どうしようもなく逃げられない。────────────
「キャスたんは、いつもい〜っぱいがんばってて、えらいです!お花のおせわだって、まいにちありがとうございます。キャスたんのおかげで〜、おはなさんもよろこんでますよ〜♡ふふふ、わたしはキャスたんがだいすきです!よしよし〜、いいこのキャスたんは、あたまをなでてあげましょうね〜♡」
「あ、ありがとうございます…。ですがその、あまり…こういったことは」
「む、てれてるんですかぁ?えんりょしたら、だめっ!ですよっ。がんばっているひとは、ほめられないと、いけませんから!」
「───この状況を説明出来る者は?」
「ヒアンシーが酒気を含んだ菓子を口にし、酩酊状態となりました。キャスが介抱しようとしたところ捕まり、抱き着いたままひたすらに褒められ、頭を撫でられていますね」
「なるほど。どうもありがとうございます。私は用があるので帰ります」
「おや、せっかくの祝いの品も置かずにですか?水を差すつもりで来たわけではないのでしょう?」
「……チッ」
学者も舌打ちして逃れたくなる。
赤ワインを堪能し、優雅に二人を見守るアグライアによる説明の通りの状況…事の始まりは、アナイクスが訪れるより数時間前に遡る───。
マンションに設けられているパーティールームへ、久しぶりに一人を除き住人が全員集った。
今日はヒアンシーが看護学校を最優の成績で卒業したことを祝う会となっていたからだ。
ヒアンシーの挨拶から始まり、会を主催したキャストリスの祝辞。オーナーのアグライアが「乾杯」と告げると、一気に賑わった。
何台か配置されたパーティーテーブルに数多くの豪勢な料理や豊富なドリンクが並び、各々がヒアンシーを祝いながらこの場を楽しんでいた。
各種揃えられたボードゲームやアグライアの用意した豪華景品(数万相当の品々)が当たるビンゴ大会。様々な催しが始まり盛り上がりを見せる中、ドリンクのおかわりを探すヒアンシーがデザートの置かれるテーブルに蓋を開けただけのチョコレートがあるのを見つけた。
他のデザートは皿に美しく盛り付けられていたり、未開封で好きに手に取って良いというものばかりなのに、これはそのどちらでもなかった。
6つ入りのうち2つ減っていたから食べても良いものではあるのだろう。
そのうちのひとつ、真っ赤にコーティングされたハートの形のチョコレートに目を惹かれたヒアンシーは、せっかくなら食べちゃおう、とそれを口に運び、おかわりのオレンジジュースをグラスに注いでから輪の中に戻った。
しかしその後、段々とヒアンシーの様子が変わっていく。
普段よりふわふわとした笑顔に、赤らむ顔。この場が嬉しくて楽しいとゆらゆら揺れる体。時折キャストリスに凭れたりとしていたが、そろそろ次のゲームに、とファイノンが言い始めた時。
彼女は姿勢を直し、突然持っていたジュースを一気に飲み干して、空になったグラスをそばのテーブルに置いた。
そして隣に居たトリビーへがばっと抱き着き───
「トリビーしゃん!」
「わ!びっくりちた…。どうちたの?ヒアンシーちゃん」
驚きつつもトリビーはヒアンシーの頭を撫で、様子を窺った。嬉しげに撫でられていたヒアンシーだが、再びトリビーをぎゅっと抱き締める。
「わたひ、トリビーしゃんに…ずぅっと!言いたかったことがぁ……あるん、れす!」
呂律の回らない口調とよく分からないタイミングで上がる声のボリュームに、トリビーの肩が跳ねる。
「ヒアンシー、どうしたのですか?師匠が困っていますから、落ち着いて…」
アグライアが声を掛けると同時。
「わたし!トリビーしゃんのこと、いっぱいいっぱい、褒めてあげたいんれす!」
高らかな宣言とともにヒアンシーは、呆気に取られる全員を置いてトリビーを褒めて褒めて褒め続けるという行動に出始めたのだった。
*
そして現在。
遅れてやってきたアナイクスは、ヒアンシーが見るからに酔っ払っている姿と、キャストリスに普段ならしない絡み方をしているという状況に出会した。
「すまない。彼女がこうなったのは僕のせいでもあるというか…。ブランデー入りとは知らずに、見た目の良さだけで買ってきてしまったから」
