Please give me sweet candy「――げっ」
思わず声を発した。だけど、貼り付けた絵みが崩れなかったのは、自分でもさすがだと思う。
「……どうかしました?」
目の前の着飾った女性が、首を傾げて見上げてくる。それに新一は「いえ、失礼しました」と眼鏡の奥でさらりと笑顔を上乗せした。
撫で付けた髪と着慣れないぐらい仕立ての良いスーツは、それを引き立てるのに一役買ってくれたようだ。女性がぽっと頬を赤らめる。
――内心では、冷や汗がたらりと背中を伝ったけれど。
あっぶね……。何でよりによってこんな場所で、あの人に会うんだよ……!
ホテルのバンケットルーム。シャンデリアが煌びやかなそこでは、着飾った、というより気合の入った格好の男女がそこかしこで談笑している。その目はまるで、獲物を狙うそれに近いと新一は思う。
――ここは、婚活パーティの会場だ。
ハロウィンの日だからかテーブルはオレンジとグリーンを中心に可愛らしくセッティングされているのだが、誰しもそんな飾りや料理を楽しんでいる様子はない。各テーブルには番号があり、時間が来たら指定されたテーブルへと入れ替わるシステムなので、皆料理なんかより会話の相手を探すのに夢中だ。
まだ二十代前半で、こんな場所を訪れるには些か年齢が若すぎるものの、変装用の眼鏡と慣れない髪型が功を奏しているのか、積極的に話しかけてくる女性らに相槌を打ちながらも、新一がターゲットの様子を見ようと、視線を巡らせた時だった。
新一のテーブルから一番端、そこに、見覚えのある金髪の後ろ姿を発見してしまったのだ。顔は見えないがその髪色も、背格好も、覚えがあるどころか知りすぎているものなので、間違えようがない。
あの、女性比率が低いパーティにも関わらず複数の女性らに囲まれている男は。
――降谷だ。
元潜入捜査官。そしていつまで経っても現場を退きたがらない公安警察の現エースで、新一の探偵業からすると現場に出て来られるとなかなか厄介な男。
そして、現在進行形の、恋人だ。
嘘だろ……。よりにもよって、ここでかよ。
ざっと見渡す限り、他に捜査官らしき人間はいない。ならば男も新一と同じく情報収集目的なのだと思うが、この場は見つかりたくない。
――だって自分たちは今、絶賛喧嘩中なのだ。
ひと月ぶりに見た姿が婚活パーティの会場だとか、どんな偶然だこれは。もはや呪われているのだろうか。こんなところが見つかれば、喧嘩が長引くことが確定ではないか。
これはさっさとターゲットの情報を得て、途中退場すべきだ。幸いにも新一の目的の女性は、次のテーブルである。
「あのぉ、藤峰さん?」
「あ、すみません、何でしたっけ」
「いえ、……他のテーブルに、気になる方でもいました?」
降谷を見たのは一瞬だけだった筈だが、何で女性はこうも感が鋭いのだろう。新一が「はは」と誤魔化すように笑った時に、ちょうどチリン、と鐘の音が鳴った。テーブル交代の合図である。
「あ、あの、藤峰さん!」
新一の前の女性が包み紙に包まれた小さなキャンディを取り出した。今日のパーティでは、ハロウィン仕様だということで、参加者は気に入った相手に自分の番号の書かれたキャンディを渡すことになっている。「トリックオアトリート」に因んだそれは、その場で受け取ってもらい相手のキャンディを返されればカップル成立だそうだ。
本日何個目かのそれに、新一は本日何度目かの申し訳なさそうな微笑を浮かべた。
「すみません」
「あ……、ですよね」
「甘いもの得意じゃなくて。良ければ、僕より他の素敵な方に」
とにかくこの場を一刻も早く離れなければ。
あの男が甘いお菓子をどんな言葉で断っているかだなんて、気にしている場合ではないのだ。
♢
目的の情報は入手した。
降谷が新一に気づいているのかどうかは分からないが、捕まる前にさっさとここから脱出せねば。
――って、思ってたんだけどなぁ……。
「さて、言い訳を聞こうか? 名探偵君」
