因習村───✕✕村△年〇月───
大規模な寒波到来につき、村人の一割が凍死。同年同月、大雨による河川の氾濫により八割中二割が死亡、及び行方不明。
✕✕村発足以来史上最悪の年となったのは間違いない。
著:不明。『生贄の歴史』より抜粋
「悪く思うなよ、オロルン」
悪い。そう少しでも思っているのなら、こんな決断に踏み切らないで欲しかったと思うのは僕だけだろうか。でもきっと、そんなことを言ってしまえば目の前のおじさんは酷く困った様子を見せて、僕の前で泣きそうな顔をさらけ出すことになってしまうのだろう。だから、こういうしかないのだ。
「思ってないよ、そんなこと」
案の定、おじさんはあからさまにほっとした様子を見せて、すまない、すまない、と何度も謝りながら飾り立てられた僕の手を両手で握った。
傍から見ればそれは、悲劇的な歌劇のワンシーンにも見えるし、もしくは血の繋がらない親子の絆のようにも見えるだろう。
どちらにせよ、違うのだけれど。だって、悲劇と言うにはあまりに周りの目が冷たいし、親子の絆と言うにはいささか情にかけてしまう。おじさんが僕の手を握って「すまない」とそう言っている間も、ほかの村人たちは僕の周りを逃げられなどしないと言わんばかりに取り囲み、このワンシーンすらもどうでもいいと酷く焦った様子を見せていた。
現に、この村一番の年寄りの村長は僕に向かってチラチラと目配せをし、それに僕が応えないと分かるや否や前に出てきたのだ。そうして、おじさんから離れてこちらにすぐ来るよう僕に催促してくる。
「オロルン、」
「うん、分かってるよ。………ばいばい、おじさん。元気でね」
半ば縋り付くように僕の手を握りしめるおじさんの指を一本一本名残惜しげに引き剥がしている時、村人たちの視線が無数の矢となって突き刺さった。それは、邪魔をするなとか滞らせるなとかいうおじさんに対しての負の感情が先端に乗ったもので、そんなものを浴びさせないように少しだけ無理やり手を解く。そして自由になってしまった両手をいくつか動かし、にこりと微笑みながら手を振る。でも僕とは対比的にその瞬間のおじさんの顔と言ったらなんとも形容しがたいもので、引きつり、憤り、深い悲しみを称えた、こちらが心配になりそうな酷い顔色をしていたのだ。
最期に見るおじさんの顔がこれでは、僕も大概報われないな、だなんて思いながらつま先をくるりと長老の方へと向けた。
その際にジャラジャラと鳴る音は頭やら首やら、体の至る所に飾られた装飾品がぶつかり合う音で、この村が持ちうる限りの豪奢な服装は装飾品とも相まって重く、分厚く、歩きにくい。これだけ重くするのには、一等級の捧げ物としてという意味もあるが、きっとその裏に隠されているのは僕が逃げられないようにという本音。今更逃げなどしないと、この村の誰もが分かっているだろうに。
多くの目に少し居心地を悪くしながら気持ち早めに歩き出した長老の後をついて行き、重いからもう少しゆっくり歩いてくれないかと頼もうとしたその時、後ろから声が聞こえてきた。
「長老!俺じゃダメなのかオロルンはまだ若いし、未来がある!みんな可愛がってただろ?!なぁ、アルスのばあちゃん、川が決壊した時誰に助けて貰ったのかもう忘れちまったのか」
おじさんの、必死な声。やはりこんなのはおかしいと、いつも勇ましかったその顔には、涙を浮かばせ身振り手振りに訴えかける。捨て子だった僕をここまで育てあげたのは確かにこの村のみんなで、一切邪険に扱われることなく可愛がられた記憶しかない。だからこそ、皆気まずげに顔を逸らし始め、誰一人として目を合わせようとしない。特に名指しで言われたアルスのばあちゃんなんて、酷く気まずげにしながら後ろの方へとゆっくり下がり、ほかの村人たちに紛れてしまう。
「なぁ長老、」
「ならん!もう決めたことじゃ、どうにもならぬ」
でも、長老だけは違った。おじさんの目をしっかりと見据え、キッパリと言い放つ。瞳孔が開ききり目を血走らせた、狂気すらも孕んでいるその視線は絶対的な力そのもので、どう足掻いても変えることなど出来ないのだと知らしめるには十分だった。
その一言だけを長老は言うとすぐに踵を返し、おじさんに背を向けて歩いて行ってしまう。どうしたものかとおじさんの方に迷って視線を向けてしまう様子が長老の目に映ったのか、怒鳴り声にも思える声色で、オロルン!と呼び、有無を言わさずについていかざるを得ない状況を作り上げてしまう。やはり僕もその絶対的な力には逆らうことは出来ず、結局おじさんに一言も声をかけられないまま後ろ髪引かれる思いで長老について行き、後ろから聞こえてくる微かな嗚咽に振り返ることなど出来るはずもなかった。
