死者の妄言、生者の真言(後) ではお待ちかねの大詰め。
まさに、あの屋敷が焼け落ちる、その日のお話をいたしましょうか。
朝、昼、夕、それはいつも通りの日でした。夏の気配が色濃くなる時分。
私は留姐と一緒に、衣替えを着々と進めておりました。
左吉さんは昨日から帰って来ていて、お昼にはお土産の水菓子をいただきました。
御屋形様は左吉さんとなにやら難しいお話をしていて。
屋敷の中は、ちょっと寂しかったですね。私が来た頃、屋敷の者は最低でも十人は詰めていたのですが、一度一気に出ていって、その日は五人ぐらい。
留姐は御屋形様の世話もして、私はやることがなければ屋敷内を歩き回る。そうして就寝時間になれば、各々の部屋へ。屋敷内は一気に鎮まり返って。
月の無い、夜だったと思います。
なにが、最初だったか。
ものが焼ける匂い。
慌ただしい物音と声。
弾けるような音。
留姐が、私の部屋に駆け込んできました。留姐は私の姿を上から下まで見ると、私の腕を掴んで部屋の外へと連れ出そうとします。
「火事だ、逃げるぞ!」
私は自分の荷物をひっつかむと、留姐に引かれるがまま廊下に出ました。
塀の向こうで、竹林が赤々と燃えています。弾けるような音は、竹が熱で破裂する音だったようです。
廊下の向こうから、駆けてくるのは左吉さんでした。その手には、長柄の槍。
「お前、なんでこっちに来た、アイツの傍になんで行かない!」
「僕が、あの方の傍に居ないことがおかしいですか?」
左吉さんは、その槍の先端を留姐に向けました。
「僕はあなたを問いただしにきたのです」
「……」
留姐が、私を背後に隠しました。
「先ほど、隠し通路のひとつから敵がなだれ込んできました。厳重に、隠していたはずの路です。さらには迷いなく、御屋形様の部屋へ向かった。
最近は、城の周囲が殊更きな臭いということで、屋敷の者たちも少ない。こんな、都合よく。――内通者がいるはずです」
留姐が、腰を落として懐に手を差し込みました。
「内通者は貴方ですか、食満先輩」
留姐は、それの問いには答えませんでした。
「あいつの元に敵が向かったてんなら、なんでお前はここにいる」
「それは…」
「敵襲があれば、なりふり構わず逃げを優先しろと命じられているからじゃないか」
「貴方はっ!」
「生きろ、左吉。お前が尊敬するアイツが、それを望んでいる」
留姐は私の体を肩の上に、後ろ向きに抱え上げると、左吉さんに背を向けて一気に駆け出しました。人一人抱えていると言うのに、驚くような速さです。
左吉さんが追いかけて来る姿が、どんどん遠ざかって。さらには――どごおぉっと轟音が。竹林の火が屋敷の屋根に燃え移って、一部が崩れてきました。それは、私たちと左吉さんを分断するかのように…。
留姐が私を下ろしたのは、古井戸の前です。もう使われいない、枯れているはずの井戸。
留姐は改めて私の姿を上から下まで見て、さらに私の袂の中に、小さな袋をねじ込みました。
「最低限の荷物は持ってきているな。ならばそれを売るなり、あとは好きにしろ。お前ならできるさ。生きていける。この井戸から外に出ろ。」
――ああ。
私は頷きます。そうして古井戸の淵から乗り上げて、内側にある――解りにくいように細工はされていましたが――足場に足をかけて。
留姐はそんな私を見て静かに頷きました。それから私に背を向けて。
気が付けば、いつぞや見た黒づくめ、それと同じ格好の者たちが古井戸を、私たちを囲っていました。
留姐が、ずっと差し込みっぱなしだった袂から腕を抜きます。黒くて長い、鉄の棒が二つ連なったものを取り出しました。
「この俺を聞いていないかっ! 無駄な命を散らしたくなければ、即刻去れ‼」
私は、足を止めません。急ぎもしませんでしたがね。足を踏み外せば井戸の底で死んでしまいます。だから、それなりに長く留姐の姿を見ていました。
留姐が、鉄の塊を振るって敵に突っ込んでいくところ。囲んでいた敵の幾人かは古井戸の方まで来て、けれども留姐が投げたなにかがその喉を貫くところ。
