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    文食満。要素激低。
    とある忍務で、帰りの遅い留三郎を心配して駆けつける文次郎のお話
    そして痛い表現頻発しています。ご注意ください。

    世は無情なりと、幼子は泣く 同期の一人が命を落としたのは、六年生に進級して最初の忍務だ。
     進級の初めも初めだったから、今の一年生などはアレのことを知らないだろう。

     ――我らが忍術学園において、正式に忍務が与えられるのは上級生になってからである。
     四年生は主に情報収集及びかく乱。五年生からは潜入、潜伏、奪取に破壊工作。六年生ともなれば殆ど本職の忍びと変わりない。
     とはいえ、内容は学園の中で精査され、時には教師が影ながら補佐してくれていることも多い。経験を積む必要はあるが、学園に在籍している内はまだまだ大切な預かりモノの内である。
     このご時世、なんとも恵まれた話だ。

     『優しい、場所だよなぁ』

     卒業すれば、望まれるのは道具としての生き方だ。
     忍びの教育機関がこの日ノ本国に、いくつ存在しているかは知らない。だがそれらの中には、もっと若いうち、幼いうちから徹底して暗殺技術や権謀術数のすべを叩き込む所もあるはずだ。
     
     『みんなに会えて、先生方に会えて。こんなに、甘やかせてもらえて』

     大半の男子は十五を迎えれば、戦場に出て敵を槍で突き刺し、斬ったり斬られたり。昨今では飯のため、あるいは人数合わせのために、それ以下であっても戦を知っている。

     『僕は、学園が大好きだよ』

     ああ、そうだな。
     その通りだ。数多の同年代の現実に背を向けて、この穏やかな時間に浸れることのなんと幸運なことか。
     守られることが許される場所だなんて、それは、なんて贅沢な。

     『お前もそう思うだろう、文次郎』

     (――綺麗に、お前は笑ったな)
     (――裏表も無く、笑って見せたな)

     『さあ。残り一年頑張って、みんなで卒業だ』

     けれども。
     そんな学園の忍務でも、犠牲が出るときはある。
     十五歳。戦場で命のやりとりをする年齢。
     かの青年は、その歳を迎えてすぐに死んだ。本来、ただの潜入工作でしかなかったはずの忍務で。
     後日の教師が語るところによれば…。

     「追加の情報に、欲をかいたのがいけなかったな」

     かの青年は優しく、正義感が強かった。それが、同期達共通の彼への認識だ。
     だから、近くの村落が戦に巻き込まれそうだと知って、心を痛めたのだろうと。教師の言葉にみんなが納得した。
     だがいくら正道であっても、忍務を越える行動は正しくはないのだ。

     ――潰れた目。
     ――削げた耳と鼻。
     ――歯抜けになった指
     ――潰れた脚。

     待ち合わせの場所に現れぬと探す己らが、許容時間ギリギリに見つけた同期の姿はどだい生前とは程遠かった。
     森の中、少し開けた場所、その中心の木の幹に、杭で穿たれこれ見よがしにさらされた骸。その凄惨さは、いくら語るも言葉が足らず。
     
     「口が縫われている…。自白のための拷問じゃないね、これ」

     冷静な観察は、は組の保険委員。――拷問のための拷問だよ、と。普段通りの穏やかな口調で彼は言った。

     「見せしめも、…あるのだろう」
     「酷いなぁ」

     ろ組の二人が静かに瞑目。
     六年生ともなれば、同期の数は入学の頃からだいぶんに減った。もう誰もかれもが顔見知りで、それなりに関わりができている。
     無防備に骸に近づくのは、アホのは組の代名詞。その肩を掴んで止める。
     
     「んだよ、文次郎。早く、下ろしてやろうぜ? このままじゃあまりに可哀そうだ」
     「――いや」
     「?」
     「こいつはここに置いていく。口を割らせる気がなかったのなら、敵は俺たちをこの場で一網打尽にするつもりやもしれん」
     「ふむ。死体に罠がかけられているやも、ということか」

     己の同室が、「ありえるな」と頷いた。

     「ふざけるなよっ‼」

     (――ああ、やはり。お前は怒るか)
     青みがかった黒髪。鋭く吊り上がった三白眼。目元を真っ赤に染めあげて。その激情は、忍びにあるまじきものである。

     「死体にトラップなど、よくある手口だ。こうして見つけられる場所に晒されている以上、十分怪しい」
     「だったら罠がないか調べればいいだろう!」
     「生憎と、時間もない」

