そこには愛しかなくて/番外 ある一室に閉じ込められて。
容赦のない熱の嵐は、いつも終わりが見えなかった。
甘く、ぐずぐずに溶けるように。己の形を忘れてしまうほど。
泣いて、縋って、喘いで、乱れて。悦によがる。毎日、毎日。
痛みはなく、苦しみは許されず、矜持を否定されるわけでもない。ただ真綿で優しく包まれるだけ。しかし真綿には毒が染み込んでいて、全身から己の体を満たし、犯す。
すべて作り変えていく。
隙をみて逃げ出したこともある。一度、二度。片手の指の数でやめた。その都度仕込まれる薬は、心を、体を狂わせ、目の前の男に縋った。
これはきっと、好き勝手生きてきた己への罰なのだろう。大切なものを顧みなかった己の罪。だからこの甘やかな地獄に、自らの意思で閉じ込もる。
愛を請う、お前の体を抱きしめた。
ここは城下町から、何里離れた場所になるのだろうか…。
山越え谷越え、秘境の奥も奥。鬱蒼とした森の中に突如としてその屋敷は現れた。
もし偶然にも辿り着けた者がいれば、その様に慄いたことだろう。なぜ、こんな奥地にこんな立派な屋敷が建っているのか…。
左右見渡しても、終わりのない漆喰の塀。その向こうに見える重厚な瓦葺の屋根。荘厳な門構えは、そんじょそこらの武家屋敷、貴族邸でも見られぬ立派さだ。
しかしこれだけ大きな邸宅でありながら、人の気配はまったくしない。そのくせ周りから圧し潰すような重圧と、無数の視線を感じるのはなぜか…。
狐狸に騙されたか、鬼婆の家か、あるいは山神の邸宅やもしれぬ。
――おそらく、そんなことを考えるのだろう。聡い者ならば、脇目も振らず来た道を逃げ帰るところである。
「いや、そもそも一般人非一般人問わず、部外者が辿り着ける場所でもないんだけれどもね」
ぼそり。と善法寺伊作は屋敷を見上げて呟いた。齢三十半ば、白い修験者服はもう己の一部のようなものである。
前を行く案内役の忍びが、咎める目で伊作を振り返った。伊作こそ、その部外者だ。彼がこの屋敷の“主夫婦”、その旧知の友でなければ、ここを訪れることも、存在を知る事すらできなかっただろう。
道中、死の臭いを幾度か嗅いだ。
屋敷の主について探る者、あるいはただ道に迷った者ですら。委細問わず、この屋敷に近づいただけでその存在は排除される。それほど危険で、隠された場所なのだ。
伊作は肩をすくめた。そうして目の前の忍びに向けて愛想笑い。もし伊作が少しでも不穏な動きを見せれば、目の前の忍びだけでない、背後に、頭上に、目の前の屋敷からも。逃げ場なく襲撃を受けて、死者の仲間入りだ。例え主の許可があろうとも、主に害ある者を見逃す彼らではない。
(よくぞここまで、育てあげたものだなぁ)
もともと面倒見の良いやつではあったのだ、これから会う男は。彼のことは、学生時代から知っている。その顔立ちとやや威圧的な態度で近寄り難いが、一度その為人を知ってしまえば、武骨な優しさと面倒見の良さに多くの者が慕った。
伊作の笑顔に相手の忍びは頬を緩ませることもなく踵を返すと、再度伊作を先導して歩きだす。門の敷居をまたぐ瞬間、辺りの空気がより一層重さを増した。ああ、アイツの懐に入ったのだな、と実感する。
それは同時に、現在この戦乱の世において破竹の勢いで勢力を広げる、とある国の懐に潜り込んだのと同意語であった。
門の先には式台玄関、板間の上にある衝立には何も書かれていない。踏石に足をかける前に、音もなく数人の忍びが近寄って来て、断りもなく身体検査をされた。
一応、ここに案内される前に一通りの武具は渡していたが、信用されないのは仕方あるまい。案内役の忍びが、初めてわかりやすい表情をその顔に浮かべた。
「普通、ひとつふたつ暗器は残すものでしょうに」
呆れと困惑である。まさか本当に、すべての武器を手渡していたなどとは思っていなかったらしい。
