その日もボクは狛枝クンの病室の扉を叩いた。
「狛枝クン、苗木です」
返事が返ってくる事は無いが、無言で入るのも何となく気が引けてしまう。だから、こうやってひと声かけるようにしている。
案の定、扉の向こうからは何も聞こえてこない。それでもボクは一呼吸置いてから、扉に手をかけた。
「入るね。失礼します」
いつもこの瞬間が緊張する。部屋にいるはずの狛枝クンの姿をこの目で見るまで、どこか安心できない気持ちがある。
ガラリと引いた扉の奥はひどく殺風景で、人が生活するには物足りないというか寂しい印象を抱く。病室だしそれが普通だと言われればそうなんだけれど。それでも、ここで過ごしている人がいるなら(それが自分のよく知ってる人なら尚更)、少しでも心地良い気分でいてもらいたいなと思ってしまう。
ベッドに座る狛枝クンはノックの音が届いたのか、こっちを見ていた。けれど緑がかった鈍色の瞳はボクを機械的に映すだけで、そこに狛枝クンの意思は、たぶん、無い。今の狛枝クンの行動は基本的に反射だから。現に今も音のした扉の方向をじぃっと見続けている。
「今日は随分寝てたんだね。髪がいつもより跳ねてるよ」
ボクは狛枝クンの正面に立って話しかける。ふわふわの髪を撫でるとゆっくりと狛枝クンの焦点がボクへと合ってくる。自身の近くに立つボクの姿を認めるとその口角が少し上がる。本当にほんの少しだけ。ボクの見間違えかもしれないくらいの。
その僅かすぎる反応にボクは一瞬眉をひそめる。狛枝クンからの言葉やリアクションがほとんど返って来ないとわかってはいても、悲しいものは悲しい。
でも、これでも回復してきてるんだ。最初はボクらの呼びかけに無反応だったんだから。だから大丈夫。自分に繰り返しそう言い聞かせる。
ボクが不安そうな顔を見せる訳にはいかないと、すぐに笑顔を作り直し、部屋の隅に置いてあるパイプ椅子をベッドの傍まで持って来て腰掛ける。
何をするでもなく、狛枝クンの手を握ったり撫でたり。手遊びみたいな事しながら、ぽつぽつと話しかける。通勤途中に子猫を咥える親猫を見たとか、作った書類のミスを十神クンに指摘されたとか。そういうとりとめのない話。
罪木さん曰く、反応が返って来なかったとしても刺激を与える事自体が大事なんだそう。だから、こうやって毎日ここに来てはその日あった事を話してる。こうなってしまう前も狛枝クンはボクの話を聞きたいってよく言っていたから。
話しかけ続ければ狛枝クンからの反応が返ってくるんじゃないかと期待しちゃって、なかなか傍を離れられない。
でも、そろそろ行かないと霧切さんに怒られてしまう。名残惜しいけど、仕事に戻らないと。
「また来るね」
薄く微笑む狛枝クンに軽く手を振り、ボクは病室を後にした。