【鉢雷】草露信仰 最後に酒を飲んだのは床板だった。
だらりと垂れた手の中にある杯から、透明な液体が木目に沿って広がっていく。三郎は、ボンヤリとそれを見下ろしていた。
◇
事の起こりは、五年ろ組の実習が無事終わり、皆が汗や泥に汚れた体を湯で流した後のこと。三郎・雷蔵・八左ヱ門の三名は、合計六本の足で夜の廊下を歩みながら、明日は待ちに待った休日だと銘々にはしゃいでいた。
せっかくだし明日は三人で出かけようか、じゃあどこにする、あそこはどうだ、あそこはこの前行ったばかりだろ──と、弾んでいた会話が、ふとした拍子に静まって。
「……今夜、やる?」
と、八左ヱ門が言ったのだった。ニマリと口元をゆがめて、内緒話でもするような声色で。
三郎と雷蔵の部屋に灯明がともったのは、それから間もなくのことだった。彼らは各々秘蔵の酒やツマミをこっそり持ち寄って、胡座の円を作って乾杯をした。
三人は数月に一度の頻度で「おつかれさま会」なる催しを開いている。これは日々摩耗していく肉体と精神とを慰めるため、隠れて好き勝手に飲んで食べようという単純な会である。教師陣や先輩にバレぬように、後輩に悟られぬように、ひそひそ身を寄せ合いながら集うことを三人は存外気に入っていた。
この日も、それぞれがそれぞれの速度で酒を飲んだ。雷蔵は子どものように目を細めてくすくす笑い、ウワバミの八左ヱ門は間断なく喋り倒している。やれ後輩がどうだの、毒ナントカがどうだの、鍛錬がどうだの、と。
雷蔵はそのひとつひとつに丁寧な相槌を打ちつつ、くぴくぴと休むことなく杯を傾けていた。三郎も自分の器にそっと口をつけながら、そんなふたりを静かに、愛おしげに眺めていて。
「──あっ、なんかちょっと、眠い、寝るかも、僕」
それは、空になった酒瓶がいくつか転がり、ツマミが半分ほどに減った時分のことである。雷蔵は「しまった」という顔をして言った。
雷蔵は不思議な酔い方をする。いくつも杯を重ねていたかと思えば、一定のラインを超えた瞬間糸が切れたように眠ってしまうのだ。しかも必ず明瞭に「寝る」という宣言をしてから。ハッキリとした声音は酔っているとは到底思えないのだが、しかし本当に眠ってしまうのだから驚きである。
「雷蔵、布団を出そうか?」
「大丈夫。ふたりともまだ、やるんでしょ、なら、ぼくも」
「だが床で寝ると体を痛めてしまうよ。私のでよければ膝を貸そう」
「ん〜」
「はは、芋虫みたいだなあ」
「八左ヱ門」
三郎が咎めるような口調で言えば、八左ヱ門は「なぜ怒る」「芋虫かわいいだろ!」と見当違いの弁解をした。
三郎の膝に雷蔵、その正面に八左ヱ門。三人で囲んでいたささやかな円の中に、今はふたりきりの気配が流れていた。
「ふはっ」
八左ヱ門の吐息が、夜の底に同化していた空気をゆるりと揺らす。理由を問うように三郎は目線を上げた。彼の眼裏には、気持ちよさそうに寝息を立てる相棒の姿が淡く浮かんでいる。
「三郎って本当に雷蔵のこと好きだよなあ」
三郎の瞳が小さく揺れた。
それは驚いたというよりも、言葉の正体を測りかねているような間で。
「何を急に」
「急というか。今日もずっと思ってたぜ、俺は」
「……もっと有意義なことを考えたらどうだ」
三郎の声色に混じったわずかなざらつきを、八左ヱ門は逃さなかったらしい。彼はぽりぽりと頭をかきながら、
「なんていうか、見てりゃ嫌でもわかるんだって。お前雷蔵を見るときだけ目の色が違うから。今だってすげーうっとりしてたじゃん」
「違わないし、してない」
「してたって」
「……八左ヱ門に私の何がわかるんだ」
つい不貞腐れたように言えば、八左ヱ門は「そう怒るなよ」と微笑する。それは三郎の胸中を見透かして直接なぞってくるような、妙な質のものだった。三郎の指が杯の縁を滑る。
「なあ、教えてくれよ。雷蔵のどこがお前にとって特別なの?」
正直さ、ずっと気になってたんだ。変装の理由も、関係も、その意味も。
三郎は言葉を返せなかった。まあ無理にとは言わないけど、と眉を下げる八左ヱ門は、どうやら純粋に疑問を投げかけただけであるらしい。他意のないことを無自覚に伝える精悍な相貌は、ひたすらまっすぐに三郎を見つめている。