     集合するまでの時間。この骸を見つけるまでの時間。そしてここでのやりとり。すでに学園から指定された許容時間は過ぎている。忍務とはいえ、これは同時に課題でもある。今なら多少の減点で済むが、下手に時間をかければ落第だ。

     「このまま、ここで獣に死体を食わせておけというのか!」

     森の中には捕食者がたくさんいる。放っておけば、獣や虫がこの骸をバラバラに隠してくれることだろう。
     他の同期たちは自分たちのやりとりを静観している。無論、だれも仲間の骸の無残な末など望んではいまい。
     ――しかし、誰かが決断せねばならぬのだ。

     「そうだ」
     「―――っ!」

     肯定すれば拳が振りかぶられるけれども、殴られてはやらない。
     しっかり受け流して、逆に顎に一発くらわせてやる。この事態に動揺しているのがバレバレだ。受身も取れずに、その体は吹っ飛んだ。

     「近くに敵が潜伏している可能性もある。
     そうでなくとも、罠を調べて、あったとして解除して、どれだけ時間がかかる?
     これ以上、時間は割けない」
     「……っ」
     「すでに俺たちの行った工作は、向こうにバレていると思った方がいい。ならば俺たちは一秒でも早くこの場を去るべきだ」
     「なんで」

     彼の同室が、彼の体を支えた。「落ち着いて」という言葉が、彼の体を素通りしていく。

     「なんで、そんなっ! コイツはい組だろうっ、お前の同級だ! これまでずっと同じ教室で学んだ仲じゃねぇのかよ‼」

     答える必要はない。
     さっさと踵を返して、真っ先に学園に向けて駆ける。すぐに幾人か続く気配を背後に感じた。隣に、己の同室が並ぶ。

     「文次郎」
     「なんだ」
     「辛い、な?」
     「くだらん」

     ようやく、背後の気配がすべて揃う。ちゃんと全員がついてきている。
     あとに残されるのは、同期かつ同級であった青年の骸だけだ。
     人好きする男だった。穏やかな男だった。自らは前に立とうとせず周りを支える、そんな男だった。学園が大好きだと言った、あの男。
     潰れた眼では、もう視線の一つですら、自分たちを追いかけることはかなうまい。

     背後で、誰かのすすり泣きが聞こえた。

     
     --------------------------------


     森の中を移動するとき、存在を完全に消すのは難しい。
     密集する梢、不均等に乱立する木立、群生する野草。獣の一匹、虫の一羽にでも接触すれば、それだけで人の気配は濃くその場に残る。

     そうでなくとも、だ。
     忍術学園六年い組、潮江文次郎は己の不出来さに舌を打った。
     雨上がりの森は走りにくく、滑りやすい。さっきから無駄に着地点を失敗して、余計な音をたててしまっている。
     別に、なにかに追われているわけでもない。
     なんなら忍務の最中でもない。少なくとも、文次郎の忍務ではなかった。

     だが生真面目な彼の性格が、忍者たらんとする行動を求め、そしてそれができていないことに苛立つ。――焦っている。らしくもない。
     
     彼が目指す先。目的の男は予定通りならば、とうに学園に帰っていなければおかしい。
     いや、わかっている。
     今回彼に与えられた任務は、それ自体は難しいものではないが、かの男であるからこそ辛いものであることを。
     けれどもその任務が達成できなければ、あの男はこの先、忍びとして生き残ることは難しい。今回の忍務は、そういう目的のものなのだから。

     「――留三郎っ‼」

     ようやく開けた道にでる。それと知らなければ辿り着くことも不可能な森の奥も奥。申し訳程度に置かれた道祖神は、この道は常ならぬものだ…、とこちら威嚇しているようだった。
     その、道祖神の前。蹲るのは海松色の装束、青みがかった黒髪。血の匂いと装束を僅かに染める赤褐色の血痕。

     食満留三郎、同じ学年の男だ。
     呼びかけに応えはない。うずくまったまま微動だにしない。腕の中に何かを抱え込んでいるようだ。小さなつむじが見えた。子供、…幼子か。