悲鳴、怒声。複数の人間が、一気に留姐に襲い掛かるところまで。
私の足はどんどん井戸の底へ向かって、地上の声はどんどん遠ざかって。途中、隠してあった路に潜り込んで…。ええ、底まで行く必要はありませんね。そこまで行くと死ぬと言ったでしょう? あれ、落下死じゃないんです。串刺しなんですよ。竹槍がつきだしているんです。
それでもまあ、私のあとを追ってくるものも。足を踏み外して串刺しになる者もいなかったので、留姐はうまくやったのでしょうネェ。
井戸の隠し通路を出た先は、村を見下ろす山の中腹でした。小さな洞窟に繋がっていましてね。そこから出て村の様子を見やれば――全部燃えていましたよ。
村も、田んぼも、私の実家がある辺りも、もちろん竹林も、屋敷も。なにもかも。轟々、轟々。派手なもんです。
あとはどこの者ともしれぬ軍隊。軍隊、というには規模が小さかったですが、とにかく見たこともない旗を掲げた武者や黒づくめたちが、まだ焼けていないところに火をかける。まだ生きている者たちに刃をむける。きっと、知っている誰かだったでしょうね、あれ。
さて、長々と失礼いたしました。この話はこれでお終い。これ以上のお話はありません。あのあと、留姐や御屋形様、左吉さん、他の屋敷の者たち。あの人たちがどうなったのか、まったくわからず仕舞いですね。
あとは、あの旗の軍が隣国のものとわかったぐらいですか。なんでもうちの国と前々から戦をしていて、お殿様の代替えに便乗して強襲をかけてきたとか。
それでなんで、あんな山々に囲まれたような田舎村までやってきたんでしょうネェ。
――ほ、ほ、ほ。
私ですか?
私はそのあと、逃げるようにその場から立ち去りました。向かった先は宿場町のひとつでね、あのとき持ち出せた荷物と、懐に入れられた金子。そのおかげで、なんとかなりましたよ。
留姐が授けてくれた技術、御屋形様が教えてくれた文字。これらは商家で大層重宝もされましたしね。戦で村から焼け出された娘です、と名乗れば同情も受けた。
割と、ただの村娘であったころよりいい暮らしをしていましたよ。
え? ならなぜ今村にもどっているかって。
まあ、それは。
あの大火の日、案の定父も母もあんなにいた姉兄らもみんな死んでいて。それでもわずかな生き残りが村を立て直していたんですね。それを、人伝てに私は聞きました。
まあ、それは故郷のことですから。私にもなにかできるやも、と村に戻ってまいりましたよ。
私が町で得た財産、商売の繋がり、もちろん屋敷で得た知識や技術だって。村を発展させるのに、十分に役立ちました。とくに籠はね、留姐に教えてもらったアレは、今じゃ村の一大産業ですよ。あんなに貧乏だったのにネェ。――ほ、ほ、ほ。
もちろん、私も重宝されておりますよ。村長様ですら、私に頭があがらないんだからっ。
…しつこいですネェ。
本当に、あの人たちのその後は知らないんですよ。生きているのか、死んでいるのか。村長様曰く、あのあと屋敷の焼け跡からいくつか死体がでてきたそうなので、その中に“在った”のやもしれませんネェ。
さすがに村長様は、あの屋敷について多少は知っていたようですよ。もっとも私が知る以上の情報はもっていませんでしたがネェ。ほほっ…。
それにしても驚きましたネェ。
留姐が内通者だったなんて。あんなに御屋形様と仲睦まじくあったのに、裏切者だなんて。―――ほ、ほ、ほ。
――――――なんと、言いましたか?
内通者は私だろうと。旅の方、今そう言いましたか。まったく、なにを根拠に。…え?
「留三郎はお前が内通者だと気付いていただろう」
……。
「だから火をつけられたとき、逃げ出す支度が整っていたお前を確認した。お前を古井戸まで連れて行った。お前はそこを知っていたな? 留三郎は、『この井戸から外に出ろ。』としか言っていない。
なぜお前は、底に竹槍が詰まっていることを、途中に隠し通路があることを知っていた?
