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    hota_kashima

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    hota_kashima

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    やぎしずで、吹奏楽パロになります。中高一貫校で志津摩は一年、八木さんは6年(年齢差操作あり)塚橋吹奏楽部パロとリンクしています。

    春香春の日差しのなか、校舎裏の八重桜が満開だった。
    風にあおられて、ぽとり、ぽとりと桜が落ちていく。コンクリートの上には、桃色の絨毯が広がっていた。

    俺はクラスのゴミをゴミ捨て場に運んだ帰り、その桜に見とれていた。
    ソメイヨシノよりもずっと強い香りが鼻をかすめる。
    スン、とひと息吸い込むと、甘い花の匂いが胸いっぱいに広がった。

    「そろそろ戻らないと…部活見学に遅れる」
    腰を上げて歩き出したその時、遠くからふわりと音が流れてきた。
    やわらかくて、華やかで、でもどこかあったかい音色。
    思わず立ち止まって、音のするほうへ顔を向ける。

    そういえば、塚本に「一緒に吹奏楽部の見学に行こう」って誘われてたっけ。

    そんなことを思い出して前を向いた瞬間、
    「…うわっ!」

    どん、と何かにぶつかって、思いきり跳ね返された。
    持っていたゴミ箱がガタンと地面に転がる。中身が空でよかった…なんて思う余裕もなかった。

    鼻の奥を、甘い桜とは違う匂いがかすめた。

    (…タバコの匂い?)

    顔を上げると、がっしりした体格の先輩が目の前に立っていた。
    制服の胸元が盛り上がるほどの逞しい体格。背も高くて、そして、その口元には何か細長いものをくわえている。

    (煙草…やばい、不良だ…)

    胸がドクンと跳ねた。後ずさろうとしたけど、足がその場に固まって動けない。

    「す、すみません…!」

    思わず反射で頭を下げる。
    殴られるかも、と思って身体がこわばったけど

    「…ん。」

    低くてぶっきらぼうな声だった。けれど怒ってる感じはしない。
    その人は黙ってゴミ箱を拾い、俺に差し出してきた。

    (えっ…?)

    思いもよらぬ行動に拍子抜けし、顔を見上げる。だが、目につくのはやはり口に咥えている“あれ“だった。
    咄嗟に視線を下げゴミ箱を恐る恐る受け取ると、先輩は咥えていた棒のようなものを口から抜いて、こっちに見せてくれた。

    「…ああ、これ?」
    軽くくるっと回して見せる。

    「リード。楽器の部品。」

    リード…? よく見ると、それは薄くて細長い、木の板みたいなものだった。

    「舐めてふやかしておくと、吹きやすくなんの。」

    そう言いながら、手に持っていた黒くて大きなケースのフタを開ける。
    中から現れたのは、金色に輝く、大きくて曲がりくねった金属の…楽器?

    「うわ…かっこいい」

    思わず口からこぼれた声に、先輩の表情が綻ぶ。

    春の日差しを浴びて、ギラギラと輝くその楽器に俺は目を奪われた。
    音も出していないのに、見ているだけで心がドキドキする。重そうなそれを先輩は慣れた手つきで軽々と持ち上げ、首から下げた紐に取り付けた。

    「サックス。バリトンサックスってやつ。」

    聞いたことのない名前だったけど、目の前のそれはとにかくすごい存在感だった。
    長さは1メートル以上はあるだろうか。ところどころに丸い穴が空いていて、そこに丸くて分厚い蓋みたいなのがついている。
    楽器っていうより、なんか…武器みたいだった。

    「これ、どんな音するんですか?」

    俺がそう聞くと、先輩は口の端を上げた。

    「聞いてみる?」

    そう言って、木の板を部品に取りつけて、吹き口をくわえる。
    そして、指で楽器の蓋をテンポよく叩きはじめた。

    パカ、パカ、パカ…

    金属が息をしているみたいな、妙に癖になる音だった。
    目が離せなくて、無意識に息をのむ。

    そして、先輩がひと息、すうっと息を吸い

    ぶおぉぉぉん…

    低くて、震えるような音が身体の奥に突き抜けた。
    音というより、空気が揺れた感じだった。重くて、強くて、体が痺れる。
    俺はただ、その場に立ち尽くした。

    「どお?」

    先輩が聞く。

    「…すっごい、かっこいいです…」

    気づけば、夢中でうなずいていた。

    「はは、お前、面白いやつだな。」

    先輩が笑いながら、俺の肩を軽く払う。
    見ると、制服の肩に桜の花びらがいくつも落ちていた。そんなことに気づかないくらい、俺はさっきからずっとこの人と楽器に見とれていたらしい。

    ふと、距離が近づいた先輩からふわっと匂いが漂ってくる。
    たしかに、タバコっぽい匂い。でもそれだけじゃない。
    汗と、男の人の匂い。普通なら苦手なはずなのに、なぜか嫌じゃなかった。
    その匂いに胸の奥がチリっと熱くなり、なんだか変な感じだった。

    「この楽器、口のところ、こんなふうになってたんですね…」

    胸の高鳴りをごまかすように、とっさに質問を口にする。

    近づいてよく見ると、吹き口には先程の小さな板、リードだっけ?…が挟まっていて、そこに息を吹き込むらしい。見たことのない仕組みに、思わず顔を近づけて覗き込んでいたら