     一拍、二拍、己が心拍で数を数えてから、文次郎はもう一度声をかけた。――「留三郎」

     「帰還予定を過ぎている。――呼びに来た、帰るぞ」

     死んでいる、などとは毛ほども考えぬ。容赦なくその頭をはたいて怒鳴りつけた。

     「早くしろ、落第したいか!」

     死人のようだったその様が、ようやく息をふきかえす。ゆたりと頭をもたげ、黒々とした瞳が文次郎を静かに見据えた。

     「お前か」
     「おう、俺だ」
     「意外だ。伊作が来ると思った」
     「アレが来れば、お前は縋らぬと言えるか?」

     留三郎は腕の中のつむじを撫でた。子供の方は未だみじろぎもせず。こちらは正しく骸であるらしい。

     「…もう、遅いだろう」
     「だとしても、だ」
     「そうか、そうかもな。
    いや、気を遣わせた。お前が、そんな風に俺を甘やかすとは思わなかった」
     「ふん」
     
     縋れる伊作ではなく、縋ることのできない文次郎が来た。甘やかしていないけれども、同時に甘やかしている。
     留三郎の言葉は明瞭だ。目は凪いでいる。
     今回の忍務、その心に傷を負うことぐらいは懸念したが、彼の様は、いつもの通りのそれだ。

     「ついでに、後ろ見てきてくんねぇ?」
     「後ろ?」
     「そう。…追手」

     なるほど、留三郎の装束に散った血痕の正体はそれか。
     自分で確かめればいいものを、と言葉は飲み込んで。文次郎はその場に留三郎を残し道祖神の背後に回る。その先は再度森が広がっていて、けれども数歩も進まず濃い血の匂いを嗅いだ。

     側頭部を潰された骸が、木の根の上に転がっている。
     残された顔を観察するに、同年代だろうか。忍び装束に身を包んでいた。
     
     しばし観察したのち、留三郎の元に戻ると「ちゃんと死んでいたか?」などと問いかけられた。

     「見事だぞ。あれで生きていたら怖い」
     「そうか。そりゃあ良かった。なあ、戻って来て早々悪いがもう一度、この子をあいつの腕に抱かせてやってきてくれ。
     可愛がっていたんだ。――墓を作るわけにもいかないから」

     やはりなにがしか、今回の忍務で思うところができたのだろう。弱っている、とまでは思わないが、らしくはない。
     留三郎の腕から幼子の遺体を受け取って、もう一度骸の元に戻って抱かせてやる。手を合わせ、黙とう。
     戻れば留三郎は、道祖神の前にうずくまったままだった。

     「お前、今回の俺の忍務知っているか?」
     「潜入調査だろう? 卒業試験の、第一次審査だな」

     留三郎は黙って頷いた。
     卒業試験、第一次審査。二段階からなる卒業試験は、第一段階目に個人での忍務が与えられる。六年生進級と同時に言い渡されるその忍務は、一年間のいつに始め、いつに終えてもいい。ただし、時間をかければいいというものではない。
     最終審査の六年生全員による忍務に間に合わないと判断されれば、その時点で失格である。
     そして個人の忍務には、その者がもっとも不得手とするものが与えられる。
     留三郎は進級の始めごろから、潜入調査と学園生活の二重生活を続けていた。

     ――とある新興宗教の中に潜入し、その内情を探れ。
     留三郎に与えられた忍務だ。
     ありきたりな内容である。五年生でもできるだろう。ただ件の新興宗教とやらの構成員がほとんど女子供であったというだけ。あるいは、非人、不具、盲(めしい)、孤児。ありとあらゆる、社会的弱者。
     人は、己より弱き者が弱き者のままであれば気にはせぬ。あるいは優しさすらみせる。
     だが弱き者が安寧を得るのであれば、ただそのことだけでも許せぬ者がいる。
     えてして、弱き者を直接虐げる立場の者たちである。

     「俺が抱えていた子、な。母親が、旦那さんから逃げて来たんだって言ってた」
     「へえ」
     「そんな人が、たくさんいたよ」

     新興宗教などと聞けば、胡散臭さが勝るのは仕方がない。
     ただ留三郎が潜入した場所は、社会で虐げられた者たちが、社会から隠れ潜むための避難所として始まった。
     実際、“新興宗教”などというのも、虐げる側が、虐げる側の正当性のためにそう呼び始めたにすぎない。教義はなく、宗主もいないなどと、宗教の態も保てていないのに。
     その正体は、ただの集落であったのだ。

