あたたかいのは、その微笑み───────────
今日はなんだか、学生達がいつにも増して騒がしい。
日常的に樹庭のあちこちで議論しているのには慣れたものだし特に気になるほどではないだけれど。
それとは違ったどよめき、のようなものが、同じ方向───つまり、わたしの向かいから急ぎ足でやってくる人達から聞こえてくる。
──俺、最初見ちゃいけないものを見たのかと…。
──あながち間違ってないが、今見たことは忘れるべきなのが賢明な選択だ。
最後に通り抜けていった二人は、どこか怯えた様子で足早に去っていく。
不思議に思い遠くなるその背を見ていると、ふと思い至る。
「皆さん、一体どうしたんでしょうか…。この方向の先にはアナイクス先生の実験室しかありませんし……え?もしかして…」
わたしが向かう先───根石の間。そこにある、アナイクス先生の錬金実験室。
そこで奇妙な素材を収集しては実験を行う彼は、時折顔は埃まみれ、髪はボサボサになって部屋から出てくると聞いたことがある。
普段人が近付かない場所でありながら、普段人から遠巻きにされる彼が、さらに近寄りがたい見た目になってしまったら…あんなふうに足早に去ろうとしてしまうのも仕方ないのでしょうか、とわたしは苦笑いをした。
実際、そんな姿の先生を見たらわたしも驚いてしまうかもしれません。
そう考えたことを頭を振って消し、向かう先へと再び歩もうと振り返った時───
曲がり角から、ゆらり、と揺れる影がわたしに声を掛けてきたのでした。
「そこにいるのは誰ですか?……おや、ヒアンシー?」
「きゃあぁ!?せっ……先生?アナイクス先生なんですか…!?」
「アナクサゴラス先生、と呼びなさい。…何です、人の顔を見るなりそのような反応をして」
「そ、それはこちらの台詞ですよ!何ですか、そのひどい姿は…?」
驚きに加えて飛び込んできた先生の姿を見ていたら、わたしには思考を整理する暇もない。
話に聞いていたよりもひどい。
「ひどい…?今は実験中なんです、自分の姿など気にしている暇はありません。それよりも、根石の間にまでわざわざ何の用です?私に急用ですか?」
普段通り尋ねてくれる先生の言葉が、何だか遠くに聞こえます…。
先生の顔は埃まみれというより煤だらけ。
髪はボサボサだったけど、それよりも気になるのは、絶対実験に使いましたよね?と質問したい不揃いな毛先。
そして、医師としてわたしは気付く。
煤だらけでも分かる顔色の悪さと、重たそうにふらつく足……寝不足による身体機能低下──もう、見ていられません。
「わたしは先生に……いえ!それどころではなくなってしまいました。先生、今からわたしの庭園へ行きましょう。すぐに!」
「はい……?」
やけに冷たい手を取り、しっかりと握り締めた。
先生には、速やかに休んでもらわないといけません!
*
「ふぅ……綺麗になりましたね、先生」
「…あなたがこれほど強引だとは知りませんでした」
「そうでしたか?ふふ。医師は時に、強引にでも患者さんを休ませないといけませんから」
場所は変わり。
先生は今、煤だらけだった身体は綺麗さっぱり洗い流し、ボサボサだった髪は毛先も整えて──お日さまが一番あたたかく感じられるわたしの特等席で、横になっていてもらっている。
「患者ではないのですが……まあいいでしょう。分かりました、あなたの言う通りしばらく休むので、果物を食べさせようとするのはやめなさい」
「美味しいんですよ〜、採れたてなんですって!」
「聞いてません。要りません」
「え…本当に、いらないんですか………?先生のために、わたし……わたし、頑張って大地獣の形に切ったのに…」
「器用すぎませんか?…ゴホン!仕方ないですね、いただきます」
「はい!たくさんあるのでどうぞ〜!」
全身は難しかったけれど、先生の絵描き歌を思い出しながら切った、大地獣の顔のりんごがいくつか乗るお皿とフォークを差し出す。
感心した先生はしばらくりんごを見つめては「食べるのが勿体無い…」と呟いていた。
ようやく一口食べてくれると、先生の顔が綻んだ。
「ええ、確かに美味しいですね」
「良かったです」
しゃく、しゃく、と、どんどん進む音が嬉しい。
食事も抜いていた先生に、消化が良く、同時に水分補給も可能なりんごを選んだのは正解だった。
わたしもつられて表情が緩む。
ぽかぽかの日向ぼっこ、美味しいりんご。
よければふわふわのイカルンもどうですかと、この後聞いてみようかな。
「ヒアンシー」
「はい、何でしょう」
「どうぞ」
「はい!……えっ?」
「随分と熱心に見ていたので、あなたも食べたいのではと。私はもう十分いただきましたから、どうぞ」
それは。
ついさっきまで先生が使っていたフォークに、まだ手付かずのりんごが刺さっていて、わたしの口元に運ばれてきた。
何故だか顔に熱が集まっていくのを感じながら、断るのも勿体無い…いえ、申し訳ないと思って、ゆっくりとりんごを一口。
みずみずしさと、さわやかな甘みが口の中に広がっていく。うん、本当に新鮮で美味しい。
もう一口…と思ったところで、ふと、何となしに先生を見遣る。
「どうしました?まだ残っていますよ?」
「いただきます…」
お日さまよりもあたたかくなる微笑みが目の前にあって。
わたしの心臓が、きゅうって締め付けられて。
そうして二口目からは、りんごの味がよくわからなくなってしまっていた。
*