死者の妄言、生者の真言(中) ――ああ、水が美味しい。こんなに長く話し続けたのはどれぐらいぶりだろう。
すみませんねぇ、旅の方。わざわざ井戸までくんできてもらって。なんなら追加のおあしなど貰えましたら、さらに舌もツルツルと。
おや、さすがに打ち止め? それはひどい、喉も枯れますナァ。
ほう、旅の同行者がいらっしゃる? 全部話したならば、その方に金子をわけてもらおうと。ちなみにその方はどちらに? いえ、疑っているわけじゃありませんよぉ。信じます。
なぜでしょうかね、旅の方。私、あなたに初めて会った気がしないんです。
――では、続きをお話いたしましょう。
いまやすっかり、焼け跡だけを残すあの屋敷。
かつては確かに居た、御屋形様、左吉さん、屋敷の者たち、女。
大きく素晴らしかったあの屋敷が、すべからく焼け落ちてしまうあの日まで。
左腕を失ったあと御屋形様は何度か高熱をだして、一度は命が危ういなんてこともありました。屋敷の者の中には、腕を切り落とさない方が長生きできたのでは。この責任はどうとるのだ、と。あの女を、そして左吉さんを責める者もありました。最後はみんな一緒に手伝いましたのにネェ。
「問題ない。早かろうが遅かろうが、我らの選択に変わりがあろうか」
屋敷の者たちを前に、左吉さんはそう言いましたよ。もちろん、そんなことで屋敷の者たちの不信は消えるものではありませんが。次いで左吉さんはあの女を見据えてこうも言いました。
「無論、あなたにも同行願いましょう。ここに来た以上、並々ならぬ覚悟の上と存じます。あなたは御屋形様に言いましたね。“逃げるな”と。
今度は僕たちがあなたに。――逃げないで、くださいね」
つまり、御屋形様が助からなければ女も殺す。そういうわけですね。気が気じゃなかったですよ。だって私も…。
ですがあの女は、針の莚でも堂々としたものでした。
「厄は絶った。ならアレが負けることなどない」
確たる言葉でした。一本、芯が聳えていた。
そして御屋形様もその言葉に応えるように、次第に回復へと向かわれたのです。一度大きな山を越えられると、あとは驚くほど早かった。
口にするものは白湯から重湯、そして形あるものへ。
自ら褥の上に起き上がれるようになり、難しい本を持って来させて読みふけり、立ち上がれるように鍛錬をし…。
火傷の後遺症は場所によってまちまちでしたが、皮膚を失った場所は空気に触れると痛むらしく包帯は常に巻いていました。左脚は不自由が残ったようで、それでも最後の方には、杖を使って歩き回れるほどになっていましたよ。
「半身“曲者”みたいな成りだなぁ」
女はよくそう言って、笑っていました。御屋形様は不本意そうにしていましたがねぇ。で、喧嘩が始まるんです。二人の喧嘩はそりゃあ激しかった。まず、口論。その後取っ組み合い。御屋形様が病み上がりだろうが、まったく容赦がない。
屋敷の者たちが止めようとするんですがね、それをさらに左吉さんが止めるんですよ。
「やめておけ、やめておけ。犬も食わぬなんとやらだ」
「誰と誰が夫婦だっ、おい!」
「そこはせめて、馬に蹴られてくらいにとどめておいてくれ」
「留っ、お前もなに言ってやがる!」
「お、真っ赤」
「~~~~~~~~~」
「ほら、犬も食わぬ。どうせすぐ元通りだから」
元通りになって、また喧嘩して、また元通り。時には縁側で二人っきり、何刻もそのまま寄り添っていたり。なんというか、ムズかゆくなる光景でしたよ。
女の名も、そろそろ明かしましょうかね。先ほど、出ましたしねぇ。
「改めて、よろしく。
留、と呼んでくれ先輩。今まで辛い仕事をよく頑張ったな。これからは俺も一緒に働くから、どうか指導のほどを頼む」
まだ御屋形様の容態が安定しないころ、彼女はそう名乗りました。すでに「面倒だ」と最初に見せた、たおやかさはとっくに取り払って。とはいえ、それが本名かもわかりませんよ? なにせこの屋敷内じゃ、本名を名乗る者がほぼ皆無でしたから。
流石に明らか年上を相手に呼び捨てにするわけにもいかなくて、留姐(とめねぇ)、と私は呼んでいました。
あの人は…、鉄火女っていうんですかね。誰に対しても、それこそ御屋形様や左吉さんに対しても物怖じせず、曲げず、ズケズケと物を言う人でした。曲がったことは許さない。納得いかないことは認めない。とても勝ち気で、とても美しい人。
実際、留姐が来てくれて助かりました。本当です。
御屋形様が本復する前は、上から下まで人が嫌がりそうな世話を自分からかって出てくれて。本復したあとも、「年頃の娘にやらせる仕事じゃないだろう!」と、体を拭く役目、移動するときの付き添い、力仕事や汚れる仕事は全部請け負ってくれました。
あとは、そうですね。私個人のことも色々気にかけてくれました。
例えば御屋形様の腕を切り落とした件。留姐を一番率先して手伝ったのは私ですからね。私に対する当たりも当然強かった。しかし留姐はいつもそんな私を庇い、あるいは自らが前に出て屋敷の者たちの不満、疑念を受けてくれました。