普段から、そこから外に抜け出していたからだろう」
………。
「文次郎も気づいていたはずだ。だからお前を試すために竹林の外へと誘った。もっとも、お前はその時点ではまだ外に出ていただけで、内通者ではなかったが。
そうしてお前を見張りもした。文字を教えるという名目で。アレは、いつだって無駄がない」
……旅の方。
「お前は空いた時間に屋敷を歩き回っていた。その隅々まで知り尽くしていた。あの屋敷な忍び屋敷だ。さらには長い歴史で増改築を繰り返し、住まう者たちですら全貌を把握しきれていなかった。お前はそれを知っていた。
ここまでのお前の話を聞いていればわかるよ。
例えばそう、隠し通路、罠、種々の仕掛け、のぞき穴」
ねえ、旅の方。ねえ、私の話を聞いてくださいな。
「それに、特定の部屋の音を聞く伝声菅。これの説明はいらないな。お前の十八番だ。部屋と部屋を筒で、先端には広げた円錐状の管を繋ぐ。
お前は全く別の場所に居ながら、これまた別の場所の声を聞けた。
そうでなければ、気配に敏感なあの屋敷の者たちの言葉をそこまで聞き取ることは不可能だったはずだ。」
ねえ、ちょっと前にも言いましたね。私、あなたを知っているような気がするんです。
「お前が傍に居る状態で、『城』だの『殿』だの、まして閨事まで。あいつらは聞かせたりはしないさ。ああちなみに、お前の言う牛とは、丑のことだ。穴丑という」
ほ、ほ、ほ。ふふふふ…。
「すまん。実は私は意地の悪い聞き方をしたのだ。土産の件だ。
加須底羅と金平糖。正しくはカステイラとコンフェイト。南蛮菓子はただ高価なだけじゃない。特に後者は手に入れるだけでも“格”がいるんだ。
いくら佐吉でもおいそれと手が出せるものじゃない。
左吉は最後の方、かなり頻繁に屋敷を出入りしていたから、土産の数も相応。文次郎のことを思って飽きぬようにと種類もまたしかり。
それだけあれば、記憶が混ざっただろう?」
……。あは、あはははははははっ。
「あの菓子をお前にあげたのは私だ。お前のもつ屋敷の情報と引き換えに」
老けられましたなぁっ、お侍さまぁああぁぁアアァァアッ‼
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ねえ、留姐。
ねえ、留姐っ‼
あなたはなんて酷いのでしょう。私がすべてを決めた日。あなたに絶望した日。きっとあなにとっては、なんてことのない閨のひと時。
あぁっ!
『全部、覚悟は決めた。俺も、すべてを賭ける覚悟をした。殺される覚悟も、お前に沿う覚悟も』
あはっ。あははははははっっ!
あなたが私に生きることを示したのにっ。あなたが私に生きる術を教えたのにっ。他ならぬあなた自身が死を見つめていた。初めからっ。私に希望を見せたあの日から、すでにっ‼
私の屋敷探索は、最初はただの冒険遊びのようなものから、すぐに本格的なものとなりました。仕掛け屋敷とでもいうのですかね。ひっくり返る壁や、抜ける床。遠くのものが見える筒に、聞こえる穴。いくつかは屋敷の者たちに止められましたがね、逆に止められないものは屋敷の者たちすら知らぬ場所、知らぬものとすぐに知れました。
おかげで随分と、屋敷のことに詳しくなれましたよ。ええ、あの古井戸もそんな最中にみつけたものです。留姐も、よくあの井戸に気づかれましたねぇ。間違えて落ちればあの世だというのに。私ですか? まあ、好奇心と運が良かったのですねぇ。足場にさえ気づけば、そう難しいものじゃありません。
そうやってちょくちょく外にでていたこと、さて何人がきづいていたやら。まあ、遠出もしませんでしたしね。あの洞窟に出て、村を眺めて、戻る。それだけです。