「貴方たちはアレの部下だからね。信用しているさ」
「私どもは、あなたを信用しておりませんが?」
「かまわないよ、それが普通だ。ただ貴方たちがそうであったとして、僕までそうしなければならないわけじゃない。貴方たちの後ろにはアイツがいる。ならそれだけで十分、僕は貴方たちも信用できるというわけさ」
ち、と舌打ち。「残していたなら、それを理由に首をはねられたのに」。多分、冗談だと思うけれども。冗談に聞こえないかつ、あえて聞かせているのはちょっと性格が悪い。
しかし伊作は顔色を変えなかった。にこにこ、裏表のない笑み。忍びは気が削がれたような顔をして、それから「失礼いたしました」と小さく頭を下げた。
近寄って来た忍びたちも、数歩伊作から離れて、一礼。
「初めての客人よ、歓迎はいたしませんが案内いたします。どうぞ奥の間へ」
ちょっと底が浅すぎないか、この忍び。いや、それだけ伊作の存在が気に食わないのだろう。この屋敷は彼らにとってそれだけ重要な場所なのだ。
伊作は苦笑を必死に腹の中に納めた。案内役の忍びは見たところまだ若い。忍術学園の最高学年と同じぐらいか。案内役に選ばれたところから、決して未熟者ではないのだろうけれども。
「屋敷は広い、どうぞ離れませんように」
「もちろんだよ」
忍びの言う通り、屋敷内は広かった。廊下はどこまでも続き、左右に並ぶ襖のあざやかな色彩はこれ一枚で幾らするんだ、と庶民らしい疑問が浮かぶ。途中縁側に出れば、そこから見た庭は綺麗に整えられていて。しかし遠くの視界を塞ぐように計算されて植え付けられた木々が、全貌を悟らせない。
忍び屋敷だ。当たり前のような姿でそこに在りながら、すべてが当たり前と違っている。
さらに渡り廊下を歩かされて、一番奥の部屋まで案内された。結構な距離を歩いたが、おそらくここは母屋だろう。主夫婦の住まう場所だ。
てっきり客間――この屋敷にそんなものがあればだが――くらいで応対をされると思ったが、自分が考えるより己は彼らに、大切な存在と思われているらしい。
忍びが襖を開ける。しかし部屋に居たのは、伊作が想像する人間ではなかった。
部屋の中心、座布団の上にちょっこり正座して。歳は七、八ぐらいだろうか。
くりくりした頭、さらりとした髪、上質だが動きやすそうな衣から覗く腕は健康そうだ。ふくふくとした頬を上気させ、目はきらきらと。「お客さんだっ!」と、突然伊作に向けて突撃してきたのである。
「若様ぁっっ‼」
忍びが叫んだ。背後からも様子を伺っていたであろう数人が飛び出してくる。
「若様?」
勢いよく突っ込んできたソレを、危うげなく抱き留めた伊作は腕の中の子供を見下ろす。
「お客さんだっ! 本当にお客さんが来たっ! よし、うむっ。客人よ、よく我が屋敷へ参られた。本日はこの我が、お前を歓待してやろう。
客人はなにが好みだ? すごろくか? おはじきか? 貴公は強き忍びでもあると聞く。なんなら、鍛錬を見てやってもよい」
「若様、若様っ! いやいやいや、違います。この男は若様の御父上、御母上の客でして」
「うむ。ゆえに我が父母の代理人としてもてなそうというのだ」
形の良い眉と三白眼を吊り上げて、胸をはればさらりと前髪が揺れた。――なんか、誰かに似ている。とっても、誰かに似ている。
遠くの記憶が、手を挙げて「お~い」と伊作に声をかけた。
「文次郎と留三郎に似ているんだ…」
「?」
「いや、産めないだろ……」
部屋の中から、“女”の笑い声が聞こえた。
「奥方様」
「母上」
部屋の中、先ほど子供が座っていた座布団のうえに、いつの間にか“女”がいた。絢爛に花を散らした豪奢な打掛。その下につつましやかな小花の小紋。青みがかった髪は相変わらずの癖っ毛で、けれども艶がある。
紅をはいた小さな唇、薄付きの白粉。端正な輪郭の顎から伸びた首は細く、抜けるように白い。女っ気のない伊作ですら、見ているだけで背筋がざわついてくる。
