「我らが世界の産声を此処に」おまけ ――熱が、体の中に未だ燻っている。
甲と丙の交合は、発情期中おこもり状態になって行われる。数日間に及び、熱が冷めるまで獣のごとく交わり続ける。
学生時代は、一晩明かせば抑制剤を飲んで抑えていた。
しかし、婚姻が結ばれてしまえば抑制剤を飲む必要はなく、ただ、熱を。ただ、淫らに。ただ、相手を求めるがままに。
思い返そうとした思考を、留三郎は追い払った。あまりに恥ずかしすぎる。変わりに、目の前で眠る男の裸身にすり寄った。――潮江文次郎。留三郎の夫となった男。
目の下の隈は、相変わらず。生活は不規則なくせに、髪はさらりと艶やかだ。陽に焼けた肌、学生時代より厚みを増した腕、胸。頬に触れて輪郭をなぞれば、その奥のがっちりとした骨格が伝わって来る。――俺の男。俺の甲。俺の番。
次いで己の項に留三郎は振れた。指先に触れる凹凸は、目の前の男の歯形だろう。頑丈な歯だ、一生消えずに残り続ける。
番。運命の番。
正直、そんな小難しいことは未だによくわかっていない。ただ、目の前の男が愛しいのだと、少なくともこの男ならば己や己の実家を蔑ろにはすまいと信じられるから。
――此度の件を、お前が憂慮する必要はない。
留三郎が嫁ぐと決めた日の、父の言葉だ。
――いずれこのようなことは大なり小なり、なんらかの形で起こっただろう。それほどまでに、甲を産む丙というのは意味がある。
父の隣で、母が静かに寄り添っていた。
――それでもお前が選び、お前が望むならば、お前の家族一同、お前の意思を尊重しよう。
家族、一同。
輿入れ当日。輿に載せられこの潮江の屋敷に着くまで…。家からは妹と母が見送った。父と次兄が輿に付き添った。二人は宴会にも呼ばれていたはずだ。こういう家では乙が甲と同じ席につけるものではないが、文次郎の兄がそれを押し通したらしい。やるではないか、あの男。いや、義兄か。
輿の道中は、流石の留三郎もいろんなことを考えた。考えていたはずだが、おかしなことになにも思い出せない。ただ、起こったことなら。
道中一度、輿が止まった。
「最後の眺めだぞ」と次兄が輿の御簾をあげ、見せてくれたのは昔兄弟でよく遊んだ樫の木だ。木登りは長兄が一番上手で、次兄、留三郎は最後。妹はいつも下から自分たちを眺めていた。思えばただの経験の差だが、当時の留三郎は悔しかったものだ。
今ならば、どうだろう。
もう、木登りで遊ぶ歳でもなくなってしまった自分たち。
次兄の指先、樫の木は記憶のそのまま。そのてっぺんからはやはり、記憶のまま、得意げな顔でこちらを見降ろす長兄の姿。――ああ。
「なにか言葉は?」
次兄が留三郎に聞いた。
「ありがとう、と」
「直接言ってきてもいいぞ」
「この格好では、もう登れません。周りには潮江の方もおりますゆえ、嫁が大声を出せば驚かれてしまいます」
「あの馬鹿兄貴、格好つけるからだ。――俺が登って、ここまで引っ張ってきてやる」
「兄上も、せっかくの衣服が汚れてしまいます」
「なるほど、とことん笑い話にしかならん」
次兄は迷わず、樫の幹を蹴り飛ばしたのである。食満家一同、足癖が悪い。
かくして多少怪我を負った長兄も、宴に参加することとなった。
なんのことはない、留三郎があれこれ考えるまでもなく兄たちは兄たちなりに、己の心に結着をつけていたのである。
改めて、留三郎は思う
「俺は幸せだ」
世界は、こんなにも美しい。
留三郎の周りの者たちは、いつだって己で道筋をたて、世界を形づくってきたのだ。そしてこれからは、自分たちの番。
「――そうなってもらわねば困る」
目の前の伴侶が、目を開く。起きていたのか。もとより気配には人一倍聡い男だ。気づかれぬまま、とは確かにいくまい。
「うちの兄貴が、ずいぶんといろいろやったようだな」
「知っていたのか?」
「薄々と。許せとは言わんし、殴るなら止めんが…、あれでなかなか複雑な人だ。俺の、尊敬する兄でもある」
殴るのは、止めないのか。そういえばまだ殴っていなかった。流石に婚姻の場で憚られたからだが、一応文次郎立会いの下で一発殴らせてもらおう。
「せめてもの罪滅ぼしだそうだ。お前の周りは、うちの兄とお前の兄の妻たちが教育、世話役で入る。下働きも新しく雇うことになった。あとお前への伺いは基本、俺か兄を通して行われる。
お前は籠の鳥を嫌がるだろうが、しばらくは大人しくしていてくれ」
つまり甲種信仰甚だしい親類縁者を、徹底して留三郎の周りから排除するつもりらしい。
正直、留三郎としては不本意である。親類縁者と思いっきり勝負をするつもりだったのに。
「お前に腹芸ができるか、バカタレ」
そんな留三郎の内心を悟ったのだろう、額にデコピン一発。それから肢体を抱き寄せられた。熱い、吐息が漏れる。わずかに燻った熱が、ぶり返してくる。おかしい、発情期の期間はもう過ぎたはずなのに。
むきだしの、肌と肌。触れあう肢体と心。
運命の番なんてわからないけれども、項を噛まれたとき何かが変わったと思った。己が、目の前の男が、そのつながりが、すべてが。
愛しさが張り裂けて、己のすべてで男を求めた、あの時間、あの瞬間。世界のすべてがひっくり返るような衝撃と、衝動。
胎を撫でる。
ここに命を宿そう。ここから新たな世界を育もう。そういえば、なぜ堕胎薬など持ってこようと思ったのだったか。自分たちには必要ないというのに。
さあ、――我ら、死が二人を分かつまで。
וַיֹּ֥אמֶר」 אֱלֹהִ֖ים יְהִי־א֑וֹר」
(神はおっしゃられた「光あれ」
『旧約聖書 創世記1章3節』)