一度だけ、村に近づいたことがあります。それがすべての転機。
二人組の侍が私に気づいて話しかけてきました。一人は癖の強い夜色の髪。もう一人は顔に傷の目立つ榛摺の髪。どちらもなかなかの長身。
夜色の髪の男は気さくで、優しく私に話しかけてきました。
――あの屋敷の者か、と。
山の傍から村に近づかず伺う私を訝しんだようですね。そうして私の存在に覚えがあった。村で聞いたんでしょう。
以降、時折の話し相手になりました。それが次第に内容が奥まったことになってきて、ええ、私も気づきましたよ。あ、これはなにか、いけないことに加担させられているな、と。
どちらが先に切り出したものか。どちらが最初でもなかったかもしれません。
自然と、問い、答え、その関係が出来上がっていました。とはいえ傍から見れば菓子を片手に談笑する旅の侍と村娘にしか見えなかったでしょうね。
ま、村人にはみつからないようにしましたが。屋敷の者たちはなおさらです。
はい、知っていた隠し通路を教えました。
御屋形様の寝所も教えました。
屋敷内の仕掛けだって教えました。
屋敷の人数が少ないことを教えました。
そうして襲撃の日を教えてもらいました。教えてもらった日よりも早かったですがね。信用しなくてよかった。逃げる準備はとっくに万全。私がいつも使っている古井戸はあえて教えずに。まあ、その古井戸に迷わず連れて行った留姐は流石でしたけどねぇ。
抜け道のなかで、一番村から遠い場所に出る道だったからですかね。
ねえ、留姐。
ねえ、ねえ、――留姐ッ!
あなたは私を裏切者と言いますか? でもね私にとってはあなたこそが裏切者。
しょせん、あの屋敷で私は死に行く以外の未来はなかった。
私を無事に解放することはなかった御屋形様。私を雇うことを決めた左吉さん。そして結局あなたすら、死を見つめていた。あなたの死に、私すら巻き込まれる可能性があったのにっ!
――死にたくない。死にたくないっ‼
あなたが言ったんだ。
『生きたい者だけが生き、生きている者だけが決め、生かしたい者だけが行動する』
生きてやる。生きて、生きて、生きて、生き抜いてやるっ。お前らのために死んでなどやるものかっ。お前らと死出と共になどしてやるものかっ。
どんなに生き汚かろうが。裏切者と罵られようが。私が生き、私が決め、私が行動する。
死にたい奴は、死んでしまえ! そうなれば、ねえ?
そうなれば留姐、ねえ?
死者は黙るしかないでしょう。死者は生者を罵らないでしょう。死者は生者を…。
生きる者だけが、私を責められるのですよ。ねえ。ねぇ、留姐っ。
留姐ェ…。私、ここで生きているから…。
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「狂人だぁっ‼
殺されるっ、誰かが助けておくれっ‼‼ 狂人がいるよ、助けてぇ!」
中年の女が叫んでいる。髪を振り乱し、なりふり構わず必死に。その声を聞きつけて、村人たちが集まって来る。手には鍬、鋤、鎌。武器になりそうなものすべからく。かの女は、この村の発展に助力した。十分な資金と、産業と、商屋へのつなぎと、知識、術。彼女がいなければこの村の富はなかっただろう。その彼女の叫びに応えない者などあろうか。
男も女も、誰もかれもが目を血走らせていた。いっそ、彼ら彼女らの方が狂人にみえただろう。
件の狂人は山に逃げたようだ。追わねば、役人につきださねば、いやいっそ殺さねば。
山探しだ。これから日も暮れる。松明をたけ、狂人を逃がすな。
猛る村の様子を見下ろしながら、七松小平太は「たまらんなぁ」とぼやいた。“彼ら”がいるのは狂人が逃げたと思われる山、その真向い。逃げた先を誤魔化すなど、忍者の基本である。
