「ペトリコールの誘惑」ノベルティSS その日の夕方も、雨が降った。
夏の天気の象徴でもあるような夕立だ。ザザァ、と土砂降りかのような強い雨が一気に空から降り注いだ。
「──大丈夫? 新一」
降谷は助手席の恋人に声を掛ける。二人で車に駆け込んだばかりで、少し息が上がっていた。
「あー、うん、平気。けど、こんな急に降られるなんてな」
新一が雫の滴った前髪を指で摘むと、ポツ…、と小さな水滴が髪から落ちる。
二人の休みが久しぶりに重なって、デートがてらドライブに行こうとなったのが昼過ぎ。またしても新一の思い付きで、海に来た。夏も終わりかけの浜辺はさほど人がいなくて、靴を脱いで足だけを水に浸して遊んでいたりしたのだけど。
一変した天気に、頭から海水を被ったのと同じくらいびしょ濡れになってしまったのだ。
夏の天気は変わりやすい。車のフロントウィンドウから見える景色は、爽やかな青色から曇りがかったグレーに染まり、どこか冬の海を彷彿とさせる色だ。
新一が、「やっぱ思いつきで来るんじゃなかったな」とぼやいた。
「ごめんな? 大事な車のシート濡らしちまって」
「それはいいんだけど、せめてタオルぐらい積んでおくべきだったよ」
濡れて新一が体調を崩さないといいんだけど、と降谷も湿った前髪を掻き上げる。
と、助手席から視線を感じた。
「どうかした?」
「……いや、ちょっと不謹慎だけどさ。オレ、零さんが雨に降られてるの見ると、ちょっとドキドキする」
「雨に?」
雨にあまりいい思い出のない降谷としては、その言葉に心持ち身構えてしまったのだが。
「何つーか……、色っぽい」
どこか熱のこもった瞳と声で囁かれ、降谷は軽く瞠目した後、ふっと笑った。
「……それは、僕の台詞だけど」
新一の前髪に手を伸ばす。濡れて落ちたそれを、掻き上げてやる。
降谷の指に促されるように新一も頬を緩めた。
「水も滴るいい男ってやつ?」
「君はいつだってカッコいいけど、濡れてるのは格別」
「はは、じゃあ、お互い濡れた甲斐があったな」
こんな場所で、そんな風に笑わないで欲しい。お互い濡れて、早く移動して身体を拭いた方がいいと分かっているのに、触れたくなってしまう。
「……天気は保たなかったけど、少しは気分転換になった?」
「え?」
新一がぱち、と瞼を瞬かせた。
「最近忙しいようだったし、どこか考え事してる時間も多かったから」
新一はつい数週間前に念願の事務所を開設した。まだ大々的に宣伝はしていないらしいが、元々のネームバリューもあって依頼は順調のようだ。
だからか、最近は家でも真剣に何やら考え込んでいることが多く、それもあって今日は突然海に行きたいなんて言い出したのかと思ったのだが。
「あー……」
新一が少し気まずそうな顔をする。彼はどこか降谷に探偵業のことを話すのを躊躇っている節があるのだが、恐らく二人が別れた時のことが原因だから降谷も無理には訊けなかったのだ。
また何か難事件でも抱えているのだろうが、今日のデートで少しでも新一の気が紛れてくれたらいい。
「……心配させた?」
「まぁ。でもちゃんと食べて睡眠も摂ってるうちは新一なら大丈夫だと知ってるから」
降谷と新一は、もう一方的に心配したり庇護するような関係ではない。どんなに危なっかしくても新一がやりたいことをただ見守ることも必要だと分かっている。
なのに、新一は一度唇をきゅっと引き結ぶと、「零さん」と心持ち硬い声で名を呼んだ。
「本当は、もっとちゃんとした格好でと思ったんだけど、もういっか」
「……何が?」
その顔が余りに真剣で、降谷も自然と強張る。雨の海に自分たちはあまりいい思い出がないから仕方がない。
新一は膝の上に置いていたカバンから何かを取り出した。「濡れてなくて良かった」と確認してから、降谷の前に小さな箱を差し出す。
「……あんたが、ここで、一生を懸けてもう一度好きにさせてみせるって誓ってくれたから、オレもここで言いたくて」
箱は紺色のビロードの箱だ。新一の手のひらに収まるそれは、まるで、小さな宝物が入っているかのような。
「……これが、それに対する、オレの答え」
動けない降谷の前で、新一はそれをそっと開けてみせた。
並んだ二つのリングが、金色の輝きを放っていた。
「オレは、一生を懸けて、……例えまた忘れたって、あんたを好きになるよ」
だから、指輪はその証だと。
すごく真摯に、だけど頬は少し紅潮していて、不安も緊張も、その鼓動すらも伝わってくるかのような、初めての顔。
降谷は新一の男前な面も可愛い面も全部知ったと思っていたけど、全然足りなかったようだ。
こんなにも愛おしく、こんなにも胸を締め付ける目の前の彼を讃える言葉を、降谷は知らない。
「……ごめんな? ずっとどうやって渡そうか考えてたら、余計な心配掛けちまったみたいで」
言葉を紡げない降谷にどう思ったのか新一がそんなことを謝ったので、降谷はようやく笑った。
年上の立つ瀬がないとか、これ以上どう返そうかとか、色々あるけど、今は。
「……嵌めてくれる?」
「うん」
新一がそっと大きい方のリングを指に嵌めてくれ、降谷もお返しに彼の手を取った。細い指にそれを嵌めると、キラ、と小さく光が反射する。
手を重ねたまま、どちらからともなく唇を寄せた。そっと触れて離すと、甘やかな吐息が漏れる。
「……今度、あの式場で結婚式でも挙げようか」
「バーロォ」
新一は冗談だと思ったのだろうが、降谷は些か本気なのに。
……あぁ、でも、そんな形はどうでもいいのかもしれない。大切なのは、記憶に刻み込むのは、今、この瞬間新一が誓ってくれたということだけでいい。
「……ここで、充分だろ」
新一も同じ想いだと伝えてくれたので、再び唇を寄せる。
今度は先ほどより長く、深く。
誰にも憚られることなく、二人の誓いの分だけ。
いつの間にかほとんど雨は止んでいた。
分厚い雲と通り雨が過ぎ去った海岸は、雨粒がまるで降り注いだ光のように、キラキラ眩かった。