「利華ちゃん」
都心の某ハイクラスホテルのラウンジ。眼下に広がる忙しい街など目もくれず、隣で涼やかに笑う彼女を見つめ、その名を呼んだ。
勝ち気そうな目元をたたえた、美しく品のある顔立ち。艶やかな濡羽色の長髪に、すらりとした体躯。美貌だけではなく、どんな話題にも合わせてくる知識と教養。それでいてこちらの会話を楽しませようとする話術。
所作のひとつをとっても瑕ひとつない完璧な、しかしどこかまだ幼さの残る少女──利華。
彼女とはとある筋からの紹介で出会い、報酬と引き換えに食事の席を共にしている、いわゆるパパ活の関係にある。
今まで出会った相手は一度きりの関係にしていたが、利華と出会ってからは彼女だけを指名し続け、食事の回数は二桁になろうとしていた。
彼女と出会った倶楽部──マッチングエージェントは、ごく少数の富裕層を対象とした、性的接触を禁止するものであった。しかし利華の魅力に憑りつかれた私は、ある執念を抑えられずにいた。
(彼女と素肌を合わせられたら、どんなにか──)
意を決して、しかし努めて平静を装いながら、声を落として利華へと口を開いた。
「……そろそろ、私たちも頃合いじゃないかと思うんだ」
「え……」
彼女の切れ長の目が驚いて丸く見開かれる。
「ここの部屋を用意しているんだ。どうかな」
「でも…それはちょっと」
当然、狼狽する利華の前に、厚みのある茶封筒を差し出した。開いた口からは相当額の現金が覗いている。
「お金の問題じゃありません」
利華は金に糸目をつけないような普通の子とは違う、とは思っていたが、逡巡する間もなく返答されて少し驚いた。パパ活など、金銭の必要がなければ手を出すことではないからだ。やはり、倶楽部の禁止事項に抵触するような要求は呑めないということだろうか。
「と、いうと」
「怖いんです。……私、その、経験がないので」
一瞬、彼女の言葉を理解できず、思考が停止する。
つまり。利華はまだ、未通の処女ということ。
それを理解した瞬間、ばくばくと全身を血が巡るのを感じた。
手にした金、地位、名誉。全てを失ってでも彼女が欲しい。彼女の人生に自分を、刻みつけたい。絶対に、一度きりの経験を私のものにしたい。
震える手を鞄に突っ込み、先ほどと同じ厚みの封筒を掴むと上に重ねた。
いつものこちらを見透かすかのような蠱惑的な瞳と打って変わり、不安そうな利華の双眸をじっと見つめながら語りかける。
「金額の問題じゃないことはわかってる…これは誠意だ。絶対に、いい思い出にする。信じてくれないかな」
口を噤み、しばらく躊躇ったあと、封筒の上に添えていた私の右手に利華の白く華奢な両手が重なった。
「わかりました…■■さん、なら」
連れ立ってラウンジを出、ホテルのロビーを抜けて予約した部屋へ向かうべく、エレベーターを待った。
早く彼女を私のものにしたい。そう思いながらも、腕を回した利華の胸からとくとくとした心音が伝わってくると、この時間が永遠に続いてほしい気すらする。
平静を装い、階数表示を見つめていると、不意に腕から利華の体温が離れた。
驚いて顔へ視線を向けると、蒼い顔をした利華がひそめた声で耳打ちをした。
「まずい…兄です」
「"利華"ちゃん?」
振り返るより先に振ってきた声の主のほうを見やる。
そこには、若いスーツ姿の男が立っていた。
すらりとした高身長の利華よりも上背がある自分から、さらに頭ひとつ分はありそうなほどの豊かな体格をしている。
利華に引けを取らないほど端正な顔つきをしているが、目鼻立ちはあまり似ていない。
利華のつんとあがった勝ち気な目と違って、兄のほうは丸く愛嬌を感じさせる目元をしていた。