きっとおじさんは知らないし、今後知る由もないのだろう。捧げ物は、僕がダメだったならばおじさんの娘になろうとしていたことに。だから、僕が降りることは無かった。最初から既に、退路は塞がれていたのだから。
ひと月前、この村に前例のないほどの大雪が降った。この村は比較的温暖な場所に位置しているためそもそも雪が降ること自体珍しく、昼間にチラチラと降り始めたそれに、子供たちはきゃっきゃと歓声を上げながら冷たい結晶に触れ、遊んでいた。大人たちも珍しいね、だなんて談笑をするだけで、まさかそんな大災害にまで発展するとは思ってもいない様子だったのを、何故か鮮明に覚えている。
そうして事態が変わったのは、夜。びゅうびゅうと吹き荒ぶ北風は白く染まり、ぱちぱちと心許なく燃える小さな暖炉の火は今にも消えそうだった。これまでとは打って変わって極寒がこの村を襲い、誰もが暖炉を持っている訳でもないから、皆身を寄せあって温め合った。でもそれも虚しく、数日と続いたその大寒波は幼い命や古い命を次々と奪っていったのだ。
そして、まだ大雪の爪痕が大きく残る二週間後、大雨が降って近くの川が氾濫した。そのせいで村の一部が冷たい水に流され、また命を多く奪っていったのだ。
ひと月の間で、村の三割が居なくなった。そうして、誰かが言い出したのだ。
『これは祟りだ。俺たちが忘れた、山神の』
オロルンが生まれた時には既に廃れていた、村の守り神を祀る伝統儀式。毎年実った作物を山にお返しし、若い者が舞う、かつてのそれ。
誰かの呟いたその言葉はまことしやかに囁かれ、人に人にと伝播し、遂には生贄を準備しなければこの業は償えないと村のみんなが信じる始末。
だが、自分の娘や息子を生贄になぞ誰も出したくは無い。そこで白羽の矢が立ったのが、おじさんの家に養子として迎え入れられていた、本当の親がいないオロルンだった。それに、彼が不思議な力を持っていたというのは周知の事実で、本人は野菜の声が聞こえただけなどと言っているが、きっとそれだけでは無い何かが、この子にはあるはずだと。だから、大地の声ないしは野菜の声を聞けるこの子が一番相応しい────そう言い訳をして。
かくして、オロルンは生贄となった。それだけの話だ。
───✕✕村〇年△月───
未曾有の大災害に祟りと叫び、あるひとりの青年が生贄へと選ばれた。しかしその際、村人の誰かが彼に無体をはたらき、彼の捧げ物としての品格は地の底へと堕ちてしまったのだ。
そうして彼が生贄としての意義を成す日、曇天であったはずの空模様は一気に快晴となったそうだ。
昨今の研究によれば、未曾有の大災害を襲ったのはこの村のみであるらしく、周辺地域にはさしたる被害がなかったと判明した。今の所確かな科学的根拠は発見されていないが、私はこれをまさに神の偉業だと言うべきだろう。
著:不明。『生贄の歴史』より抜粋
村という俗世を離れ、穢れを落とすためという名目で山の麓に建てられた小さな小屋へと連れられ、ここで一晩、何も口にすることなく過ごせと通された。そこは四畳ほどの小さな部屋で、簡素な敷布団が敷いてあるだけの、本当に眠る為だけに作られたような小屋。部屋に入った瞬間、引戸だった扉が開かないように外から木の柱を斜めに倒して固定され、窓もなく、完全に閉鎖された。
だが隙間風はあったらしく、例年よりも冷たい風は相変わらず雨の匂いを纏っていて、明日はきっと、止まぬ雨の中あの重たい服を着ながら山神の祠がある洞窟へと向かわねばならないのだろう。そう思うとなんだか憂鬱になってきて、早ければ明日にでも獣に襲われ死ぬ身だと言うのに、お気楽なものだと我ながら自嘲してしまう。
ひとつくしゃみが出て、鼻をすする。先程と言うほど先程ではないものの、この真冬に禊をする必要があると夕方近くに冷水を被せられ、多分そのせいで風邪でも引きそうだった。禊の後はまるで死装束のような白い服を着せられ、髪に櫛を通されて香油も塗られた。香油はなんだか花のようないい匂いがして、今も髪を鼻に近づけるとかすかにいい匂いが残っている。