口もとを抑える袖を下ろし、「失礼いたしました」と伏せるまつ毛までも美しい。そうしてすっとこちらを見据えられれば、つやつやとした瞳に捕らえられて…、確かに感じていたざわめきが一気に足先から脳天まで駆け抜けたのち、下半身に熱がこもる。――うっわ、マズい。
女は、色香の化身であった。
「吾子」
伊作の腹にくっついた子供が、その全身を震え上がらせ、直立した。
「鍛錬の時間ですよ」
「はいっ!」
「先生が探していました」
「はひっ」
「困らせては、なりません」
「はいぃぃぃぃっっ!」
どたどたどたっ。忍びの卵にあるまじき足音をたてて子供は縁側の向こうへと駆けだした。忍びたちが、「若様っ!」とそのあとを追う。案内役の忍びはこの場に残った。
「お客様。お客様のみ、お入りください」
「奥方様!」
女が、今度は案内役の忍びをひたりと見据えた。彼もまた、先ほどの子供のように直立の姿勢。女は何も言わない。ただ、じいっと。
数秒、そのまま。先に動いたのは女の方だ。「お客様」と、染みいるような声で伊作を呼び、白魚のような指が手招く。
伊作がそれに応えて、部屋の中に入った。案内役には悪いが、彼を外に残したまま、後ろ手に襖を閉める。女がさらに手招く――「ここへ」。
「……失礼いたします」
「そのように、他人行儀な。私どもの仲ではございませぬか。――さぁ、こちらへ」
ひら、ひら、白魚が舞う。伊作は意識して口の中を噛んだ。そうしなければ、足は勝手に動き出し、夢遊病者のように女の元へ進んだだろう。
女の元へ向かうのはいい。それが目的だ。だがそれは誘われるがままではなく、伊作自身の意思でなければならない。
「お客様」
距離があるのに、耳元で囁かれているような錯覚を覚える。
目を瞬かせるその仕草すら、誘っているのかと男に勘違いさせる蠱惑さだ。
く、く、と。より強く伊作は頬の内側を噛みしめる。そうして己の意思で、己の歩調で女に近づいた。
「ご子息がおられたとは、知りませんでした。知らせてくれたならば、お祝いを送らせていただきましたものを」
「う、ふ、ふ…」
ようやく目の前に腰を下ろした伊作の言葉に応えず、女はまた口元をおさえて笑う。小首をかしげる仕草、細められた目、小さく身じろぎしたときの衣擦れの音までも…。
――ぞわ、ぞわ、ぞわ。
どこまでも男心をそぞろにさせる。
“女”だ。
まごうことなき女が目の前にいる。こんな屋敷の最奥でなく、町中でも歩こうものなら男どもがこぞって手を伸ばさずにはおられぬ、婀娜な女がそこにいる。
女から意識を反らすように、部屋の中を見回した。十畳ほどの広い部屋だ。調度品はほとんどなく、その中央に自分たちはぽつねんと取り残されているような錯覚を覚える。
女と伊作、そうしてもう一人分の座布団、茶たくと茶菓子。アレは忙しい男だが、ちゃんと会うつもりはあるらしい。
そのうえで、あえてこの女を先に伊作に会わせた。
「…とめさ」
少し迷ってから、伊作は女に呼びかけた。しかし名を呼びきるより早く、背後の襖が音をたてて開かれる。
「よお、伊作。悪いな、ちと遅くなった」
いけしゃあしゃあとのたまいながら姿を現したのは、本日最後の登場人物だ。
この屋敷の主にして、さる国の忍び部隊、その頭領たる男。だがただの忍びで終わらず、軍略面においてもその才能を発揮し、近隣諸国からおおいに恐れられる男である。
世間には忍びでありながら名が知られ、忍びであるがゆえに顔のわからぬ者。かつての学友でなければ、伊作でもその顔は永遠に知らぬままだっただろう。
――潮江文次郎。
卒業してから二十余年。異例の若さで出世街道を進んだ男は、本来伊作がどう逆立ちしたところで、顔を合わせることすら叶うまい。
伊作もそれでよかった。学園を卒業すれば各々の道は分かれる。敵対することもあれば、共に戦うこともあるだろう。それぞれが選んだ道だ。伊作だってそうしてきた。