    背後から、スンスンと鼻を鳴らす音が聞こえた。

    「…おれ、くさいですか?」

    あからさまに匂いを嗅がれたことなんて人生で初めてで、びっくりして体がこわばる。

    「いや、なんか子供の匂いするな、お前。」

    「えぇ!? どんな!?」

    驚いて聞き返すと、八木先輩は俺の首筋に鼻を寄せ、スーッと深く息を吸い込む。

    その仕草に、体がびくりと跳ねた。むず痒くて、でもどこかドキドキして、妙な感覚が背筋を走る。

    「石鹸と、甘い匂い。」

    「…自分じゃ、わかりません。」

    試しに自分の二の腕に鼻を寄せてみるけど、何も感じない。ただ、全身がむずがゆさが止まらなかった。

    「まあ、臭くはねえよ。」

    そう言って八木先輩は、譜面台に置いた楽譜に目を戻すと、指を動かし始めた。息を入れずとも「パカ、パカ」と指に連動して蓋が軽快に動く。その音にも音程のような抑揚があって、俺は思わず聞き入ってしまう。

    「吹奏楽って、男子も多いんですか?」

    俺は少し迷いながら聞いた。塚本に頼まれて部活見学に行く予定だったのを思い出して。

    「3割くらいは男だな。…なんだ、見学来るのか?」

    譜面から目を離した八木先輩が、ちらりとこちらに目線を向けてくる。

    「…は、いえ。クラスメイトの付き添いで行くんですけど、先輩の、その楽器かっこいいなって思って…」

    「はは、だろ? 俺も最初そう思った。一昨年、吹部に入って初めて触ったんだ。」

    どう見ても3年には見えない雰囲気の先輩に、ふと思っていたことを口にしてみる
    「へぇ、じゃあ吹奏楽部は途中からなんですね?」

    「3年までは野球部だった。肘をやって辞めて。そしたら吹部のやつに無理やり誘われて、気づいたらこれ抱えてた。」

    やっぱり途中からの入部だったらしい。

    「3年であんな音が出せるんですか! すごい…!」

    思わず声が出た。本当にそう思ったから。
    さっき耳にした、あの痺れるような低音の響きが、また頭の中でよみがえる。

    八木先輩は少し驚いた顔をしたあと、気恥ずかしそうに笑って言った。

    「お前、名前は?」

    「俺は田中です。田中志津摩。先輩は?」

    「八木。…部長に『サックス希望のやついた』って伝えとくよ。まあ、顧問がパート決めるから希望通り行くかはわからねえけどな。」

    そう言って笑った顔が、なんだかちょっと不器用で、胸がぎゅっとなる。

    「田中ー! ゴミ捨て、いつまでかかってんだよー!」

    突然、上の教室の窓からクラスメイトの声が降ってきた。現実に引き戻され、俺は慌ててゴミ箱を抱え直す。

    「また…!」

    そう言って頭を下げて走り出す。背中に八木先輩の視線を感じながら。



    ***

    その翌週、塚本と共に吹奏楽部の見学に訪れた。

    音楽室の防音扉を開けた瞬間、いろんな音がどっと押し寄せてくる。太鼓にシンバル。高音の楽器、低音の楽器。ごちゃまぜなのに、不思議とその音の波が心地よい。

    どうやら、見学者向けに何か発表してくれるらしく、そのウォーミングアップの最中みたいだった。

    促されて、塚本と並んで椅子に座る。そして周りをそっと見渡すと

    「あっ…」

    目が合った。八木先輩だ。

    気づいた先輩が、ゆるく手を振ってくれる。ドキッとしながらも、小さく手を上げて返した俺に、隣の塚本がひそひそと聞いてきた。

    「知り合い?」

    「うん、この前、校舎裏で一人で練習してた先輩と、少し話したんだ」

    「へえ。あの楽器、なんかすごいね。見た目もかっこいいし」

    「うんっ、かっこいいよね」

    思わず声が弾んだ。うるさいくらいの音の中でも、八木先輩の音はちゃんと聞こえてくる。低いけど、胸の奥に残るような、どっしりした痺れる音。音楽なんてよくわからない俺でも、不思議と耳が覚えていた。

    やがて、「カンカンッ」と指揮棒で譜面台を叩く音がし、音がぴたりと止んだ。

    「一年生の皆さん、部長の橋内です。よろしく」

    そう言って前に出てきたのは、やたらかっこいい先輩だった。髪も姿勢もピシッとしていて、声がよく通る。

    横を見ると、塚本の顔がふにゃっと溶けていた。目が完全にハートになってる。

    「基本的に、練習は一年から六年まで合同です。各パートで上級生が下級生に教えるスタイルになっています。コンクールは学年ごとに中高で分かれますが、催し物などは全員でやるので、学年の垣根はあまりないと思ってください」

    説明の間も、八木先輩は手を動かしていた。あの大きな楽器の金色の蓋みたいなやつが、また「パカ、パカ」と音を立てている。それがまるで楽器が喋ってるみたい。なんだか可笑しくなって、ふふっと笑みが溢れた。

    すると
    「八木、うるさい。それ、やめろ」

    橋内先輩にあっさり注意されてしまった。
    八木先輩は「へーい」と気の抜けた返事をして手を止める。
    そのやりとりを、ぼうっと見ていた俺と目が合った八木先輩はニヤッと笑った。

    怒られたことを見られたせいか、少しバツの悪そうに笑ったその顔は、前に話した時とは雰囲気とはちょっと違って見えた。
    そのギャップが妙に愛らしくて、思わず顔が綻ぶ。