──応えないわけには、いかなかった。
「雷蔵は、その……綺麗なんだ。とても」
「綺麗?」
「ああ」
雷蔵の頬を撫ぜながら、ぽつり、ぽつりと。
「私のことを何も知らないときから、雷蔵は私を疑わず、優しくて、あたたかくて……きっと生まれたときから、なるべくしてそうなったような、清いひとなんだ」
三郎の瞼を縁どる睫毛は、その愛おしむ瞳に影を落としている。どこか恍惚とした彼の言葉が濃密な酒気を帯びて、空間の内側へ夢のように漂い始めた。
「私は雷蔵の側にいられるだけで幸福なんだ。いちばん近くで、彼の善を願えることが心の底から喜ばしい」
三郎は目線を落ち着かせないまま、「私を肯定してくれる雷蔵の光はとても眩しくて、でも、変わらずに、ずうっと在り続けてくれる。それがどんなに特別なことか、八左ヱ門、君は解るか」
八左ヱ門は黙ったまま、その眼を三郎の口元に固定している。彼はゆるりと杯を傾けて、続きを促すように瞬いた。三郎は再びそれに応える。
「雷蔵の声で名を呼ばれるだけで、自分が真っ当な人間として数えられているかのような気になれるんだ。完璧を装った猿真似を重ねても、雷蔵の姿に戻るだけで、私の後悔や罪悪の全てが帳消しになるような、……」
するすると、言葉はまるで流れるようにこぼれていく。八左ヱ門の視線は三郎を肯定も否定もしないまま、無感情とも思える色彩を湛えて夜の室内に浮かんでいた。
不完全な、しかし妙な居心地の良さを感じながら、三郎は杯に酒を注いだ。空になった八左ヱ門のそれにも同様に。
「猿真似ではないだろ、お前の変姿は」
少しの間を置いてから、やや不機嫌に、八左ヱ門。
「いつもの自信はどうしたんだよ。らしくないぞ」
「それは、まあ……」
三郎が小さく肩を揺らせば、八左ヱ門の力強い眉はハの字に寄せられた。
「さっきの話だけど。雷蔵が〝綺麗〟って、そん中に三郎が入る余地はあるのか?」
「何を言う。あるわけないだろそんなの」
三郎は苦笑する。「私は雷蔵の完全さに救われているんだよ。彼に醜く縋ることはあっても、私が彼のようになろうなどと思い上がることはない。そもそも、雷蔵にとっての私はそれほど大きくないしな」
「ふーん……」
膝の上の雷蔵が身動ぎをした。彼は体の位置が良い塩梅となるよう、小さく唸りつつ畝っている。
三郎は雷蔵の額に手の甲を当てた。ひんやりとした感触──三郎は酔っても体温が変わらない──が心地よかったのだろう、雷蔵は口を僅かにほころばせると、冷えた手に擦り寄る形で落ち着いた。
幸せだ、と思う。こうして身を委ねられることも、安堵の寝息を聴かせてもらえることも。
三郎は、自らの愛を注ぐ対象として雷蔵を見ている。それは有用性や利己的な快楽を含まない、純粋で清涼な感情だった。家族にさえ抱いたことのない積極的な善の性向を、三郎は一切の惜しみなく彼に捧げているのである。
「三郎さぁ」ほとんど涙声で言ったのは八左ヱ門だった。
「なんだなんだ。情けない声を出すな」
「ンなこと言ったって、いや、救われてるとか、そういうのじゃなくてさぁ。お前、自分が今どんな顔してたか分かって、……」
八左ヱ門はそこで口を噤んだ。
──俺が言っていいのかこれ、でも首突っ込んじまったからなあ、最後まで付き合ってやらんと、でもなあ、こればっかりは。
口の中でモゴモゴ呟く八左ヱ門に、三郎は胡乱な目を向けた。言いたいことがあるならハッキリ言え、と言葉の背を押せば、そう簡単に言えるかよ、とやれやれ声で返される。
「三郎がそれで満足なら別にいいけど、でも、俺にはずいぶん都合のいい信仰に思えるぜ。雷蔵が草露から生まれたとでも思ってんの?」
「は? 草露?」
「たとえ話だ、たとえ話」
八左ヱ門はグイッと酒を煽って、空になったそれを胡座の傍らに置いた。少しささくれた唇をぺろりと舐めながら。
「この前の長期休みにさ、ウチのじいさんから聞いた話なんだけど」
「ああ」