今世で会えずしまいになろうとも、伊作はなんら気にしなかっただろう。…彼の隣に、かつての同室がいるらしいと聞かなければ。
「仙蔵ごしに、お前が会いたがっていると聞いたときは驚いたな。お前は俺たちの同期の中では、いちばん所在が掴めん」
「別に僕の所在なんか、今のお前からしたら大した問題じゃないだろ。おっと、ないでしょう? という聞き方をした方がいいのかな」
「やめろやめろ、背中が痒くなる。昔のままでいい、俺もそのもつもりだ」
「……昔のままで、ね」
文次郎は女の横に膝を下ろすと、「相手をしてくれていたか?」と甘ったるく問うた。「はい」と答える声も甘い。(――うわぁ…)と口に出さなかった伊作は、己を褒めた。
「なにせ客人が訪れるような場所ではないからな。俺もなにかと忙しくてな。とはいえ客人を待たせるわけにもいかん。なもんで、俺の妻にそれまでのつなぎを頼んでおいたのだが」
白々しいな、わざと遅れて来たくせに。とは伊作は反論しなかった。伊作の目的をそれとなく察し、あえて会わせた。…しかし、妻か。
「ご子息が先にいらしたよ。さっき鍛錬に行ったみたいだけれども」
「らしいな」
文次郎が己の妻を見る。女は己の夫に静かに頭を下げた。
「私の躾がなっておらず、申し訳ございません。まさかこちらに来ているとは思わず、探していましたらば、私もお客様への応対が遅れてしまいました」
「ふぅん。まあ、お前への仕置きは後にするとして…」
ひく。と女の指が震えた。目じりがほんのり色づく。
「で、伊作。要件はなんだ。俺は仙蔵から、お前が俺に用があるらしいとしか聞いてないんだが」
伊作は女の方を見た。女の方も伊作を見る。その視線からは、なんら感情を読み取れない。
それから伊作は改めて文次郎と向き合った。
――大きくなったな。
そう実感する。
あの頃よりさらに鍛え抜かれ、厚みを増した体もそうだけれども。立場が、存在が、威圧感が。
群雄割拠、魑魅魍魎が蔓延るこの時代、その渦中を駆け抜けた男はもう伊作では届かぬ存在だ。
腕を組み悠々と己を見据えるこの男に、たとえ伊作がこの場で襲い掛かったとて風前の灯のごとく伊作の人生は終わるだろう。
「お前の部下を、一人貸してもらいたい」
もし、反抗と捉えられたら。害あると受け止めらえたら。気に食わぬと判断されたら。
「何も聞かず、食満留三郎を借り受けたい」
「……へぇ」
女が身じろぎした。宙に浮いた彼女の手を文次郎が優しく、けれどもそれ以上を許さぬように彼女の膝の上に押さえつける。
「しかしそいつは、俺の部下じゃないんだが…」
「駄目かい?」
「いや、いいさ。お前の願いとあってはアレも勇んで応じるだろう。日時は? 伝えておこう。まさか日程も教えられんということはないだろう?」
「そうだね、七月十五日…から遡って三日間。場所は近江の国」
「……近江、ね」
「近江、と伝えればどこに来て欲しいかもだいたい把握するだろ。――伝言、よろしく頼むよ」
「ああ、伝えよう」
文次郎はあっさりと、伊作の頼みを引き受けたのである。
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近江国、安土。
ここに、とある城がある。
天正四年より築城が開始されたその城は、その三年後に天守閣を完成させた。八角形の望楼。金箔の瓦。朱塗りの柱が眩しい。高々と天に伸びるその城は、地上六階建て、地下を入れると七階建てにもなる。この時代の人間が知る由もないが、世界最初の木造高層建築といわれている。
悪く言えば派手。しかし多くの人々は悪く語るよりも、その華々しさ、神々しさに圧倒され、言葉を失った。あとはただ無邪気に高揚し、城の主を湛えるばかり。
さらに今年の天正九年、城郭すべてが完成したことで、この城そのものも完成したことになる。