何の匂いか本当は聞きたかったが、櫛を通してくれていた顔見知りのおばちゃんの顔は、酷く青ざめていて、髪を梳く手は微かに震えていた。でもそれは顔見知りのおばちゃんだけでなく、昼間にあの重い服を着つけてくれた人も、この白い服を着つけてくれた人も、この小屋まで案内してくれた人も、みんな同じような顔をしていたのだ。
多分、僕のことが恐ろしいのだ。昼間、あれだけ冷たい目で僕に縋り付くおじさんのことを見ていたとしても、いざ僕を目の前にするとその勢いは消え、怯えた素振りを見せていた。僕のことを家族だと呼んでくれたのに、何故この儀式を是とした?そう聞かれるのが、糾弾されるのが、酷く恐ろしかったのだろう。僕も、思うところがない訳では無い。でも、所謂これが仕方がなかったというものなのだろう。誰だって、自分の子が一番可愛いに決まっている。ただ、捨て子だった僕が誰かの一番にはなれていなかった。それだけの話だ。
二つ三つとくしゃみが続けざまに出て、また鼻をすする。別段眠たくは無いが、寒いし、お腹はすくし、くしゃみは止まらないしで布団へと潜り込み、小さく丸まる。目を閉じ、時期に訪れるだろう眠気を待ち続け、深く息を吸った。
死にたくない
そう叫ぶ心に蓋をして、知らないふりをするのだ。
カタン、と小さな板の倒れる音が聞こえ、パチリと目が覚めた。元より眠りが浅く、寝起きが非常に良かったため、その異常にはすぐに気がつくことが出来たのだ。隙間から吹く風には小屋に入った頃はまだ降っていた雨の匂いが感じられず、眠ってしまってからそれなりの時間が経ったのだろうと推測でき、故に人が出歩くような時間帯では無いと理解している。それに、今倒れたと思われる木の音は内側からの脱出を阻止するためのもので、出発前の準備をする朝まで誰も開けるはずがないのだ。
その瞬間、恐怖に身を竦ませる。獣、だろうか。たまに山から村におりてくる獣がいて、畑を荒らされることがあるのだ。それらは大概鹿やら猪の仕業で、困りはするものの人への実害はない程度だった。
でも、それが草食獣ではなく肉食獣であれば話は別。この山に熊や狼がいるというのは村の子供でも知っている常識であり、そんな彼らも年に一、二度程迷い込んでくることがある。だから、もし、この外にいるのが彼らならば。この扉が引き戸であろうと、開けてくる可能性は十分にある。もしそうだったならばこちらは丸腰で、喰われるか殺されるかの二択しかない。
また、カタン、と音がした。しかしそれと共に、あるひとつの音も聞こえてきたのだ。
「起きているかい?」
それは、扉越しのくぐもった人の声。獣ではなく人であったことに一種の安堵を覚えるものの、油断はできない。だって、みんなの声の聞き分けはだいたい出来るだろうと自負しているが、この声はあまり聞き覚えがない。どこかで聞いた気がするから村の者ではあるのだろうけれど、はっきりと誰とまでは思いつかない。それに何より、こんな時間に起きているかと聞く人を、怪しまないわけが無い。
返事はしないし、身動ぎもしない。カタンという音がした限り恐らくこちらに入ってくるのは確実。寝ている振りをし、この暗闇では薄目を開けていたとしても見えぬだろうと微かに開け、その扉の向こうの人物を確認しようとする。
案の定、引き戸はゆっくりと開けられて、そこには一人の男が立っていた。それはこちらが寝ていると認識しているのにも関わらず、構わないと言わんばかりにズカズカとこちらへの足を伸ばしてき、僕の近くで立ち止まる。顔こそ見えないけれど、蛇のようなじっとりとした視線がこちらに注がれているのはいやでも感じてしまう。
誰が、何故、なんのために。
蛇のような男はゆっくりとしゃがんだかと思うと僕の近くで片膝を立て、周りを何度かキョロキョロと見回してから、躊躇いの無い様子で僕の頬へと指を滑らせた。思わぬ行為に体が固まってしまいそうになったが、寸での所で抑え込み、怪しいとしか言いようのない行動に耐えながら探り続ける。顔を見ようかと思ったが、男の無造作に伸ばされた前髪のせいでよく見えない。
男は頬に触れたあとそのまま少しカサついた唇へ親指を乗せ、その感触を確かめたいかのように何度もなぞり始めた。
気持ち悪い以外に、どのような感情が真っ先に乗ろうか。そうとでも叫びたいくらいに男は執拗に唇をなぞり、よく聞こえるようになるほど次第にその息遣いを荒くしていった。
「やっと、やっと手に入れられる……」
