鹿屋に来てから、整備という仕事の価値観が根本から崩れていった。
物資は足りず、人手も足りない。
女子挺身隊員たちが整備場に集められ、指示されるがままにボロ布をタンクの穴に詰めタールで固めていた。
けれどそのすぐ脇から、燃料はぽたぽたと垂れ続けている。塞いだつもりでも、塞ぎきれない。
それでも、空へ送るために見て見ぬふりをしなければならない。
鹿屋は特攻の最前線。
日本中の基地から若い兵隊と傷だらけの機体が送られ、数日…早ければ数時間で、空に送り出される。
ここで俺たちが担うのは、彼らのための“最後の整備”だ。と言っても、できることは限られている。
損傷の激しい機体に足りない部品。やれる範囲で直すが直しきれない。
それでも送り出す。それを繰り返すうちに、なんとなくわかってきた。
…もう、この戦争は、勝てない。
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5月の終わりだったか。徳島から練習機の白菊で編成された特攻の一団が、ここ鹿屋へと移ってきた。
その中に見覚えのある顔があった。黒い襟巻きを巻いた、きりりとした眉の少年。
あの襟巻きは、昨年特攻で征った八木中尉のものだった。
ああ、とうとう彼もこの“終の地”まで来てしまったのか。ここで昔の顔を見かけるのは、何よりも辛かった。胸の奥が締め付けられる。
けれど、彼の顔には悲壮も焦燥も浮かんでおらず、穏やかな笑みをたたえた顎下には、あの黒い布が首元に巻かれている。
この蒸し暑い鹿児島の空の下でも、その襟巻きを外そうとはしないまま。まるで、肌身離さず誰かを抱いているようだった。
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各部隊は鹿屋に着いてからも、すぐに出撃というわけにはいかない。
順番を待ちながら、皆それぞれの機体で訓練を重ねる。
鹿児島の風、地形、そして沖縄までの経路。その最終確認だ。
今日も訓練を終えた数機の白菊が次々と戻ってきている。
滑走路の向こう、一機の白菊が、まだ速すぎる速度のまま滑るように機首を下げてきた。
速すぎる…と、見ているこちらも思わず息を呑む。
案の定、前のめりに落ちた機体は、タイヤが地面を叩くと同時にバウンドした。一度浮き上がると再び地面に落ちる。その最中、左脚の脚柱がガクンと崩れ、そのまま傾いた機体を半回転するように滑る。
そしてガラガラと激しい音を立てて止まった。
舞い上がった砂煙が、風に巻かれて大きく揺れていた。
止まった白菊は、着陸の向きとは真反対を向いたまま、静かに佇んでいた。
滑走路に長く引かれたタイヤ痕の先、砂煙がまだ空に漂っている。
駆け寄ると、すでに風防は開いており、先に降りていた偵察員が脚まわりを確認していた。
そして操縦席に残ったもう一人に、短く声をかけた。
その声に応じるように、黒い襟巻きをした青年が姿を現した。
飛行帽の顎紐を解き、顎先を伝った汗を袖で拭う。
そして、黒い襟巻きを口元まで引き上げると、気まずそうな笑みを浮かべた。
(田中一飛曹が操縦してたのか)
思わず彼の顔をじっと見つめてしまった。
すると向こうもこちらに気づいたのか、視線が合う。
田中一飛曹の目が一瞬だけ細められ、俺の顔を確かめるようにじっと見つめてきた。
「すみません、ちょっと…いや、けっこう下手くそだったかも。足回り、変な音してました。よく見といてください」
声は冗談のようで、けれどその目の奥に、一瞬だけ不安が過ったように見える。
田中一飛曹は偵察員のあとを追うように、走り去った。
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田中一飛曹の機体の整備に取りかかると、想定外に足回りの損傷は軽微だった。
着陸の衝撃で歪んだ鋲穴から、いくつかの鋲が抜け落ちてはいたが、補修して打ち直せば、もうしばらくは保つ見込みだった。
問題は、それよりも深刻な燃料タンクの方だ。
翼の根元。燃料タンクの継ぎ目から、ぽたりぽたりと燃料が滴っている。
鉄の継ぎ目には細かな亀裂が走り、すでに何度も溶接された痕跡が不恰好に盛り上がっている。その隙間からも、じわじわと液体が漏れ出ていた。
タンクの中を覗くと、うっすらと濁った燃料の表面に、黒ずんだ布きれが漂っていた。
本当に、こんな補修がまかり通っていたのか。
唖然とした。怒りも呆れも湧かず、ただ寒々しい虚無が胸に沈んでいく。
帰還を想定せずに整備されている機体。片道どころか、そもそも沖縄までもたないかもしれない。
そんな代物に、彼らは乗せられてゆく。
ため息をひとつつき、補修板を探しに詰所へ向かおうとした時だ。後ろから声をかけられた。
「これ、使え」
「…これ、ですか?」
手渡されたのは、年季の入ったアルミのやかんだった。
冗談だろう、と口に出しそうになったが、主任は真顔だった。
