土井半助、竜宮城へゆくの段「おい、花房がっぱ。おまえの言うイイ所っていうのは、まだ着かないのか?」
「き、貴様! 人の名前を何だと思っている!? わたしは由緒正しき河童族の長、花房家の花房河童之介であるぞ! 花房がっぱなどではぬゎい!」
そんなら人ではなく河童だろうが。と、半助は胸中ぼんやり悪態をつきながらも、この〝河童〟を名乗る下手な変装をした花房牧之介こと花房河童之介の背に跨り、海の中を降下中。
胴を太い縄でぐるぐる巻きにされた半助は逃れられず大人しくしている。手縄の先はもちろん河童之介の手にあり、持ち主は器用にも手綱を構えたまま海底へ向け泳ぎ続けているのだ。
海中というのに河童でもない半助も息はできるし、そもそも河童が海に住んでいるなんて聞いたことがないし、もとより花房河童之介だなんて、冗談もいいところである。
それもそのはず。これは全部、半助の夢だからだ。
話しは少しばかり遡る。
なんとなく、これは夢だなと分かる瞬間がある。その時の土井半助も正にその感覚にあった。
半助はいつの間にか海辺にいた。
兵庫水軍の陣取る浜とも異なる見慣れぬ海辺。一度も来たことがないはずのその海に、半助は不思議と懐かしさを感じていた。夢においてはそういうこともままある。なにせ、夢なのだから。
海は遠くまで続いていて広く、背後では風除けの松林がさやさやと揺れ、潮の匂いを運ぶ大きな風が萎烏帽子からのぞく半助の前髪をなびかせていた。そこに立って潮風に吹かれていると、なんだか肩の荷が下りて、身軽になったような気がした。
「ぎゃあああっっ!!」
と、そこへ突然、穏やかな情感を帳消しにしてしまう悲鳴。
驚いた半助は飛び上がったものの、すぐさま辺りを見回した。が、何も見当たらない。
しかし、よく目を凝らしてみれば簡素な波止場の岩陰に人の群がる塊が見えた。
「またお前か、いい加減にしろ!」
「わるさばっかりして〜!」
「今度こそ大目玉だぞ!」
「ヘム! ヘムヘム〜ッ!」
駆け寄った先ではあろうことか、大川平次渦正こと我らが忍術学園の学園長、そしてその忍犬ヘムヘム、それから事務の小松田と、どういうわけか山田伝蔵の息子・利吉までもが、漁民姿で何かを取り囲んでいた。一様に怒っているようで、取り囲んだ物を蹴りつけ、罵声まで浴びせているのだ。
どういう配役なのか分からない。忍務のようにも思えるが、夢だしなぁ、と脳裏で勝手な決着をつける半助は、まぁまぁと仲裁の手をとりあえず入れてみた。
「学園長先生。それに小松田くんに利吉くんまで。暴力なんていけませんよ。ヘムヘムも。一体、どうしたっていうんです?」
半助が声を掛けると三人衆プラス一匹はめいめい言い分をあげつらった。
「こやつが仕掛け罠にかかった魚を、全部食べてしまったのじゃ!」
「一度や二度じゃないんですよぅ? 懲らしめられて当然ですっ」
「わたし達だって急にこんな乱暴を働いてるわけじゃないんです。人の忠告を全然聞かないんだから。お兄ちゃんも言ってやってくださいよ」
「ヘム! ヘムヘム、ヘムゥ〜〜ッ!」
三者プラス一匹各様言い募るが、それぞれまとまった発言に半助はうんうん受け合うばかりだ。
「それは当然だなぁ」
やれやれ、と溜息をついた半助。流石に報いを受けるは必至と、出しかけた助け舟も引っ込めた。
すると放たれたのは地面に這いつくばっていた制裁を受ける側からの文句つけだ。
「やい、そこのお主! 今、助けようとしたのではないのか!? なぜ最後まで助けないのだ! それでも人か、わたしを助けろ!!」
面倒事に首を挟んでしまったなぁと横目を流そうとした半助は、その声の主を捉えて思わずぎょっとした。
「ま、牧之介!?」
よりにもよって、どうしてこの男と遭遇してしまったのか。半助は己の災難を哀れんだ。自分の夢に、花房牧之介がキャスティングされているだなんて。
「何してるんだ、こんな所で……というか、なんだ、その格好は?」
砂埃にまみれて草鞋の痕真新しい顔の牧之介は何の見世物か、ぴっちりした黄緑色の潜水スーツのようなものを着込み、指ヒレ付きの手袋と海足袋、ご丁寧に鳥の嘴のようなものを眼鏡式に耳で留めて、しかも頭に中華屋で使いそうな平皿までのっけている。もちろん、背中にはリュックサックのように亀の甲羅らしきものを背負って。
文化祭か二次会の出し物か? 半助は一瞬出かけたツッコミを喉元で押し留めた。これでは河童であるかどうかさえ疑わしい。いや、かなり無理がある。ただの下手な変装をした花房牧之介でしかない。
しかし、本人はこのように口角泡飛ばしまくるのだ。
「ええい、やかましい! わたしは牧之介などという、平凡な名前ではない! わたしは由緒正しき海河童の子孫、花房河童之介であるぞッ!」
今日の半助は胃よりもまず頭が痛い。
「おい、牧之介…いや、河童之介くん? おまえの名前が平凡なのはそれとして、一体全体、どうしたんだ?」
いくらあのお騒がせな花房牧之介モデルだろうとも、ちょっと話がおかしすぎる。河童が海に住むだなんて聞いたこともない。河童といえば川に胡瓜だ。こじつけ設定にしても無理がありすぎる。
「お兄ちゃん。それに、こいつはひどい大うそつきなんです。いつも哀れっぽい行き倒れを装って盗みを働こうとしたり、助けてくれたら海の中のイイ所に連れてってやるだなんて虚言で、人を騙すんです」
「虚言ではないわい! 本当に、助けてくれたらイイ所に連れてってやるというのに、誰も相手をしてくれんのだ……ああ、わたしは、…わたしはなんって可哀想な河童なのだぁ〜…!」
ややこしいババを踏んでしまった。
泣き芝居を始めた河童巻き寿司だかなんだか知らんが、とにかく河童らしき格好をした牧之介のような男を前に、半助はあからさまにげんなりして見せた。しかし、この妙ちきりんな格好の花房牧之介は、なんという馬鹿力だろうか。今度は下から半助の衣服にしがみついて離れないのだ。
「なあ、土井半助! わたしを助けろ! そして共に海の中のイイ所へ行こうではないか?」