    「それでは、歓迎の曲、一曲目は『シング・シング・シング』です」

    指揮棒が振られ、演奏が始まる。音楽室にあふれる音が、体の中まで響いてくる。どこかで聞いたことがある気がする曲。知らない曲のはずなのに、なぜかワクワクして、じっと耳をすませた。


    数曲の披露が終わって、最後にちょっとした楽器体験があった。

    八木先輩の楽器のバリサクは俺には大きすぎるからとアルトサックスを吹かせてもらったけど、悲しいくらいに音が鳴らなかった。
    そんな俺を八木先輩は笑いながら眺めていたっけ。

    その笑顔に、胸がツンと痛んだ。

    俺は八木先輩と近づきたい、そんな不純な動機で入部届を提出したのだった


    ***

    吹奏楽部に入ってみると、八木先輩が言っていた通り、楽器は顧問の先生の一存であっさり決まってしまった。

    まあ、俺はというと、木管楽器のマウスピースをどれだけ吹いても音ひとつ鳴らせず、唯一まともに鳴ったのがトランペットだけだった。だからきっと、選ぶ権利すらなかったんだと思う。

    最初はがっかりしたけど、それでも頑張れたのは、トランペットパートの先輩がみんな優しかったから。そして何より八木先輩と同じ部活に居られるだけで嬉しかったからだった。

    八木先輩はそんなに口数が多いわけじゃないし、見た目も少し怖い。でもなぜか、俺にはよく話しかけてくれる。しかも、ちょっかいをかけるような、からかうような調子で。

    「こいつ、俺のこと初めて見た時、めっちゃ怯えてたんだよ」

    今日もまた、そんなふうに俺をネタにして笑っていた。ひとりで練習することが多いバリトンサックスの八木先輩が、トランペットパートの練習場所にふらっとやってきて、6年の鞆浦先輩と盛り上がるのが、最近のよくある光景だ。

    「八木はいかついしヤニ臭いからな! リード咥えてると、咥えタバコしてるみたいに見えんだよ!」
    鞆浦先輩のその言葉に、俺もつい気になっていたことを聞いてみた。

    「八木先輩の匂いって、やっぱりタバコの匂いなんですか?」

    「ん? ああ、親父が部屋で吸うから、どうしても服に染みつくんだよな。こっちは迷惑してんだ。生徒指導にも何回も呼び出されてさ。ほんと冤罪」

    なるほど。やっぱり、あの匂いはタバコだったんだ。でも俺はその匂いが嫌いじゃなかった。八木先輩の体温と混ざって、なんだか大人の男の人みたいな匂いがして、むしろ落ち着くというか…好きだった。

    「志津摩は今日も赤ん坊みたいな匂いさせてんな」

    立ち上がった八木先輩が、ふいに俺の首筋に顔を寄せてスンと匂いをかぐ。

    「…なんか、前より年齢下がってません? 前は“子供の匂い”って言ってましたよね?」

    ぷうっと頬を膨らませて抗議すると、八木先輩はくすりと笑って言った。

    「5も下じゃ、俺から見たら赤ん坊みたいなもんだよ。お前、小さいしな」

    そう言って、俺の頬を軽くつついてくる。

    「俺、身長順では真ん中ですけど!」

    小さいって思われてたことが、ちょっと悔しくて言い返したところで、遠くから声がかかった。

    「八木! お前がでかいんだよ。今日は低音で合わせるから、準備室来てくれ」

    声の主は、同じ六年の橋内先輩だった。

    八木先輩はチッと舌打ちをし
    「またな」

    そう言って俺の頭をふわりと撫でると、何でもないような顔で去っていった。
    その背中を、俺はしばらく見送っていた。

    手ぐせみたいに撫でていったくせに、全然こっちを振り返らない。
    それがちょっと悔しいような、でも、妙に嬉しいような気がした。

    「八木が後輩をこんなに気にかけるなんて珍しいな。前からの知り合いか?」

    横から、鞆浦先輩が珍しそうな顔で声をかけてきた。

    「いえ、入学してからです」

    そう答えると、鞆浦先輩はほんの少し目を見開いて、それから笑った。

    「へえ、そういうこともあるんだな。…よし、練習始めるぞ」

    その一言で空気がぱっと切り替わる。楽器を構える音が、今日の始まりを告げていた。


    ***

    コンクールまで、あと一ヶ月を切った頃のことだった。

    部室に入ると、奥の席で八木先輩がひとり黙々と作業していた。
    机の上にはリードが何枚も並べられていて、先輩はそれを一本ずつ取り替えながら、小さく吹いては首をひねっている。

    「八木先輩! お疲れ様です。…なにしてるんですか?」

    声をかけると、八木先輩はちらとこちらを見て言った。

    「ああ、志津摩か。触るなよそれ。順番つけてるから」

    「順番?」

    「コンクールまであと一月だろ。本番までに“育てる”リードを決めてんの」

    そう言って、八木先輩は箱の中から紺色のパックをひとつ取り出し、封を切った。
    中から出てきたのは、プラスチックのケースに挟まれた新品のリード。

    「…こんなにいっぱい開けるもんなんですか?」

    思わずそう尋ねると、八木先輩は手を止めず、リードを音楽室の蛍光灯にかざしてじっと透かし見た。
    真剣なまなざしで、木目の一本一本を見極めているようだった。

    「一箱に五枚入ってる。まともに使えるのは、三枚あればいい方だな」

    そう言いながら、先輩は水の入った紙コップに今のリードを浸け、また次の封を開ける。
    その手際は無駄がなくて、見ているこっちがなんとなく静かになる。

    「じゃあ、使えないのは捨てるんですか?」

    「どうしようもないやつはな。あとは練習用に回す。使い込めば、音がマシになってくることもあるし」

    そう言って、いつも使っているリードケースから数枚を引っ張り出す。
    先端が欠けたものや、ひび割れたリードを数本まとめてつまむと、そのまま無造作にゴミ箱へ放った。