「大丈夫だ。お前はなにも悪くないんだから。まったく、蔑ろにするぐらいなら初めから雇うんじゃない」
いい人でしたよ。ええ、これも本当です。
さて、留姐が来たことで弊害があるすれば、それは私の仕事が激減したことです。私はこの屋敷に売られた身です。なにもせず暇を持て余していていいはずがない。
だから別の仕事はないかと、よく屋敷の者たちや左吉さんに聞き回っておりました。ところがね、あまり屋敷内のものに触れさせてもらえないんですよ。
さんざっぱら歩き回った分、屋敷の構造には詳しくなりましたがネェ。そうなれば他にもいろいろ、見えてくる事情もありました。
――おそらくここはどこかの国の、偉い人がお忍びで使う屋敷である。
――村での不文律を顧みても、世間的に隠された屋敷である。
――以上の事情から、この屋敷の内情を知った者、入った者の命は保証されない。
改めてゾッとしますね。…それから聞こえてくるもの。
――御屋形様の火傷は、部下を庇ってのものである。横合いから燃える柱が倒れてきた。
――留姐は屋敷の関係者ではなく、御屋形様の古なじみである。どうやらこの場所のことは“牛”に教えてもらったらしい。
――物資は屋敷の者たちが買いこんでくるが、最近物価が上がって大変だ。
なんですかね、“牛”って。牛は普通口を利かないでしょう?
それに焼けた柱って。どこかで大きな火事にでもあったんでしょうか。
そんな感じで、おかしなこと、おもしろいこと、知らなかった内情まで、ずいぶんと詳しくなったものですヨォ。
留姐や御屋形様のそのころの生活について、ですか。
そうですね、例えば留姐。基本は御屋形様の世話ですが…。それ以外は私にいろんなことを教えてくれました。
籠の編み方、布の繕い方、小物類や袋物の作り方。
私はさほど興味がなかったのですが、留姐は強引な人でもありました。ぐいぐい私を引っ張って、私に割りあてられた部屋で材料を広げて、やって見せるから、やってみろと。
ああ、女同士でしたが部屋は別でした。使用人が一人一部屋なんて、贅沢な話です。――なんです、その訳知り顔?
「生きるために覚えておいて損はない。生きていくのに知識は無駄にならない。生きていくなら手に術を得ておくもんだ」
留姐が、私の事情をどこまで知っていたかはわかりません。ただ、『生きる』という言葉は私の心に染みました。
思い出すのは留姐がこの屋敷に現れた、あの日の言葉です。
『生きたい者だけが生き、生きている者だけが決め、生かしたい者だけが行動する』
―――ああ。
話を続けましょうか。
ひとつを覚えると、またひとつ。積み重ねるように、ひとつひとつ。留姐は教えるのが上手でした。
他には屋敷の者たちが買ってきた野菜の良し悪しの見分け方、御屋形様の衣類や小物の名称と使い方、それまで私が触れることも見ることもかなわなかった品々を、留姐は慣れた手つきで扱い、説明し、なんなら屋敷で出た傷物の修復までも。
そうそう、留姐はこの屋敷を訪れた時、ほとんど無手だったんですね。これは私も人のことは言えないんですけれど…。
留姐の着物は花柄も美しい、素人目にもわかる上物でした。ですが一着だけ着まわしていれば、次第にほつれ、汚れが目立ちます。それを見た御屋形様が眉を顰められて。
「お前、そんな成りで俺の世話を続けるつもりか」
情のない言葉ですネェ。そうして御屋形様は屋敷の者たちに反物を買いに行かせました。行かせる前に、要る、要らぬ、とまたひと喧嘩ありましたがね。
「その娘の分も一緒に買えばいいだろ」
「あ~~~。それなら、まぁ」
最後は見事に言いくるめられていましたよ。
この屋敷は一応世間から隠されていますから、目立つことはなるべく最小限にしたかったのでしょう。留姐もそれが解るから御屋形様と喧嘩したのでしょうが、最終的に私に気を使ってくれたようです。
で、留姐がその反物で私と自分の分の着物と細帯をいくつか仕立ててくれました。ええ、買ってこさせた反物はひとつじゃなかったんですよ。左吉さんなんて、ずっと苦み走った顔をして…。
留姐の運針は見事なものでした。村娘として私も裁縫は覚えさせられましたが、留姐には遠く及ばない。ついでに、反物についての知識もばっちり仕込まれました。私たちが普段着ている小袖って、大昔は下着だったんですねぇ…。一番上等な反物は小紋という色柄の綺麗な着物に仕立てられて、いつか一緒に町を歩こうか、なんて。ふふ…。――ほ、ほ、ほ。
留姐にできないことなんてあったんでしょうか。万事に器用な人でした。人付き合いだってそうです。最初あれだけ針の莚だったのに、気が付けば何年も屋敷で働いているかのような自然さで。
誰と話すのも気さく、よく気が利いて、人助けも惜しまない。
たぶん、意図してやっているわけではないですね、あれは。留姐の素なんでしょう。とにかく相手の懐に自然と入っていく。