にたにた笑みを浮かべて確かに水に引きずり込む河童らしきその姿。
半助はこれ以上の面倒は勘弁と、その指ヒレ付きの手を振りほどこうと試みた。だが、この河童之介の指先には鉤爪がついており、それがうまいこと着物に食い込んで外せないのだ。どうでもいい箇所の設定の細かさに嫌気を差しながらも半助は相手に言いつけた。
「人のものを勝手に盗み食いしたのはおまえだろう? 一度きちんと罰を受けなさい!」
先生らしい物言いで、先生らしく諭してみせる。が、相手はそんな道理を聞き入れる玉ではない。
「何を言うか! ここは先祖代々、我が花房家の海なのだ! うちの庭の魚を主が食って、何が悪い!? あと貴様らゴミを海に流すな、お陰でうちの庭が油っぽいのだぞ!」
なんだって? と眉根を濃ゆく寄せる半助は、ほとんどしかめっ面をしている。
「なんだって?」思ったことを改めて口にしながら、半助は続けて尋ねた。「おまえはいつから海の中に住み着くほど落ちぶれたんだ? そんなに日銭が足りないのか?」
いっそ憐れみの視線を送る半助と、憐れまれていることに気づいて無性に自尊心を傷つけられ、羞恥で爆発しそうな牧之介こと河童之介はこれまで以上の大声で捲し立てはじめた。
「わ、わたしはなぁ! 先祖代々由緒正しき海河童の末裔として、この海一帯を取り仕切っている、いわば海神の一族の当主であるのだぞ!? それを知らずにここらの海産物を手当り次第に奪っていくばかりか、ゴミまで流すのはおまえたち人間の方ではないか。罰を受けるのは、おまえたちの方ではないのか!?」
珍しく何となく正論ぽいことを混ぜた物言いに、半助は思わずギクリと胸を押さえた。
「まぁ、皆さん。ここは一点減点、もう少し様子見ということで……」と振り向いたところ、さっきまでいたはずの学園長、ヘムヘム、小松田、利吉の姿は忽然と消えていた。エッと先に目をやれば、彼らはもう岩場の向こう側まで引っ込んでいるではないか。
「ここはもうすぐ満潮になるから危ないですよぉ〜」
小松田の呑気な声が潮風に乗ってのびやかに聞こえた。
「お兄ちゃん、気をつけてくださいね!」
「あとは頼んだぞ、土井先生〜」
「ヘムヘムぅ〜!」
思い思いの台詞だけ残して去っていく身内に、夢の中と言えどそりゃあんまりだ、と愕然とする半助。その足にしがみつく重たさが、いよいよ真に迫って半助の平静を脅かした。
「くっくっく……土井半助ェ……」ホラーよろしく、河童之介の魔の手が半助に忍び寄った……!「一つお礼にイイ所へ連れてってやろう……」
「絶対良くない所に決まってる!」
ギャグ的涙を迸らせる半助が大いに喚いた。
海の底なんて、どこの国でも極刑と相場が決まっているのだ。
背筋に悪寒が走るのを堪えながら、半助は逃げの姿勢を取った。
「わたしはお前の連れて行く所なんか、どっこも行く気はないからね!」
さらば! と忍びらしく跳躍して立ち去ろうとしたところ、不運にも真上を通り過ぎようとしたカモメにもろにぶつかり敢えなく落下、オマケに大きなたんこぶまで頂いてしまった。
「ど、ど〜してこんなことにぃ〜……」
はらひれほ、と砂辺にうずくまったところを、眼を見張る手際の良さでふん縛って生け捕りにした花房河童之介は、悠々と半助を引きずり海にずんずか潜っていこうとする。
「オ、オイ! 牧之介、どこへ行く気だ! そっちは海だぞ!?」
「言っただろう、おまえをイイ〜所に連れて行って進ぜるのさぁ」
にたぁ…と不気味な笑みを浮かべた河童之介。半助でなくとも嫌な予感しかしない。
「いやだぁ──!! 山田先生! 乱太郎、きり丸、しんべヱ〜〜!!」
おまえのお皿なんか乾いてひび割れてしまえ! などと、河童に対するとびきりの罵倒を繰り出すも、半助はやむなく海の中へ引きずられていってしまうのであった……。
◇◇◇
そんな一悶着を経て、土井半助は今、海の中を潜航中。河童之介号は勝手知ったるとばかりに海洋をスイスイ泳いでいく。
はじめこそ訝しんだり慌てふためいたりしていた半助だったが、ゆったりとした波を感じながらの遊泳は心地よく、滅多と拝めない海中の美しい景色を前にして観光客気分に浸っている。服が水に濡れる感触もなく、むしろふわふわ泡となって漂うようだ。
青の層が織りなす空間は美の妙で、珊瑚の林を色とりどりの小魚や小さな甲殻類などの生き物たちがちょんちょん跳ねるように泳いでいる。竜巻のような魚群を横目に視界はどんどんその青を増し、深い深い海の彼方を垣間見るほど揺蕩う心地に気の固さも解けてゆく。
あああ、ここは、どこだっけ。いつかここに来たよな気のする。もしかして、誰しもあった、原初の記憶……
各駅列車の揺れ心地にあったように、溶けゆく半助の意識に音楽が流れてくる。古い古い歌のような、懐かしい楽器の音色のような、ふしぎなうたがシャンシャンシャン、ユラユラユラと耳を揺さぶる。
揺らぐ波に洗われた半助がふと気づけば、そこは金銀玉に輝く珊瑚の森。先ほど見たそれとも全く異なる美しい輝きに満ちたその森を潜り抜けていくと、翡翠と琥珀の玉砂利が敷き詰められた広い空間に出た。
そして、目の前に現れたのは月の石でできたような立派な楼閣建物……なのだが、その正門の真上には、およそ壮麗な景観に似つかわしいとは言いがたい看板が掲げられている。
〝ショーパブキャバレー・シーパラダイス♡竜宮城♡〟
繁華街にありがちなあのネオンサインが、青ピンク黄色の配色でチカチカギラギラ瞬いている。
看板だけでなく、四層ある屋根の隅々までもがその電光に覆われているので、ともするとポリゴンショックでも起きそうだ。ここら辺の魚介類たちは目が眩んだり憂鬱になったりしないのだろうか。半助はあまりの浮世離れからそんな無用な心配を呆然と抱く。そしてそこでまたハッとする。
浮世離れも何も、これは自分の夢なのだ。ということは自分にとって都合の良い展開がなされるはずなわけで、そうすると、自分でも知らないうちにショーパブに行きたい願望でもあったのだろうか……いや、そんなバカな?
