七夕には願い事が叶う。
――なんてそんなこと、誰が言ったのだろう。
七月七日。今日の天気は晴れ。
猛暑日となるので熱中症に注意。場所によっては天の川が見れるでしょう、なんて天気予報のキャスターがにこやかに言っていた。
いつもの通りトーストを焼き、半熟加減のベーコンエッグを作り、昨日のうちに仕込んでおいたアイスコーヒーをグラスに注ぐ。もうすぐトーストも焼き上がろうかという時間に、降谷は寝室へと向かった。
遮光カーテンで薄暗い部屋のカーテンをシャッと開け、光を差し込ませる。
「新一君、朝だよ。起きよう」
声を掛けると、ベッドの上で薄い夏布団に丸まっていた「人物」がモゾモゾと動いた。
「んー……あさ……」
「そう、朝」
舌足らずな子供みたいなそれに王蟲返しに返してやると、枕に半分ほど顔を埋めたまま彼は呻いた。
「朝……早ぇよ……」
「夜更かしするからだよ」
降谷が数時間前に帰宅してこの部屋を覗いた時には既に寝入っていたけれど、この様子からするに遅くまで本でも読んでいたのだろう。昨夜中に、読み切ってしまいたかったのか。
この「同居人」は、寝食よりも読書が好きだ。それも、頭をフル回転させるようなミステリーや事件ものが、特にお気に入りらしい。
知識に飢えていたのだろうと、降谷は思った。
「ほら、朝ご飯出来てるから食べよう。僕はもう出るし」
ベッド脇に行って声を掛ける。真っ黒い艶々とした黒髪が、陽の光で輪を作って煌めいていた。
あ、これ、天使の輪って言うんだったな……。まぁ、天使より、不思議な存在だけど。
そんなことを思っていると、ようやく顔がこちらを向く。
「……もう出んの? 帰ってくんの遅かったじゃん……」
まだぼんやりと蕩けたような瞳は、吸い込まれそうに深くて、青い。なのに不思議な光を宿していて、星が瞬く夜空のようだと、降谷は思う。
「……仕事なんだ。仮眠は取ったから平気だよ」
ふっと笑うと、ようやく新一がもぞりと体を起こした。
「ん……、じゃあ起きる……」
普段は凛として背筋を伸ばしている彼が、こんなに無防備な姿を曝け出すのは朝ぐらいだ。だけどそれを見れるのも今日が最後だな、と思いながら降谷はその頭に手を伸ばした。
さらりと髪を撫でる。撫でたぐらいで直ることもない寝癖。
そう言えば、出逢った時は、髪が長かった。いわゆるお団子結びが出来るぐらいに。
「暑いから」と切った後、もう伸ばされることのなかった髪は、本当にそれで良かったのだろうか。
「……おはよう、新一君」
「はよ……、零」
いつもの挨拶。
この一年で幾度となく交わしたそれ。
――もう二度と、交わせないかもしれないそれだ。
★
警察庁に勤める警察官である降谷が、この不思議な青年と出逢ったのは、ちょうど一年前。七月七日の夜だった。
朝から雨が降り続き、「今日は七夕なのに残念ね~」なんて会話を道端の親子が交わしていたような天気だった。
夜、しかもこんな天気の日に絶対に人が近寄らないような山中。人知れず協力者と会うには都合が良く、それを済ませた後、レインウェアを着た降谷も車に戻ろうかと思った時だった。
何かが、視界の隅で光った気がした。
ここは山頂付近は有名な天体観測スポットらしいが、こんな天気なので流星などではあり得ない。だとすると、自分と同じく人目に付きたくない誰かが、いるのかも知れない。
犯罪絡みの可能性も考慮し、それが見間違えであることを祈りつつ、降谷は山中に入った。
そうして、出逢ったのだ。いやあれは、発見したと言った方が正しいのだろう。だって彼は、木々の間でまごうことなく、行き倒れていたのだから。
「――は? おい、君、大丈夫かっ?」
ライトを照らす。人だ。
妙な格好だった。紺色の着物のようなヒラヒラとした服。後頭部で布地の中に髪を纏めているようだけど、その背格好から行くと、男性だ。
若者が山の中でコスプレでもして、何かの理由で倒れた?