城の名を、安土城。
城の主の名を、織田信長という。
その城下町にある忍び宿にて、伊作は懐かしい顔と再会した。食満留三郎。青みがかった黒髪を茶筅髷に結い、私服は年齢に合わせてやや穏やかな陰浅葱。「ようっ」と片手を挙げてニカリと笑う様は、記憶のままだった。
「しかし伊作からの依頼とはな。今や天下人秒読みと名高い信長公お膝元で、俺になにをやらせるつもりだ?」
「知りたいのは、その信長公の周辺に関して。できるかぎりの動向と、評判。いま安土は城の完成も合わせて人が集まっている。情報収集するにはもってこいだろう?」
俺は。と留三郎は苦笑する。
「今のお前の雇い主が誰かとか、聞かないけれど。しかしお前、詳細もなにもなく俺を寄越せなんて、よく文次郎に言えたなぁ」
「留三郎が僕の頼みを断るわけがないじゃないか」
「いや、俺の方じゃなくて。ま、いっか」
後頭部を掻く様は愛嬌がある。仕草一つとっても、恐ろしいほどに変わらない。今目の前にいる留三郎は、伊作のよく知る”男”にしか見えない。
二人で情報集を始めればなお、そう思えた。
女性には優しく声をかけ、男たちとは意気投合し。困っている人がいれば手助けを惜しまず、景気の良い者は煽てあげて乗せてしまう。忍者としてのやり方もあるだろうが、それ以上に留三郎のあれは素だ。相手の懐に潜り込むのが、昔からうまい男だった。
――ゆえに、執着されるとあとが怖いのだけれども。
三日間。それはあっという間の時間だった。
情報取集の合間に、伊作は留三郎といろんなことを話した。学園のこと、学友たちのこと、この国のこと、伊作自身のこと。「聞かない」と留三郎は言ったけれども、伊作の背後にタソガレドキが在るのは、文次郎によって調べられているだろう。
正しくはタソガレドキに属しているわけではなく、どちらかといえば協力関係が近いだろうか。伊作の薬学、順忍としての素質、そのうえで築かれた人間関係や、伝手。無論、伊作自身の能力の高さも加えて、ずいぶんと重宝してもらっている。
今回もそうだった。
日ノ本国を統一するなら織田信長だと言われる昨今。しかし四国九州はまだ統一がなされておらず、本州にだって抵抗勢力が残っている。戦国は、何度も勢力図が入れ替わった。有力武将ですら、今川、武田がどうなったか歴史が示している。
タソガレドキが在るのは畿内地方であり、一応織田の勢力図に飲み込まれているが、今後の信長の動きによってはタソガレドキの動きも変わる。
しかし織田信長は裏切りを許さない。配下に滝川一益という甲賀忍出身もいる。対忍び相手でも、その動向を見逃すことはあるまい。
だから表向きタソガレドキに属していない伊作が動いているのだ。
七月十五日、日の落ちる前に忍び宿で落ち合った二人は最後の情報交換を行った。
「想定内というか、城下町で信長の悪評は聞こえてこないな。去年収束した石山合戦…。石山本願寺の件は反感を買いそうなものだが。昔、比叡山の焼き討ちとか酷かっただろう」
「流石に十年も戦っていれば、みんな疲弊する。まずは戦いを止めてくれってところだろうね。それに本願寺は比叡山と違って焼き討ちされたわけじゃない」
「本願寺は、あけ渡し後の失火だって聞いた」
「らしいね」
よく知っているなぁ、と伊作は思う。仙蔵の話を信じるならば、留三郎が世間に出られたのは、数年ぶりになるはずだ。ずっと、囚われていた。
無論、仙蔵とてあの屋敷に辿り着けたわけではない。仙蔵はフリーの忍者であり、文次郎とは持ちつ持たれつ。雇い雇われの関係を続けている。伊作とタソガレドキのそれより、友人同士の親しみがあるというぐらいの付き合いだ。
基本、仙蔵は文次郎に深入りしなかった。それが、気づくのに遅れた理由だと奥歯を噛みしめて仙蔵は言った。
留三郎が文次郎に囚われている。そして、留三郎の動向が知れない。