「まき…河童之介。ここが、おまえの言うイイ所なのか?」
「そうだ!」
今やお縄のままの半助を小脇に抱える河童之介はどこか浮足立っていて鼻息も荒い。こいつにもそんな趣味があったとは……と、ややヤツレ顔の半助だが、ここは海の中、自分はお縄。都合の良い夢の中であるはずが、どうにも抗えないまま大人しくしているしかなさそうだ。
半助が観念していると、少しもしないうちにシーパラダイスなんたれこと竜宮城の門扉が大げさな音を立てて開かれた。更なる閃光が二人を包み、瞠目する半助の前に現れたのは……
「でぇえっっ!? 山田セン…っ、でで、伝子さん…!?」
そこには、どこからどう見ても山田伝蔵扮する伝子でしかない伝子がいた。
いや、衣装はいつもと少し違う。まるで羽衣伝説から抜け出てきた仙女のような格好だ。
ただし、派手な化粧、白粉を叩いてもなぜか隠れない青ひげ、真っ赤な口紅、妙に艷やかな黒髪。そしてそれらのチグハグ具合を全て吹っ飛ばしてしまう、爪の先まで完璧な所作。
間違いない。間違いなく山田伝子、その人である。
河童之介の小脇からぴょいと飛び出した半助が伝子の前に踊り出る。そのときにはもう手縄はハラリと解かれ、河童之介だけが一人、アレレ?? ときょろつくザマを見せた。
「伝子さん、こんなところで何をなさってるんですかぁ」
戸惑いながらも救いの仏と寄りつく半助に、しかし伝子はどこか素っ気ない。
「あらぁン? どっかでお会いしましたかしらぁ?」
困惑を深める半助の周りを、ざっと素早く取り囲む者たちありけり。
「伝子さんじゃないやい!」
「そーですよ、馴れ馴れしい!」
「お客様と言えども失礼ですよ! まったくぅっ」
半助を取り囲むのは、乱太郎、きり丸、しんべヱ……いや、厳密には、乱子、きり子、しん子の三人。他にも一年は組の面々が女装姿でずらっと勢揃いしているではないか。きり丸のバイトの手伝いなのだとしたら半助による懲戒ものだ。
「お、おまえたち!? 何やってるんだ一体〜〜!」
脱力する半助をよそに、伝子を中心にした花園一行はその中心軸に手を延べて盛大な挨拶を振る舞う。
「こちらにおわしますますのは〜」
「我らが竜宮城を代表します〜」
「海の真珠とも名高いこの御方!」
らん・きり・しんに続くはガールズは組の揃い声。
「伝姫様にございまぁ──っす!」
シナをつけてポーズを取る伝子こと伝姫はもちろん、ノリノリだ。
何と反応してよいのやら、半助は肩をヨレさせ茫然自失。その横でウキウキを隠さない河童之介は、もはや不気味だ。
「おい、河童之介。お、おまえ、……まさか、ここの常連、なのか…?」
「まぁ、それなりにな」
胸を張って誇らしげな河童之介を前に、半助は一人置いてけぼりの気持ちにさせられる。状況が全く飲み込めない。正直言って、夢であろうが河童の格好をした牧之介に跨って海の中を往くだけでもおかしなものが、行き着いた先がトンチンカンな見た目の竜宮城で、しかもその中から女形の山田先生と教え子たちが登場ときたら、もう自分自身を信じられなくなって当然ではなかろうか。その上、河童之介はこの何屋なのかてんで見当もつかない竜宮城に来られることを誇りに思っているようなのだ。
半助の中でいびつな常識改変が生じる。その拍子に、頭がおかしくなりそうな心情が物凄い角度に捻じ曲げられる姿勢でもって表現される。それを目にしてゾッとなるのは河童之介とガールズたちだ。伝姫だけがクールに対応するので何ともシュールな場面に仕上がってしまう。
「ちょいと河童之介、お勤めご苦労さん。今日はツけてあげるから、マ、ゆっくりしてきなさいヨ」
「あ、伝姫様。これはこれは、毎度どーも」
オオキニオオキニ両手をニギニギ。へーこら愛想を振りまく河童之介は、竜宮城の中へと戻っていく伝姫にへこへこ付いていく。
「あっ! おい、ちょっと…」と声を掛けたところ、半助の体はひょいと浮いて、ガールズたちの軽い小唄の流れと共に神輿のようによいせほいせと担がれて行ってしまう。
「これはわたしの夢じゃないのかぁ〜〜〜!!?」
抵抗虚しい半助の恨めしい叫びを最後に、ギンビカ荘厳な門扉は重たい音と粉塵を撒き散らしてその口を閉ざしてしまった。
「ここへはなぁ、善人しか来れんのだふんがふんがもんが」
大きな魚の姿煮をほぐしもせずにそのまま口に入れる河童之介はすぐにもがもが、何を話しているのか分からなくなる。見る間に喉を詰まらせて顔を真っ青にするのも、これが何度目だか知れない。
「おまえ、人の魚盗んだりして悪さしかしてないじゃないか」
「ち、ちがうわい! わたしはぁ、ちゃんとぉ、お主をここへ案内したではないか。だからして、わたしは決して、悪人ではないのだぁ!」
善人であると言い切らないところに当人なりの後ろめたさを感じる。
波々の大酒坏でぷはぁ〜っと赤い息つく河童之介は幸せそのものの顔をしている。大方、この竜宮城でタダ酒を煽るためにあの浜辺で気の良さそうな人を捕まえていたのだろう。魚のつまみ食いはそのついでに違いない。そう思われるくらいには、この河童之介も牧之介同様、既にその手の信用がからっきしだった。
