浅桐 真大 それは人魚の恋に似ていた。
『人魚姫』を悲恋モノだと言うやつはわかってねえ。あれは未知に挑む冒険譚だ。人間だろうが人魚だろうが、アタマで考え体で生きる者なら満ち足りた暮らしに渇きはない。
海中で乾くわけがないなんて凡百なツッコミを入れるな。そこに心ってもんがあれば渇きもあるんだ。渇きは人間の動力の源泉だ。ここにないものを求めるときにアタマを持って生きる奴の心ってのは渇くもんだ。
よこせドラマだ!
ロマンの飛沫をひるがえせ!
「海の王国で幸せに暮らしていたプリンセス」とやらの日常はさぞ平穏満足だったことだろうよ。だが、そこにはロマンもドラマもありやしない。
何しろプリンセスは与えられたもの以外に何があるのか知らないのさ。
天才なら未知を自ら見つけるもんだが、そこらの海底王国オヒメサマには難題だろうよ。
だがな、0から1を作るのは偉業だが、9を10に桁上がりさせるのだってなかなかの技術が要るワケ。数だの桁だのが存在しない世界においてはな。
さて、無知なプリンセスは無知でいることを良しとしたか? 断じて否だ。与えられるがままの幸せなんざなんの物語も生みやしねぇ。
満ち足りた世界とはつまるところ箱庭だ。満ち足りてるのが問題だ。
なら壊せばいい。充足して増やすべきものが見つからないなら、壊して減らしてみるしかないのさ。
記念すべき第一回検証実験は人魚姫の脚を壊した。うるせぇ、人魚にも脚くらい生えんだよ。
人魚姫の恋はつまるところ未知への焦がれだ。壊れたのは脚であり、満ち足りた世界の壁だ。
あとはもう、自由気ままの破壊と創造の繰り返しさァ。箱庭なんざ過去の遺物だ。そんな過去〈思い出〉はもう捨てた。