多分そうやって、誰よりもほだされていったのが御屋形様なんでしょう。それこそこの屋敷で再会するよりも、ずっと前から。
あの反物ね。御屋形様からかなり細かな指示がでていたようですよ。そりゃあ左吉さんも困ったでしょうよ。
でもって、その反物で仕立てた着物が、留姐によく似合っていた。えぇ、美しかった。
……次は御屋形様の話をしましょうか。
私は未だに、御屋形様の為人(ひととなり)がわかりません。悪い人ではなかったのでしょう。でも良い人だったかは即答しかねます。
あの人がさっさと左腕を切り落としていたなら。せめて屋敷の者たちの介助を素直にうけていたならば、私が雇われる必要などなかったでしょうネェ。
一番強い印象としては――万事に厳しい人でしたよ。留姐が関わると謎に子供っぽくなることが多かったですが…。
あの人の前に居るだけで、屋敷の者たちは総じて背筋を伸ばし、あるいは身を縮めてすらいた。“畏怖”、“畏敬”なんて言葉がありますが…、あれは御屋形様のための言葉でしょう。
――恐れ、敬う。
油断ならない。この人相手に気を緩めてはならない。そういう緊張感がつねに付きまとう人でした。
そうですね、こんな話はどうでしょう。
ある日、唐突に御屋形様が言いました。
「そろそろ屋敷の外に出てみるか」
場所は縁側だったと思います。その場には私、留姐、左吉さん、それに屋敷の者も何名かいて。あれは、なにをしていたんだったかなぁ…。
まあ、忘れてしまうぐらい日常的なことだったのでしょう。そこに、唐突に非日常が差し込まれた。
「おい留、それからお前もだ。着いてこい」
「いやいやいやいや…」
「お、お、お、お、お待ちください御屋形様」
指名を受けたのは留姐と私で、首を何度も振ったのは留姐、必死に止めるのは左吉さんです。このころの御屋形様は、左腕を失い、熱がさがったころで。ようやく杖をついて屋敷内を歩き回り始めた。そんな時分です。
「別に村まで行こうってんじゃない、そこの竹林を散歩するだけだ」
曰く、
――屋敷の中ばかりだと体がなまる。
――いつまでも動けないままでいるわけにもいくまい。
左吉さんがなんとか説得しようとするのですが、御屋形様はそれ以上に反論します。一つの正論に三つ四つのこじつけが矢継ぎ早に飛んでくるんですよ。またこのこじつけのタチが悪くて。ただ聞いているだけだと正論にしか聞こえない。あとで思い返すと、おかしいこと気づけるんですがね。
御屋形様はね、頭がいいんです。ただその頭を己が利に使われると、どんな理不尽でもまかり通ってしまう。
今回の左吉さんも、最後には頭を抱えて蹲ってしまいました。留姐は呆れていましたね。
「お前、手加減してやれよ」
「バカタレ。俺のもとで昔から働いているんだ、これぐらい言いくるめてみせろ」
「言いくるめられるつもりがまったくないやつが、なんか言ってるんだが?」
ふふんっと大人げなく鼻を鳴らす御屋形様。
留姐は、自分では御屋形様の説得は無理だと理解していたのか「いいのか?」と確認だけ済ませて。御屋形様は「かまわん」と断じると、脇においてあった杖を使って縁側から立ち上がろうとしました。留姐もとっさに手を伸ばして補助します。
留姐は私を呼んで、「厨(くりや)番に、昼飯を弁当に詰めてもらえるよう頼んでくれ」とことづけて。そしてついでのように、耳打ちしました。
「あいつも、お前が雇われたことに責任を感じているんだ。気分転換と思って、一緒においで」
あいつからの指名もあるから、誰もお前を責めないよ。などと。
なるほど、この外出は私のためだったようです。
屋敷の周りに竹林があった話は、最初の方にしましたね。この屋敷を覆うように、ぐるりと、丸く、広く。
今は跡形もないですが、在ったころはそりゃあ立派なものでした。
ただの村娘であったころ、近所の子らと何度かこっそり忍び込んで、タケノコほりなどしたものです。ま、大人たちに見つかればこっぴどく叱られましたがね。
青々とした竹が、空に向かって真っすぐ伸びて。頭上を覆いつくすほどの梢が、さわさわと鳴く。その木洩れ日の中を…、先を御屋形様とそれを支える留姐が、その後ろに弁当や竹筒、薬を詰めた風呂敷を抱えて私が続きます。
御屋形様には右腕に杖をつかれて、留姐はその体を左側から支えます。御屋形様には左腕がないので、体にひっかけるものがありません。その体重の結構な量が留姐にかかっていたでしょう。それでも二人は危うげなく、竹林を進んでいくのです。
まだ私一人で御屋形様の世話をしていたころ、御屋形様の体は左吉さんが支えていました。一度だけ、やってみろと命じられたこともありますが、とても力が足りなかった。――怖かったのも、否定はしませんがネェ。
歩く人を支えるのはもっと力がいるでしょうに、たたらを踏むこともなく。さく、さく、地面を踏みしめる音が拍子良く鳴ります。
その背を例えるなら、連理の賢木でしょうか。二人寄り添って、ぶれることがない。
おや、旅の方。どうしました?