申し訳なさそうにファイノンがアナイクスの前にチョコレートの箱を出す。
箱には残り3つになった、宝石のように精巧な一口大のチョコレート。
「洋酒入りのチョコレート…ファイノン、まさか食べさせたのですか?」
「そんなはずないだろう!?テーブルに置いていた僕の食べかけを、いつの間にか彼女が食べてしまってたんだ!」
訝しむアナイクスに、ファイノンは慌てて弁明をする。彼の発言は嘘ではなさそうだと判断すれば、はあ、と溜息と共に額に手を当てた。
ヒアンシーはまだ酒類を口にしたことがなかった。健康に気を遣っているのはもちろん、本人は介抱する側に回るので飲む機会はおろかアルコールへの耐性など判明すらしていない。
が、この様子を見るにチョコレートへ含まれる微量なアルコールに酔っ払ってしまえるくらい耐性が無いのだと、今日判明したのだった。
「ちなみに、今はキャスが捕まっていますが……この場にいる全員、もれなくヒアンシーに褒めちぎられました」
「は?」
アグライアの発言が、未だ状況を飲み込みきれていないアナイクスに困惑の種を増やす。
「全員……?考えたくはありませんが、あなたもああなったと?」
「ええ。ふふ…頭も撫でられてしまいましたよ」
「僕なんて髪をもみくちゃにされたよ」
「あたちたちは、たっくさん褒められて、すっごく嬉ちかった!」
「俺は……、くっ…!」
「モスたん♡って呼ばれて、膝枕をされかけていたよね」
「言うな!!」
口々にこの数時間での経験を語る面々。
どうやらモーディスが、本人の威厳に関わるような一番危うい状況になったらしい。
アナイクスは更に辟易した。この状況がとても嫌になった。なんとか研究を切り上げて教え子のめでたい日を祝いに来ただけだと言うのに、自分までこんな目に巻き込まれてたまるかと。
「ふん…。たとえ私を驚かすための実験だとしても乗ってやる理由はありません。私は先に部屋に帰らせていただきます!」
「先生、それは"フラグ"というやつだよ」
そう踵を返したアナイクスはすぐに硬直した。
ファイノンの言葉通り───
「せ〜んせい♡やっとみつけましたよ〜♡」
きっちりとしたフラグの回収─────。
無邪気に笑うヒアンシーに、あっけなく捕まってしまったのだから。
「すごい!ファイちゃんには、こうなる未来が見えてたの?」
「師匠、あまり見ては可哀想ですよ」
「先生、見事なフラグ回収だね!」
「そこ!黙りなさい!!」
好きに言われ数人から拍手を送られアナイクスも強力な剣幕を見せたが、無遠慮に自分へ擦り寄るヒアンシーが怒りから気を逸らさせる。
チョコレートを食べてから数時間はしてると言うが、ヒアンシーの酔いはまだ醒める気配はない。
ならば、無理に腕を振り解こうとすれば酩酊状態の彼女は思わぬ怪我を負うかもしれない。引き離そうと揺さぶれば、更に酔いが回ってしまうかもしれない。
自分が不用意に動いた結果招くリスクの方が大きい…。瞬時にそう判断してしまえば、アナイクスは周囲の野次は気にしないこととし、この後ヒアンシーから何を言われようともただ沈黙を守ると決めた。
「せんせい、さがしてたんですよぉ…。今日、ぐすっ……きて、くれない、かと…おもって…」
「…………くっ……」
アナイクスの予想と反し聞こえたのは、涙声で訴えるヒアンシーの言葉。寂しかった、会いたかったと告げるヒアンシーに、アナイクスはつい声にならない声を出す。
研究を切り上げられず遅れて来たことに対し少なからず罪悪感を抱いたようだ。
泣かせた…。と小さく話す声が聞こえ、アナイクスは肩越しに背後を睨みつけた。
「ん〜〜、先生っ!よそみなんて、しないでください!」
「っ!?」
しかし僅かに目を逸らした間。ヒアンシーに両頬を挟まれ、強引にそちらを向かされる。
至近距離で視線がぶつかった。涙で濡れるヒアンシーの澄んだ瞳に、自分の姿が見えてしまうほど、近くで。
「な、なに、を……」
先程から想定外の動きばかりするヒアンシーに、アナイクスは対策が出来ない。しかし、酩酊状態なヒアンシーの次の行動を検証する暇などなく。
「っ〜〜〜!?」
動けぬままのアナイクスに、ヒアンシーが徐に唇を重ねた。