客は二人だけというのに酒宴場は大賑わいで、ショーパブらしく設置されている半円形のステージではガールズたちが魚や海藻などの被り物をして忍術を応用したお遊戯を見せてくれている。なんと言って、あの乱子、きり子、しん子が素晴らしい跳躍と見事な手裏剣さばき、隠遁の術などをお遊戯のお話に沿って披露するのだから、これが夢でないわけがない。
「す、すごい! おまえたち、やっぱりやれば、できるんじゃないかぁ〜〜!」
感涙を飲むぐしゃぐしゃな半助。しかし脳裏では(見た目は同じでも、ここのガールズたちの方がうちの生徒たちよりきちんと忍術できている……)と冷静な独りごち。半助はこの期に及んで持病の胃痛に別の涙を飲まされた。
見世物の他にも豊富なもてなしが施されている。客人である半助と勝手にそのお供格となっている河童之介を中心に山程積まれた料理と酒、ズラリと並べられた財宝の数々。そして……半助の側に寄り添う伝姫、である。
伝姫との間にぬるっと隙間を作っても、どうしてどうしてスルスルっと詰められてしまう。半助は半身鳥肌まみれになりながら酒坏を取る手もぶるぶる震わせる。
「あ、あのぉ、なんだかすごく盛り上がってるみたい、ですね…?」
「あン、そうなのよォ。新規のお客様なんて久しぶりだから? みんな嬉しいのよ、ンネェ〜?」
「ハ────イ!! お客様、いらっしゃ──い!」
気づけば円卓をぐるりと囲むように座したガールズたちは手に手にカクテルグラスのような坏を持って浮かれている。それを見て、サァッと血の気が引くのが忍術学園一年は組教科担当担任・土井半助。
「ま、まさか、未成年飲酒…ッ!」
背後に『未成年飲酒!?』の文字をデカデカと背負い、教師六年生は驚愕して青ざめる。
「そんなの、放送局が許してくれない…ッ!」し、わたしも許しません! と手をのばすも既に遅し。おのおの高く掲げられた手の先で景気のいい音頭が取られた。
「カンパイオレンジでカンパァ〜イ!」
半助は円卓上にぐしゃっと一人潰れ落ちた。中身はどうやらオレンジジュースだったようだ。
けれども、席に引き戻されて「アンタもカンパイオレンジやんなさいよ」と一杯付けられた半助の顔は、見る間にぽやん、とほんのりピンクに色づいた。
「あらら。ただの人間にはちっとばっかし刺激的だったかしら?」
イイこんころもちの半助の横から、河童というには体面積の膨張しすぎた河童之介がウヒヒと耳打ちする。
「な、ここはイイ所であろう? なんといって、タダで食べ放題なのだからなぁ〜!」
◇◇◇
「あらぁン。アナタもがんばってるじゃないのぉ〜」
「そうなんです!! わたし! がんばってるんですぅぅぅう〜〜〜〜!!!」
半助がそう叫びながら突っ伏した卓上にはカンパイオレンジジュースの空き瓶がいくつも転がっている。会場は趣向を変えて、ミラーボールがダイヤの輝きをまき散らし、ジュークボックスからやや輪郭のぼやけたナイトソングが鳴っている。
すっかり泣き上戸に入ってしまった半助に、シーパラダイス♡竜宮城♡のお給仕面々は少なからず引きながらも、なんとか接客してくれている様相だ。酔いどれ天国の河童之介は半助の足元で高鼾を上げている。
「すみません……もう教師も六年目だっていうのに、こんな幼稚な愚痴……」
面目次第もございません……とシトシト泣き濡れる半助に、伝姫はむしろ元気な声を出す。
「いいのよ、いいのよ、気にしないで。ここはそういう所なんだから」
え? と抱えた空き瓶に頬寄せる半助が伝姫を見やる。
「こないだなんか、かぐや姫ちゃんが来てね。青二才がどいつもこいつもうるせーや、火鼠の皮衣なんてどこにもあるわけねーわよっツってね、笑ってたんだから、あのコ」
何の話か。ぽかん、と開いた半助の口が、その下顎をクッと押し返す伝姫によって閉じられる。そしてまた、これが所作事の真髄というものなのだろうか、卓に寄りかかって肘を突く伝姫は、何とも言えず、色っぽい。
「ココは愚痴吐きセンターってワケ。好きなだけ飲んで、騒いで、楽しんで。それからまた働いて、ネ、遊んでらっしゃいな」
ネ。と言ってヨシヨシと頭を撫でてくれる伝姫が、半助には今や本当に仙女のように思えてきた。ひとりでにぽろぽろと、混じりっけのない涙がこぼれてくる。
「伝姫様、わたしは……わたしは、教職に向いていないのでしょうか……。どんなに教えても忘れる一方の生徒達。自分が甘やかしてしまっているのかと思うと、親御さんにも顔向けできませんし、他の先生方にも迷惑が及ぶのを見ていると、担任として……」
もう三十年以上教えているのに……と、ぽそぽそ零す半助の日頃の鬱憤は、角度を増して最早深い内省に及んでいる。
「いつ頃からか、〝そうだ、まだ習ってないんだ!〟なんて言い始める始末で……もぉ〜〜〜〜! 何期教えてきたと思っとるんじゃあ〜〜〜!!」