え? ちょっと前に私は己を“学がない”と言ったと。その割には“連理の賢木”しかり、ここまで説明に難しい言葉が混ざっている、と?
そうですかねぇ。
じゃあその話はあとでしましょうか。たいしたことじゃありませんよ。
竹林での話を続けますよ。
道すがら、御屋形様と留姐はほとんど会話がありませんでした。かわりに留姐がこちらに話しかけることはちょくちょく。
「疲れてないか?」「今日はいい天気だな」「荷物を持たせて悪い」。そんな話です。
道中で一度腰をおろして、お弁当を食べて。留姐は自分が食べるよりも、御屋形様を優先させていました。右腕一本で箸を使った食事は、まだまだ難しいようでしたね。
そうして食事が終わればまた歩き出す。いくら竹林が立派なものといっても、端はあります。竹林の出口に辿り着いてしまえば、終い。
眼前に広がる野原の丘、その向こうの故郷の村。どこまでも続く田んぼ。伸びた稲穂の先端が少しずつ色づいているのがわかります。――ああ、今は晩夏だ。今さら、そんなことを思い出しました。
田んぼでは大人から子供まで、せわしなく働いている姿が小豆ほどの大きさで見えました。あぜ道を駆けている小さな影たちは、私の知っているどの子たちだったのでしょう。
夏が終われば収穫の時。一気に忙しくなります。とはいえ、今年はどれほど採れるのか。そして、どれだけ残せるのか…。
「懐かしいか?」
珍しく、御屋形様が私に直接問いかけてきました。包帯に覆われた顔半分、無事だった顔半分。見える方のそれは無表情で、どのような意図があってそんなことを問いかけてきたのか、私にはわかりません。だから正直に応えました。
「いえ、とくには」
「…そうか」
御屋形様の右目は、濡れ濡れとして艶やかに、鋭く。真っ黒なそれが私を見据えていて、身がすくむ思いがしました。
左目ですか? 包帯に覆われていましたが、完全に機能を失ったわけではなかったそうですよ。ただ像が結びにくいとか。明るいと目に痛いとかは聞きましたね。
それにあの人は、右目一つで十分でしたよ。十分に、見える目があった。――ほ、ほ、ほ。
「…おい」
小さく声をあげたのは留姐でした。御屋形様の体を支える腕に力をこめ、周りを見渡し…。
「三人」
「ふん、透っ波だな」
留姐が私の方を見て言いました。
「すまない、お前ひとりではしんどいだろうが、こいつを屋敷まで連れて帰ってくれ」
私が、御屋形様を。
先にも言いましたが、私では御屋形様を支えるのには不十分です。しかし留姐には有無を言わせぬ空気がありました。それは屋敷の者たちを前にする御屋形様の迫力にも似て…。
「いや、お前ら二人で戻れ」
今度は御屋形様です。弾かれるように留姐が御屋形様の顔を振り向きます。
「阿呆か、そんなことができるかよ」
「俺がかまわんと言っている」
「そんなことをして、仕事不十分とみなされたらどうしてくれる? なんのために雇われていると思って」
「別に……護衛じゃねえだろ」
「本気で怒るぞ。必要なのが世話役だってんなら、俺が来た時点でなんでこの子を解放してやらん」
背筋が、ぞうっと冷めていきました。仕事不十分とみなされたら? その先をあえて留姐は口にしなかったのでしょう。
「…逃げなかっただろう」
「おまえ!」
「ここまでの道中、逃げることもできただろうに」
逃げなかったんじゃないっ! 逃げられないことぐらい、私だって知っていたとも‼