しかし本当に、かなわない。
こちらとしては荒立てるつもりはなく、昔の知り合いとして少しでも穏やかに話を進められたらと思ったのだ。最初に名乗らず話を進めたのは、女の、かつての娘の様子を伺うためだった。小平太の後ろに控える長身の男が首を振った
「正体を明かすべきでは、なかった」
もそもそ。と、聞き取り辛い声は昔のままだ。中在家長次。小平太と同じ派閥に所属し、少し前までは小平太の部下だった。
「そうは言うがな、長次。もっと込み入ったことを聞くには必要だと思ったのだ。こういう言い方はなんだが、私たちは共犯者だろう」
「それは、向こうからすれば触れて欲しくない過去だろう」
「あの頃、わりとノリノリに見えたんだがなぁ」
それは、かつてあの女が娘だったころ。むしろ食い気味に自分たちの話にのってきて。聞いていないことまでぺらぺらと。こんなの雇って大丈夫か、と敵対関係にあった小平太の方が心配になったぐらいである。
「にしても、狂人はないんじゃないか?」
「おそらく、口封じに現れたとでも思ったのではないか?」
「今更っ」
「それだけ…、何年たっても忘れられぬほど、あの娘の中では凝(こご)っているのだ」
「罪悪感を持つぐらいなら、加担しなきゃいいのに」
「彼女の不幸に付け入ったのは我々だ。忍者だからな」
そうだけどぉ。と小平太は唇を尖らせる。上に立つ者となってからは長く見ることのなかった仕草。地位を辞して身軽になったからか、最近はよく昔の仕草を見せるようになった。
「罪悪感か。左吉があの子の内通を見落としていたのは、やはり罪悪感からか?」
「単純に罪悪感というなら、あの屋敷にいたもの全員がそうだろう。筆頭は左吉だが、留三郎も、文次郎も」
「ん~~~~」
「だから決行の日まで、誰もあの子を問い詰めなかった。気づいていながら、それが確信となれば、それこそあの子を殺さねばならないから」
「そういう甘さは、昔のまんまだなぁ」
少し羨ましい。そう小さく小平太が呟けば、長次は肩を竦めただけだった。別に小平太が非道になったわけではない。すべて必要だったからだ。すべて戦だったからだ。
情を挟めばその瞬間、そこを突かれて瓦解する。そんな時代だったのだ。
「あと左吉自身は、あの襲撃を自分のせいと思っていたやもしれん」
「なんでだ、あの子を雇ったからか?」
「留三郎を雇ったことも含めて、だ。そう考えると左吉の罪悪感は少し深い。娘にも特に同情もしていたようであるしな。
娘が疑わしいことに、本当にまったく気づかなかったこともないだろう。だが、可哀そうな娘だ」
「なるほど、だからわざわざ二人一緒にいるときに問いかけたんだな。留三郎に問いかけつつ、娘さんの様子もうかがっていた」
不器用なことだ。娘が彼らのそんな優しさに気づいていたなら、結末は少しは変わっていただろうか。いや、変わらなかっただろう。結局のところ、あの娘の何よりの望みは「生きること」であって、それはあの屋敷がその役割のまま存在する限りはかなわないものだから。
「だが、あの子のおかげで屋敷内のあいつらの姿が見えてきた」
長次が、静かに頷く。彼女の話にあったのは、かつての友を、あるいは後輩の姿を思い起こさせるものだ。
自他ともに厳しく、そのくせどこか子供っぽい文次郎。情が深く何者も見捨てられない留三郎。文次郎に逆らえない生真面目な左吉。
各々が各々、この戦国の時代において名を馳せ恐れられた者たちとは思えない、穏やかな日々。
特に文次郎は。
