俺は大学の研究室で、ノートに小説の案出しをしている。ここはバデーニさんの研究室で、向かいに座る彼はパソコンのキーボードを叩いている。
バデーニさんと再会したのは、大学1年の冬。念願の大学に通えるようになったところまではよかったが、奨学金だけでは生活を賄えるわけもなく、バイト三昧の日々。息つく暇もない生活に疲弊していたところ、レポートの資料を探しに立ち寄った構内の図書館で出会った。
バデーニさんには言っていないが、俺は彼がこの大学にいることを知っていた。幼いころから星空を眺めるのが好きで、自然と宇宙や天文の文献を漁るようになり、その中でバデーニさんの著作を見つけた。著者近影と共に、この大学に在籍していると書いてあった。進路を決めるときに、自分が希望する学部があったことはもちろんだが、彼に会えるかもしれないと思ったことも決め手の一つだった。入学して、彼に会いに行こうとも思ったが、そうはしなかった。もし前世の記憶なんていうものが俺にしかなかったら?彼が俺を覚えていなかったら?実際に会える距離にバデーニさんがいると思ったら、それまで考えようとしなかった不安が押し寄せて足が進まなかった。構内でよく話題に上がる人だったから、噂話なんかはよく耳に入ってきた。バデーニさんの研究が学会で評価されているとか、単位がもらえないとか、内容は様々だったが、彼が今日も生きていると感じられる環境に身を置けるだけで充分だと思うことにした。
図書館で出会ったとき、講義を取っていない生徒の名前なんか知らないだろう彼の口から、自分の名前がこぼれたときの感動は、およそ言葉に尽くしがたいもので。そのあとすぐ、俺の名前以外のものも彼の口からこぼれ落ちることになったわけだが。
それからお互いの近況を話したりして。俺の現状を知ったバデーニさんから、ルームシェアを提案してもらった。俺は家賃が浮くし、生活も今より楽になる。バデーニさんは普段手が回らないという家事全般を、家賃代わりに俺が引き受けることでお互いに損はないだろうという話になった。
今日はバデーニさんの仕事も落ち着いているらしく、俺もバイトが休みなので一緒に食事をとって帰る予定だ。バデーニさんの業務がひと段落するまでここで待たせてもらっている。ルームシェアを始めてからバイトを減らすことができたので、趣味の小説を書く時間ができた。ヨレンタさんからはせっかく書いているんですからどこかで発表すればいいのに、と言われているが、自分なんかが書いたものを読んでもらえる気もせず、今日もどこに出す宛もない話を書き連ねている。納得のいく作品が書ければいつかは、と思ってはいるが…。
小説のことも悩んではいるが、目下の悩みはバデーニさんに抱いている自分の感情だ。彼との共同生活に不満はない。むしろ俺は家事をやっているだけで家賃は全部バデーニさんに出してもらっていて申し訳なく思っているくらいだ。バデーニさんは相変わらずなので、彼の意図を理解するのに苦労することもあるが、それでもこの生活が楽しい。論文が行き詰っているときなんかは触らぬ神に祟りなしといった様子だけど、そうでなければ俺からの、バデーニさんにとっては考えるまでもないような疑問なんかにだって答えてくれるし、俺の拙い話を最後まで聞いて話し合ってくれる。昔のバデーニさんなら無価値な議論だとか、時間の無駄だとか言われてしまいそうだが、今は「自分とは違う観点で語る人間の知見から、新たな発見があることもなくはないと思えば、無駄ではない。」とのことだ。遠回しでわかりづらいけれど、一緒に生活する俺のことを気にかけてくれていると感じる。俺が空を見上げることができたのも、世界に期待できたのもバデーニさんのおかげだった。俺の憧れで、尊敬する人で、物事に真剣に立ち向かうその姿がとても奇麗で。
「…好きだなぁ」
「…は?」
「…え?」
しまった、声に出してしまった。
「あ、すいません。いやその、今日は何食べようかと考えていて。すき、ゃき…とか…すきやきだなぁみたいな、はは…」
我ながら苦しい。かなり苦しい言い訳だ。
「そうか」
「はい。ははは…」
乗り切ったのか。まぁバデーニさんも今進めている仕事のことを考えていてよく聞こえていなかったのかも。
「君は私のことが好きなのか」
「は」
「だから、君は私を好ましく思っているのかと聞いている」
だめだ、しっかり聞こえていたらしい。
「いや、今のは聞かなかったことにする流れだったのでは」
「君も知ってのとおり、私は気になったことは追求せずにはいられないたちでな。で、どうなんだ」
逃げ道はなさそうだ。
「はい、す、好きです…。」
「なら、交際するか」
バデーニさんは何でもない事かのようにさらりと言ってのけた。
「交際ですか…?え、バデーニさん、交際するっていうことはつまり、あの、交際するっていうことですよ?」
「何あたりまえのことを言っているんだ君は」
「いやそうなんですけど、交際って俺が知らない意味の交際だったりするんですか?人と人との交流というか、人と関わるときに発生するお金のことを交際費って言ったりしますし」
「交際という言葉に複数の意味はあるだろうが、この流れで恋人になる以外あるのか?」
「ないですよねすいません」
本気なのか、からかわれているのか、だめだポーカーフェイスすぎてなにもわからない。でもこんなことで冗談を言うような人でもないし。
「あの、なぜ交際するかなんて、言うんですか。俺の言葉なんて聞き流してもよかったと思いますが…」
「…別に、大した理由はない。君が交際はしたくないというのであればそれで構わない。忘れてくれ」
表情が読み取れなかったバデーニさんの顔が、陰ったように見えて。彼の手を取る。
「したい、です。交際。あなたと、こっ恋人になりたいです」
バデーニさんの目が見開かれる。彼の瞳に、俺が映った。
「なら、よろしく頼む」
「は、はい。よろしくお願いします」
バデーニさんはパソコンに向かいなおして仕事を再開した。普段より顔に赤みがあるような気がするのは、気のせいだろうか。俺も小説の続きにとりかかろうとして
「君はタチネコでいったらどちらなんだ?」
「は」
今なんて言ったんだ?聞き間違いじゃなかったらタチネコ?
「タ…え…?」
「タチネコでは伝わらないか?つまりセッ「大丈夫です伝わります!」
聞き間違いじゃなかったらしい。
「え、この流れで聞きます…?」
「こういったことは最初に確認しておいた方がいいだろう。後で揉めても困るからな。どちらなんだ?」
キーボードを叩きながら淡々と話している。交際の話から急にこんな話になると思っていなかったから動揺した。
「た、タチ、です…?」
バデーニさんを抱きたいか抱かれたいかで言えば抱きたい方なのでタチになるだろう。
「わかった。善処しよう。では今日の業務も終わったので食事に行くか、オクジーくん」
バデーニさんがパソコンの電源を落として立ち上がった。俺はまだ頭が追い付いていない。
「善処…?あの、バデーニさんつまりそれって俺とバデーニさんがあの、セッあの、そういった行為をする際に俺に抱、いや、受け身?の側になるって聞こえるんですけど。え、そもそもしてもらえるんですか、そういったことを?」
「そう聞こえたならそうなんだろう。ほら、早くしろ。私は腹が減った」
バデーニさんが研究室を出ようとするので慌てて追いかける。
「すいません、待ってください!」
その日の晩ご飯はすき焼きだった。