――……。留姐が傍の竹林に御屋形様の体を任せます。竹はしなりましたが、御屋形様の体をしっかりと支えていました。
そうして留姐は私の前で腰をかがめました。
「今から屋敷に戻って、屋敷の者たちをこっちに寄越してくれ。お前ひとりが戻る分には、誰も文句は言わないだろう」
「留姐?」
「――急げっ!」
黒ずくめの影が二つ、どこからともなく飛び込んできたのはそのときです。真っ黒な装束、口元まで布で覆って。どう見たってまともじゃない。
留姐は私を屋敷の方向へと背を押しました。私は必死で屋敷の方へと走ります。背後から怒号が、なにか硬いものと硬いものがぶつかりあう音が、くぐもった悲鳴が…。
とっさに振り返った私の眼前に、もう一つ影が現れました。それは刀のようなものを振り上げ、私に向かって振り下ろそうと。
その影が、手を振り上げたまま固まりました。「ぐ、げ…」、鶏をくびり締めたときのような声が聞こえました。ぬるついた赤褐色の飛沫を浴びました。影の首を、長々とした刃が貫いていたのです。そこから伸びる柄の色を、私は知っています。
御屋形様の杖でした。
仕込み杖ですネェ。
私はもう、一度たりとも振り向かずに屋敷まで走りました。すぐに屋敷の者たちが迎えてくれて。でも人数が少ない。どうやら左助さん含め、元から私たちを隠れて護衛していたようです。
だから、問題ないと。御屋形様は無事だと。ぜんぶ、ぜんぶ、見張られていたのですネェ。
留姐が、どう行動するのかも。私が、逃げないかも…。ほ、ほ、ほ。
留姐と御屋形様、それに左吉さん含む他の方々も、なにもなかったかのような顔ですぐに戻ってきましたよ。
ただ、濃い土の匂いがしていた。
あの、襲い掛かって来た黒づくめの者たちは、間違いなく本気で私たちを殺そうとしていました。あの者たちは、どうなったのでしょうね。
ずっとずっと、湿った土の匂いは私の鼻に残りました。私を殺そうとした黒づくめが喉を貫かれた瞬間に被った、血の匂いと一緒に、ネェ。
その晩、御屋形様は私の元を訪れました。一人でした。
「すまなかったな」
たった一言だけ。
包帯に覆われていない半分の顔。困ったように目を細められ、眉尻を下げて。無表情でも怒り顔でもない表情を、私に向けたのは初めてだったのではないでしょうか。
…それだけの、お話ですよ。――恐ろしいですネェ。
ええと。
そうそう、私に学が在るや無いやの話をすると言いましたね。
私、こんな田舎村の出身なのですが文字が読めるんです。もちろん書くことだってできる。それを教えてくれたのは他ならぬ、御屋形様でした。
御屋形様の体が回復に向かわれ、一人でできることも増えてくると私はさらに手持無沙汰になり、それは御屋形様も同様のようでした。
御屋形様の場合、出来ることが増えたと言う方が正しいですか。それまで回復に使うばかりだった時間を、自由に使えるようになった。自由な時間が増えた。
そうなると俄然活動的になられ、積み重ねた本の読書、鍛錬もかねて屋敷中を歩き回る、左吉さんたちを交えた難しい話や、留姐と二人だけの時間。その一環だと思うのですがね、初冬のころ、御屋形様の部屋で唐突にこんなことを言われました。
「お前、字を覚えてみる気はないか?」
…と。
これに賛同したのが、留姐です。
「いいな。俺はつい実践的なことに目が向いちまうが、字は社会の基本だ。なあ、どうだ?