その奇妙さに目を見張ったものの、今は人命救助が先である。
「おい、大丈夫か? 脈と呼吸はある……が、体が冷えすぎてるな。とりあえずこれを……」
降谷はライトを横に置き、自身が着ていたレインウェアを脱いで彼に羽織らせようとする。ふと、降谷の腕の中で彼が瞳を開けた。蒼い、不思議な色の瞳がこちらを捉えて、そして、ふっと緩んだ。
その瞬間、雨が止む。さぁっと、木々を揺らして風が吹く。
まるで、世界が、自分たちの周りだけ色を変えたみたいに。
「――月みてぇ……」
「……は?」
それが、新一の第一声だった。
――後にあれは、降谷の髪がライトに照らされて、月のような色に見えたのだということを知った。
そうして、得体の知れない青年を自身の車に乗せ、東京まで連れて帰った降谷は、彼が奇行に走った若者なんかではなく、天界から降りてきた「彦星」だと信じるまでに、軽く数週間は要した。
★
「あ、今日は目玉焼きだ」
ようやく顔を洗ってきた新一が、ダイニングテーブルの上の皿を見て、嬉しそうに顔を綻ばせる。
あの衝撃的な出逢いから一年。色々あって、――本当に、色々なことがあって、二人は一緒に暮らしている。
彼は「新一」と名乗り、それが下界の名だと言った。
――別に俺は神様なんかじゃねぇよ。むしろ、天界でちょっとやばいことに首突っ込んで、気づいたら落っこちてたただのヒトだし。
だから彼は人間の形をしているし、言葉も話せる。食事も摂るし、疲れれば寝る。特別な力なんてものもなくて、基本は人と同じだと。
それを知った時、だからかぐや姫は特別な力も何もなかったのかと、降谷はそんなことをまず思った。
「最近忙しいのかよ? 朝しか顔見てねぇけど」
トーストを頬張りながら、彼は問う。順応力が高いのか、それとも上の世界はみんなそうなのかは分からないけれど、すっかりこの世界の食事にも慣れたものだ。
そもそも雲の上の食事はあまり凝ったものではないらしく、――単に新一自身が食に興味がなかっただけではないか?というのは一緒に暮らし始めて思った降谷の感想だ――、降谷が作る食事に、彼はいつもその整った顔を綻ばせて喜んでくれた。
「そうでもないよ。今日の夜は時間作れる」
「今日?」
だって今日は、七夕だから。その為に、多少の無理をして時間を作ったのだ。
一年に一度、七月七日の日だけ、二つの世界が繋がる穴が出来る。昨年、その日にそこに落とされてしまったらしい新一は、今日ならば、帰れるのだと言っていた。
だから降谷は。
「……今日の夜は、出掛けようか」
「へ? いいけど、どこに?」
美しい青年は、無垢なまま首を傾げる。
その顔を、その仕草を、愛しいと思うようになったのはいつからだっただろうか。
文字通り人間離れしたその聡明さも、ふとした時に夜空を見上げて見せる儚げさも、降谷のご飯にあどけなく笑うその可愛さも。
――全部、欲しかった。
自分のものに、したかった。
だけどそれは叶わないのだと、最初から知っていた。笹に願い事を書いたところで、永遠に叶うことはないのだと。
あぁ、自分は、こんな恋ばかりだ。
「……その前に、家でご飯を作るよ。何がいい?」
「え? うーん……。カレー? あ、この間作ってくれた挽き肉とナスのやつ!」
「カレーばっかりだな」
「だって、好きだし。アイスコーヒーと並んで、なんで空の上にはないんだって思うぐらい」
屈託なく笑う新一に、降谷も、笑みを作った。
好き。
その言葉が、自分に向けられたのならば、どんなに良かったのだろう。
食べ物にさえ向けられるそれに嫉妬している自分は滑稽で、そして、自分にではないと知っていてもその一言を聞きたいと思ってしまう自分も、やはり馬鹿だった。
★
約束通り夏野菜カレーを作って二人でそれを食べた後、降谷は車を出した。
向かった先は、少し離れた山の山中。一年前、二人が出逢った場所である。