かと思えばまた怒りが再燃する。このサイクルをもう何巡もしているのだ。そりゃあ周りも少々どころでなく引いてしまう。
カンパイオレンジジュースの瓶を逆さに振って、滴るそのしずく一滴にさえ涙をこぼすような有様の半助を見かねたのか、伝姫が「そうだ!」と何やら閃いた様子で手を叩く。そこで口走ったのは大川学園長も真っ青の恐ろしい思いつきだった。
「アンタもココで働けばいいのよ!」
「ア〜ン! 素ッ敵じゃない!」
どうしてこんなことになったのだろう。半分よっぱらりんの半助にはよくわからない。
ショーステージの舞台裏奥。衣装部屋に通された半助は、あれよという間に褌一丁にひん剥かれ、かと思えば何着も着替えをさせられて、最終、今ここに至る。
出来上がったのは橙色と薄黄の着物の半子さん。いつもの自分の女装である。あの何着か間に挟んだのは何だったのか。
「ちょ〜っとここらへんとかここらへんとか、あとこことかそことかこれもそれもここもこれこれも気になるけど、まぁ〜なんとかモノにはなるかしらね」
反面、伝姫はどこか楽しげだ。いい着せかえ人形を手に入れたとでも思われているのだろうか。半助は小慣れたトホホ顔を晒す。
自分の夢の中のはずが、なんにも何も思い通りにならない。それどころか予想外の事ばかり起こることに、半助はもう諦観の念を決め込んでさえいる。
「ギャ!」
くたびれもうけでいたところ、無造作に股間をぎゅっと掴まれて飛び上がる半助。その手はもちろん伝姫様だ。
「な、何すんですか!!」
赤面中腰で抗議申し入れをする半助こと半子に伝姫はふんぞり返って真顔の注意勧告をする。
「アンタだめじゃないのよ、褌替えてないでしょ。さっき渡したやつちゃんと使いなさいよ」
「だ、だって! あんなヒラヒラスケスケのやつなんて〜!」
〝さっき渡した褌〟とは、完全にレディ向けのそれで半助の言う通りヒラヒラスケスケなのだが、今どきどこで入手できるのか不明なほどニッチでサッチな代物である。半助にはとても着用する勇気など持てなかった。
「あのネ、レディたるものね、身だしなみは疎かにしちゃ、ダメよダメよ、ダメなのヨ。美は細部まで宿るって言うでしょう?」
あれよという間に再びお着替えルームに押し戻された半助はヒラヒラスケスケショーツ式褌を前に、覚悟を決めざるを得なかった。
「う、うぅぅ〜〜……」
一瞬でもヒラヒラスケスケショーツを着用した自分を見たくなくて目を瞑りながら挑む半助。思わず悔しさの滲む声が漏れてしまう。そこに飛び入る伝姫の声。
「やだアンタ、ウンコ気張ってんの?」
「ンなワケあるかぁッ!!」
ツッコミと同時に思わず目を開けてしまった半助はバッと股ぐらを隠すように両手を下ろした。と、目の前の姿見の影に、何かがゆらりと映り込む。
半助は目を丸くして覗き込んだ。
鏡に映っているのは自分の姿ではなかった。それに、着替え室の様子でもない。
そこにあったのは、油火の灯る暗い部屋。窓の外の月が妙に赤い。
その部屋の奥、窓の側。白装束で書を執る者がいる……
「まだ頑張ってるの〜?」
伝姫の呼び声にハッとした瞬間、姿見には今の自分、半子の姿が映っていた。
……あれは何だったのか? 飲みすぎたのだろうか、はたまた、またも融通の効かない夢のイタズラか……。
怒涛のてんやわんやで疲れたのかな、と了見づけた半助は、自分の顔色を確かめると着替え室のカーテンを開けた。
「着替え、終わりましたぁ〜」
「じゃ、準備オッケー♡ね!」
アンタほんとにオッケーよね…と伝姫は半助の股ぐらを再度むんずと掴んで確かめる。
「ギャ!!」
確認せんでも!! と尻尾を踏まれた猫のごとく叫ぶ半助をよそに、伝姫はオッケーオッケー♪ と調子よく話を進めてしまう。
「もうすぐお客様がいらっしゃるからね。アンタも接客するのヨ」
「まだ来てないのにお客さんが来るって分かるんですか?」
「アタシがどんだけママやってると思ってンのよ♡」
ウインクを寄越されて硬直しながら、どれだけご一緒しても敵わぬ御人だ、と半助は半笑いで恐れ慄いた。
◇◇◇
半子になった半助は客が来るというのでガールズに混ざって見世物の稽古やらテーブルマナーやらを即席で仕込まれる羽目になった。
主に乱子、きり子、しん子から指導を受けるのだが、いつもの素の三人の体たらくはどこへやら。全てを嘘のように華麗にこなしてしまうのである。
「これが、わたしの夢のちから……」
三人よ、こうあれ、という願望が強すぎるのではないか? 度数の合わない眼鏡を掛けたように目が眩む。
そんな半助を尻目に先輩三人は「半子さん、もうっ! ちゃんとやってください!」とお叱りモード連発だ。普段と立場が逆転しても苦労することに変わりない己の宿命を呪うかのように、半助の恨めしさが響いて轟く。
「なんでわたしがこんな目にィ〜〜…!」
今は涙ながらに大量の皿洗いのちグラス拭きをする半子に、「次これお願いねェ〜♡」と伝姫による指示が次から次へと注ぎ足されていく。
本当に客が来るのか? それを口実に体よくタダ働きさせられているだけではないのか??