こいつは教えるのがうまいぞ。頭もいい」
留姐が言うなら、そうなのでしょう。そして他ならぬ御屋形様の言葉なら、私に否は言えません。すぐに仮名手本が用意され、屋敷内の要らなくなった紙をかき集めて。
「竹や木を紙替わりにしてもいいが、紙の方が始末が楽だ」
だ、そうです。
留姐の言う通り、教えるのはとても上手でしたよ。厳しくもありましたが。私の物分かりの悪さに、悪態をつくようなことはありませんでしたが待ってもくれなかった。次から次へ。
私はもう必死でしたね。できない、なんて言える雰囲気でもない。
紙はすぐに使えるものが尽きて、庭の砂に書いて練習していました。そうして文字が覚えられてくると、これまた容赦がない。なにやら難しい本をどんっと目の前に積み重ねて、読んで覚えろ、と。
留姐が慌てて止めてくれなければ、目を回していたでしょう。
「お前の頭がいいから、あいつ調子に乗っているんだ」
「留姐。…それは、ないかと」
「いやいや、本当に。嘘だと思うならあいつに聞いてみろ」
あいつ、というのは御屋形様ではなく左吉さんのことでした。左吉さんに御屋形様の勉強のことを話せば、左吉さんはなにやら遠い目をされて。
「それは…、すまない。
教えるのはうまいんだ。教えるのが好きなんだとも思う、あの方は。僕もだいぶんお世話になった身だ。
ただちょっと、うん。ちょっと力が入ると容赦がないというか、ぎりぎりできる線を攻めてくるというか…。それだけお前がついていけているということだ。うん。
でもまあ、無理するな」
左吉さんは私の頭を撫でられます。そうして身をかがめてこそこそっと。
「というか、あんまり調子に乗せないでくれ。際限がなくなるから」
私も教本を抱えながら、左吉さんと同じ遠い目になっていたことでしょう。
ま、こちらもそれだけのお話です。
御屋形様は最後の日まで、私の勉強を見てくれました。字を覚えたら、ちょっとだけ易しくなった教本でまたお勉強。あの頃には御屋形様の近辺もだいぶん忙しかったでしょうにね。
教えるのが好き、は本当のことでしょうねぇ。教師とか、転職だったんじゃないですか?
あなたが私に学がある、というのなら…、このときの経験に基づくものでしょう。正直、学というほど大したものじゃないと思いますがねぇ。
ただ私が今日(こんにち)まで生きてきたのに、留姐が授けてくれた術と一緒にずいぶんと役立ちました。
ずいぶんと、私も屋敷の生活に慣れていったようだと?
あはは、どうでしょうかね。――どうで、しょうかネェ。
私があの屋敷にやってきたのは、春の頃です。
都会の方にこの話をすると不思議がられるのですが、春というのは飢餓の季節なんですよ。秋に採れた収穫を年貢に取られて、それでもなんとかここまで蓄えた食料を、長い冬で喰いつくしてしまう。だから春にはなにも食えるものがない。山の実り? 足りませんよ。まさか山に入れば村一つ分の食料がポンっと手に入るなどとは思っていないでしょう?
というか長い冬で体力も持っていかれますからね、採取に行く力が残っていない者も多い。
留姐が来たのは初夏の辺りです。そろそろ屋敷内の臭いが限界になるころ合いに、あの人は来てくれました。
竹林の騒動は晩夏。御屋形様が勉強を始めたのは初冬。
秋の思い出ですか? そうですねぇ。
御屋形様がてずから屋敷の者たちみんなに料理を作ってくれましたことがありました。片腕なので、相変わらず留姐の補助はありましたが…、竹林で採れたタケノコを使って、タケノコの刺身、お吸い物、焼き物、炊き込みご飯。豪勢でしたねぇ。
私、タケノコは焼くばかりと思っていたので、驚きました。エグみもなくて美味しかった。
この屋敷に来てから、私は飢えるなどということはしたことがなく、また実家にいたころよりは、よほど良いものを食べさせてもらっていましたが。
御屋形様の料理の腕は…、ええ、まあ、見事なものでしたよ。屋敷の者たちはみんな恐縮するなり、感動するなり。
口の中いっぱいに広がる香味、しっかりしつつも濃すぎない味付け、噛みしめるたびシャキシャキと鳴るタケノコ。
留姐も厨房に立つことがありまたが、料理の腕は御屋形様が圧勝でしょう。留姐は万事器用なわりには、味付けは大味で…。
自信ありげな御屋形様の顔に、留姐は最初ブスくれて、けれども料理を口に含めばその頬が緩んで。それで余計に御屋形様が調子に乗る。
とはいえ火元は危ないので、私が屋敷にいる間に御屋形様が包丁を振るったことは片手で数えるくらいでした。
ご飯ですか?
ええ、御屋形様は介助を最後まで必要としていました。留姐が箸を持って、御屋形様の口に運ぶ。流石に御屋形様と卓を並べることは不敬にあたりますから、まず御屋形様が食事を、それから私たちが別室で。
でも時折、御屋形様は私たちと卓を共にしたがりましたね。というか、留姐と。相変わらず喧嘩も多かったですが、食事時は喧嘩をしなかった。食べ物を粗末にするようなことはなかった。
留姐はとても甲斐甲斐しかった。魚の身を丁寧にほぐして、箸ではさんで御屋形様の口に運びます。御屋形様が指で白米を指せば、次にそれを。味噌汁を含むときは、口元に手ぬぐいをそえて…。
あの、旅の方。なぜそうも笑っておられるのでしょうか。
はぁ。不自由な足を動けるまでに鍛錬したような男が、片腕になったからといって食事だけは全て他人任せとはおかしな話と…。
味噌汁をすするくらいなら片手でもできる?
飯を食うにしろ片腕の者用の匙などもある。留姐の器用さならそれを作れたはず…?