「すげー昔、ある人が言ってたらしいんだ。『美しい蛍は草露から生まれる』って。親も何もなしに、ポンとそこに現れるって」
「……自然発生するってことか?」
「そういうこと。俺は思ったよ、そんなわけないだろって。バカ言うなって」
伏せられた八左ヱ門の目は、彼が祖父から聞いた過去の事実を見ているらしい。再び細く吹き込んだ軟風に、三郎の前髪が揺れた。
「他にもさ、よく『蛆がわく』とか『孑孑がわく』とか言うだろ。生きものが親なしに勝手に生まれる、みたいな言い方をさ」
「まあ、言われてみれば」
「な? 俺はあんま好きじゃないんだよこれ」
「なぜ」
「無責任だから」
三郎は弾かれたように八左ヱ門を見た。
彼の目に映ったのは普段通りの八左ヱ門である。が、その口から発せられた言の中に、いつものような人好きする柔らかさを見つけるのは困難だった。ごく、と無意識に喉を鳴らす。
「生物には絶対に生みの親がいる。ひとりで孤独に発生する生きものなんていないはずだろ」
「それはそう……だが。すまん、それは今までの話となんの関係があるんだ?」
「関係あるさ。お前のその『綺麗なもんは綺麗なまま生まれてくる』『完全なモノは他者を必要としない』みたいな考えが馬鹿らしいってことだよ」
言い終えた八左ヱ門は、己の杯を弄びながら息を吐いた。静かな室内に、それは細い波紋を描いて溶けていく。
──帯のような月光が差し込んでいた。揺れる小さな暖色と月白が交わる辺りで、柱の影が長く床をなぞっている。三郎の杯が淀み始めていた。
「人ってのはさ、一面的な生きものじゃない。いくら綺麗に見えても、あるいは汚く見えても、それはソイツを形づくる側面のたったひとつにすぎないんだよ」
八左ヱ門は小皿の上に転がった干し芋の欠片をひょいと拾い、その大きな口に放った。軽く噛む音がして、またひとつ間ができる。
「……あー、すまん。なんか考えグチャグチャで、何が言たかったのか自分でもよくわかんなくなってきちゃった。俺今なに言ってんの?」
「私に聞くなそんなこと……君、いま良いこと言いそうな雰囲気だったのに」
「だよな、俺もそう思ってた。良いこと言ってやるぞーって気合い入れてたんだけどな」
くつくつと笑い合う小さな隙間は、緩んだ緊張の糸のたわみであった。ふたりは顔を見合わせ肩を竦ませ、解決を急いていた思考を一度停止させることに同意する。
さて、夜も更けてきた。やけに頻繁に室内に潜り込んでくる風は、先ほどから段々と冷たくなっている。
「まっ、とにかく自分だけの考えに囚われちゃだめだぜってことだ! 物事には必ず始まりがあって、それはみんな平等なんだから」
「……平等、か」
「ああ。みんな等しい……と、俺は信じたいよ。そうありたいと思ってる」
八左ヱ門は、空になった杯の底を見つめながら絞り出すように言った。灯火の揺れが彼の表情を浅く照らし出す。それは自信というよりは、願いに近い響きだった。
「人は生まれたあとに、自分で自分に意味をつけるんだ。他人と会話して、影響しあって、はじめて自分になれる。お前や雷蔵もそうだろ?」
雷蔵の肩が、三郎の膝上で上下する。三郎は無意識に彼の髪を撫でた。指の間をさらりとすり抜けていく感触と共に、己のどこかが解れていくのを感じる。
「雷蔵にとっての三郎は、お前にとっての雷蔵くらいに大きいよ。お前らをずっと近くで見てた俺が言うんだから間違いない」
「……気休めはよしてくれ。嬉しくない」
「なぜ気休めだと思う?」
思わぬ問いに、三郎は言葉を詰まらせた。すると八左ヱ門はしてやったりと笑みながら、自身の胡座に頬杖をつく。
「雷蔵だって眉間に皺寄せて機嫌悪いときもあるし、迷ってる時はたまに足袋の左右間違えるし、お前が思うほど天のまん中に座ってるわけじゃないんだぜ」
三郎は小さく笑った。が、それはどこか諦念を含んだような、決して肯定とは言い切れない微苦笑であった。
「それはそうだろう。そういうのも、雷蔵の愛すべき部分なんだから」
「これが解るならどうして……相手の人間らしいとこひっくるめて全部好きで、隣にいたいって思うのはごく普通の感情だ。でも、どうしてかお前のは健康的じゃないんだよ」