今夜は天気が良く、七夕ということもあってか、展望スポットとなっている場所には人が多かった。だからそれを超えて、降谷は更に山頂近くまで登る。こんな夜中には誰も来ず外灯もほとんどない小さな休憩場所で、車を停めた。
「おぉ、さすが、星が良く見える」
車を降りた新一が、夜空を見上げて声を上げる。
都会では見えない星屑の数々。微かに連なって見えるのは、天の川だ。
それを見上げて、降谷は思う。
――お伽話でしかないと思っていたそれが、現実だと知った。作り話のように、空から人が降ってきた。
だから、帰るときもせめて。
「――今日が快晴で良かった。空が遠くまでよく見える」
降谷の静かな声に何かを感じたのか、新一が振り返った。
「零……?」
今日の彼は普通の格好をしている。初めて見た時のあの着物を着て貰えば良かっただろうか。奇妙ではあったけど、新一の存在を知った今となっては、あれは美しかった。
だけどどんな格好をしていたって、その存在は気高く、降谷如きが手が届くものではないのだ。
「一年前、君をここで見つけた時、僕は最初薬でおかしくなった若者かとでも思ったんだ」
「……またその話かよ」
新一は辟易したように眉を寄せた。そんな彼を見て、降谷は笑う。彼はこの話が嫌いだ。降谷も敢えてしたいものでなかったけど、でも。
「だってそうだろう。不思議な格好でこんな山の中で倒れてて、おまけに車の中で話を聞いても、妙に自分のことを隠そうとするし」
「……俺だって、いきなり空から落ちてきましたって言って信じてくれる人がいるとは思わねえだろ」
「そうだね」
自分だって、よく信じたものだ。新一と出逢うまでは、自分は超現実派の合理主義者だとまで思っていたのに。
「……だけど、どんなに有り得ないことでも、現実に起こりうると知ったから」
降谷は向かい合った新一の手を取った。こうして新一に触れるのは、初めてではない。自分とほとんど変わらない体温。血の巡り。それを知る度に、苦しくて、どうしようもない気持ちになってきたけど。
――だけどそれも、最初で、最後だ。
「新一君。帰る前に、僕に思い出をくれないか」
「は……?」
不思議そうに顔を上げた新一に、降谷はそっと顔を寄せて。
「――ッ⁉︎」
彼の目が見開かれたのが気配で分かった。吸い込まれるような、あの青い瞳が。
一瞬だけ触れたその唇から、降谷はそっと顔を離す。
「…………なに、今の」
目が真ん丸だった。初めて見た顔。
それは小動物のように可愛くて、最後にそんな顔を見れた自分は、役得だ。
「キス。空の上では、しなかった?」
「は……? いや、そうじゃなくて……」
信じられないと己の唇に新一は指を当てて。
あぁ、もう一度したいな、と思った。
それをしたらもう止められなくなってしまうだろうけど。
「……キ、キスって、これ……、嘘だろ」
「ごめん。でも一年間ずっと我慢してたんだ。せめてこれぐらいの思い出は僕もあっていいだろう」
「そうじゃ、なくて……」
新一は、呆然としているようだった。
珍しい。どんな時でも毅然としていて、寝起き以外、こんなに頭が働いていないのを見るのは初めてじゃないだろうか。
そんなに、嫌だったってことか……。
少しは懐かれていると、好意を寄せられていると思っていたのは降谷の思い上がりだったのか。それは最後に知らなくても良かったことだけど。
「新一く、」
「なぁ、零」
遮るように名を呼んだ新一が、降谷の襟元をぎゅっと掴んだ。
「……もっかい」
「え?」
そうして新一はそっと顔を上げて。
「……もう一回、しろよ」
――何だこの生き物は。
呆然としていたくせに、困っていたくせに、なのにそんなねだるような赤い顔で降谷を見つめて、これ以上自分をどうしたいというのだ。
「……もう一回、していいの?」
「しろよ。……じゃなくて、して。もっと、ちゃんとしたやつ……」