    「育てるって、そういう意味なんですね」

    「そう。育てる。」

    短く返しながら、八木先輩は紙コップに入っていたリードを口にくわえた。
    その横顔を眺めながら、なんとなく手に取ったリードの箱。煙草の箱くらいの、思っていたよりも小さなサイズだった。

    「これ、いくらくらいするんですか?」

    気軽に聞いたつもりだったのに、返ってきた言葉に思わず声が裏返る。

    「五枚で、五千円くらい」

    「えぇっ!?」

    あまりの金額に素っ頓狂な声が出た。八木先輩は鼻で笑って、机に並べていた一番端のリードをひょいとつまみ上げる。

    「この箱のは、三枚は使えるな。…これやるよ。使えねぇから。腹減ったときにでもしゃぶっとけ。うまいから」

    「…味、あるんですか?」

    「大体スパイスっぽい味するけど、たまにブドウガムの味がするのがあんだよ。ほら」

    突然、乾いたリードが俺の口にねじ込まれた。

    「や、や、やぎせんぱっ…」

    「味するだろ?」

    舌の上に、乾いた木がざらりと触れる。
    鼻に抜けるような独特な木の香りが、口の中いっぱいに広がった。これをブドウガムの味と呼ぶのかはわからないけれど、たしかに何か、微かに甘いような気もする。

    けれどそれよりも…
    さっきまで先輩の口にあったものが、今、自分の口の中にあるということが、ふいに頭をよぎった。

    どくん、と心臓が鳴る。
    木の風味と一緒に、じわりと先輩の匂いが喉の奥に残った気がして、思わず口からリードを抜いた。

    「…木の味はしますけど、よくわかんないです」

    「まあいいや。それ捨てといてくれ。分厚すぎてリガチャー入んねぇし」

    そう言って、また別のリードに手を伸ばす先輩の横顔を見つめながら、俺はこっそり、それをプラスチックケースに戻した。
    そして、胸元の内ポケットに忍ばせる。


    帰り道、誰もいないバス停で、内ポケットからそっとリードを取り出す。
    先輩の口に触れたリードを見つめると、思い出したように胸がきゅっとなった。

    間接キスだ…

    なんて思いながら、ふたたびリードを唇に当てた。


    ***

    コンクールまで、残り二週間を切った頃だった。

    俺は、出場メンバーから正式に外されることが決まった。

    中学生の部は、先輩たちの出場する高校生の部の前日に控えている。けれど、俺は技術が足りなかった。
    顧問の先生は、俺の成長を信じて待ってくれていたのに。申し訳なさで胸が締めつけられる。

    「トランペットは本数足りてるし、吹くフリをさせるくらいならチューバの塚本を入れたい」
    そう言われたら「分かりました」と答えるしかなかった。

    コンクールに出場するメンバーが合奏指導を受けているあいだ、選に漏れた俺たちは別室で自主練をすることになっていた。
    部屋で音出しをしていると、授業を終えた八木先輩が部屋に入ってくる。

    「メンバー、落ちたんだってな」

    そう言いながら、俺の隣に譜面台を立てはじめる。一緒に練習してくれるのだろうか。

    「八木先輩は、高校生の部に出るんですよね?」

    「ん?ああ、出る」

    返事はあったけれど、どこか浮かない顔だった。

    「何か、あったんですか?」

    八木先輩はいつものようにリードを咥えたまま、無駄のない手つきで楽器を組み立てていく。

    「バリサクのソロがあるんだよ。…なんで顧問、コンクールでソロのある曲なんか選んだんだか…」

    小声でぶつぶつと呟きながら、パカパカとキーを指で慣らす。

    「バリサクはチューバにエッジ効かせるのが役目だろうが。目立つソロなんて、俺がやることじゃねえってのに」

    そんなふうに呟きながら、先輩はいつもの基礎練習に入っていった。

    いつ聞いても、八木先輩の音は男らしくて、力強い。
    さすが元野球部。肺活量のせいなのか、ビリビリと響く低音に、体が自然と反応する。
    俺は自主練そっちのけで、つい何度も先輩を横目で見てしまっていた。

    基礎練が終わると、すぐに八木先輩はコンクール曲のソロパートに取りかかった。
    軽快なメロディ。だが、力強い先輩の音ではテンポが追いつかず、苦戦しているようだった。

    不意にマウスピースから口を離すと
    「…自由曲でこの曲選んでる学校なんて、見たことねぇよ…」
    そう呟き、はぁーとため息をついたそのときだった。
    後方から、張りのある声が飛んできた。