     そんな集団の内情を、ただ見よ、と。見張り、見届けよ、と。
     誰よりも情の深い留三郎に、これほど辛い忍務があろうか。その行きつく先が如何であれ、『ただ見るだけに徹せ』、などと。

     「――隠れ、潜み、誰にも迷惑をかけない生活がそんなに駄目か?」
     「馬鹿なことを聞くな。領国内で主君の許可もなく、土地を使い、集団を作り、自治を始めればそれは反逆とみなされるぞ」
     「そうだなぁ。そうなんだよなぁ」

     誰にでもわかるはずのことに、どうして弱き者たちはこの地に集団を作ってしまったのか。あるいは気づいていたのに、そこに危機感をいだかなかったのだ。
     足りなかったのは教育だ。領主領国の常識を、弱き者たちは弱いがゆえに持ちえなかった。考えが至らなかった。無知であった。無知の罪とはよくいったものである。

     だが彼ら彼女らは、その無知というものすら、理解できなかった。
     そして限りある空間に集団が密集すれば、次第に思考が偏るのもまた道理である。代表者、あるいは代表的意思が存在しなかったのもよくない。

     統率力のない集団など長く保たないのは道理である。 
     ――この世は地獄。せめてあの世ならば。
     弱き者たちは、弱きままに選択をした。無論、彼ら彼女らの弱さに罪はない。ただ、時代の在り方が、そう在れかしと生まれた瞬間から彼ら彼女らに強いたのだ。
     その末の選択が――『集団自決』。

     「子供だけでも、助けたかった」
     「お前ひとりでか?」
     「ああ、俺ひとりででも」

     けれど、留三郎はそれをしなかった。できなかった。忍務によって許されなかったから。
     文次郎は、道の先を見る。森をぶちぬくようにして、まっすぐ伸びる道。この先に隠れ潜むような集落があって、きっと今頃無数の骸が転がっているだろう。
     彼ら彼女らは揃って最悪の選択を選んだのだ。幼子すら、巻き込んで。
     留三郎は、それをずっと見て、報告して。それで彼の忍務は終いだ。

     あるいは誰かを首謀者として犠牲にし、許しを請えば幾人かは助かったやもしれぬ。
     あるいは死を恐れ社会に希望を見出し、逃げたのなら生存者はあったやもしれぬ。
     生きていればはいくらか選択肢があったものを

     確かに始まった時点で終わりの見えた集団であったが、結末を死に定め実行した。そこは自業自得である。
     つねに犠牲を強いられる側だった彼ら彼女らの、明確な罪である。

     「報告書、読んだのか?」
     「ああ。最近学園でのお前の顔が暗いってな。伊作が心配して、みんなで協力して、職員室からお前の報告書をちょろまかした」
     「そうか、帰ったらみんなに、心配させたこと謝っとくかな。――文次郎、お前にも。すまなかった」

     勝手な自治は叛意である。弱き者に去られた被虐者たちも参戦した。あと少しすれば、軍がここにやってくる。集団自決が終わり、全てが終わった集落へ。
     なんら彼らは手を汚すことなく。誰も、なにも、“不必要”な犠牲を出さず。
     留三郎の報告の、結果である。“無駄な”戦闘は避けられたのだ。この騒動の締めは、領主の自治を示すパフォーマンスで終わる。
     ――だが、であるがゆえに先ほどの幼子の墓は作れぬのだ。墓をつくることは、生存者を意味する。間者として集落に潜入していた留三郎は、ことが終われば存在ごとなかったことにならねばならない。

     留三郎は、ようやく起き上がった。装束の腹が吐しゃ物で汚れている。あの幼子のものか。

     「毒か」
     「まだ痙攣していなかったから、助けられるかもって思って。けど、助からなかった。たぶん、母親が親心で分量間違えたんだろう。
     ああ、説教は後にしてくれ。その行動が忍びとして間違っていることは、自覚しているから。
     ――後ろで死んでた忍び、あいつが調合したもんだ。忍び薬だからな、殺し損ねるなんてことはない」
     「お前は飲まなかったんだな」
     「飲んだふりしてこっそり吐いた。――あれは、俺を信頼していたから誤魔化せたよ」