「ちゃんとした」の定義はわからないが、こんな風に愛しい存在からねだられて、抗える人間などいるのだろうか。
降谷は握っていた手と逆の手を、腰に回した。細い身体を引き寄せて、唇を重ねる。
「んッ……」
――もう構うものか、と思った。
小さな口を抉じ開けて、舌を入れる。驚いたようにピクンと震えた彼に構わず、それを絡め取って、唾液を吸って。
「うっ……、ぅ!」
性急なそれに怯えたように新一が腰を引こうとするのを、強く抱いた。強く吸った。
――もう、いいじゃないか。
我慢が出来ない。衝動に突き動かされる。
「ふぅ……っ!」
愛しい存在を、この腕に抱いて、その体温を感じて、なにが悪い。
たとえ刹那だろうと、新一も、自分と同じ熱さで返してくれるというのなら。
これが、最初で最後だというのなら。
「……はっ、ちょ、零! タンマ!」
新一が腕を突っぱねた。息が上がっている。
「ちゃんとしてって言ったのは、君だ」
「そうじゃなくて、んッ、待っ……!」
この一秒が惜しい。たった数センチの距離が、苦しい。
例え、数秒後には新一がいなくなるのだとしても。
これが最後の抱擁でしかないとしても。
だったら、せめて満足するまで、降谷が諦め切れるまで――。
「――ッ、ま、待てって! このバーロォッ!」
どんっ、と胸を押された。
新一が渾身の力を振り絞ったのだ。それぐらいで倒れるような体幹ではないが、降谷は仕方なくと身体を離す。
まだ全然足りないけれど、「はっ、はっ……」と息を荒げた彼は、もう限界らしい。
なのにそんな新一から発せられたのは、意外というより、理解の出来ない言葉で。
「……も、いいから。もう俺、帰れなくなったから……っ」
「――は?」
彼は夜目にも分かるくらいに顔を真っ赤に染め上げて、降谷を睨め付けていた。
「……地上の人間と、キスっつーか、せ、接吻したら、もう、天界には帰れねぇんだよ!」
「…………」
何だそれは。
そんな、白雪姫もびっくりの条件もそうだが、それ以上に降谷を驚かせたのは、どう見ても新一がそれに絶望するどころか、――望んでいたかのようだから。
「だから、もういい……。も、今はこれ以上、無理……」
今はとか何だそれ。可愛いにも程があるだろう。今すぐこの場で押し倒してやろうか。
――と、頭はぐるぐるしていたが、そんな場合ではないだろう。
「……もう、帰らないって?」
低い声が出た。自分でもどこから出たのか分からないような声。
「え……? うん」
「……もう、七夕の夜になっても、君は二度と空に戻らない?」
「……あぁ。まぁ、戻らないっつーか、戻れないんだけど……」
「それが分かっていて、僕にキスをねだったのか?」
「ねだったって……!」
信じられなかった。
だって、自分の記憶が正しければ、最初に降谷がキスをした後に、新一は自分からもう一度と言ったわけで。
「う、まぁ、そう、だけど……。なんか、悪いのかよ……」
新一の声も、いつもと違っていた。
少し不安で、少し、怯えたような声。
「つか、別に俺は、今日も帰るつもりなかったし……。なのに、あんたが帰す気満々みてぇだからどうしようと思ってた時に、キ、キスとか、するから……」
卑怯な手を使ってごめん、と謝る声は、消え入りそうで。
理解が追いつかない。何の夢だ。
膨らみすぎた感情が、脳の働きを阻害しているかのように、もう何も考えられない。
「卑怯だとか、そういうことじゃなくて……。あぁ、もう」
降谷は再度新一の身体を抱き直した。
どこにも行かないというそれを、だけど繋ぎ止めるように。
「――新一」
「な、んだよ……」
お伽話の存在が、降谷の元に舞い降りた。
そしてお伽話の魔法使いのようにキスひとつで、降谷の願いを叶えてくれるという。
「……もう、君はどこにも行けない。それはつまり、全部僕のものになったっていうこと?」
腕の中の身体が身動ぎする。最後の抵抗を、降谷はその力で押さえつける。
