👹🔪勇次郎は他人からの視線に敏感だった。たとえば百獣の王ならば、瞳だけで相手を威嚇し勝利する。目は口ほどに物を言うという言葉があるように目線は生物におけるコミュニケーションの大部分を担っているのだ。
様々な感情を孕んだ視線を向けられ慣れている勇次郎にとって、目だけで相手の思考を読み取ることなど造作でもない。特に欲情なんてものは得意分野だった。恍惚とした眼差しはいつだって勇次郎を興奮させる。生物としての本能を満たそうとするその感情は、喧嘩と同じようなスリルを味わわせてくれる。
とはいえ、だ。
それを息子から向けられていることに気付いたときは流石のオーガでも困惑した。
「……なんでいんの」
居間であぐらをかいて座る勇次郎を見て言い放った刃牙の言葉は、あまりに冷たいものだった。
小さい時はもっとかわいらしかったのに、という常套句の意味をやっと理解できた。少し前の刃牙ならば勇次郎の存在に怯え落ち着かない様子を見せていたというのに、親子喧嘩を終えてからの彼はずいぶん精神的に成長したように見える。親を殴るという行為はやはり子を変えるものなのだろうか。
「自分の家に帰ってきて何が悪い?」
「べつにいいけどさ……、一言くれたら片付けくらいしたのに」
一般的な親子らしく。刃牙はちゃぶ台を挟んで勇次郎の前に腰を下ろした。かくいう勇次郎も正しい親子の形を知っているわけではないのだが。
刃牙は頬杖をついて勇次郎がてきとうにつけていたテレビを眺める。唇を尖らせつんとした表情を見つめて戸惑っているのは勇次郎の方だった。
これまでの刃牙から向けられていた感情が恨みだったことはひしひしと感じていた。理由は聞くまでもない。
しかしそれこそが刃牙を成熟させる糧となり、いつの間にか息子の拳は勇次郎へ届いていた。それを受け止めたときに見えた刃牙の眼差しは。欲しかったものを手に入れた子どものように無邪気で、悪戯をするときの猫のように艶かしい。その心中の正体を勇次郎は知っている……。
「刃牙」
声をかければ「なに?」と一瞬だけこちらを見る。ぱっちりと開かれたその瞳の中に父親の存在はどう写っているのか。
「抱いてやろうか」
実の父から発せられるべきでない言葉に刃牙の瞳孔が少しだけ動くがすぐににやりと口角を上げた。この顔を勇次郎はよく見てきた。バレちゃった、という表情だ。焦っているくせに余裕ぶるその姿は昔から何ら変わっていない。
たとえばこれが喧嘩だったならば、勇次郎も楽だった。刃牙の動きが丸わかりな状態で、彼が次の手をどう出しどう楽しませてくれるのか心が弾んだだろう。だが今の勇次郎には刃牙の次の言葉すら予測ができない。その勇次郎の微かな焦りがわかってしまうほど、刃牙は大人になっていた。
「好きにしたらいいじゃん」
実の息子に好意を向けられればあの勇次郎でさえも困惑することを、実の息子だからこそわかる。そこで彼が選んだ行動は勇次郎を煽ることだった。実質手を出しても負け、出さなくても負け。勇次郎が体験したことのない負け試合へと持ち込んだのだ。ざわ、と勇次郎の長い髪が揺れた。
「親父さ……」
「なんだ」
もったいぶる刃牙に勇次郎は明らかに動揺していた。膝に置かれていた両手に力がこもるのを見て刃牙はやっと口を開く。
「俺ってそんなに母さんに似てる?」
ぞくりと背筋が凍る感覚のあとで勇次郎の髪が逆立った。思いもよらぬ刃牙の発言は、勇次郎の気分を害するのには充分すぎた。手の動きを追う暇もなくちゃぶ台に置かれた片方の拳がテーブルにヒビを作っている。
刃牙は動じなかった。勇次郎へ抱いている感情は決して恋という言葉なんかで片付けてはいけない。これは罰なのだと、父親に罪を背負わせる覚悟は刃牙にはとうの昔にできていた。
「たまに俺の髪を撫でるよね。それで長さが足りないことに気付いて切なそうにするんだ……昔からね。だから髪を伸ばしてたんだけど、やっぱり遺伝かな。伸ばすほど俺は母さんに似てくる」
正しく愛情を注がれることができなかった刃牙にとっては母親からの叱咤も父親からの暴力も、どうだってよかった。刃牙は自分という存在が彼らに認められていることを愛だと錯覚することでしか自分を保つことができなかった。それが間違いだと早い段階で気付いていても、それを修復する術はない。
母を殺した勇次郎の顔を刃牙はよく覚えていた。ぼやけた視界に映る勇次郎がはじめて見せた表情は今でも忘れない。その表情を次に見ることになったのは、刃牙の髪が伸びてきた頃だった。
なぜ勇次郎が母を殺したのか、刃牙には未だに理解ができない。だから父は母ではなく息子を選んだ__そう思い込むことにした。その思い込みが刃牙を狂わせたのだ。
気付けば勇次郎への恨みは消えていた。代わりに別の感情が生まれた。この世界に強者として生まれ落ちて、満たされることなく生きていく可哀想な人。愛を知らない哀れな人。同情はいつしか哀れみへ変わり、そうして恋慕へと落ち着いた。
愛を知らない男の血を引いた、同じく愛を知らぬ者として。勇次郎から向けられるすべてを愛だと間違えて、恋へ落とし込んだ責任はしっかりと取ってもらうつもりだった。
「あんたが今俺を抱くってことは、母さんを抱くってこと。だってそうでしょ?俺が好きだなんて一言も言ってないもん」
一生苦しめばいい。刃牙はにっこりと笑った。
自分を満たせる存在はこの世でたった1人。実の息子。一方で実の息子は自身へ許されない感情を向けてくる。逃げられない血の繋がりに怒ればいい。息子の前から消えて、満たされないことに気付いていつでも帰ってくればいい。その度に苦しむのだ。
「いつからそう生意気になったんだ息子よ……」
勇次郎は腕を伸ばした。怒りで浮かんでいた血管が消えたその大きな手を刃牙の頬に添える。
「俺はお前の親父だぜ。好きだなんてちいせえことを言うな。俺はいつだってお前を愛してる。だからな……」
「えっ」
刃牙の後頭部へ回された手はそのまま頭をちゃぶ台へと押し付けた。ガァン!という音と同時にちゃぶ台にぶつけられた刃牙の額からは血が流れる。
「勘違いするんじゃねェ。お前はお前だ」
怒りの滲んだ目で見下ろしてくる。しかしその怒りは真っ当なもので、嫌に父親らしくて。刃牙はぷいと顔を逸らした。その時点で負けていた。
「今更そういうこと……」
刃牙が小さいころからずっと欲しかった言葉。
自分は勇次郎のためのおもちゃではない。オーガの倅なんかではない。範馬刃牙、なのだと。認めて欲しかった。他の誰でもない両親に刃牙として接してほしかった。
「遅いよ、全部遅い、親父なんて嫌いだ」
「俺は愛してるぜ」
ふわりと頭を優しく撫でた手でそのまま刃牙の涙を拭う。
その手付きは慣れたもので。前のようにそこにあるはずのない髪を探す動作はなく、しっかりと刃牙に触れていた。