仙蔵はどちらかといえば文次郎びいきだから、それを跳ねのけてまで伊作にことを伝えたのは、仙蔵なりに並々ならぬ予感を文次郎に感じていたからだろう。
実際に一時期、文次郎の行状は噂で聞くだけでも酷かったから……。
「だが、反感はある。なんだろうな。触れることはできない。淀むように、深く沈んでいる」
「ふうん」
「信長公は、合理主義者だ。思考が時代に合っていない。時代が追いつけていない。だから置いて行かれた者が、その場で立ち止まって淀み続けている」
「なんだいそれ。…難しいな」
「置いて行かれた者には、寄り添えていないって話だ」
なんだろうなぁ、と留三郎は宿の中から外を見る。美しい天守閣は、城下町どの場所からもその威容を拝むことができる。そろそろ町々の灯りがつくころだが、今日はどの家も灯りをともさず鎮まり返っていた。――そういうお触れがでているのだ。
「ねえ、留三郎」
「ん?」
「もしお前が寄り添えない者の傍に居るなら、このまま逃げちゃおうか」
「……」
「タソガレドキに口利きすることもできるけれど?」
灯りのない町の頭上で、太陽はどんどん沈んでいく。隣の留三郎の顔に、濃く影がかかる。この三日間、伊作の傍にいた留三郎は、伊作の記憶のままの留三郎だった。演技ではない。留三郎が素のままに傍に居た。
だがあの日、文次郎の隣に居た留三郎は…。
「無理だ」
濃い影を残したまま、留三郎は伊作の方を見る。その陰影が留三郎の顔になんともいえぬ色を映している。まるであの屋敷で見たような。文次郎の妻たる女の。
「どうして? もしかして、息子さん」
屋敷で見た子供の姿を思い出す。留三郎の目元、文次郎の髪質そっくりな子供。吾子、と呼ばれていた。我が子、と。
だが、子供が生まれる筈はないのだ。あの女は、女の姿をしていながらに男だ。目の前の男だ。伊作の大事な友人たる男だ。子は、孕めない。
「アレは文次郎が拾って来たんだ。戦で焼け出された村で、泣いていたらしい。三年前かな? もともと俺の気晴らしもあったんだろうが、あまりに俺に懐くもんで、アイツがそのまま養子にしちまった。顔もこんなに似ているんだから、問題ないだろうってな」
「―――身勝手な」
「怒るな、伊作」
子供一人拾っておいて、気晴らしだ、懐いただ、似ているからだ。それで己だけで決めたというのか、あの男は。それは留三郎個人だけでなく、あの子供に対しても身勝手が過ぎる。
「そうなった以上、俺はあの子を愛すよ。あいつと一緒に」
「……」
日は、完全に落ち切った。灯りない世界は、完全に闇に包まれる。
「俺があいつを、愛しているのは本当だ」
「……」
「あいつが俺を、求めているのも本当だ」
「……」
「でも俺はかつて、その本当のところが見えていなかったんだな。
あいつが上に立つのに、俺が傍に居る必要はないと思っていた。俺も俺で、好き勝手やった。あいつは上に行ったし、俺は好き勝手できた。なにも問題ないと思っていたのに。
思っていたのは、俺だけか」
昔、学園に在籍していた頃。文次郎は確かに留三郎の心を射止めたけれども。卒業後、あっさりと二人は立場を異にした。
留三郎は文次郎を上に行かせるため。そして己の思うまま生きるため。
文次郎は留三郎を好きに生きさせるため。そして己の目指す先へ、かつ留三郎の望む己となるために。
この二つの思考は、似ているようで盛大にすれ違っている。
留三郎が文次郎に求めたのは理想である。
文次郎が留三郎に願ったのは現実である。
無論、文次郎がその理想に足る男であったからこそ、現在の彼の地位があるのだけれども。ただ、文次郎はちょっと生真面目すぎたのだ。彼自身、野心高く、向上心強く。常に邁進してきたのだけれども。人間、やはり甘えは欲しいのだ。
その、甘えさせてくれる誰かさんは、仕えた城がおちては行方をくらますものだから、それはやきもきしただろう。