「う……。でも、あんたはいいのかよ。俺、あんたと同じ男だし、そもそも人間でもねぇし、多分本当はあんたよりずっと年上で、」
「どうでもいいよ、そんなこと」
そう、そんなの些細なことだろう。
この存在をこの腕に抱ける僥倖に比べたら。
「どうでもって、でも……」
「どこにも行くな。ここにいてくれ。君が、――好きだから」
この言葉を紡げる、幸福に比べたら。
沈黙が降りる。
二人きりの夜空の下、さぁっと、くすぐるような風が吹く。
多分、強すぎるくらいの力だったと思うけど、それでも新一は、そろそろと、降谷の背に腕を回してくれた。
「……うん」
ぎゅっと、安堵したように、擦り寄るように顔を押し付けられて。
「じゃあ、まぁ、改めてよろしくな、……零」
――七夕には願い事が叶う。
ふと、そんなことを、降谷は思い出した。
笹に書く必要はなかったらしい。だってきっと、降谷の願いなんて星は知っていたのだ。
そっと微笑みあって、唇を交わす。
暖かく、同じ温度になったそれを、重ねる。
二人の上で、眩いばかりに瞬く星々に、見守られながら。
おまけ
「――そういえば、僕より年上だって言ってたけど、本当は君何歳なんだ?」
家に帰る車の中で、降谷はふと疑問に思って新一に尋ねた。
「え? 幾つだろ……。数えてねぇけど、二百ぐらい?」
「へぇ……」
「……ンだよ。今更そんなジジィは嫌だっつっても、無理だからな」
降谷はふっと笑う。
怒ったように、だけど不安を滲ませてこちらを睨め付けてくるその顔は、どう見ても年上のそれではないけれど、愛しいものであることには変わりない。
「違うよ。だったら、君はいつまでも若いのに、僕だけ歳を取るのかって思っただけだ」
降谷も年齢の割には若く見えると言われることが多いけれど、それはあくまで人間の範囲内だ。
文字通り人間離れしたこの若く美しい存在と、いつまでも並ぶことは出来ないと思うのは、少し、いやかなり悔しいのだけれど、そんなことも超越して彼を好きになったのだからこれはもう仕方がないのだろう。
だが、助手席の新一が、窺うように言った。
「……俺も、年取らないわけじゃねぇけど」
「そうなんだ?」
「キス、すると空に帰れなくなるのは、た、体液が交わると、人間に近くなるんだよ……」
体液。つまり、唾液のことか。
あぁ、それであの時「もっとちゃんと」なんて言ったのか。
だが何故、今更それほど恥ずかしそうにしているのだろう。
「……体液が交わると人間に近くなるってことは、もっと交われば、もっと人間に近くなるってこと?」
「そ、そう……」
ならば新一はキスを交わす度に、人間の身体に近づくということか。そうなればスピードは違えど降谷と同じように見た目も歳を重ねていくのかもしれない。
だけどそれは、朗報と言っていいのだろうか。
我慢できる自信はないけれど、キスをする時は今後は新一にもちゃんと確認を取った方が……。
「……ちゃんと、人間になる方法も、あるんだけど」
「え?」
「……けど、当分無理だから!」
「君が嫌なことを無理強いするつもりもないけど……」
当分、ということは、完全に人間になるのも嫌ではないということだろうか。
まあ、己の存在そのものが別のものに変わろうというのだ。覚悟も準備も必要だろうし、それを強いるつもりも、焦らすつもりもない。
そんなことより、今の降谷には、新一がまた隣にいてくれるという喜びだけで充分なのだ。
――だからその時の降谷は、知る由もなかった。
新一の言う「方法」が、キスで魔法が解けるお姫様や野獣のように可愛いものではなく、欲と情に塗れた人間特有の交わり方のそれであるなんてことも、数ヶ月後には、完全に人間と同じ身体になった彼に、それを明かされて絶句するのだということも。
――現実は、お伽話なんかより幸せだと降谷が知るのは、まだ少し、先の話だ。