     留三郎は、ちょうど忍びが死んでいた方向を見て、そうして踵を返して文次郎がやって来た方向へと駆けだした。文次郎も、それを追う。

     「アレ、な。抜け忍なんだと。どこぞの城で幼い頃から忍びとして教育されて、気が付いたら何もかも嫌になって抜け出して来たんだと」
     
     アレ、とは死んでいた忍びのことか。
     すでに背後の道は、流れいく森の景色に覆われて見えなくなっている。

     「だから俺はまず、アイツを懐柔することにした。潜入するったって、周りの信頼を勝ち取らないといけない。そのために、一番の障害は忍びであるアイツだ」

     すぐにこちらも忍び、あるいは忍たまだとバレただろう。文次郎の問いに、留三郎は前者だ、と答えた。

     「だから、俺も同じ身の上だよ、と。同じ奴に会えて嬉しい、って。
     アイツ、なんだろな? 幼い頃から忍びとして生きてきたっていう割に、すっげぇ素直ななんだよ。疑うことは知っているけれど、相手の言い分はとりあえず一旦ちゃんと飲み込むみたいな。良くも悪くも一度信じれば、あとは一直線みたいな」

     ああ、ハマったんだな。と文次郎は思った。
     潜入捜査をするうえで、留三郎の最も恐ろしい部分が、相手にハマってしまったのだ、と。

     留三郎の容姿は男伊達だ。柔和さと鋭さを兼ね備えた顔貌はよくモテる。力があり、朗らかな性格。なにもかもが、集落に集まったという弱者たちとは異なる。
     この地を訪れた当初は、大いに警戒されたはずだ。
     そういう意味では、抜け忍という設定はなかなか説得力があった。だが、本質はそこではない。

     ――食満留三郎は、“俗”である。
     当たり前のことで悲しみ、当たり前のことで怒り、当たり前のことで喜ぶ。感性が非常に俗物的だ。ゆえに当たり前を当たり前のように甘受し、それを分け与えることができる男だ。
     それが弱き者たち、社会からはみ出してしまった者たちに、どう見えたか。

     ただ指をくわえてみるだけだった、暖かな日常。憧れの世界。
    そんなものが惜しみなく己に手を差し伸べたならば…、それはあまりに眩しく――愛おしい。
     その瞬間“俗”は甘い“毒”と化す。 
     きっとこの男は、“当たり前”として集落の中に溶け込んでしまっただろう。そうしてときに優しく、ときに厳しく、人々の理想を振りまいて。
     件の忍びが留三郎を信頼していたというのなら、留三郎のそういう甘やかな部分に、うまくはめ込まれてしまったのだ。

     ふと、留三郎は足を止めた。吐しゃ物で汚れた己の装束をつまみ上げてみせる。

     「ああ、ちょっと待ってくれ文次郎。水の音だ、上着を洗いたい」
     「少し外れるが、あっちに川があったな。早くしろよ」
     「すまん、恩に着る」
     「バカタレ。目立つ匂いをつけたままでいられる方が困る」

     小さな川に案内すれば、留三郎はさっさと上着を脱いだ。むき出しの背や腕に大小の傷跡。鍛錬や忍務でついたもの。無論、文次郎がつけたものもある。
     川の水に上着を浸して、もみ込む。吐しゃ物の色がどんどん薄れていった。

     「裏切者、だとさ」

     それは、かの忍びの言葉か。

     「あの幼子を助けようとした時点で、バレたんだろうな。
    俺が間者だったから。一緒に死んでやれなかったから」
     「くだらん」
     「そうだな。生憎と一緒に死んではやれないんだよ俺は」

     だから追ってきたのを、一切の容赦なく。
     留三郎のことだ。あの忍びの身の上を哀れと思っただろう、同情しただろう。裏表無く情を相手に与えただろう。
     その同情心を抱えながら、一撃で追跡者を弑した。
     あの忍びは、留三郎を見誤ったのだ。単純な実力ならば、本職をしていたという向こうの方が上だっただろうに。

     「お前は、ヤツの攻撃を受けなかったんだな」

     留三郎の傷を、一つ一つ指先でなぞる。とくに、文次郎自身がつけたものは入念に。その一つ一つの傷が、いつ、なんどき付けたかすら思い出せる。
     新たに増えたものは一つもなく、これは留三郎の一人勝ちだ。件の忍びは、よい道化である。