かつてこの地にあった国。その国の戦を支える一本柱とまで言われた男だ。ただの忍びとしてだけではなく、軍師としての才能もあった。戦う者としてもだ。忍びの名が知れ渡るのは悪手だが、文次郎は己の名をうまく使った。
正体の知れぬ、謎の男。忍衆を纏める忍頭。裏に表に、国を支える者。実態がないままの、噂の一人歩き。
だが、噂だけでとどまらなかったから厄介だったのだ。
いくつの国が、彼の手腕によって敗れただろう。あるいは恭順せしめただろう。ついに小平太の国とぶつかることが決まった時、かつての友と命を賭けた戦いをお互いに覚悟した。長次もだ。
結果は、文次郎側の砦の一つを落とし、そこで膠着状態。その砦が落ちる際に文次郎が大火傷を負ったと知った。小平太の手を使えば、その行く先を突き止めるのは不可能ではない。そこで文次郎の怪我の程度も知れたのだ。
「もし私に間違いがあるとすれば、最初っからかなぁ」
「お前は、間違えてなどいない。思ってもいないことを口にするな」
「長次は甘いなぁ、そして誰より私に厳しい」
文次郎をこのまま死なせるのは惜しいと思った。命を賭けて戦うと決めたのに、このまま怪我の末に逝くなどと。叶うなら、万全の状態で戦いたかった。
だから小平太は穴丑を使って、留三郎に文次郎のことを伝えたのだ。その時点で、留三郎は背後の小平太に気づいただろう。
だが、留三郎は文次郎の元へ行った。必ず行くと思った。留三郎を内通者にしようとは思わなかった。それを条件にすれば、それこそ命を賭して抵抗しただろう、アレは。
「留三郎は、文次郎の命を救った」
小平太の思惑は成った。戦の最中、小平太のそんな身勝手が許されたのは、小平太にそれだけの地位があったからだ。決定権があった。
名門、七松家の当主。その地位の程度を語るのはやめておこう。
ただ、小平太自身は弟の誰かに家督を譲って、自分は一介の忍者として気ままに過ごすつもりだったのに。あの弟妹たちもよくやったものだ。国と、配下たちと、ついでに長次までも抱き込んだ。おかげで小平太は国に帰り、祭り上げられ、望まれる以上の戦果をあげてきた。この辺は余談である。
「腕がなくなったのは、私も驚いたが。アレの強さはそれだけじゃない。そして生きることは決めたのなら、またどこまでも強くなっただろう」
「そうだな。この結末を悔やんでいるのか、小平太」
「いや、それはない」
幾度でも言おう、戦だったのだ。
この国が代替えを迎えた。息子同士が当主争いを始めた。現当主は高齢だが存命で、しかし子らに甘かった。
これが平和な御世ならいいだろう。しかし当時は戦国。まして小平太の国と戦の最中である。そんな中でそんな状態に陥れば、攻め行ってくれと言っているようなものである。
だがそこで、無視できないものもある。
文次郎の存在だ。あれが城に合流されるとまずい。だから城を攻め落とすその日、文次郎のいる屋敷も同時に攻める予定だった。
想定違いだったのは、予定より早く文次郎の屋敷に担当の将が攻め入ったことだ。
万全を期せ、落ち着いていけ。そう命じたはずなのに、功を焦った馬鹿者が指定日より早く村に、屋敷に、火をかけた。
「…文次郎が屋敷の存在を知られていながら、移動しなかった理由はなんでだろうな」
「色々、想像できるものはある」
「やっぱり、思ったより体がきつかったんだなぁ」
「それも、ひとつだろう」
場所の知れている屋敷。屋内の、それも仕掛けも豊富な建物の中と、護衛の数が相応に必要であろう移動と。どちらがより安全かと言われれば前者だろう。
まして怪我人を運ぶのだ。怪我人自身の体力が尽きては話にならず、無論運ぶ側も慎重になる。人が増えれば目立つ。悪いことばかりだ。
そしてもし文次郎が捕まったのならば?