「塚本。補修板は、しばらく入ってこない。これ叩いて、なんとかしてくれ」
やかんを、補修板の代わりに…しばらく言葉が出なかった。
唇の裏を噛み、やかんに手を伸ばした。
やかんの底を切り取り、金槌で叩いて平らに伸ばす。燃料タンクの穴にはぎゅっと布を詰め、その上にやかんの底を押し当て、最後に松脂を溶かしたタールで固めた。
時間も資材もない。溶接なんて、もう夢物語だ。
…せめて、飛ぶまではもってくれ。
ただ、それだけを願いながら、手を動かし続けた。
俺は操縦士が、生きて帰ってこられるように、その一助となる機体を仕上げたくて、海軍に入ったつもりだった。
それが今は、片道行けるかもわからない整備しかできない。死にに行く者の背を押す整備ばかりだ。
誇りも信念も、すり減って崩れていく。
誰もいない夜の掩体壕。
白菊の翼の下、俺は一人うずくまった。
橋内中尉を送り出した日のことを思い出す。
あのときは、悔いのないよう、完璧に仕上げることができた。
ここの皆の機体をあの時のようには仕上げてやれない。それがたまらなく情けなかった。
はぁ…と、今日何度目かもわからないため息をついていた時だった。砂を踏む足音がこちらに向かってくる。
誰か忘れ物でもしたのかと思いながら項垂れた姿を見られたくなくて慌てて背筋を伸ばした。
「あ、俺の白菊!」
聞き覚えのある、明るい声。
顔を向けると黒い襟巻きをした田中一飛曹がそこに立っていた。
「脚、ちょっと気になってて。でも悪くはなさそう?塚本整備兵…だよね?こんな時間まで整備してくれて、ありがとう。」
名前を呼ばれ、目を瞬いた。
挨拶程度しか交わしたことのないはずの田中が、自分の名を覚えていた。
そのことに戸惑いながらも、すぐに気づく。彼の顔に浮かんでいたのは、どこか危ういほどの無邪気な笑みだった。
この地で、こんな無邪気な笑みを浮かべていられるのは…彼も壊れてしまっているのだろう…
胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
その痛みを振り払うように、俺は視線を機体に戻した。
「…整備と呼べるほどのことは、もう出来てないです」
皮肉でも何でもない。ただ、事実を述べただけだった。
けれど田中は、穏やかに微笑んで言った。
「片道だけ、飛べればいいんですよ」
その暑さのなか、黒い襟巻きを口元まで押し上げながら。
まるで、彼にとっての“終点”が、もう見えているかのように。
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梅雨が例年より早く、鹿屋にもその影響が及んでいるのだろうか。
連日の悪天候により、各隊の特攻出撃は相次いで中止となった。それは白菊の部隊も例外ではない。
「一日も早く敵艦に突っ込みたい」
そう意気込んでいた者たちの肩から、少しずつ力が抜けていく。
予期せぬ空白ができたことで、特攻隊員たちの詰所にはどこか重苦しい空気が漂っていた。
遺書を書き、別れの準備をする彼らの姿を見るのは、胸が締め付けられた。
俺たち整備兵は、この悪天候を好機ととらえ、時間の許す限り作業に追われていた。
…はずだったのだが。
「こんにちは」
手に工具を握ったまま顔を上げると、田中一飛曹が立っていた。
最初は何事かと思った。彼のような隊員がわざわざ整備壕に来る理由がわからなかった。
「向こうの詰所、空気が重くてかなわんのです。死ぬ話ばっかりで…整備兵のいる場所のほうが、生きてる人の匂いがします」
それから田中は、時折ここを訪れるようになった。
最初は香取基地の話、どうして海軍に入ったのか、そんなとりとめのない話ばかりだった。
しかしある日、不意に核心を突くような質問を投げかけてきた。
「塚本整備兵って、橋内中尉とどんな関係だったの?」
工具を握った手が一瞬止まった。
きらきらと好奇心を浮かべた目が、じっとこちらを覗き込んでいる。
思わず視線を逸らした。
「…どんな関係かと言われても…」
言葉を探して黙っていると、田中は続けた。
「だってさ、特攻前の公衆の面前で接吻って、俺、初めて見た。」
…それは、俺だってそうだ。
返事を濁すように、手元の金属片を金槌で大きく叩いた。
甲高い音が掩体壕の中に響きわたる。
だが、田中は引かない。大きな瞳で、ぐっとこちらを覗き込んでくる。
「追いかけたいとか思わないの?」
声が少しだけ陰る。
その目に、ただの興味とは違うものが宿っているのを感じて俺は道具を置いた。
「…俺たちは、そういう関係じゃありません。ただの一夜でした。それに…たぶん、橋内中尉はそんなことされたら怒りますよ」
そう口に出すと、田中は一瞬、表情を緩めた。
「怒る?」
「はい。橋内中尉は、国のために征きました。
それが彼に与えられた任務で、あの人はきちんと果たした。…俺にできることは、生きて機体を整備することです。それだけです」