    「先生がこの曲を自由曲に選んだ理由を考えろ」

    振り返ると、橋内先輩がユーフォニウムを抱えて立っていた。

    「どうせ今年のメンバーじゃ全国無理だから、諦めただけだろ」

    八木先輩は、何かを堪えているときに出る癖…キーをパカパカと鳴らしながら、悪態をつく。
    その言葉を聞いて、橋内先輩は鼻で笑った。

    「さっきの話、聞こえた。バリサクはチューバの補助に徹するだけの楽器だって?」

    しまった、という顔で舌打ちをする八木先輩。

    「ああ、そうだよ。バリサクもチューバも、脇役だろうが」

    「お前がそういう考えだから、先生はこの曲を選んだんだ。脇役の楽器なんて、どこにもない。ソロがなくても、チューバやバリサクが欠ければ曲は成り立たない」

    橋内先輩の声が、一瞬静まり返った部屋に真っすぐ響く

    「お前にはその責任感がない。だから先生は、あえて“表で責任を取らせよう”としてるんだ」

    「な…んだそれ」

    初耳、とでも言いたげに、八木先輩の顔から表情が消えた。

    「先生、途中から入ってきたお前を気にしてるんだよ。
    目立たないように脇役に徹してるお前に、最後に一花持たせたいんだと思う。お前なら吹ける曲だ。だから…脇役の殻を破ってくれ。」

    八木先輩は視線を床に落とし、「頼んでねえし」と、長くため息を吐いた。


    ***

    それから、八木先輩は俺をからかいに来ることがなくなってしまった。
    放課後、音楽室にやってきても先輩はすぐに楽器を持ってどこかへ行ってしまう。
    それが、なんとなく寂しくて、俺はトイレに行くふりをして、先輩の姿を探してみた。

    校舎の裏手、八重桜の木の下。
    そこで先輩はひとり、黙々とサックスを吹いていた。
    季節は梅雨から夏へと変わりつつある。
    花はもう散ってしまったけれど、濃い緑の葉をたっぷりと湛えた八重桜は、涼やかな木陰を作っていた。

    額に汗をにじませながら音を出し続ける先輩の姿を見て、俺は先輩に会えないことを寂しがっていた自分を、なんだか恥ずかしく思った。
    こんなふうに人目を避けて努力してる人がいるんだ。
    いつも飄々として見える八木先輩が、こんなに必死になっているなんて。
    その姿が眩しくて、まぶたの奥に焼きついた。

    「俺も、やれるだけやってみよう。」

    呟いたその言葉は、自分自身に向けた決意だった。
    俺は走って音楽室に戻る。もう顧問の先生は、俺のことを待っていてくれてはいない。
    それでも、自分で納得できる音を出せるようになるまで、やるしかない…そう思った。

    そこからは、がむしゃらだった。
    顧問に頼んで楽器を家に持ち帰り、授業中も楽譜を見ては指番号を何度も確認し、音のイメージを反芻する日々。
    そして、コンクールまであと三日というところで、思いがけない知らせが届いた。

    「田中君、すごく伸びたから…コンクールメンバーの合わせ、入ってみようか。みんなに混じって吹いても崩れなければ、そのまま出場で。実はね、人数多めに申請してるの。」

    顧問のその言葉に、胸が一気に熱くなる。
    嬉しくて、たまらなくて、俺は無意識に校舎裏へ走っていた。

    どうしても伝えたかった。
    一番に伝えたい人が、そこにいる。

    胸ポケットの中、こっそりしまっていたリードを服の上から握りしめながら、俺は声を張った。

    「八木先輩!! 俺、コンクール、出られるかもしれません!」

    顔を上げた八木先輩は、どこか泣きそうな表情を浮かべながら、それでもほんの少しだけ微笑んだ。

    「そうか…いつもお前の音、上から響いてた。練習、頑張ってたもんな。」

    「先輩、どこか…痛いんですか?」

    心配になって顔を覗き込むと、先輩はふいに俺の肩に顔を寄せ、動かなくなる。

    「先輩…?」

    「志津摩は、今日も石鹸の匂いするな。」

    耳元で、くすぐったいほどに近く、スンと鼻を鳴らす音がした。

    「俺、さ…肝心なときに、いつもうまくいかないんだよ。野球部の時もそうだった。今回も、また」

    首から下げたサックスが俺の胸元に触れ、タンポが「パタ」と小さな音を立てた。
    その距離に、体が熱くなる。

    「コンクールはこれからですよ。」

    肩に顔を埋めたままの八木先輩にそう声をかける。
    すると、先輩の首筋からふわりとあの匂いが立ちのぼり、鼻の奥をくすぐった。

    そっと視線を下げると、俺の胸の前で、先輩が手を強く握りしめているのが目に入る。
    その手が、かすかに震えていた。

    「…ソロになると、手が震えてダメなんだ」

    かすれた声。
    こんなに大きな体なのに、あんなに堂々とした音を出すのに。
    いま目の前の先輩は、驚くほど繊細で、脆くて
    なのに、その姿がどうしようもなくかっこよかった。

    「でも俺、八木先輩の音、すごく好きです。すごく、男らしくて…かっこいい音。たくさん聞きたいです。」

    気づけば、本音をそのまま口にしていた。
    言ったあと、気恥ずかしさに胸が熱くなる。でも、後悔はなかった。

    顔を寄せたまま、先輩がぽつりとこぼす。
    「…お前、なんでそんなに俺に懐くんだ?」

    (好きだから、なんて…言えるわけない)

    心の中に浮かんだその言葉に、自分で驚く。
    あれ、俺…先輩のこと、好きだったんだ。
    そう気づいた途端、胸の奥にあった何かが溢れてきて、止まらなくなった。