     満足して、その背中の傷跡に口づける。ひときわ大きな刺突傷は、己のお気に入りだ。きっと一生消えるまい。

     「…あのなぁ」
     「アレはお前に溺れ、お前を軽んじたのだろう」

     食満留三郎の感性は“俗”だが、その身は生粋の忍びである。忍びとして生き、忍びとしての己を裏切らない。――だから、敵を殺すのにためらわない。死に行く女子供を見捨てることもできる。
     それは、留三郎の悲劇でもあるのだろうが。

     「ったく。たまにお前がわからん」

     腕を後ろに回して、ぽすぽすと頭巾越しに頭を叩かれた。

     「なあ、文次郎」

     そうして、声を潜めて問う。

     「俺は、これでも今回結構緊張していたんだ、あの忍びに。アレは、なんのかんのと自分を受け入れてくれた集落のみんなを大切にしていた。いたからこそ、集団自決のための毒薬も自分で作った。
     アレに途中で俺の素性がバレれば、即座に殺されていただろう」
     「……」
     「だから常に、優しく、穏やかに、心を砕いて求める言葉を与え、望まれることをやる。
     けれどもでしゃばりすぎず、やりすぎない。背を押してやるくらいで。
     なあ、文次郎。
     ――同期にそんな男がいたな」

     ぽんぽん、ぽすぽす。
     お互いの脳裏にあるのは、六年に進級して早々に死んだ男の顔だろう。
     ――人好きする男だった。穏やかな男だった。自らは前に立とうとせず周りを支える、そんな男だった。

     「俺も、自分が同じ立場になって初めて気づいたよ。
     なあ、文次郎。――アイツは間者だったのか」

     木の幹に、杭で穿たれた骸。凄惨な様。五年間同じ釜の飯を食い、一緒に切磋琢磨した仲だった。あと一年で、一緒に卒業するはずの仲間だった。
     誰からも好かれ、嫌われることもない。あまりに理想的に集団に溶け込む。その模範的性格の男だった。
     ――今の時代、年齢は実践訓練をされていないことの理由にはならない。そして、忍術学園には敵が多い。

     「なあ、文次郎。アイツを殺したのはお前か?」

     しばし、互いに無言。文次郎の頭部に触れる留三郎の手は優しく。そこから感情はうかがえない。一拍、二拍。文次郎は己の心拍を数えてから、じうっと、留三郎の肌を吸った。

     「痛ったぁっ⁉」
     「バカタレ。工作中だった俺に、人ひとり拷問して、晒して、そんな暇があったと思うか?」
     「ああ、そっか。そうだよな」
     「忍務が忍務だったからといって、変な感傷抱いてるんじゃない。洗濯が終わったんなら、さっさと帰るぞ」
     「あ~、走っているうちに乾くかなぁ」

     なんなんだ、今更。と留三郎に問えば…。

     「いや、もし途中でバレたとして。なら、アイツの死に姿はそっくりそのまま、俺の姿にもなるのかな、と思ったんだ」

     上着を力いっぱいしぼって、ぱんぱんとはたいて。そうしてまとう装束には、血のあともなければ吐しゃ物も残っていない。あの集落とのかかわりは、もうなにも残されてはいない。
     文次郎も改めて見聞して、よし、と太鼓判。
     残るものがなければそれでよし。一次審査を通過した留三郎は、明日からいつも通りの忍術学園の日常に戻るだけだ。
     
     「そういや、文次郎。俺の忍務を知っていたんだ、お前の忍務はなにか教えろよ。それともやっぱり、マナー違反か?」
     「マナー違反だな。だが、まぁ。情を情で制せ、とだけ言っておくか」
     「なんだそれ」

     文次郎は留三郎の問いには答えず、さっさと走り出す。――しかし、『裏切者』か。

     ――『裏切り者っ!』

     情で情を制せ。潮江文次郎は、五車のうち怒車以外をあまり得意としていない。一次審査は、各生徒の苦手な任務が与えられる。

     同級生がいた。それが、間者だと知らされたのは担任からだ。そうして、与えられた忍務。
     情で、相手を落とせ。相手の情報を逆に抜き取れ。そして妨害せよ、と。
     本来は留三郎のように時間をかけておこなう一次審査を、文次郎は進級早々に片づけた。