そんなことはわかっている。でも仕方がないだろう、と三郎は胸中で言ちた。
同じ事柄を喜んで、相手に対して等しいものを返し、互いにそれを理解して、互いに善を願うことが「愛」である。これに則るのであれば、三郎の想いは愛ではないのだ。八左ヱ門が言うように「都合の良い信仰」──きわめて一方的な、薄暗い執着に他ならない。
そんな己の感情の歪さを、醜さを、聡い三郎は正しく俯瞰している。だからこそ、雷蔵と自分が対等であるとは思っていないのだ。そして、自分は雷蔵にとっての不可欠ではない、とも。
「雷蔵に私は釣り合わないだろう。私は彼のようにはなれない。彼に同じものを、同じだけ返してやれる能力がないんだ」
「釣り合ってるかどうかなんて自分で決めるもんじゃないだろ。隣に立ちたいなら立てばいいし、求めたいなら求めりゃいい。勝手に聖域つくって逃げんなよ」
それは強い言葉だった。が、三郎はその中に、彼の友としての誠実な、確かな祈りを見た。
八左ヱ門は優しい男なのだ。どこまでも。
「雷蔵だって聖人じゃないんだぜ。よく見ろよ。見てやれよ。お前が一番近くにいるのに、お前が一番雷蔵を見てないぞ」
三郎はゆっくりと息を吐いた。夜風が雷蔵の頬を、次いで三郎の手を撫ぜる。戯れに雷蔵の前髪を梳き、露わになった額に拇指で触れた。
それはひとりの少年の顔。あたたかくいとおしい、日向のかんばせ。
「ん、……」
もはや穴が空くほど注がれる視線に気がついたのか、雷蔵は薄らと目を開いて三郎を見上げた。うろうろと彷徨った瞳が、慈しみの眼差しと絡んで固定される。
「ぁ、さぶろう……」
「なに、雷蔵」
「へへ……ひふふっ」
「ご機嫌だね」
「んー」
手をつき上体を起こした雷蔵は、瞼を擦りながらのろのろと杯を手に取った。彼は半端に残っていたそれを煽ろうとして、しかしすぐに体の力を抜いてしまう。だらんと垂れた手の内から床へ向かって、残りの酒精が広がっていった。
「あーあー……こぼれてるぞー、酒がー」と、ため息混じりに八左ヱ門。「ほら三郎、杯取ってやれ。お前の神さまが濡れちまうぞ」
「なんだ馬鹿にしてるのか?」
含み笑いで言えば、八左ヱ門は歯を見せて笑った。
覚醒していたはずの雷蔵は、三郎の肩にもたれながら再びすやすやと眠り始めている。首筋にかかる髪の束が少しくすぐったいが、預けられた体温や鼓動の音は、三郎になによりの充足を与えるものであった。
──ざあざあと、木葉が擦れ合う自然の音。
夜風の匂いには草の湿り気が混じっている。細く漂う半透明の夏色が、季節の推移をかすかに表象していた。もう梅雨入りが近いのかもしれない。
そんな何気ない思考を携えた三郎の瞳の奥は、柔和に輝く灯明を映しながら、ゆらゆらと揺れていた。
「なあ、八左ヱ門」
「ん」
「私はやっぱり雷蔵のようにはなれないし、この考えを改められる自信も、正直言えばない。君のようにすべてを明瞭に区別することも、きっとできない」
後ろ向きと思える言葉は、しかし不思議と明快な印象を与えるもの。
「でも私は今夜初めて雷蔵が……君たちが羨ましいと、そう思えた」
そう言った三郎の頬には、ようやく降りてきた感情のゆるみが宿っていた。八左ヱ門は僅かに目を見開いた後、にっと笑って。
「そりゃ大進展だな! そんな感じで、少しずつでいいんだよ」
「……ああ」
「俺も三郎みたいにアレコレややこしく考えられる頭、ちょっとほしい」
「……あ? 褒めてるのか? それ」
「どーかな」
──これは一体どういうことだろう、と思う。
三郎は密かに、己の中に芽生え始めた新たな決意の手を取っていた。それは実に不可思議な感覚。焦燥や嫌悪とも言えるし、泰然や歓喜とも言える。名付けようのない、しかし妙に冴えた渦巻きは、仄暗い泥濘の底で解放を待つ光の萌芽であるのかもしれない。
「ありがとう、八左ヱ門」
「なんだよ改まって。照れるだろ!」
三人の円はやおら形を変えながら、夜の中にじんわりと溶けていく。どこか未完成なまま、それでも確かに、ひとつのぬくもりとして。