蒼春5昨日のことで片桐先輩に会うのが嫌で、学校を休んでしまった。そもそもこんな状態で行ってもろくに授業を聞けるわけがない。
熱を出したということにして同じクラスの友人にメッセージを送ったのだが、一人のアカウントなのに別のクラスメイトが記名して『お大事に』とどんどんメッセージを送ってくる。ずる休みが申し訳なくなって、明日はちゃんと行こうと決めた。
テーブルには昨日のお茶がそのまま残っている。自分の分と片桐先輩の分と。それを見る度に昨日のこと———ひいては昔のことを思い出して気分が悪くなり、トイレに駆け込んだ。
それからのことはぼんやりとしか思い出せない。気付いたら手にピアッサーを持っていて、パチンと音がして左耳に鋭い痛みが走った。自傷行為なんてもうやらないと思っていたのにまたやってしまった。今ので何個になったんだったか。まだ片耳で5は無いはず……。
フー……とため息をつく。ズキズキと痛む耳が嫌なことを考えそうになっても邪魔してきて、逆に思考がクリアになる。
テーブルの上のお茶を片付けて耳を消毒した後、スマホを手に取ってカメラを起動した。
『新しいの開けてみた』
この一文とさっき撮ったピアスの写真、それから適当にタグを……いつも使っているのを付けて、しっかり写真から身バレしないか確認して投稿。首から下じゃあないしそんなに伸びないだろうなと思いながらスマホを閉じ、深呼吸する。自傷行為の肯定は良くないと分かっていても、いいねが飛んできて承認欲求が肥大していった結果、逆にSNSに上げないと病むようになってしまった。
スマホをテーブルの上に置き、床に転がって昨日あったことを考える。夕飯を食べて、それから食後にダラダラしてたらキスされて、襲われそうになって……軟骨を更に、しかも無理やり開けたからか頭が痛くなってきた。
いい先輩だと思っていたのに裏切られた気がする。確かにやたらとボディタッチが多くて可愛い可愛い言ってくる人ではあったが、あの時まで不快な触り方はしてこなかった。
……そもそも、本当に不快な触り方だったのかと怪しくなってきた。頭を撫でるまではいつも通りで、身体を這う手も『あの人』ほど雑な触り方ではなかった。慣れてる……んだろうな、実際。
……今ピアスを開ける瞬間まで嫌だったのに、全部が全部、心の底から嫌だったと本心では言えないかもしれない。
そう気付いて変な笑いが出た。
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その翌日。いつもより早めに家を出て靴箱で靴を履き替える。そこで出会ったクラスメイトにもう大丈夫なのか聞かれ、適当に返して二年の靴箱のエリアの壁に背を預けた。ちらちら見られるが流石に仕方ない。スマホを触って時間を潰そうかと考えたが……
「…………春樹 」
目の前から待ち人の声がして、スマホをポケットにしまった。
「おはようございます、片桐先輩。話あるんで、荷物置いたらこの間の教室で待ってますね 」
声は震えていなかっただろうか。それだけ告げて、床に置いた荷物を持って自分の教室に向かった。顔を合わせたら絶対逃げないだろうし、『来てください』と言うより『待ってます』と言う方がこの人には効果がある。入学してから三ヶ月……ほぼ毎日顔を合わせているからなんとなくわかってしまうようになった。
自分のクラスでも下駄箱でしたのと同じような会話をして、カバンを置いてスマホとあるものだけ持って空き教室に。程なくして片桐先輩もその教室に現れた。二人きりになると少し動悸がするが、ため息をついて少し落ち着く。
「あのさ、春樹……この間は本当にごめん 」
「ああはい、いいんで謝らなくて。多分許さないんで謝っても無駄ですから 」
そう言い放つと一気に悲しそうな顔になった。まさかレイプしようとして許してもらえるとでも思っていたのか?