訝しみながらも日頃のなんとやら。半助はどうしても伝姫に逆らうことができない。
「どこが自分の夢の中だ!」
叫びながらガシャンガシャン! と仕事を済ませていく姿は物の哀れで一杯だ。ついでにグラス磨きが上手くなって、ひと拭きでピカピカにできる術まで身についた。「次にきり丸が皿洗いのバイトを持って来たら捗りそうだなぁ」などとぼやきながら、これで最後とグラスの山に頂点を作る。その指の先で、きらりと光ったグラスの反射光の中から不思議な陰影が半助の目に飛び込んできた。
一瞬、拭きもれの曇りかと思ったが、どうやら違う。目を引かれてじっと見つめるうちに半助は気づく。着替え室の姿見に映っていた影そっくりだ。
そう思うや否や、おぼろがちだった影がみるみる実像を結び始める。それは正しくあの時映っていた場面。暗い部屋、灯る油火、人の影……。白鞘の刀もある。
反射の影に見惚れていると近寄りすぎた拍子にグラスの山が崩壊し、落雷のような激しい音と衝撃を伴って一面割れたガラスの破片で滅茶苦茶になってしまった。そのガラスの破片一つ一つに白装束の男の影が映って見える。
音を聞きつけて飛んできたのは伝姫だ。半助はすぐに先ほどの不思議な体験を伝えようと縋り寄るが、事態を把握した伝姫はカンカンである。
「何やってんのよアンタ! まかない抜きにするからね、もうっ! ちゃんと掃除しときなさいよ、このおばか!」
怒り満点で取りつく島もない伝姫は早々に立ち去ってしまった。半助が次に床に視線を落としたとき、破片の山に映るのは今の自分の顔ばかりだった。
不思議な影はそれきりだけではなかった。その後も、お客様のために用意された財宝の輝きの中に、磨き上げられた燭台や銀食器の表面にと、影を反射する物には全てその時そこにない影が映り込んだ。時にそれは不穏であり、また血飛沫であるようにも見えた。
そのたびに惑わされる半助からすれば堪らない。もう少しで何の影かはっきり分かるかもしれない! しかしその時には、もうそこに映る影は掻き消えてしまっているのだった。
半助を戸惑わせるのはそればかりではない。準備ばかりで、来ると言われていたお客様とやらは一向にやって来ないのだ。
いつの間にか姿が見えなくなっていた河童之介のことも当初こそ客人を迎えに行ったのだろうと思っていたが、実はガールズたちも一人、二人とその姿が見えなくなっている。これはいよいよ奇妙なものだ。
伝姫に話をつけようにも都度上手くはぐらかされる始末。一枚も二枚もウワテなのは山田伝蔵と変わりないわけだ。これではいつまで経っても埒が明かない。それに、自分が元の現実に戻れるかもわからない……
そこで半助は、はたと思い至る。そうだ、現実!
ここは自分の夢の世界のはずなのに、まったく〝覚める〟感覚がない。その現象が起きない。あの反射に映り込む影は、自分の現実に帰る手立てと何か関わりがあるのではないか?
考えた半助は、いよいよ真っ向から伝姫を問い質すことにした。
半助が到着した頃には賑やかだった酒宴場はがらんとしていて静かだ。迎えられたときと同じように、次のお客様のためのもてなしの飾りや品々で見た目は豪勢だというのに、ひと気も音楽もないためチグハグ感が増して違和感だけが一層募る。そして、今になってもその客人は訪れない。
「伝姫さん。ここの客に、山伏の格好をした人はいますか?」
酒宴場の隅に配置されているバーカウンターで暇を潰している伝姫に半助は問いかけた。
「いいえ?……どうして?」
聞き返された半助は、とりとめもない話とわかりながら話しだす。二人のいるカウンターの端では音楽を流さないジュークボックスが虚しいネオンを発している。
「……最初は、着替え室の姿見だったんです。それからガラスの器とか、金銀玉の宝物とか……色んな、反射する物に、それは映るんです。一瞬だけ。でも、ここにはいない…」
なぜだか半助はこう感じる。伝姫なら知っているはずだと。
「あれは一体、誰なんですか?」
「あら、アナタ。知ってるンじゃないの?」
半助は伝姫の表情を逃すまいと注視する──が、ジュークボックスがレコードを切り替える機械音に、ついそちらへ気を向けてしまった。
その途端、辺りはパッと濃い霧に覆われたように真っ白になってしまった。
「伝姫さん? 伝姫さん!」
目の前にいたはずの伝姫の姿が見つからない。空間の広い所で感じる隙間風のような冷やっこさを感じる。そこはもはや竜宮城でさえないようだった。もがくように手を伸ばす半助だが、空を掻くたび戸惑いが募る。
それに、いつの間にか衣服も変わっている。今や半子の姿でなく、忍術学園の黒い教員服を着た、いつもの土井半助の姿だ。
状況を飲み込めないながらも半助は諦めず、そろりそろりと手を伸ばす。
すると、霧の向こうで指先が何かに触れた。冷たくて、硬い。手先の感覚を頼りに近づいてみる……と、そこにあったのは──鏡だ。
それはあの着替え室にあった姿見。けれど今は何も映さない。半助の姿も映さず、あのとき見た何かの影も映さず、ただ嘘のように暗い闇のため、そこだけ切り取られたように見える、その姿鏡。
もう一度、半助はその魔鏡に向け、手を伸ばした。ぬる…っとした奇妙な感触。
手が鏡の中に突き通ったのだ。
険しい表情を滲ませたのち、半助は却って冷静な心を持って、その闇の中にとっぷり入り込んで行った。
鏡の中には下へ続く階段があった。ただ、気配や足の裏の感触から分かるだけで眼には見えない。ただ一つ、その階段は上へは向いていないようだ。
半助は意を決して足を踏み入れる。
何も見えない。そこは純粋な闇である。
足音も立たない。半助が忍びだから足音がしないのではない。元より音が無いのである。
顔の向きを上下左右変えてみても、光も音も、何の気配も感じられない。まるで地の底まで案内されるように、どこまでも深く続くその階段を半助は下っていった──。
その階段は、ぐるぐると、楼閣の壁に張り巡らされたような四角い渦を描きながら、半助を地下へ地下へと導いていく。何もない空間を、何も感じないその片道っきりの暗闇を、下りていくしか術がない。一歩下り、また一歩下るごと、方向感覚は狂い、前後左右上下の別が消えてゆく。