頭は通常通り。しかし杖がなくては動けぬ体。文次郎の頭の中には、城や国の情報が隅々にまで蓄えられており、捕まって自白剤でも吸わされたら目にも当てられない。その前に自害しそうなものだが、その対応に想像がつく小平太なら、自害させる前の対応も思いつく。つくづく、あの戦は小平太と文次郎のものだったと思い返さずにはいられない。
「あの娘の命も、想った」
長次の言葉に、小平太はうなずく。屋敷を出るなら、娘は必要ない。別の隠れ家にわざわざ案内してやる必要はない。戦える留三郎ならまだしも、娘は移動中に荷物になるだけだ。だから、殺さねばならない。あの娘は、娘自身が思う以上に、薄氷の上に立っていた。
だが、あの屋敷にとどまる限りは娘を殺す必要はない。
なにもせず、安全なままに解雇せよ、というのは屋敷内のことを知りすぎた娘には無理というものだ。あの屋敷は、やはりなんのかんといっても隠されたもの。
雇われた時点で、生きて返すことは許されない。それが忍びの考え方である。
「あとは単純に、誘った。現状を探ろうとした」
「留三郎が来た時点で、その背後に私たちがいることは想像に難くなかっただろうからな」
留三郎も、ちゃんと疑われていたはずだ。大半の屋敷の者たちにとっては、やはり留三郎は怪しい部外者なのだ。
とはいえ文次郎自身は早々に留三郎の行動理由も、小平太の思惑も見抜いていたはずだ。竹林の散歩に留三郎を誘ったのは、その最終確認と、ついでに見張りの者たちに留三郎の無害さを見せるため。仮に留三郎が本当に内通者だったとしても、彼を利用して小平太側の動きを察知するぐらいはしただろう、文次郎ならば。
以上すべて、同時に文次郎が城に戻れなかった理由でもある。とくに怪我がいけなかった。行きたいのに、生きたいのに、戦いたいのに、文次郎が行動をおこせば須らく死に消える。もうアレは、自国の先が見えていただろう。
「あ~あ。とはいえ、これで打ち止めか」
ぐでん、と小平太は行儀悪く土の上に寝ころんだ。いつもならそれを咎める長次も、今や地位を捨てた小平太にはなにも言わない。
「生きているかな、死んでいるかな?」
「当時、道は全てこちらの軍が埋めていた。立ち寄りそうな宿場町、他の隠れ家、首がみつからぬと後日山探しまで…」
「うん、そうだな」
あの女は屋敷で死体がみつかったと言ったけれども。あれはぜんぶこっちの軍の者だ。屋敷の者にやられたのか、屋敷の仕掛けに捕まったのか。
あの女が娘だったころに聞いた仕掛けとは、まったく違う仕掛けがいくつかあった。後日改めて調べれば、これまた知らない隠し通路もだ。
「やるなぁ、文次郎」
当時、小平太は呵々大笑したものだ。あれは、須らく準備をしていた。生きるための準備、逃げるための準備。新たに仕掛けを作り、新たに抜け道を作る。
娘は屋敷の隅々まで知り尽くしたと思っているだろうけれども、娘にも絶対に調べられない場所がある。件の御屋形様の部屋だ。まさか、人目を盗んでその部屋に忍び込むわけにもいくまい。ならばその部屋に駆け込んだ部下たちの末路は言うに及ばずだ。
ついでに、あの娘と同じくらい暇だった者がいる。これまた、文次郎当人である。動き回れるようになって、屋敷の中で歩く鍛錬をしていたあの男。忍びたるあの男は娘以上に効率よく、自分たちでも知らなかった仕掛けを確実に見つけ出し、そうして新たに仕掛けの作る場所を決めただろう。留三郎もいるのだ、そこに仕掛けを作るのは難しくなかっただろう。
そういや左吉の同室は伝七だったなぁ、と小平太は思い出す。元作法委員会だ。作法といえば天才トラパーとからくりコンビの片割れ。となれば左吉とて罠に関するなんらかの手ほどきを受けているかもしれない。
「ぜったいに楽しかっただろうなぁ~~~~」
「小平太」
「羨ましいぞ、文次郎っ、留三郎っ!」
私も混じりたかった! などと無茶苦茶なことをのたまう。罠づくり、それはとっても楽しいのである。特にそれに思惑通りに敵がハマった時など。
そして実際に、こっちの軍の幾人かはハマっていたのである。担当者はあの後しっかり叱り飛ばした。肝心の文次郎を逃がしているので、お叱りで終わったのはだいぶんに甘い。
「生きているかな、死んでいるかな」
また、同じことを小平太は呟いた。
常識で考えれば、たとえ隠し通路を使って屋敷から逃げ切れたとて、この国から脱出できたとは考えづらい。いや、あの夜自体を耐え抜いたこと自体が信じられない。