たった一夜でも、俺にはわかる。
あの人は真っ直ぐで、真面目で、そして…誰よりも軍人だった。
「…そっか」
田中の目がふっと逸れる。
思っていた返事とは違ったのか、少しだけ拗ねたような口調だった。
「…田中一飛曹は、八木中尉を追いかけたいんですか?」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
「…うん。八木さん、待ってるって言ってくれたし。俺も、会いたい」
そう言うと田中は、黒い襟巻きを鼻の下まで引き上げて、ふっと匂いをかいだ。
その仕草が、やけに子供っぽく見える。
「でも、本当に特攻に征けば八木中尉の元へ行けると思っていますか?」
田中の動きが止まると、ゆっくりとこちらを振り向く。
「…どういう意味?」
声は冷えていた。
そこに漂う緊張を感じながら、俺は言葉を選んだ。
「八木中尉が“待っている”と言ったことが…本心だとは、思えなくて」
八木中尉は橋内中尉の比べると感情が表に出やすい人だった。それでも、士官まで登り詰めた軍人が、そんな言葉を気軽に言うとは思えなかった。
「でも、俺には命令が下るんです」
少しムッとした顔をした田中一飛曹は語気を強める。
「…はい。それが、あなたの“任務”です。」
一度言葉を切って、田中の目を見つめ返す。
そして、わずかに声を落とすと、そのまま言葉を続けた。
「でも―今の日本は、もう飛行機を直す部品すら足りていません。人も、毎日のように出ていっては…帰ってこない。足りていないんです。」
ぽつりぽつりと、語るように。説得ではなく、ただ事実を静かに並べていく。
「もし…もし敵を見つけることが出来なかったら…」
田中が少しだけ顔を上げる。
俺は静かに続けた。
「そのときは、天が“まだ命を使うな”って、言ってくれてるんだと…そう思ってほしいんです」
ほんのわずかに、言葉を飲み込みかけた。
けれど、どうしても伝えておきたかった。
「あなたの命を、ただの部品として費やすなんてこと―俺はしてほしくない。国のためにも。あなた自身のためにも。…その時はどうか、思いとどまってください」
田中が眉を寄せ、間がしばらく続いた。
「白菊には電信も無線も積んでいません。
…突入しても、不時着しても、こちらには何も伝わってこないんです。
だから…」
そこまで言いかけたところで田中はふいに片足を引くと、そのまま音もなく立ち上がる。
雨が滲む外の気配へと視線を向け、何かを言いかけた唇を結び直す。
そして黙ったまま、背を向け、掩体壕を去っていった。
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あの晩のやりとりを最後に、田中一飛曹が俺の整備場に姿を見せることはなかった。
避けられたのか。それとも、もう話す気さえなくなったのか。
答えは出ないまま、やがて彼の出撃の日がやってきた。
滑走路の向こう、低い雲の切れ間から月がのぞいている。
灯火管制下の誘導灯がぼんやりと地面を照らし、周囲は昼間とは別世界のような静けさに包まれていた。
湿気を含んだ風が吹き抜け、整備兵の足音が妙に大きく響く。
白菊の横で操縦士を待っていると、影のように静かな一群の中から、黒い襟巻きだけが夜目にも浮かび上がるように見えた。ゆっくりと歩み寄るその姿に、俺は反射的に姿勢を正す。
言葉はなかった。ただ、軽く頷いた彼の目の奥には、あの夜と同じ。いや、それ以上の光が宿っていた。
ギラギラと、痛いほどに。
俺の言葉は届いていなかったのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥に、冷たい重みが沈む。
いつも通り、翼に上って機体の状態を説明した。
田中は必要な箇所にだけ頷き、声ひとつ漏らさない。
まるで、あの晩の会話など初めから存在しなかったかのような、乾いた対応だった。
だけど…
本当は、わかっていた。
謝りたかったのは、俺の方だ。
あの時、彼を「壊れている」と思ってしまった。
けれど、壊れていたのは俺自身だった。
もう、これ以上見たくなかったのだ。
死に向かって歩く者の目を。
淡々と命を差し出していく背中を。
ただ見送ることに慣れていく自分が、どうしようもなく嫌だった。
だから俺は、この機体の燃料計の浮きに、細工をした。
ほんの少し、針がずれるように。
敵を見つけられなかったとき、不時着の理由になるかもしれない。その程度の、ほんの小さな仕掛け。
せめて、それだけでも…
ゆっくりとプロペラが回りはじめ、滑走路に低く唸るような音が広がっていく。
白菊の機首が闇夜に向き、機体がじりじりと前へ進み出す。
滑走路を、白菊が加速していく。
彼の征く先にあるのが、敵艦なのか、八木中尉なのか、未来なのかは誰にもわからない。
ひときわ高く唸る音を残して、白菊は宙へ浮かんだ。
黒い空へ、淡い月へ、音だけを引きずるようにして消えていった。