ここはどこだ。どこへ導かれていくのだ……
自分の呼吸も聞こえない中、半助の疑問を晴らすものはどこにもなかった。彼はただ、暗闇の迷路を往くしかないのだ。
闇の中に不穏を感じる。ここは昼のない夜の世界か? そんなバカな。患う思いを振り払うように次の一歩を進める。
しかし半助には覚えがある。昔にも、こんな闇をひた走ったことがあった。あれは六年以上前のこと。全てを失い、持つものも持たぬものも無かったころのこと。何も救えず、何からも救われず。ただ時代の業火を奔っていた……──その中でたった一つ触れた、光は……
脳裏に結ぶ印象。庇いたてる広い背中。暗闇の中で一瞬見えた光。山田伝蔵というひとが、いつも半助を導いていた。名をくれ、居場所をくれ、寄る辺を与えてくれた。
そのひとが、半助の夜に昼をつくった。半助はそれから陽の光の中でも生きることが出来るようになった。
もしも行き着く先が地獄で、閻魔王の裁きを受けるのだとしても、半助はもう怖くない。差し出す一歩に迷いはない。どんな暗闇の中でも、その光を見出すことが出来るから。昼のない夜はありはしないと、今の半助は知っているから。
低く口ずさむように唱える念仏のうちに、半助は異国の古い古い言い伝えを見出す。
み仏の時代よりずっと昔、閻魔も存在しなかった神々の都に生まれた対なる双子の兄と妹。兄は自ら死を選び人類最初の死者にして死者の王となった。しかし妹は兄の死の悲しみに暮れていた。まだ夜のなかった世界で、妹はずっと〝兄の死んだ今日〟を生き続けていた。見かねた神々が夜をつくった。妹が兄の死から解き放たれるように。夜がうまれたので世界には〝今日〟のほかに〝昨日〟と〝明日〟がうまれた。妹はやっと〝昨日死んだ兄〟を思い忘れ、明日へむけて今日を生きることができるようになった……
兄の名は夜魔といった。
「兄の名は夜魔といった……」
半助の目は光を忘れてなどいない。
◇◇◇
恐らく一番深い所まで降り立った。目は慣れるばかりか何も映さないまま。ここまでの道と変わらない。何とも言えず不気味な暗闇ばかりが広がっている。
少し進むと幅のある通路のようなところに差し掛かり、両側の壁から空気の漂いを感じた。
部屋か…? と思い、手を伸ばすのだが、ぬるり…と、またさっきのあの鏡に手をついたときのような感触がする。扉の代わりに鏡が連なっているのだろう。
鏡があるらしい所だけはまちまちに光の明暗が見て取れる。暗いままの所、薄暗い所、明るい所。
半助は試しに、奥寄りの一際明るく見える鏡を覗いてみた。
その鏡に映るのは花畑だった。忍術学園の近くではなさそうだ。半助の知らないその花畑には手前から遠くにかけて牡丹や芍薬、山吹が鮮やかに咲き誇っている。見た目からしてその場所の季節は春だが、半助のいる側の季節は夏なので、これは窓でもありえそうにない。
続けて訝しみながら観察する半助の目にふと人影が映る。自分の姿ではない。それは……
「父上……」
思わずこぼれ出た。そう口にするのはいつぶりだろうか。もう長いこと発しなかったその言葉に半助自身も驚きを隠せない。目を丸くして、思わず食い入るように見つめるその姿。
間違いない、あれは、あの日喪った、あの方だ。その隣を歩く小さな影、は……
そこで半助はハッと我に返る。
思わず伸ばしそうになった手をぎゅっと握って反対の手で押し止める。腕に食い込む自分の手の力のあまりの強さに、半助は口を噛んだ。どくどくと血の走りを身のうちに感じる。
なんだろう? 気がざわざわする。夜風に流される荒れた夏草のような心情に、半助はしばらくその場でじっとしていた。早く収まれ、早く収まれ、早く収まれ……
忍びとは、常に冷静であるべきものだ。
深呼吸を一つして、すっくと立ち上がる。半助はやっとの思いで現実に帰ってきたように思った。
引き返す道すがら、両の壁に並ぶ鏡の中身が否応もなく目端に映り込んでくる。
雨に濡れる子供の姿(あれは過去の自分)
今と同じ年嵩で立派な身なりの自分(そんなものは知らない)
僧侶のなりで読経する老人(…………)
真紅にまみれた鏡の前を通り過ぎる時、半助はずっと目を瞑っていた。
ここは何だ? 一体、なんだというのだ……? 夢というにはあまりに穏やかでない。悍ましい。不気味極まりない。これではまるで、生ぬるい地獄だ。
すぐにここから立ち去らねばならないという思いが激しく込み上げた半助は急いで駆け出そうとした。が、くん、と何かに髪を引かれる感覚。今度は金縛りに遭ったように動けない。
厭な息を飲み込みながら、ゆっくりと振り返ると、通路の先、ずっと奥、きっとこの通路の一番後方に、その鏡はあった。──あの鏡だ。
着替え室にあった、ここに通じる最初の入り口でもあった、あの、鏡。
最初に見たときと同じ、奥の方に小さく油火が燃えている。その脇で一人、文机に向かう者。白い背中。修験者装束を身に纏っている。
半分目眩を感じながらも一歩一歩、その最後の鏡に向かっていく。それにつれ、半助の中で名付しがたい警鐘が鳴り響く。
他の鏡とは違う。この鏡だけは、他とは違う。
その鏡に手を向ける。ぬるり、と手にまとわりつくぬるついた感触。半助はキッと強い気持ちでその先に潜り込んだ。
灯りはすぐそこに見えるようなのに、辿り着くまでいくらも歩いてゆかねばならない。半分真空に浮かんだようにして、ふわふわした暗闇をふんずけながら半助はそこまで足を動かし続ける。
辿り着けない。辿り着けない。
どんなに歩いても。見えるのに。
行き着くことが、どうしてできない。
最後にぬぅ…っと身を絞られるような気がしたかと思うと、半助はやっと不透明な暗闇の洞窟を抜けきった。
しかし灯りがあったはずのその場所も今はまた暗く、何もない空間になってしまっている。
ここに確かにあったのに。あの灯りが。あの人影が。あの白い影は、どこに……
慣れた仕草で辺りを様子見していると背後に気配を察知した。
後ろを取られたことに驚きながらも半助は間合いを持って飛び退いた。振り返れば、そこにやっと、それを見つけた。
白装束の若い男、その後ろ姿。こいつも、あのいくつかの鏡に映っていたよく分からない影の一つなのだろうか?