はあ、あの。
ですが、食事の介助はずっと留姐が変わらず。ええ、いつもぴったり寄り添って。
……―――あ。
――あんのっ! 助平男ぉぉォッ‼‼‼
失礼。
失礼しました。
いえ、ちょっと時間をください。大丈夫です、はい。――はい、はい。いえ、はい。
――あ、は、は。
――ほ、ほ、ほ。
おもしろいことをおっしゃられますナァ、旅の方。まるで見知っているかのようにおっしゃられる。もしかして屋敷の住民たちについて、なにか存じておられる?
いえいえ、詮索はいたしません。私にとっては過去です、過去。――ほ、ほ、ほ。
春、夏、秋、冬。これで一年が巡りました。ここまでくれば、あと少し。
竹林の向こう野原の花々、それが咲き誇るころ屋敷の中が慌ただしくなり始めました。まず、外からのお客様が増えました。
屋敷の者たちは、私が最初来た時から変わらず出たり入ったりが多かったですが、おおむね顔は同じでしたね。
しかし二度目の春以降、まったく知らぬ顔が一気に増えた。しかも頻繁に行き来する。その顔が現れるたび、左吉さんが難しい顔をしていました。
そうして、左吉さん。彼だけは出入りがなく常に屋敷に詰めている人でしたが、遂に彼までも屋敷の外へとでるようになりました。
「僕が直接行けば、殿も少しは安心いたしましょう。――まったく、不安になるからと場所をお教えしたのに。こんなに次から次へと人をやって。この場所をなんだと…。
僕ならば、あなたの意図も考え方も、正しく殿に伝えられます。必要に応じて臨機応変に対応もできる。
ですからあなたはこの場を動かないでください。いつぞやの襲撃者の件もあります。ここならば場所が割れていたとて備えもある。下手に動けばその方が危険です。
僕が、城とあなたのつなぎとなります。
だから、忍頭。先輩。――無茶をなさらないでください」
―――ほ、ほ、ほ。さぁて。
左吉さんが外出される日は、どんどん増えて、日数も長くなりました。では私たちの生活の方はというと、あまり変わりませんでしたね。
あえて言うなら、御屋形様の鍛錬に留姐が付き合うようになった、ということでしょうか。体の機能を取り戻すための鍛錬とは違ったようですが…、武術の鍛錬だそうです。
見せてはもらえませんでした。それにあの場所は奥まりすぎて…。
まあ、他の屋敷の者たちも一緒に行って、傷やら怪我やら負ってもどってきたので本当のことでしょう。
あとは、左吉さんはでかけるたびにお土産に菓子を買ってきてくれて、それがなかなか美味しかったです。留守の御屋形様を思ってのものだから、評判のものだったのでしょうね。私や留姐もご相伴に預かりました。
え? きっと偉い人なのだろう御屋形様への土産なのだから、さぞ珍しかなものもあっただろうと?
まあ、どんなものでも一介の村娘にとっては珍しく、美味しいものでありましたがねぇ。
はあ…、お団子、水菓子。ああ、その辺はよくありましたね。
ボーロ、ビスカウト? 詳しいですねぇ。食べたことがあるのですか? 旅の方は食道楽の気があるのでしょうか。
コンフェイト、カステイラ。…ああ、ああ。ありましたね。そんな名前のお菓子。金平糖と加須底羅だったかなぁ。特に金平糖はきらきらしていて、甘くて、口の中で転がしながらゆっくり溶かしていく時間が幸せで。
え? 外にはでられたのかって。
…なんでそんなことを聞かれるのですか? 変わりませんよ。私は好き勝手出歩けません。いつぞや、御屋形様に誘われて留姐と竹林の中を歩いたきりです。
ああ、春が来たのを野原の花々が咲き誇るころ、なんて言ったのが悪かったのですね。ものの例えです。それ以上の意味はありません。
私が出歩けるのは、屋敷の中だけ。
母屋、廊下、厨に厩、離れ、倉。それだって一部はあまり近づけませんでしたね。あんまりうろうろするので、留姐に咎められたことだってあります。
「最近は屋敷内もピリピリしている。うろつくのもほどほどにしておけ。…な?」
「ですが留姐。いまでは私、この屋敷に関して知らぬことはないぐらいです」
「…そうだろうな、ならばわかるだろう。この屋敷は建てられてから歴史が長い。増改築も何回あったのか…。変な隙間や、溝にでもハマったら助けられないかもしれないぞ」
「それは怖いですね。留姐もそういったところはご存じで?」
留姐はじっと私を見つめていました。けれども御屋形様が留姐を呼ばれて、すぐそちらへ。本当に、留姐の話をすれば御屋形様が、御屋形様の話をすれば留姐が顔を覗かせますネェ。