     相手を絆(ほだ)すのは得意ではない。相手を絆すために演技をするのは気持ちが悪い。だがそれも、文次郎の矜持でしかない。忍びならば、矜持などは脇に置く。
     まずは観察を。なにに興味を示し、なにを厭うか。そして相手の欲しい情報を探り、先に自分が近づいておいてアレにとっての有意義な存在になる。
     そうして、アレがすり寄って来ればあとは、ちょっとだけ特別扱いでもしてやればいい。
     潮江文次郎はお堅い生徒だ。その生徒が、ちょっとだけ甘えて、ちょっとだけ弱気を見せて、ちょっとだけ頼りにすれば、相手は割と簡単に落ちる。

     勝手に熱をあげ、勝手に信頼して。――なるほど留三郎の対峙した忍びと同じ様だ。この場合、間者が逆だけれども。

     そもそも、あのとき忍務で潜入工作を命じられた城は、アレの属する組織のものだった。アレから聞くだけ情報を引き出して、妨害には最後の締めだ。
     アレの属する組織に、アレが二重間者をしていると情報を流して。そうしてアレが気を抜いた隙に、足の健を切ってやれば完璧だ。
     あとは勝手に、裏切られたと勘違いしたアレの組織がやるだろう。今後一切、学園には手を出してはくるまい。
     ――結果は、想像以上にえげつなかったけれども。

     あれが、文次郎の行った結果かと。あるいはもう少しうまくする方法があったやもと思うけれども。
     かの骸の在り様に、苦り切った顔の担任他教師たちの前で、文次郎は静かに任務完了を告げたのである。

     少し、意識が過去に飛んでいた。
     
     「ありがとな、文次郎」

     その文次郎の意識を、留三郎が引き戻す。

     「お前は、優しい奴だから。お前は、誰よりも情に熱いやつだから。
     こんな、酷い忍務に心配してくれて。だから来てくれたんだろう?」
     「余計なことだったかもしれんがな」

     留三郎は、やりきったのだから。なんなら「下手な心配してんじゃねえよ」といつもの喧嘩になだれ込む可能性すらあった。
     だが、留三郎は首を振る。

     「お前はさ、お前自身は真っ当な忍びのつもりかもしれないけれども。割と甘いから」
     「……」
     「あいつの、あの子の前で、黙とうを捧げてくれてありがとうな」

     見ていたのか。あるいは文次郎ならやってくれると確信していたのか。

     「俺には、そんな資格はないからさ」

     だから、文次郎に頼んだのか。

     「お前が来てくれて、本当にありがたかったよ」

     素直な言葉は、やはり留三郎の中に今回の忍務で残るものがあったからか。隣を駆ける彼の目は、先を見るばかりでこちらを向かぬ。凪いだその目は、内の感情を悟らせない。

     「世間は、辛いな。文次郎」

     『辛い、な』。あのとき言ったのは仙蔵だったか。多分、仙蔵は文次郎の忍務に気づいていただろう。

     「辛いなら忘れてしまえ、留三郎。忘れられないなら、他で塗りつぶせばいい」
     「一番全部覚えていそうなやつが、なんか言ってるぅ」
     「そうか? ――そうかもしれん」
     「傷にするなよ、文次郎」
     「なんだ、お前の話だろう」
     「うん、そうだけど。お前も、傷にするなよ?」

     傷に、するな。お前もだ。
     傷にする必要なんかない、あんな、施政者の都合と、社会の仕組みと、今の世の中と。理不尽のごった煮みたいな忍務は。

     「心配させたな」

     ――だから、迎えに来たのだ。
     心配した。このまっすぐな男が、その心に傷を負って。けれども誰よりも忍びたらんとするから、その矛盾にねじれてしまわないか、と。

     杞憂だ。留三郎は今、文次郎の隣を走っている。

     「まあ、ねじれた心の隙間に忍び込むのも、やぶさかではなかったかもしれんが」
     「?」

     ちょっと、暗い情念だ。これは、蛇足である。下心満載であまりに笑えない。

     示し合わせたわけでもないのに、いつの間にか二人で競争のような態。きっと学園につくころには、いつも通りの二人が戻って来るだろう。
     
      あと少し。もう少しすれば忍術学園に帰り着く。
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