半助の中でまた何かが反応する。その警鐘は鼓動。本能ともいえる応答。──これだけは違う。
前触れもなく男はふと振り返った。半助は刮目する。振り返ったその男。それは……自分、だった。
ゆっくり瞬きをして半助を見つめるその顔は紛れもない、自分自身のそれ。
夢だ。
半助は理解する。そう、これは自分の夢だ。
奇想天外だったが、ここまで来てよく分かった。夢のような日々に覆い隠した。己の正体を炙り出した原因が何かまでは分からない。夢を見ていた。幸せな、本当に幸せな夢だった。
忍術学園という夢のような場所が彼を土井半助たらしめていた。
「教えてくれないか。おまえが何者なのか」
半助は自ら外した頭巾を差し出した。墨染の衣をじっと見つめると、男は同じように自分の白頭巾をほどいて寄越した。半助はそれを受け取った。
その白い頭巾を手にした瞬間、記憶が怒涛のように流れ込んできた。あの反射の影の隙間を埋めるもの。作り話でも何でもなく、それは現実。現実に、自分自身が起こした事。……あの血飛沫の由来……、この男の正体。
ああ、確かに。
確かにおまえは、わたしであった。
そしてわたしも、おまえであった。
あの鏡の面々が半助の脳裏に渦巻いていく。あの廊下、あの鏡。あり得た過去、あり得なかった過去。可能性としての未来、乗り越えるべき未来。もしもの昨日。もしもの明日……もしものじぶん。
ああ。おまえもたしかに、そこにいた。
半助は、その修験者姿の男の肩に手を置いた。
「迎えに行くよ」
白影は読めない涙を一筋こぼし、ふうっと霧散してしまった。まるでその涙そのままのように、夜露が衣に染み込むような消え方だった。
それと同時に暗闇が晴れた。そこは清い海の中だった。
そこには伝姫がいた。しかし半助は、それが伝姫でないともうわかっていた。優秀な忍びとしてではない。竜宮城に来られる善人としてでもない。ただの人として、土井半助として生きる前から。男はその人を知っていた。
たおやかに佇むそのひとが尋ねる。
「参りますか?」
半助は緩やかに首を振る。
「まだ、ゆけそうにありません」
「そう。……そうですか……」
二度三度、そのひとは丁寧に頷いた。
白い天井を頂くような透明な海が二人の姿に波模様を描く。肌はあたたかく、居心地よく、ずっとここにいられたら、と半助に思わせる。
頭巾をしない半助の総髪髷が海藻のように揺れ、伝姫の長く艷やかな黒髪も同じように流れている。このときばかりは二人、同じ流れの中にいるはずだ。
半助はどこか決心したように言いかける。
「これは……」わたしの夢なんですよね? とは続けられなくて、代わりの言葉を探して立てた。「わたくしは、あの日の事を、……あの日々を、…思い切れていなかったようです」
その人はあくまで伝姫として話す。
「忘れておしまいなさいな」
やさしい言葉だった。そしてそれは、半助の中にあったいくつかの答えの内の一つでもあった。その方は続ける。「人生は、忘れゆく者にとってのみすばらしいものであろうから」
だけどそれは、すこしかなしい。言葉を受けて思った半助は次に繋げる。
「でしたら、わたしは忘れません」半助は、思い切れない自分の気持ちをもう少し大事にしておいてやりたかった。「わたしは、わたしの思うことをします」
海の中でよかった。何もかも波に溶けてしまうから。
かなしさではない。くるしさでも、あわれみや、ぬくもりからでもない。
一つの決意が男の胸を突いていた。
もう竜宮城には行けないな、と思う。いま少し、嘘をついたから。
伝姫がふっとやさしい笑みを見せる。それに救われてしまうのが恥ずかしくて、男は悟られまいと鼻を掻いた。
さぁ、おゆきなさい、と伝姫の指し示すその先は、眩い光のような白銀の天井。その真ん中にある、闇のように黒い穴。
「あんな恐ろしげな所に……」
周りは光を放って皓々《こうこう》としている。どうして明るい所でなく、わざわざ暗い所へ飛び込まねばならぬのだろう? その思いを読んだかのように伝姫が話して聞かせる。
「明るく見える所は分厚い氷に覆われているのです。そこは明るく見えるだけで、絶対に出ていけません。暗く見えるあの穴こそが外に通じる出口なのです。けれど向こうはとても冷たいですよ。お気をつけなさいましな」
仙女の姿のまま佇む伝姫に、最後に一つ、男は聞きたかった。
「あなたは閻魔ですか」
「……いいえ、夜魔です」
半助は、そうしてやっと安堵の息をついた。
最初のひと蹴りに迷いはなかった。半助の体はすぐに浮上した。
海を、冷たい海を、半助はひとり、よじ登るようにして遡っていく。
この大きな揺れ。この豊かな波。最初に揺れたこの心地。
半助は知っている。この胸の在り処を知っている。このぬくもりに似たものを、この短い人生に何度か受け取った。
このぬくもりを、くれたひとがそこにいた……最初と最後にくれた人が……
あの方が最後まで伝姫の姿であることに半助は疑いを持たなかった。口の中でははうえと呟く。その形に泡が連なった。
『ふりかえらなくていい』と半助の体に言葉が響く。半助は振り向かない。どこか清々しい心地で、言葉に従うのでなく自分の意志で、ぐんぐん水を、蹴って掻いて上昇していく。
あの暗い穴までもう少し。もう少し、もう少し……寒い、冷たい、息が苦しい、……、胃が、痛い…──
いっしょにかえろう
伸び上がった半助の魂を、そのちいさな言霊が引き揚げた。
「どういうことだ、天鬼!?」
見えていた世界。見えていたが触れなかった世界。目の前の生徒達。山田先生。ドクタケの面々。
みんなそこにいた。そしてじぶんも、そこに、いた。
「わたしは忍術学園一年は組・教科担当担任、土井半助です!」
みんなそこに、いた。
おわり