あの二人の関係は、本当はなんだったのでしょうね。
少なくとも、留姐は御屋形様に仕える者たちではない。屋敷の者たちとは違う。なんなら屋敷の者たちにとっては、さほど身近な人ではない。
けれども、無視できる存在でもなかった。左吉さんの態度がわかりやすい。
留姐にとっての御屋形様。御屋形様にとっての留姐。それは他の者には踏み入ることのできないなにかがあった。
妻、夫、身内ではないですね。その割にはカラリとしていた。
情人、愛人。このあたりが一番しっくりきますか。とはいえ、あれら特有のねちっこさはない。
執着があるのに、手放すこともできる。あれは本当に、なんだったのか…。
あの二人…。
最後の話をする前に、ひとつ回り道しましょうか。
あれがいつのことだったか。秋か…、冬。本格的な寒さが始まる前だったと思います。
「なあお前、なんで死のうと思ったんだ?」
その声は、御屋形様の部屋からです。留姐の声です。
御屋形様と留姐が二人っきり。見張り以外が寝静まる夜ですよ。ええ、聞こえてきたんです。
「舌を噛みきるでもない、部下に介錯を頼むでもない。だが介助はこばむ、腕は落とさない。矛盾しているだろ」
「バカタレ、舌を噛んでも人は死なん。あいつらが俺の介錯などするかよ。その気ならとっくにやっている」
「言葉遊びをしているつもりはないからな。舌を噛みきれば窒息する」
舌を噛み千切ると、残った部分が奥に引っ込んで喉を塞いでしまうんだそうです。
「…死のうと思ったわけじゃねぇ」
子供の言い訳のような声でした。ちょっと鼻にかかった甘ったれ声でしたネェ。いったいどんな顔で、あんなことを口にしていたのか。
「ただ、この腕を失えないとも思った」
「結局やっぱり、槍と心中するつもりだったんじゃないか」
呆れかえった、留姐の声。
「お前の優柔不断に、部下を巻き込んでやるな。連中は本気だった。目を見た瞬間にわかった。お前と死出を共にする覚悟。そんなものを、俺も、お前も、いくつも見てきたはずだ」
「ああ」
「元来、即決即断。長考は必要な時に、常に堅実な答えを。そんなお前が優柔不断に陥るなんざ、よほど戦えなくなることが辛かったか?
そこまで偉くなると、前線に出ることも減っただろうに」
長く、深いため息。おそらく御屋形様でしょう。
「お前と戦えない」
留姐の息を飲む音。
「お前と戦えないんだ」
「馬鹿が、そんなことを理由にするんじゃない。俺を理由にするな。俺を理由にするぐらいなら生きろ。なんとしてでも生きろ。
俺は、生きているやつしか相手をしない」
「……」
「覚えているか、“曲者”。全身火傷のアイツですら、前線に戻った。たかが半身、片腕がなくなろうとも、戦える手段、生きていく手段はいくらでもある」
付き合うぞ。と留姐は言いました。お前のこれからの人生につきあってやる、と。
甘く囁くような声でした。きっと二人の距離は驚くほど近かったのでしょう。
今度は御屋形様が息を飲んだようです。
「ここに、居るのか? お前が」
「居る」
「どこにも行かないのか?」
「俺もいい加減いい歳だよ。ひとところに腰を据えるのも、悪くはない」
「本当に、か?」
「しつこいぞ、らしくもねぇ」
べちんっと、どこかを叩く音。
「本当はな、ここに来るって決めた時点で覚悟を決めていたんだ。
お前が危ないって聞いた。
そこに部外者である俺が突っ込んでいく危うさもわかっていた。
来た時点で拒絶され殺される可能性も、お前が死んだらやっぱり殺される可能性も、全部全部わかっていた。けれども、お前の傍に居たかった。お前を生かす死なす以前に、お前の傍に行きたかった」
「留」
「全部、覚悟は決めた。俺も、すべてを賭ける覚悟をした。殺される覚悟も、お前に沿う覚悟も」
…なんということでしょう。
左吉さんが指摘した覚悟。それは間違いなく留姐の中にもあったのです。あれだけ生きることを主張していながら、留姐自身も死を見つめていたのです。御屋形様が死ねば、あるいは会うことが叶わなければ、留姐は死んでいたのです。それを、すべてわかっていた。
それを、覚悟だなんて。
「そう、か」
「幻滅したか?」
「馬鹿を言うな。お前を死なせずに済んだ、留」
「俺もだ。お前が生きてくれて、それを選んでくれて嬉しいよ」
衣擦れの音。あえかな声。水音。柔らかなものがぶつかりあう音。激しく、何度も。
ほ…、ほほっ、ほ。ここら辺は蛇足でしたネェ。
美しいですよネェ。死すら見据えた間柄。あれを例える言葉なんて、要らないんじゃないでしょうか。
ほんとうに、本当に。