男は母に似、女は父に似るというやつかもしれない、なんてことを考えていた。
「お兄ちゃん」
「…その人は?」
「大学の講師の先生。さっきまで他の子も一緒だったんだけれど、私がお見送りに来たの」
「そう」
「ええ、どうも…」
「お世話になりました。…ほら行くよ」
利華の咄嗟の出まかせに話を合わせていると、男が彼女の手を引いて立ち去ろうとする。
追いかけることもできず立ち尽くす私に、男に悟られないよう数瞬こちらを振り返った利華が会釈をした。
なんと運の悪いことか、と拳を跡が残るほど握りしめる。
もう少しで、彼女の柔肌に手が届いたのに。
しかし焦ってはいけない。また時期を整えて会おう。彼女の覚悟が揺らがないうちに。
◇
その夜、利華から届いたメッセージを前に、私は目の前が真っ暗になった。
[■■さんと私の関係が兄にばれてしまいました。
ごめんなさい。
もう会わない代わりに■■さんのことも不問にすると言っています。
絶対にご迷惑はかけませんから、安心してくださいね。……]
◇
セダンの車窓を夜のぎらぎらとした街並みが横切っていく。
ワイシャツの腕を捲り、ハンドルに手をかけて運転する半助のとなり。助手席で、利子はひとつ伸びをすると晴れやかな顔で半助に笑いかけた。
「いつも助かります、お兄ちゃん」
「……君なあ」
心底呆れた声色が返される。
それもそのはず、突然の利子の呼び出しは今に始まったことではなかった。食事を重ね、一線を超えようとする面倒な相手が現れると、決まって半助を呼び出してはそれを口実に縁を切る。もう何度も繰り返されたパターンだった。
半助と利子に血の繋がりはなく、きょうだいのように育った幼馴染だった。出会った頃から半助に抱いていた憧れは、いつからか恋心に変わり、ある時ついに利子は半助へ想いを告げた。
しかし半助は、頑として利子を異性として相手にすることはなかった。一方的に想いを寄せ続けた利子は、いつからかこの歪んだ行為を通して半助の愛を確かめるようになっていた。呼び出しに応じてくれるうちは、半助は自分を特別気にかけてくれているのだ、と。
苛立ちの隠せない様子で、ハンドルに回された左手の人差し指がトントンと叩かれるのを利子は恍惚の眼差しで見つめた。
半助の苛立ちを逆撫でるように、いつの間にか渋滞にはまった車は一向に身動きが取れなくなる。好都合とばかりに、利子は運転席の半助に喋りかけた。
「私が処女だって言ったらいくら払ってくれたと思います?お兄ちゃんが真面目に働いても何ヶ月もかかる金額を、ぽんって」
「…そんな金で何するつもり」
「やだな、受け取るわけないでしょう。無駄なトラブルは御免です」
「お金がいらないなら、何でこんな──」
「お兄ちゃん」
シートベルトをめいっぱい伸ばし、利子は半助の耳元で囁いた。
普段は利子のこの手の接触を避けようとする半助も、運転席に縛り付けられていては身じろぎも取れずにいる。
「……」
「お兄ちゃんになら、いつだって奪われていいんです。他の男の人が喉から手が出るほどほしがっているもの、お兄ちゃんだけが手に入れられるんですよ」
「…呆れた」
「もう、呼んでも来てくれませんか?」
わざとらしく肩を竦めてみせると、利子は再び助手席に収まった。
「来ないならそれまで。私がどこの馬の骨ともしらない男に股を開いて、暴かれても──」
言い終わらないうちに後頭部のあたりにガンと衝撃が走る。
見ると、青筋を立てた半助の手が、助手席のヘッドレストをぎりぎりと音をたてて掴んでいた。
半助の冷たい双眸に、縫い留められるように利子は口を噤む。
「利子ちゃん、あまり私を怒らせるな」
それだけ言うと、半助は運転席へ居直り、渋滞を抜けた車を静かに発進させた。