文次郎側の堪忍袋が切れた。それだけの話だ。ただ話の先が少々人目をはばかる内容なだけで。
あの、女。
屋敷で迎えた女は、愛し尽くされた女だ。愛に溺れさせられた女だ。
全身から色香が香った。見ているだけで、ぞわぞわとするような欲をかきたてた。余すところなく愛されて、すべて甘く包み込んで。どれほど淫蕩な日々を過ごせば、あの漢らしかった彼がああも変わり果てるのか。
「仕置き」と言われた時の留三郎の顔を思い出す。あれは、期待の目だ。色欲にとろけた者の目だった。袂に見えた鬱血跡。すりあわせた膝。
いま、隣に居る留三郎の顔は見えない。
暗闇の中、彼はどんな顔をしているのだろう。明日、留三郎はあの屋敷に帰る。文次郎の女へと戻るのだ。――あの。
かっ、と宿の外に灯りがともる。
「わあぁっ」と、町中から歓声が上がった。
光源は、安土城。そして近くの惣見寺、さらには入り江の方まで。建物全体に煌々と松明を掲げて、その全貌を闇夜に映し出している。
地上では金、朱、白の城が荘厳に建ち聳え、水面ではそれを映した姿が陽炎のごとく揺らめいていた。
天正九年 七月十五日。宣教師を送り出すために行われたこの催しは、日本初のライトアップといわれている。
なんとも、派手好きな織田信長らしい話だろう。
その幻想的な風景に、さすがの伊作も目を奪われた。そうして隣の留三郎の方を見て。
「……――は」
「時間切れだ、伊作」
留三郎の体を、後ろから抱え込むようにして男がそこに居た。
「文次郎」
「しかし見事なもんだな、アレは。ここが逢引宿じゃないのが惜しいぐらいだ」
「……三日、と言ったはずだけれど? まだ日は変わっていない」
「お前の、じゃねえよ。こいつのだ」
文次郎の手が、留三郎の袂を割っている。「は、は」留三郎の息が荒い。
「三日、抱かなかったことはなかったから。辛いだろう。よくもまぁ、素面で伊作と一緒にいられたものだ。伊作に襲いかかったらどうしてやろうかと思った」
「……お前」
「俺を責めるなよ、伊作? お前だって、あの屋敷でこいつを見た時に勃ったんだろうが」
「……」
「なあ留。――浮気は、駄目だろう」
留三郎の顔が上気している。袂の中にはいった文次郎の手が、彼の胸の上を這っている。留三郎の目が歪んで、口元が緩んで。――「は、あっ…」
いま、留三郎は目の前の伊作を認識できているだろうか。
「伊作。お前の、タソガレドキの見立ては間違っちゃいねぇよ」
「っ」
「前兆は見えん。だが、だからこそ恐ろしい。行動を起こすのは、いつだって人の心だ。そして人の心を動かすのに、日数は関係ない。溜まり溜まった鬱憤は、ある日突然破裂する」
「お前が留三郎を手籠めにしたようにか?」
「元々こいつは俺のだが」
――仕事の話をしようじゃないか、伊作。
手を這わせたまま、文次郎は伊作にそう言った。にやりと笑って、その顔がやけに色っぽいのが腹立たしい。
「信長公は有能であり、同時に繊細でもあった。気配りができんわけじゃないが、少々時代にズレている。癇癪持ちも加えて、色々有り様が矛盾しているんだ。あれでは当人も生きづらかろうが、――おかげで起爆剤はあちこちに」
「そう」
「その時が来たら、つく方を間違えんことだ」
「僕は、最初に理由を聞かずとお前に言ったのだけれど」
「行先を聞いた時点で、目的はだいたい想像がつく。タソガレドキの城主は性質が信長公に近い。だからこそ、先も見える。
今の世で、信長公の終わりが想像できる者は少なかろうが…、こちらとしてはタソガレドキの見方が解っただけでも大収穫だ。
あとは、こいつから聞き出して仕舞い」
「留三郎は、お前の部下じゃないんだろう?」
「俺の妻だ」
ひくんっ、と。留三郎の体が大きくのけ反った。そのまま、全身を震わせている。――このヤロウ、さっき逢引宿じゃないって自分で言ったくせにっ。
