仮初の接吻 スマホを開いて、企業が一斉にくだらない嘘をついているのを見てため息が出る。
朝練の前。まだ誰も来ていないはずのロッカーの前で宮に呼び止められた。ふざけた事を言うだろうとスルーしようと思ったのに朝で頭がちゃんと動いてなかったせいで「なんだよ」となぜか返してしまっていた。
「臣くんのことな、好きやねん」
いつもの様なふざけた調子で言うならまだしも、すごく真面目に言うから少し逡巡して今日が嘘をついても許されるくだらない日だと思い出した。本当にくだらない。俺が付き合うって言ったらどうするつもりだ。キレてやろうかと思ったがノッて困らせてやる方がもしかしたらこいつは堪えるかもしれない。ほんのストレス発散のつもりだった。
「俺も宮が好きって言ったらどうする。付き合うのか」
慌てふためく宮の顔を期待しながら言い終えると、驚いたというよりは驚愕というのが似合う表情をしていた。大きくてこぼれ落ちそうな瞳がみるみるうちに濡れて涙を流してしゃがみ込んで、
「信じられん…」
とか細い鼻にかかった涙声を今でも覚えている。
そこで、エイプリルフールの冗談ではなく本気の告白だったと思い知った。「ほな、よろしゅう」と泣き笑いを浮かべた宮の顔が本当に輝いているように見えて、俺は嘘をつかれたと勘違いをして嘘をついた事を、バラすタイミングを逃してしまった。
宮に本当のことを打ち明けられないまますごすのは罪悪感が増していく日々ではあったが案外楽しかった。仮初のお付き合いを始めて気づいたのは宮は二人きりの時は割と静かな男だということだった。波長が合うのかもしれなかった。一緒にいるのは心地がいいと思うようにすらなっていた。そして実は宮は案外。本当に案外綺麗好きだと知っていた。なぜなら一度部屋に呼ばれたことがあったからだ。その時は当然、拒否した。
「ええやん!ちょっとだけ!」
「人の部屋に上がるのにちょっととかはないだろう」
「ほんまにちょっと!ちょっとやって!見てかえるだけでもええ!」
「そんな無駄な時間は過ごしたくない」
そういう押し問答を何度か繰り返し、根負けした。宮はしつこいし、諦めない。最後まで抵抗したが宮が俺の部屋に行くと言い出して、それを木兎くんに聞かれそうになって慌てた。流石に来られる方がより抵抗があった。
ただ、ため息が出た。どうせこいつの部屋は必要のないもので溢れているだろう。掃除も行き届いていないに決まっていると決めつけていた。そう思っていたのに玄関から廊下まで綺麗を越して物がほとんどなかった。
宮は俺を迎え入れた同時に洗面所に向いうがいをして手を丁寧に洗っていた。洗面台の棚にはアルコールが置いてあり、それを使って仕上げをした。続いて手を洗い始めた俺に
「臣くんも使う?」
と言われて、手を拭きながら持参したものを見せたら
「え、見せて?」
と言われたから渡す。ジロジロと見つめてスマホを開いて何かしている。何なんだろうと思った。
迎えられた部屋はチリひとつ落ちてなく、物が溢れているどころか、物がそのものがほとんどなかった。ワンルームの部屋にやたらとでかいダブルベットが鎮座している以外は、ソファとテレビとテーブルに置かれたタブレットだけで、殺風景で生活感のかけらもなかった。
「ほら、大丈夫やって言うたやろ?」
その笑顔が、試合中セッティングがうまく決まり相手を出し抜いて点を決めた時と同じ様に見えて憎たらしくなり無視をして持参したクリーナーでコロコロと掃除をしてやった。もちろんチリひとつ着いてない。使った部分をぺりと剥がしゴミ箱を探すと
「もったないなー」
と宮が言いながら、受け取って捨てた。
付き合い始めの宮はそのときとは対照的にいつもより少し遠慮気味に
「恋人になったしそんでま俺の部屋来るの嫌?」
と誘われた。
そう言われて、俺は断ることなんて出来なかった。俺は今もこの嘘を打ち明けることができないでいた。それが何故なのか気付く前に目を逸らした。