    ポタリ、と。
    涙が先輩のサックスに落ちる。

    「なっなんでお前が泣くんだよ…」

    気づいた先輩が、制服の袖で俺の涙を乱暴に拭う。

    「…俺、先輩の“音”が好きだから…」

    咄嗟に誤魔化した言葉。けれど、それも嘘じゃない。
    あのとき、初めて聞かせてくれた音のこと、忘れられない。

    「また聞きたいんです。あの、自信に満ちた先輩の音…」

    「…」

    先輩は、一瞬だけ目を伏せ、それから俺の目を真っ直ぐ見つめた。

    「お前から見て…俺って、どんな奴なんだ?」

    その声は、少し震えていた。けれど、どこか柔らかかった。

    「先輩は…かっこよくて、男らしくて、強くて、優しくて…それに…いい匂いがして…かっこよくて…」

    思いつくままに口にした言葉に、先輩が吹き出す。

    「かっこいい、二回言ったぞ」

    「わあああ! ご、ごめんなさい!」

    でもほんとは、十回でも百回でも言いたいくらい、先輩はかっこいい。

    先輩は、俺の頭をぐりぐりと撫でながら、ニヤッと笑った。

    「じゃあ、お前にだけ聞かせてやるよ。かっこよくて男らしい、俺の音。」

    そして、先輩はソロパートを吹きはじめた。
    今までの、我を押し殺した音じゃない。
    堂々として、芯があって、真っ直ぐ響く音。
    まさに、八木先輩の音だった。

    体の芯まで痺れるような音色に、恋を自覚した胸が、じんじんと熱くなる。
    こんな音を、自分だけに聞かせてくれるなんて。
    どうして先輩は…こんなふうに、俺を苦しくさせるんだろう。


    ***

    その日を境に、八木先輩の音は見違えるように変わった。

    それまでの、リズムに徹していた無機質な音とは違う。あのとき、俺の前で吹いてくれたような、力強くて、どこか荒々しさもある“八木先輩らしい音”になっていた。

    不思議なことに、それでもテンポは乱れなかった。ずっと苦戦していた細かなフレーズも、今は軽々と乗りこなしているように見える。

    たぶん、これまでの地道な練習がようやく実を結び始めたのだろう。けれど、それだけじゃない。音そのものが、もっと自由に、のびのびと鳴っていた。まるで、自分の音を取り戻したように。

    その変化は、顧問の先生だけでなく、部員たちの耳にもはっきり届いていた。

    「八木、いい音になったな」

    橋内先輩が八木先輩にそう声をかけているのを聞き、俺はほっと胸を撫で下ろす。

    こうして、いよいよコンクールの日がやってきた。


    ***


    先輩たちのコンクールを翌日に控えた日、中学生の部のコンクールが行われた。
    俺は、持てる力をすべて出し切った。

    なぜだか昔から、本番にだけは強い。
    その日も、いつもよりよく吹けた気がしていた。大きなミスもなく、音もよく響いた。
    結果は金賞。でも、いわゆる“ダメ金”だった。

    けれど、誰も悔いはなかった。
    全員が全力を尽くして、その金賞を手にできたことに、皆が満足していた。

    そして、翌日。いよいよ高校生の部の本番。
    中学生の部のメンバーは、今日は先輩たちのサポート役になる。

    俺に与えられた仕事は大型楽器の先輩たちの譜面運びの係。
    本番前、舞台袖で楽譜を持ち、先行する学校の演奏が終わるのを待っていた。

    …さすが高校生。
    吹き込んでくるような音圧に思わずたじろいでいた時だった。
    数人の先輩たちが、慌ただしく八木先輩のもとに集まっている。

    気になって覗いてみると、そこにいた八木先輩の顔は、真っ青だった。
    床には、リガチャーとリードが落ちている。
    リードには、はっきりと縦に走るヒビ。

    少し遅れて、橋内先輩が駆け戻ってくる。そして落ちていたリードとリガチャーを拾い上げて眉をしかめた。

    「次の学校のやつが八木のマウスピースにぶつかってきたんだよ。おい八木、リードの予備あるか?」

    「…楽器置き場まで戻らねぇと…ない…」
    八木先輩がポツリと呟いた。

    今、ステージで演奏されている曲はもう後半に差し掛かっている。
    「走っても間に合うかどうか…」橋内先輩が眉間に皺を寄せる。

    「割れたまま吹くしかねぇな」
    ため息混じりに、八木先輩はヒビの入ったリードを震える手でマウスピースに取り付けようとした。

    「ソロ、どうするんだ。そんな状態で」

    重たい空気が、舞台袖に落ちる。

    俺は咄嗟に、胸ポケットに手をやっていた。
    そこには、あの日先輩から渡されたリードが、ずっと入れっぱなしになっている。

    「八木先輩、あの、これ…使えませんか?」

    俺の手元に、八木先輩の目が留まる。

    「なんでお前が持ってるんだ」

    俺の手首を掴んだ八木先輩の手は、小刻みに震えていた。

    「前に、使えないから捨てておけって言われたやつです。なんとなく…捨てられなくて」

    八木先輩はそのリードを受け取ると、マウスピースにそっと取り付ける。

    「…少し分厚いな。でも、リガチャーが歪んだからか、今回は入る。割れたのよりは、全然マシだ」

    「次は穂樽中等教育学校の演奏です」

    アナウンスが流れた。

    「…やるしかねぇな」

    先輩がマウスピースを咥えたその瞬間

    (あ、間接キス…)

    そんなことが脳裏をよぎり、胸が高鳴る。

    先輩はマウスピースに息を吹き込み、音が鳴らないようにしながらリードの感覚を確認をしている。

    俺は先輩と一緒に譜面台を抱えて舞台へと向かった。
    譜面台を先輩の席の前に置いて袖に戻ろうとしたとき、八木先輩が俺の手首をそっと掴んだ。

    スン…

    うなじを嗅がれた。
    そして…

    「かっこいい俺の演奏するから、ちゃんと聞けよ」

    いつもの、あのニヤリとした笑顔だった。

    頬に熱が灯るのは、スポットライトのせいなんかじゃない。
    舞台袖に戻ると、同じ譜面係の塚本に「顔赤いよ」と笑われた。

    そのとき、会場に大きな拍手が湧く。そして顧問が壇上に立ち、指揮棒を構える。

    曲が始まった。アップテンポな一曲。
    高校生たちの演奏は、どこか楽しげで、生き生きとしている。
    その中でも、俺の耳は八木先輩の音だけを追っていた。

    …あれ?