「…い、さ」
「留」
「留三郎っ!」
「にもつ、かきおき…、持っていけ」
片手は袂に差し込まれた文次郎の手に添えて、もう片方の指が彼の荷物の方をさす。細い指だ。振る舞い方こそ変わっていなかったけれども、その体つきはだいぶ筋肉が削げ落ちていた。そこには、抱かれるための躰しかない。
伊作は文次郎から睨むように視線を外さず、留三郎の荷物に駆け寄ると、中身を開いた。折りたたまれた手紙が一枚、入っている。伊作はそれを素早く懐の中に仕舞った。おそらく、これまで留三郎が調べ、まとめあげた内容が書かれているはずだ。
「いいな、もんじろ?」
「ああ。この時代の、まだまだ続く波乱。引っ掻き回す者は、多ければ多いほどいい。お前が調べたことは、これからじっくりお前本人から聞いてやる」
文次郎は留三郎の体を抱え上げる。その振動だけで、留三郎が甘く喘いだ。
「ああ、伊作。念のために言っておくが、あの屋敷はもう無いからな。隠し家に人を招いたんだ、もう使えん。
もともとあの家は、アレ一つで忍里の機能を集約したものだ。里そのものより消すのも移動も楽だからな。だからもう、なにも残っていない」
なるほど、里を縮小したのがあの屋敷であったらしい。だからあんなに大きかったのか。おそらくあの屋敷には、伊作が想像する以上の人間が詰めていたのだろう。
「留三郎を連れてどこに行くつもりだ」
「逢引宿」
「……」
「まさか夫婦水入らずを邪魔はしないだろう?」
本当に逢引宿に行くわけではあるまい。彼の息がかかった忍び宿がこの町のどこかにあるのだ。留三郎の体は文次郎にしなだれかかっており。その顔は、すでにあの屋敷で見た女のものと重なる。
となれば伊作にはもう、彼らを留められない。
あるいはまた、いつかどこかで交わったのならば――。いや、今はやめよう。文次郎の言葉を信じるならば、伊作もまた一人の忍びとして、優先せねばならないことがある。
ただ、言うべきことは言わせてもらおう。
「文次郎。さっきお前は留三郎が時間切れなんて言ったけれども、どうせお前の方が時間切れだったんだろう」
「さて、どうだろうな」
「今回の件、お前は僕を利用して、留三郎がきちんと調教できているか確認したんじゃないか? 手を離しても逃げで出さないか、ちゃんと戻って来るか。でも戻ってくる前にお前の我慢が切れた」
「……」
あてずっぽうだけれども、間違ってはいまい。昔から、留三郎に関しては異様に我慢の利かない男だったから。
「……あまり仙蔵に、怒ってやるなよ」
「この件にあいつは関わっちゃいない。関わりのない者を怒るもなにもないだろう」
「相変わらず仙蔵には甘いなぁ。その優しさを、留三郎にもわけてあげてくれよ」
「優しいが?」
伊作は肩をすくめた。これ以上は平行線だ。
「じゃあね、留三郎、文次郎。次の再会を楽しみにしておく」
「外で“曲者”が待機していた。俺たちが出たあと招いてやれ」
「文次郎。お前ほんと、いつから僕らをみはっていたのさ」
「想像に任せる。あと、此奴は俺の弱点にはならんとも伝えておけ。その見極めもかねて、お前との合同忍務を許したんだろうが、当てが外れたな。
――じゃあな、伊作」
ひら、ひら。留三郎が伊作に向けて手を振った。
文次郎は留三郎を抱えたまま、窓から飛び出る。安土城の灯りのおかげで、夜道に迷うこともないだろう。そもそも、忍びが夜に迷う程間抜けなことはない。そうして、淫蕩な夜を過ごすのだろう。
あの、調教されきった体で文次郎を受け入れるのだろう。
「わかっているし、留三郎を利用させるつもりもないよ。
……しかしこれ、仙蔵にはどう報告しよう」
この後まだまだ続くであろう波乱だとか。
タソガレドキへの報告だとか。
そんなことよりも、旧知の友への報告の方が今の伊作にはよっぽど気が重かった。
本能寺の変が起きたのはこの翌年、天正十年六月のことである。