光を失った世界の波間にて 潮風の吹く砂浜に、黒髪の男が足を踏み入れた。纏った着物の隙間からは、異様なほど白い右半身が覗いている。男は一人、何をするでもなく。己が乱し、支配した国の海岸線にただ佇んでいた。
祖国は遠い。
ここからは到底、見えることのない白けた霞の先に、男の生まれた里があった。
踏み跡の砂利の下には小さな貝殻が覗いていたが、それもすぐに波に呑まれ消えていく。引いては寄る波がぶつかり合い、飛沫が高く舞った。
鼓膜を震わす波の残音は、否が応にも、男の記憶を引きずり起こした。
『ねぇ、■■■』
彼女が優しく、彼の名を呼ぶ。男はその名を知っていた。
その男はかつて、今と違う名を持つ少年だった。
違うのは名だけではない。様相も、所在も。何もかも、今とは全く変わってしまった。
『前に話したこと、覚えてる?』
光に満ちた記憶の中でだけ、愛する彼女は語りかける。
『■■■になって、世界を救うって』
ノイズが入る。知っていたからこそ、否定した。脳がそれを赦さなかった。彼女の"それ"は、今の彼が受け入れてはならないものだった。
『■■■のそれは、私の夢の先でもあるんだよ』
彼女の目が細まる。慈愛に満ちた、美しい微笑みだった。
『だから一緒に───……』
彼女の声は波にさらわれ、かき消された。男は片方しかない目を閉じる。今も尚、その最期は色濃く瞼の裏に焼き付いていた。
男が見据える先には、理想の世界があった。
「───そこに、君がいなければ……」
君のいない世界に、意味などない。やがてそれも消えゆくだろう。
未練などあってはならない。
仮面を被り、男は静かに姿を消した。残されたのは波の音だけ。冷たくなった空は海と交じり、闇色に染まっていった。