    いつもの「男らしい」音じゃない。
    もっと、深くて、柔らかくて…まるで大人の男の人みたいな音。

    ソロに入ったとき、その音はさらに色を増した。
    深くて、艶があって、しびれるように色っぽい。

    俺、知らなかった。
    八木先輩が、こんな音を出せる人だったなんて。

    気づけば涙が滲んでいたらしい。塚本がそっとハンカチを差し出してくれる。その塚本の目元にもじわりと涙が浮かんでいた。

    曲が終わり、譜面の回収のため再び舞台へ。
    譜面台を持ち、反対側の舞台袖に下がったところで…

    「八木、 今日の音どうした。いつものうるさいだけのやつじゃなかったな。」

    橋内先輩が八木先輩の肩を組んでぐいと引き寄せる。

    「はあ? あれがぁ? ペラペラした音だったろ…」

    八木先輩は文句を言いながらも、どこか満足げな顔をしていた。

    「お前の好みの音は汚すぎる。今日のリードが一番よかった。それ大事にしとけ」

    そう言って、橋内先輩はちらりと俺を見て、
    「田中のおかげだな」

    と一言だけ残して、塚本の方へ駆けていった。

    「志津摩と約束した、男らしい俺の音…今日は出なかったな」

    少し照れくさそうに、八木先輩が笑う。

    「俺、今日の先輩の音が一番かっこよく聞こえました! 男らしくて、それで、大人っぽくて…」

    そう言いながら、胸がずきんと痛んだ。

    先輩はもう六年。高校生で言うと三年生。あと少しで大学生になる人。
    一方の俺は、中学一年。小学校を卒業したばかりの子ども。その差が、急に現実味を帯びて押し寄せてくる。

    ふいに視線を落として俯くと、八木先輩が俺の頭をぐりぐり撫でてきた。

    「俺は前から大人だ。お前と比べたらな」

    改めて言葉で言われて、胸の奥にじんわりと重たいものが沈んでいく。

    あぁ、やっぱり先輩と俺は、年齢も立場も違うんだ。

    今までは同じ時間に音楽室にいて、同じように音を出して、ただそれだけで十分近くにいられる気がしていた。
    でも、先輩はもうすぐ卒業して、次の世界へ進む人。
    俺は、まだ何も知らない子ども。

    その距離に、今さら気づいてしまった。




    三年生にとっての最後の舞台となったそのコンクールも、結果は俺たちと同じ“ダメ金”。
    けれど、そこには熱くて確かな音があった。



    ***

    六年の先輩たちの最後の日。
    学校の楽器を借りていた先輩たちは、それぞれ使い慣れた楽器を丁寧に掃除していた。
    八木先輩も、いつも以上にバリトンサックスを念入りに手入れをしている。

    そっと近づくと、先輩は真剣な横顔のまま手を止めず、柔らかなクロスで管体を撫でていた。
    八木先輩は、東京の大学の工学部を志望しているらしい。
    もうすぐ、この町からも、学校からも、先輩はいなくなってしまう。

    「もう…サックス、吹かないんですか?」

    ふと漏れた問いに、先輩は手を止めず、あっけらかんと答えた。

    「楽器、持ってないからなぁ。大学のサークルって自前が多いんだろ? 楽しかったけど、これまでだな」

    「そう…ですか…」

    困った。先輩とは吹奏楽以外の話題を、俺は何も知らない。
    先輩のことをもっと知りたいのに、どうやって繋がればいいのかわからない。

    「お前は、これから頑張れよ」

    そう言って、パタン、とケースの蓋を閉じる音がした。

    このまま終わりたくない。その一心で、勇気を振り絞った。

    「あの! 先輩、LINE…教えてください!」

    がちゃりとバックルを留めた先輩が、驚いたように顔を上げる。
    けれどその目元には、驚きの中にも微かな笑みがあった。

    「はあ?」

    「え、っと…」

    しまった。変に思われたかもしれない。気持ち悪がられるかもしれない。
    恥ずかしくなって、うつむいたその時

    「ん。QR出せ」

    不意に言われ、顔を上げると、八木先輩はスマホを取り出し、LINEの画面を開いていた。
    緑色の画面が目に入る。

    「へっ…!?」

    思わず間抜けな声が出てしまう。

    「ほら、早くしろよ」

    慌てて自分のQRコードを表示させると、先輩はそれをさっと読み取る。
    画面に山羊のアイコンが表示された。

    「…連絡、していいですか?」

    繋がったことの嬉しさに、鼻の奥がツンとした。

    「連絡しねぇなら消せよ」

    「い、いやですっ!」

    くすっと笑った先輩は、いつものように俺の頭を撫でる。

    「受験で忙しくなるから、返せるかわかんねぇけどな。…待ってるよ」

    「はいっ!」

    でも、LINEを交換したものの、俺には先輩に連絡する勇気が出なかった。
    「大学受かりましたか?」「卒業おめでとうございます」「東京、慣れましたか?」
    何度も途中まで打っては、消して…それを何年も繰り返した。