目の前の男がにこりと笑う。男は変装の必要などないだろうに片側だけ髪を撫で付けており、動き辛いからと滅多に着ないようなスリーピースを着ている。まあ変装というよりこれは、婚活パーティに潜入する為か。
会場のあったフロアとは別のフロアのレストルーム。わざわざここに移動して情報を整理していたのに、いつ尾けられたのだろう。会場を抜け出す時は、確かに降谷は女性と談笑していたのに。
大理石を模した洗面台と長身の男に挟まれて、新一も負けじと微笑み返した。
「……言い訳って、何がです? 俺は俺の仕事をしてただけですけど」
「へぇ、婚活パーティーに出て女性から飴を貰うのが君の仕事かい?」
「それはこっちの台詞。お巡りさんが純情な女性ら誑かしてんじゃねぇよ」
すうっと降谷の纏う空気が変わった気がする。
眉を寄せて、いつもは下がり気味のその瞳が細められると、柔和な男の顔は、随分と違う印象を受ける。
そんな顔見せてたら、あんなに女性らに食いつかれることもなかっただろうに。
でも生憎と、新一は降谷の素の顔なんかぐらいで引いてやるような性格の持ち主ではない。
「……新一」
「ンだよ。言っとくけど、俺、まだ怒ってるし」
じっと睨め付けると、降谷はふい、と視線を外した。
「……分かってる」
そう、降谷と喧嘩をするなどいつものことだけど、今回は珍しく彼が全面的に悪いのだ。
――少し前に、降谷が怪我をした。別にそれ自体は悪いことでも咎めることでもないのに、降谷はそれを新一に隠していた。入院し手術を受けるほどの怪我だったと言うのに、任務で忙しいとの嘘の連絡までして。
「俺には嘘つくなって、散々言ったよな」
「……分かってるよ」
「俺が怪我すると、すっげぇ怒るくせに」
「それも分かってる」
だったら何故、と言いたい。それから、頑なにそれを認めて謝ろうとしないことも。
こんな場所で言い争うつもりなどなかったのに、久々に顔を見たら文句が溢れてしまったのだろうか。
「零さ、」
新一が更に言い募ろうとした時だった。
「わっ?」
突然、腕を引かれて個室に連れ込まれた。ガチャ、と鍵が閉まったと同時に、扉に身体を押し付けられて。
「なにっ……」
「しぃ」
まるで子供に言い聞かせるようなそれを、耳元で低く囁かれる。
新一が息を潜めていると、誰かが入ってくる気配があって、おそらくそれを察知したのだろう。
足音。人の気配。ジャア、と水音。
別に見られても困るものではないのに、何故わざわざ隠れたのだろう。しかもどさくさに紛れて、抱き締められている。個室なら誰にも見られないというのに、新一を覆い隠すようにすっぽりと。
――本当、この人狡いな。
新一が悪い時にはいくらでも下手に出たり誘導したりで謝りやすい空気を作って年上ぶってくるくせに、自分が謝ることは出来ないのだ。特に、こういうことに関しては。
鼓動が近かった。久しぶりの降谷の体温。見慣れないスーツを着た男は別人のようだったけれど、不意に、降谷だと認識する。
……ちゃんと、生きてる。
どこを怪我したのかさえ、聞かされていないけど、ちゃんと生きて、立っている。新一のそばにいる。
「…………はぁ」
男の腕の中で小さく溜息を零したのと、用を済ました誰かが出て行ったのは、ほぼ同時だった。
「……もういーよ。零さん」
強情な恋人に、たまには自分が折れてやるか、と力を抜いた時だった。
「――嫌だ」
「は?」
「嫌だ。俺が悪かった」
「……おい」
そんな簡単に認めるのならば、何を頑なになっていたのだ。
「ちょ、力強ぇって」
ぎゅうぎゅうと、まるで逃がさないとでも言うかのように腕の力を強くされて。
「――ごめん」
呻くような囁きに、新一は降谷が何かを誤解しているのを悟ったけれど、それを説明するより早く、男が言い募る。
「俺が悪いと分かってる。でもどうしても嫌なんだ。病院で、……病室のベッドで、君と会うのが」
「……何で?」
「あの時、泣いてた君を想い出すから」
――あぁ、そういうことか。
それはまだ新一が降谷とこの関係になる前のことだ。