その日は宮がずっと一緒に見たいと言っていた海外リーグの試合を観た。戦略が面白くセッティングも巧みだった。あーだこーだと話して、思わず長居をした。そろそろ帰ろうとしたところ、宮が分かりやすく寂しそうな顔をして、俺の手を掴んだ。振り払う気持ちは湧かない。
「あ、すまん。ごめん触ってしもうて」
「別に。肌と肌が触れるだけだったら嫌じゃない」
いや嘘だ。すごく嫌だ。嫌だけれど、今の宮に触れられるのは別に嫌ではないのは本当だった。
「ほんま?んじゃ、今度は手、繋いでもええ?」
「ちゃんと手を洗ってるのを分かっていたら」
「ほんま?!うれしい。ちゃんと洗うで、見てたやろ?」
また、泣くんじゃないかと構えたが宮は笑うだけだった。
「ちゃんと見てからじゃないと嫌だぞ」
「分かっとるって」
仮初の恋人になってからというもの、宮と一緒に時間を過ごすことは多くなった。朝練は待ち合わせをして一緒に向かい、練習を終えてシャワーを浴びて食堂で食事を済ませて宮の部屋に行く。
そして宮は意外というより完璧な綺麗好きだということは、確信に変わった。宮のロッカーやバックパックの中は整理整頓されている。練習着はいつも清潔に保たれている。手を入念に洗ってそのあとクリームを塗りこんで甘皮を剥いている姿を見ているから、動画を一緒に見るときに手を差し出しすと宮は喜んで手を繋ぐ。本当に嬉しそうに。それを愛おしいと思う心と宮を欺いていることの後ろめたさはいつも表裏一体で、手放せない俺も嘘を明かして許されたい俺も、そのどちらも俺だった。
宮の部屋では宮が貯めている試合の録画を見終わったら配信のアニメを一緒に見た。宮が最近ハマっているというアニメは、結構面白かった。金曜日の夜は二人でそのアニメを観て手を繋いだまま、宮のベットの横で眠るのがルーティンになった。
それから数ヶ月たって、仮初だったはずの恋人同士は板についてきた。その間にデート数回した。
つい先日は、商業施設に併設されている美術館に行った。二人で見ていたアニメの原作の原画展が開催されているのを知って二人で出かけた。やはり原画はすごい。原作はまだ手を出してなかった。落ち着いたら原作を買おうと思っていたが電子書籍ではなく書籍で買おうと決意した。売店で複製原画も買ってしまった。宮はTシャツを買っている。漫画のキャラクターがプリントされているTシャツを買う感覚は俺にはないが確かにおしゃれなデザインだ。宮なら着こなすだろうと思った。
「凄かったなぁ」
「そうだな」
隣で歩く宮と手を繋ぎたいと、バカみたいなことを思って頭の中でその考えをすぐに打ち消した。それをしなければいけない理由はまだ俺の腹の中で燻っていた。
*
俺の事を勘違いしている奴が多いが俺は決して潔癖症ではない。慎重に生きているだけだ。宮も例に漏れず勘違いしていた人間だった。宮の片割れの店に木兎くんや日向が連れていってもらっていると聞いて、猛烈に腹が立った。だから虫のいどころが悪かった。勘違いするなよ。俺のことが好きなくせに。
「どうして俺を連れて行かない」
「え!?やって、飲食店嫌なんやない?」
「俺は別に嫌と言ってない。勝手に決めるな」
「え、ほな行く?」
と誘われてその日のランチタイムをずらして連れて行ってもらうことになった。
「サムのおにぎりうまいけど、おにぎり苦手やったらお茶漬けに変更できんで」
「別におにぎりでいい。大丈夫だ」
実際、俺は気にしていなかった。他の店のおにぎりは絶対頼まないが宮の片割れのおにぎりなら構わない。宮を知っていたからだ。そんな風にすら思っていた。それよりも宮の態度が気になった。いつも俺といる時は機嫌よく笑っている。バレーする時は騒がしくしているが、二人の時はただ嬉しそうにニコニコしているときが多い。特に出かける時は鼻歌でも歌うくらいに。だから、浮かない顔のそれが気になった。
「どうした」
「え?」
「なんでそんな顔をしてる」
「…顔て、なんかついてる?