    気がつけば、俺も卒業の日を迎えていた。

    八木先輩、俺も卒業しました。
    大学、先輩とは違うけど、東京の大学になりました…

    そう、LINEに打ち込んで、でもまた送信ボタンは押せなかった。
    画面を閉じながら、小さくつぶやいた。

    「…気持ち悪いよね」

    その言葉が、自分の胸に突き刺さった。


    ***


    俺の初恋は、幼稚園の頃だった。
    近所に住んでいた高校生のお兄さん。
    優しくて、かっこよくて、何度も家に上げてくれて、一緒にゲームをした。
    俺はよく、ゲームをしながらお兄さんの膝に乗っていた。

    けれど…
    ある日、お兄さんの母親にそれを見られてから、全ては終わった。

    俺は親にこっぴどく怒られ、お兄さんはどこかに引っ越してしまった。
    どうやら俺は、されてはいけないことをされていたらしい。
    でも、俺にとってはただ、大好きな人との思い出でしかなかった。

    その後も、年上の“お兄さん”と仲良くなるたび、親に引き離された。
    小学校の高学年になる頃には、気づいていた。

    「普通」は、女の子を好きになること。
    男を好きになることは「普通」じゃないということ。

    だから…自分の気持ちは、誰にも言わずに生きてきた。

    八木先輩も、あのお兄さんと同じだ。
    大切な人を、傷つけてはいけない。
    迷惑をかけてはいけない。

    それが怖くて、どうしても…連絡ができなかった。


    ***



    「八木先輩、行ってきます」
    スマホを取り出し、LINEを起動する。
    友達一覧に表示された、あのまま変わらない山羊のアイコンに、そっと話しかけた。

    もう何年も、画面の中にだけ居続けている八木先輩。
    アイコンはずっと、あの可愛い山羊のイラストのままだ。
    連絡を取ったことはないから、いまどこで何をしているかもわからない。

    大学に進学した俺は、ジャズサークルに入った。
    今日はその活動の一環で、バーでのBGM演奏の仕事に向かっている。
    サークルの部費稼ぎのための“現場”だ。

    夏至が近いせいか、バーの開店時間になっても外はまだ明るい。
    トランペットのケースを持って、明るい街の光から薄暗い店内へと入っていく。

    冷房がほどよく効いた店内には、わずかにタバコの匂いが漂っていた。
    まだ客のいない店内。店に染みついたその香りが不思議と心地よくて、懐かしかった。

    ああ、この匂い、八木先輩を思い出す。

    そう思いながら、静かに楽器を組み立て音を確認する。
    「田中くん、お客さん来たから、そろそろよろしく」
    マスターの声に促されて、立ち上がった。

    静かにグラスが傾けられる落ち着いた店内で、
    俺は空気に合わせてしっとりとしたジャズを選び、ゆったりと吹いていく。

    小一時間、演奏をしたところでマスターが「次の人来たから、今日は終わりでいいよ」と声をかけてきた。
    演奏を終え、控室の扉を開けると、中に誰かがいる。

    次の出演者だろうか? そう思って小さく頭を下げた、その時…
    「志津摩?」

    耳に届いたその声に、心臓が跳ねた。

    この声、知ってる。

    記憶の奥に閉じ込めていた、あの恋しい日々が一瞬でよみがえってきた。
    顔を上げると、そこにいたのはあの頃よりも大人になった八木先輩だった。

    「八木…先輩…?」

    あの頃よりももっと背が伸び、逞しく鍛え上げられた体に、艶消しをされたサテン仕上げのバリトンサックスがぶら下がっている。
    学生時代のピカピカの楽器とは違う。けれど、大人びた八木先輩には、その楽器が驚くほど似合っていた。

    「さっきの音、お前だったのか。いい音、鳴らすようになったな」

    微笑みながら近づいてくる先輩。
    俺の身長も、あの頃に比べればずいぶん伸びていた。目線が、あの頃ほどは遠くない。

    「八木…先輩は、どうしてここに…?」

    喉の奥が詰まって、うまく言葉にならない。

    「就職して落ち着いてから、また始めたんだ。サックス。ここ、知り合いの店でさ。たまに演奏、頼まれてる」

    坊主だった高校時代とは打って変わって、伸ばした前髪を後ろに流し、軽くセットしている。
    それがふいに額に落ちた瞬間、息が止まりそうになった。
    …大人の色気って、こんなに凄まじいんだ。

    「ところでLINE、教えてやったよな? なんで連絡してこなかったんだよ」

    少し睨むように、俺の顔を覗き込む。

    「あっ…ご、ごめんなさ…」

    近い。相変わらず、距離が近い。
    八木先輩の匂いが、強く、濃くなって…頭がくらくらする。

    「八木くーん? 準備できてたら出ちゃってー」

    マスターの声が控室の外から聞こえた瞬間、
    先輩は舌打ちしながら小さく肩をすくめる。

    「ちょっと。俺が吹き終わるまで、待ってろよ」

    それだけ言い残して、控室を後にした。

    ステージに上がった八木先輩は、
    あの頃の“男らしい音”に、柔らかさと渋みを加えた大人の音色を奏でていた。

    低く、包み込むようにリズムを刻む音。
    その音に混じって、自分の心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。

    また、あの頃と同じ音が、胸の奥でそっと鳴りはじめた。
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