言ったのだ。オシカ・ナタにまで連れて行って欲しいと。
    行きたくなかった。連れて行きたくなかった。どうして僕の愛する人を、君は取ろうとしてくるのと、僕のなのに、どうしてと、そう叫びたかった。
    人は記憶の中で生き続けるなんて言うけど、そんなの綺麗事だ。記憶の中の君は、触れられない。声だって、もう聞けないじゃないか。
    ……でも。
    僕には、そんなこと言う資格はなかった。僕を愛したという呪いを掛けておきながら、いけしゃあしゃあと言う君を、咎めることなんてできなかった。彼一人でも行けるくせに、僕を伴うことを選んだ彼を、どうしても責められなかった。
    足場という足場を登っていく瞬間瞬間、風が強くなると終わりが近いのだと嫌に実感させられる。
    嫌だなと、そう思った。寂しい、悲しい、苦しい、そう思った。
    それでも僕らに、足を止める余裕はなかった。事態は刻一刻と迫り、僕の感情ひとつで揺らぐようなことがあってはならないのだ。
    だから僕は、歩いている最中、ばあちゃんや炎神様の背中が見えた瞬間にこう言ってやったのだ。呪いを、かけてやったのだ。
    「次は、噛んでね」
    その時の彼の顔を、僕は忘れることは無いだろう。虚をつかれたような、焦りを滲ませたような、苦しさに喘ぐような、そんな顔。
    彼が待ての2文字を、何かを言おうとするよりも前に背を向けて、見知った面々の背中にわざとらしく大きな声をかけるのだ。
    「間に合った!」
    返事なんて、要らなかった。

    ・・・・・・
    ・・・


    僕は今日も、彼の眠る玉座に遊びに来てやった。完成した星霧も持ってきたし、イファの作ってくれたクッキーだってあるし、僕『が』風邪をひかないように毛布だって持ってきた。ついでに言うと、この前難しくて諦めたウォーベンがばあちゃんに見つからないように、彼の玉座の裏に隠してあったりもする。
    僕は彼が眠ってしまったあとも結構自由気ままに生きて、極度に凹んだりするようなことは無かった。最初はやっぱり寂しかったけれど、あんな呪いをかけてやったのだから、してやったりと僕は満足している。
    「君がいなくなってから、そろそろ2回目のヒートだ。早いものだね、半年も経っちゃった」
    手の中にある盃をゆっくりと揺らし、ゆらいだ水面に口をつける。そして何度か喉を鳴らして熱い液体を飲み下し、ぷは、と一息ついた。うん、よく出来ている。
    僕はいそいそと場所を移動し、座る彼の膝の上に頭を乗せてゆっくりと脱力した。あぁ、冷たい。君のコートはこんなにも冷たいけれど、君の眠るところは暖かいのだろうか。
    彼を見上げて、腕を伸ばし、その頬に指先を触れさせた。そして愛おしいものに触れるような手つきで、そっと撫でた。やっぱり、冷たい。
    君に会いたいな。冷たい君もいいけれど、やっぱり僕はあったかいところで生まれ育ったから、あったかい君の方が嬉しいんだ。
    ………あぁ、なんでだろう。涙が止まらない。ヒート前だから寂しくて悲しくて、落ち込んだ気分になってるのかもしれない。きっとそうだ。
    ……やっぱり、だめだ。凹んでない、落ち込んでない。僕は満足している。自己暗示じみてそう思っていても、やっぱり君に会いたくて会いたくて仕方がないや。
    「僕はみんなより早く逝くだろう」
    つぶやくように、そう言った。
    初めて、魂が不完全なことに感謝の意を覚えたかもしれない。死にたいわけじゃない。むしろ精一杯生きてやるつもりだ。でも、みんなより限界点は低くて、そう長くは生きられなくて、誰よりも早くに君に会える。
    その分、いつか訪れるその日、愛した君の胸に僕は1番に飛び込んでやれる。
    「……だから、どうか待っていて」
    僕の愛しい人よ。
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