元の身体に戻ってしばらく経った頃、新一はある事件を降谷と追った。その時、犯人を追い詰めた雑居ビルの屋上で、新一は飛び降りようとした犯人に手を伸ばしそれを阻止したはいいものの、代わりに己の身が空に投げ出された。それを庇って一緒に落下し、大怪我をしたのは、降谷の方だった。
ふざけんなって、病室で散々怒鳴り散らしたもんなぁ……。
思えばあれがきっかけで、現在こういう関係にあるのだけれど、今気にすべきはそこじゃないのだろう。
「……泣いてた?」
「泣いてた。すごい剣幕で怒りながら、「もう守られる必要はねぇ」って泣き腫らしてた」
「……人の情けないところを掘り返さないで欲しいんだけど」
あの時の新一は、助けてもらった礼より何より、怖かったのだ。降谷が、もうコナンの小さな身体じゃない自分を、その身を投げ出すようにして守ろうとしたから。
「だから、……君に幻滅されたくなくて」
「……バーロォ」
あぁもう、どうしたらいいのだ、この男は。
新一は動きにくいながらも何とか手を出して、降谷の頭を抱えた。
「零さん、……零」
新一の恋人は、自分は誰より無茶をするくせに人がそれをすると怒る滅茶苦茶な男なのに、そんなことを怖がるような、臆病な男でもある。
「アンタ、俺に内緒で入院したこと他にもあるだろ」
「ない。そんなヘマは滅多にしない」
そのヘマは、新一にバレたことを指している気もするが、まぁいいだろう。
「……あの時は、悪かったよ。俺も元の姿に戻ったばかりで、なのにアンタに助けられて情けなかったのもあって」
「君が情けなかったことなんてないだろ」
「聞けよ。……でも、あの時の零さん、本当はカッコよかったぜ。傷だらけでも包帯だらけでも、……俺が惚れるくらい」
ガバッと降谷が顔を上げようとする。だが新一がそれを許さないとばかりに、その頭を引き寄せる。
「……だから、怪我したらお見舞いぐらい行かせろよ。もうアンタのどんな姿見ても泣かねぇし」
降谷はしばらく無言だった。やがて、再び新一の腰を強く抱き直したと思うと。
「――俺の為に、泣いてくれ。そうしたら、死んでも死にきれないから」
「……確かに。アンタならあの世からでも戻って来そう」
新一は笑った。その振動が伝わって、降谷も笑ったのが分かった。
笑い合うのは、二人の仲直りの合図でもある。それから、唇を重ねるだけのキス。こんな場所だからそれ以上は流石に出来なくて、泣き笑いのような表情を浮かべた男に、再度笑ってやって。
気が抜けたら、空腹を感じてきた。パーティ中は食事をする余裕はなかったし、情報を聞き出すことに集中していた。
ちなみにその情報も、本当は降谷を捕まえる為に最近公安が追っていたものと繋がっているのだけれど、男の方も情報は入手出来たようだし、もういいだろう。
まさか、指揮官自ら来るとは思わかったし……。
俺が潜入するってバレたのか? この人ならありうるけど……。
まあそれも、今回はきっとお互い様だから、新たな喧嘩の火種とはならない筈だ。
「……な、もうアンタの仕事も終わったなら帰ろうぜ。腹減ったし」
「あぁ」
狭い個室から出て、鏡の前に出る。髪が少し乱れた降谷はだけどいつもの男の顔で、新一はやっぱりそっちが好きだな、と思う。
「新一」
「うん?」と尋ねると、降谷は己のポケットから出したキャンディの包みを開き、それを新一の口に放り込んだ。
黄色いそれはレモン味。ここまだトイレなんだけどな、との文句は出さずに、空腹だった新一は口の中でそれを転がす。
「……受け取るとは言ってねぇけど」
「もう君の分も貰ったし」
いつの間に抜き取ったのか、降谷の手には、確かに新一の番号の書かれたキャンディがあって。
「カップル成立だな」
すっかりといつもの調子に戻った男に、新一は笑ってやった。
「バーロォ。奪い取ったもんで成り立つかよ」
そうして男に唇を寄せる。
少し溶けたキャンディを口の中に返してやると、お返しのように深く口づけられた。
悪戯の代わりのキャンディは、レモンなのに、甘い味だった。