「浮かない顔だ」
「そんなことないて〜。なんもないよ!」
「嘘つくな。分かる」
そういって睨みつけると、宮は立ち止まり目を一度瞑りもっと浮かない顔で俺を見つめた。
「……やって…治には、言うてしもてるから、臣くんと付き合ってるって」
と俯き加減に言われて、バツが悪そうな申し訳なさそうな顔が見えた。
「ごめんな、勝手に」
なんの謝罪なんだろうと思う。
俺も嘘をついている。そんな事は棚にあげた。俺はいつまで嘘をつくつもりなのか。腹の中に俺が知らない熱い何かが生まれてそれがずっと燻っていた。
「別に、隠す事じゃない」
俺がそう答えると、宮の瞳がまた濡れた。思ってもないことが口をついて出てしまうのはなぜなのか。
俺の嘘は宮の瞳を綺麗にする。
「連れて来たで〜。俺の彼氏!」
さっきの涙はなかったみたいに、いつもの自分を繕うように俺を紹介する宮の宮らしさに違和感を感じて、いじらしいなと思った。
「どうも」
「いらっしゃい。佐久早、綺麗好きなんやろ?なんか気になるところあったら教えてな」
宮と同じ顔をした柔和な笑顔が全く宮と似ているのに全く似ていないと思わせるのが、不思議だった。双子という存在は面白いと思った。
おにぎりは美味かった。片割れのお勧めの子持ち昆布と宮の好きなマグロを食べた。店内は清潔感もあり、それでいて美味い飯屋の匂いが充満して居心地が良かった。俺は別に潔癖症じゃない。
店内には俺たち以外に客はいなかった。宮がトイレに立った時に、片割れに話しかけられた。
「ツムと恋人になってくれたって聞いた時は驚いたわ」
俺も、とつい口から出そうになってお茶を飲んだ。
「ツムな、ずっとあんたに片想いしててんで」
「ずっと?」
「おん、多分中学生ときからとちゃうかな?」
「まだ、会ってない」
「会ってんねんって!中学か?全国大会で一目惚れしたんやって。それからずーっと臣くん臣くん煩いてしゃーなかったんやから。臣くんが潔癖やってどこかで知ってそれから妙に綺麗好きになったりしてな。絶対三日坊主や思ってたのに今でも続いとるやろ?ホンマに好きなんやな〜と思ってん」
「そんな前から」
知ってたのか。俺のことが好きだと宮の片割れは知っていた。それは確かに、告白が実ったらすぐに報告したくなるくらいの年月だと納得した。
「ツム、人手なしやけど佐久早のことはホンマに本気みたいやねん。バレーみたいに。そこまで惚れられるってなかなかやで。人でなしは変わらんやろから面倒かけるやろうけどよろしゅうな」
宮の片割れは俺が売り言葉に買い言葉で付き合ったと言ったら、どうするだろうか。流石に怒るだろうかそれとも爆笑するだろうか。俺はその時どうするのだろうか。
そんなに、好きだったのかと思い知った。それなのに。本当にヘマをした。なぜそんなことを言ってしまったのか。俺は慎重に生きてきたのに。宮が俺にしつこく話しかけてくると調子が狂った。宮が俺の人生に現れて俺の人生を変えている。すぐに手放すべきだった。
そして、ある懸念が浮かんで寒気がした。怖かった。怖いと思った。
「臣くん、そろそろ出る?」
そろそろ夜の仕込みが始まると忙しなく働き出した片割れを見てそう言った宮に同意して、家路に着く。「また来いやー」と言っていた片割れの顔を見たかも覚えていない。
「臣くんこれからどうする?」
「帰ろう」
「え、ええけど…もう?」
「ああ、帰る」
「ほな、帰ろ」
「そっちじゃない。俺の家に帰ろう」
「え、なんで?」
「来ないのか?」
「行く!!!絶対行く!!!」
嬉しそうにしている宮の顔を見るのもおざなりにして、足早に帰りつき俺の家に招き入れる。洗面所に連れて手を洗わせる。その後歯磨きするように伝えた。
「え、歯ぁも?まぁさっき飯食ったもんな」
「違う」
「えーじゃあ何?」
「キスするから」
「は?え?」
ポカンとしている宮を無視して自分も歯を磨いた。歯を磨く手が止まっている宮を見て思いを馳せる。宮は俺と付き合い始めてから少し変わった。勢いが減ったというか、萎んだというか。でもそれは、少し間違っていたかもしれない。付き合って数ヶ月。手を繋ぐ以外の接触はない。でもそれは、きっと宮の本位ではない。俺を見る瞳に期待があった。俺への接触を期待するような目線に気付いていた。俺はそれを見て見ないふりをした。自然とそうした。人と触れ合うなんて興味はなかった。でも宮と手を繋いて寝るのは好きだった。宮の洗面台のアルコール除菌セットは次行ったときには俺が使っているメーカーのものに変わっていて、わずかに自分の顔が綻んだのが分かって思わず唇を触ったのを覚えている。俺を思うその健気さを手放すことは今の俺の選択肢にはもう残っていなかった。
けれど、宮にばれているかもしれない。俺が本当はあの時ウソをついたと気づかれてるかもしれないと思った。そして、宮は俺がそれを本当にしたいと思っていることには気付いていない懸念が強い。認めるしかない。この気持ちを認めて白状しないと、失ってしまうかもしれない。俺は、宮が好きだ。目の前の声も背もデカい金髪の関西弁のこの男を愛おしいと思っている。だから、今からこの仮初を永遠にする。このことで何かの罰が与えられるとしたら、それも俺の運命だろう。そんなことを思える事自体が俺のたどり着いた幸福なのかもしれない。
粘膜と粘膜を合わせて細菌を擦りあう行為なんて一生することはないと思っていたのに今はすぐにキスしたいと思っている。思ったのに、泣きながら顔をグチャゃぐちゃにしている宮が視界に入って顔も洗うように伝えた。丁寧に綺麗に早くしろ。
仮初の接吻