ざわっ!と背後がどよめいた。だがアナイクスにはそちらを気にする余裕もなく。リスクのことと、この前屈みになってしまった姿勢のせいで、無理に動けば自身も倒れかねないと頬を挟む手を解くことも難しく。
「ちょっ……ヒア、んんっ!」
何とか顔を逸らそうと試みても、ヒアンシーの唇が追いついてくる。抵抗の声は上げられることなく咥内に吐息と消えた。
「はっ……ん、ふぅっ…」
ヒアンシーがアナイクスの唇を唇でやわく挟む。ゆっくり口を開閉しては下唇を甘噛みし、たまに軽く吸いつかれたと思えば、少し歯を立てて噛まれる。
柔らかさとの強弱が段々とアナイクスの思考を朧げにしていく。
「……っ!」
同様に上唇も甘噛みされるとピクリと肩が跳ねた。何度か繰り返されると、もはや何故キスをしているのかという疑問が頭の隅に追いやられる。
考えるよりも、ヒアンシーから与えられるこの柔らかさを先に受け入れてしまったからだ。
無意識に蕩け始めたアナイクスの瞳に気付いてか、もっと深めたいと求めてヒアンシーが小さい舌を出し、熱い吐息の漏れる薄く開いた唇をなぞった。アナイクスはそれが何を意味するのか分からないまま、促されるままにヒアンシーの舌が入るよう唇を開いてしまう。
「んんっ……、はっ……はぁ、う…」
滑らかにヒアンシーの舌が入っていく。
すり込ませるようにアナイクスの舌と優しく絡め、深く重なり合っていく。合わせるつもりは無いのにヒアンシーの舌の動きが分かり、止まるとヒアンシーがリードをしてくる。
くちゅ、と淫靡な水音がひどく反響して聞こえ、聴覚も、咥内の感覚も更に刺激されていき、アナイクスはもはや快感が高まっていくのを抑えられない。
「っふ、ぅ………んっ!」
経験したことのない快感を与えられ、いっぱいいっぱいで呼吸が難しくなっているのに気付かず、アナイクスは不意に足の力が抜けてしまった。
床にへたり込むように座ったアナイクスは俯いて、視界から思考を逃すことにした。しかし、ヒアンシーの柔らかい拘束は解けていても、押さえた唇にはヒアンシーから与えられた快感の感触と熱が残りすぎている。
自分でも分かるほど紅潮した肌、浅い呼吸を繰り返す情けない身体。終わってしまったのかと名残惜しく思った、心。
どれをとっても自分とは思えない状態に、アナイクスは立てずにいた。今にも自身を突き破りそうな鼓動がうるさい。
すると、ふっと頭上から影が落ちる。
熱い頬に手が添えられ、指の腹に唇を軽く押された。ゆっくり顔を上げれば、恍惚とした表情のヒアンシーと目が合う。
「可愛かったですよ、先生…♡」
「──────っっ!!!」
その一言で全てが、ぶわっとアナイクスの体に込み上げてくる。指の感触が今までの快感をもう一度体験させてくる。
囚われてしまい、動けずにいたアナイクスの背後には、既に誰も居らず───
「続き…したい、です。いいですか?せんせい……」
「…………………」
自身に向けられた欲を見逃して、何も言わずに、アナイクスは小さく頷いた。
そうだ、彼女に残るアルコールが、自分にも回ったのだと思うことにして。
今度は自ら、唇を開いて───。
*
後日。
「この前のパーティーから、先生のわたしに対する態度がよそよそしいんですけど…。キャスたん、わたしは先生に何かしてしまったのでしょうか…?」
「ふぇっ!?わ、私はその、あのっ………な、何も見てませんし、えっと…知りません、ので…!すみません…!」
「あ!キャスたん!?…どうしよう。絶対、先生に何かしちゃったんですね…!?」
あの時の記憶をすっかり忘れてしまったヒアンシー。
誰に聞いてもはぐらかされてしまい、本人からは「いえ、別に…はい」などと滅多に無い歯切れの悪い言葉だったり「覚えていないのならいいのです。そのまま忘れていなさい」と思い出すことを止められる。
とぼとぼ歩いて悩むヒアンシーに、くい、とトリビーが手を引いた。
「ヒアンシーちゃん」
「と、トリビーさ…」
「ああいうことをするのは、きちんとお付き合いちてからじゃなきゃ駄目だよ?」
「わたし、本当に何しちゃったんですか───!?」
この件が後々判明し、二人の関係がどうなるかは、また別のお話…。
────────────