周辺の山は深く、夜を進むのは自殺行為だ。けが人がいるならなおのこと。そうして、道は封鎖され、山探しもされている。戻るべき城はとっくに落ちていた。
後日、人相書きは国中の村や町に配られ、関所は硬く固められた。報奨金だって出た。
届く情報はいくらでもあれど、そのすべてが肩透かし。死体すらも見つからない。あれから二十年余、未だその消息は掴めぬままだ。
仕えていた国主やその後継ぎの、さらし首の前にすら現れなかった。
いや、木っ端は幾人か釣れたけれども、本命は影も形も現さなかった。
「過ぎた月日を思うなら…。伊作の元にも、仙蔵の元にも、伝七の元にもいないというのなら。やはり死んでいるのかなぁ」
今更、小平太が彼らを探そうと思ったのは、彼が身軽になったからだ。地位があるままでは、自由に動けなかった。しがらみが多すぎた。
ようやく、後継ぎに全て任せられるようになったのだ。
「小平太、思ってもいないことを口に出すのはよせ」
「…ん」
小平太はようやく起き上がると、着物の土を払う。
「あのさ、長次。実は私、ひとつだけ思い当たるところがあるんだ」
もそ。と長次は小さく呟いた。小さすぎて、肯定だったのか否定だったのか聞き取れない。
「忍術学園」
灯台下暗し。あそこほど、世から身を隠す忍びが安全に過ごせる場所はない。
「長次、私はまだ駄目か?」
こて、と小平太は首を傾げた。
「なぜ、私にそんなことを聞く」
「長次がずっと。ここに来てからも尚、ず~~~っと。文次郎たちを心配している素振りを見せないから、だな」
娘の話を聞いただけならば、その生死如何はまだしも、再会は絶望的だろう。あの娘が、最後の繋がりだったのだから。それ以外は、すでに調べ尽くした。
「忍術学園は、隠された箱庭だ。戦国の時代においても、場所を変え、カタチを変え、存続せしめた。大川学園長が亡くなって、その基盤は緩んだと思われたのに、跡をついだ山田先生は、それを見事に引継ぎ、守った。
最近、忍びの世界である噂がある。数年前、そこに新たな学園長が就任したと。
それは、片腕の無い、片側包帯の男だと」
ついでにもっと前。就任した教師の中に件の学園長と、三角眉の男と、柔和な顔の男がいただとか。
だが、小平太ではそれ以上踏み込めなかった。小平太の地位が高すぎた。付き合いは、つかず離れず最低限に。下手に近づきすぎればお互いのためにならない、それほどまでに。
だが長次は元をただせば小平太の部下ではない。便宜上部下だけれども、小平太は友だと思っている。そしてこの情が深く頑固者の友は、割と自分本位で行動するところがある。そういうときは、友である小平太の存在ですらガン無視である。
だがもう、小平太は地位を降りた。まだまだ国元から便りが来るけれども、全部破り捨ててある。あとは、当事者たちの問題だ。ここから先は、廃れようが栄えようが、当人たちが進んで行き、決めることである。
そんな小平太の様を、長次は小平太が地位をおりてからずっと見てきたはずだ。
「どちらにしろ、アレが学園長に収まった時点でいつまでも隠せることではない」
長次が、むすっと顔を引き締めた。機嫌がいい時の彼の顔である。小平太が年甲斐もなくその場で飛び上がった。そうして長次の手を握りしめる。
「よし行こうっ! 今すぐ行こうっ‼
酒、土産、ああでも今すぐ会いたいっ。いいんだな、長次。もう、いいんだな!」
「ああ、小平太。お前はよく頑張った。お前で最後だ」
「やはり仙蔵も伊作も知っていたのだな。いや、もうそんなことはどうでもいい。
案内してくれっ。今となっては、私は詳しい場所すら知らないんだ」
「もちろんだとも。――我らが、友よ」
眼下の村は、まだまだ騒がしい。
あの娘は、娘であった女は、これから先も罪悪感を抱えて生きていくのだろうか。
夜のとばりが落ちるころ。この空の下では、またどこかで戦が起こるのだろうか。
織田信長や豊臣秀吉など、戦国を駆け抜けた多くの武者は彼岸へと立った。徳川家康が石田三成を制し徳川幕府を開いて数年。巷では次に、主君であるはずの豊臣と対峙するだろうと噂がある。
戦国とは、下剋上の時代だ。戦国は、まだ終わってはいないのだ。
だがもう、己らには関係がないこと。
地位も立場も捨て去れば、あとには今を、ただ生きる者たちが残るまで。
『生きたい者だけが生き、生きている者だけが決め、生かしたい者だけが行動する』
すべからく、この世は生者ものである。