酩酊、あるいは陶酔。ボソリと呟かれた色の乗った声は意図せずに身震いをしてしまうほどおぞましいもので、加えてその時見てしまった瞳には、確かに情欲の色を帯びておりそれを隠そうともしない。
でもそれがわかっていて、動けなかった。
そのような目を向けられるのは初めてだったというのもあるが、何より戸惑いと恐怖の方が強かったのだ。情欲を帯びた目で見つめ合うのは夫婦や恋人同士、それに準ずる人たちくらいだし、ほぼ初対面と言っていい僕に何故そのような目を向けるのかが怖くて仕方がない。
「お前、起きてるな?」
その瞬間だった。男の瞳がギョロリと見開かれたかと思うと先程までのねちっこさはどこに行ったのか素早い動きで僕の体の上で馬乗りになって、起きて抵抗できないように押さえ込まれる。先程の身震いで勘づかれてしまったのだろう、このまま眠った振りをしてもなんの利も得られないと目を開け、目の前の男を鋭く睨みつけた。
君は誰だ、僕に何の用だ。
そう問おうとしたのだが、ここで声を出されてはたまらないと口を開いた瞬間に手で塞がれてしまう。馬乗りになられただけで、空いている両手を使って塞いだ男の手を剥がそうとするものの存外力が強く、上手く引き剥がせない。引き剥がせないのならばと足で蹴ったり、顔を狙って拳を振り上げたりしたその動作がひどく鬱陶しかったのだろう、だが仮にも成人男性の拳なのだからまともにあたっては堪らないという風に舌打ちをしたかと思うと、オロルンの口を塞いでいた手を離し、オロルンの両手を頭上でまとめてしまった。
「っ……、離し、」
「大人しくしろ!次抵抗したら、お前が死んだ後この村の子供を一人慰み者にしてやるからな」
ぐっと握られた手首が痛み、顔を顰めた。離せと言おうとするもそれは男によって遮られ、その吠えた内容と言ったら脅し以外の何物でもない言葉。オロルンはこの男のことを知らないが、この男はオロルンのことをよく知っている。子供たちをかわいがっていたのも知ってるし、村をいっとう大切にしていたのも知っている。
男の目は、本気だった。醜悪で、優越感に浸る目。
図り知ることの出来ない恐ろしさにヒュッと喉が鳴って、そのあまりの醜さに目を丸く見開き、抵抗をやめてしまう。この目の前の男は、これ以上オロルンが抵抗するようであれば本気で子供たちを襲うだろう。
途端に抵抗のやめたオロルンに、やはりこの脅しはよく効いたと言わんばかりにニタリと口端を不気味に吊り上げ、そうだそれでいい、と満足気に笑った。腕をまとめていた手を離し、予め持ってきていただろう縄をゆっくりと取りだして巻き付ける。しかしその拘束も緩いもので、オロルンの性格上あんな脅しをされては絶対に抵抗できないということを分かっているからこその優越感から来ているのだろう。
「ッこんなことをして、ただで済むとでも思ってるのか。僕が明日にでも告発すれば、こんな狭い村だ、君のことはすぐに探し当てられてしまう」
だからこそ、その余裕が理解できなかった。生贄にこのような無体を働くということは、神を侮辱するのと同じ。従って、村人からの糾弾は免れないはずなのだ。でも目の前にいる男はそれを気にかける様子もなく、自分の行く末を案じることも一切ない。
「俺の事は別に知らなくていい。だが今からお前に働く無体は、全て長老に黙認されたこと。だからお前が明日訴えても長老は全く取り合わないし、誰もが生への足掻きだと誤認してくれる……抵抗するだけ無駄なんだよ、決まったんだ。こんな儀式、神なんて、空想上に過ぎないんだからどうせ大した効力もない」
それは違う!そう叫びたかった。でも出来なかった。仮に神でなくともそれに近しい存在は山に本当にいる、そう男に言っても戯言だと笑われ、取り尽く島も無いことは言わずともわかった。それに、体を這い始める蛇のような手は背筋をゾッとさせるのには十分だったし、感じたことの無い不快感と恐れに喉を収縮させてしまうのも仕方のない事だった。
蛇は這う。腕を這い、頬を這い、首を這い、胸を這い、腹を這い、脚を這い、足を這う。
食物連鎖の上位にある存在は、獲物で『遊ぶ』ことを覚えるのだそう。嫌がる素振りを見せる獲物を強者たる余裕で無意味に嬲り、戦かせ、偽の希望を見出させ、でも決して逃がしはしない。それは確かに目の前の男も同じで、抵抗しない、いや出来なくなってしまったオロルンを必要以上に辱める高揚感に、浸っている。
目を閉じた。
帯が、ほどかれた。