まあいいや、と思いながら机の上に置いていた紙袋を持って提案をした。
「許さないんですけど、条件付きで無かったことにしてあげてもいいですよ 」
「……できんの、そんなこと 」
「完全にはちょっと難しいですけど……まあ……」
ん、と手にした袋を差し出し、持ってもらった。何これと中を取り出すと出てきたのは弁当。いっぱい食べるだろうなと思ってご飯と大きめのおかずを詰めてきた。
「今日のお昼、一緒に食べましょう。それ完食してくれたら無かったことにしてあげます 」
「……なんか入れてんの?」
「美味しいものだけ詰めてます 」
怪訝そうな表情で眺めて、片桐先輩は席について弁当を開く。食べ物の匂いがふわりと広がって、朝食を食べた自分も少しお腹が空いてきた。
「今食べる 」
「お昼ご飯なくなりますよ 」
「いい。買うから 」
いただきます、と手を合わせて片桐先輩はまず唐揚げをつまんだ。ヤンニョム風のタレの絡んだそれは今日の自信作だ。
「……ん、辛っ 」
「辛いの駄目でした?」
「いや、嫌いじゃないけど辛くないの想像してたから 」
ご飯を挟んで今度は玉子焼き。これは少し焦げたけど中が半熟っぽくなって上手くできた気がする。
「唐揚げが辛いから甘い系にしてみたんですよ 」
「これも美味い……?」
「……お醤油とかお出汁濃いめとかそっち派でした?」
「いや……なんか全部美味しいから……?」
「失礼な 」
何を疑っているのか何かを考えながら一つ一つ食べている。たまに不思議そうな顔をしながらひと品口に含んで、「美味い……?」と首を傾げた。
「そんな食べ方するならやっぱり無かったことにしませんよ 」
「すんません、ちゃんと食べます 」
ペットボトルのお茶をテーブルに置いてやると、それを三口ほど飲んでまた箸を手に持った。大きく口を開けて弁当とご飯を口に詰め、咀嚼して飲み込む。だんだん美味そうな表情になるのと喉が動くのをみて、やっぱり嬉しくなってきた。
「美味しいですか?」
「めっちゃ美味い 」
「そりゃ良かった 」
頬杖をついて眺めて、満足してきた。やっぱりあんなことがあっても、美味いって食べてくれる表情が嬉しくてそちらの気持ちの方が大きくなる。
「ごちそうさまでした 」
「はい、お粗末さまでした 」
「ほんと美味かった。玉子焼きも柔らかかったし、キャベツでツナマヨ包んだやつもあれ好きだわ。……でもお前、朝起きたくないって言ってなかった?」
「起きたくないですよ、そりゃ。でも……」
と言ったところで言うのがなんか嫌になった。別に好きな相手でもないのに、美味そうに食べる顔をまた見たいから弁当を作ったなんて言いにくい。片桐先輩は「でも?」と聞き返してくるが言えるわけがない。
「……なんでもないです 」
「そっか。まああんがとな、春樹 」
そう言って頭を撫でられ体が強張った。もう大丈夫だと思っていたのに恐怖の感覚が反芻して心臓がどくどくと激しく動き出す。
「……あー……そりゃ、無理だよな 」
「……別に、無理とは言ってないですけど 」
「言ってなくても怖いんだろ。意地張んなって 」
「だから怖くないですって……あ 」
ご飯粒ついてる。流石に顔がいい人間をこのまま帰すのは申し訳ないため手を伸ばし、ご飯粒を取った。その間片桐先輩は「えっ何?」と不思議そうな顔をしていた。ティッシュは持ってないし、紙袋に捨てるのもちょっとな……なんて思って、ぱくっと口の中に収めた。
「……なあ、それわざとやってんの?」
「は?何が 」
「いやさぁ……まあ、なんでもないわ 」
片桐先輩はニヤニヤしながらこちらを見ている……。なんのことかわからなくて聞こうとしたら予鈴が鳴った。
「っと……んじゃ、昼また迎えに行くから 」
「わかりました。じゃあ先輩、勉強頑張って 」
「お前もな、春樹 」
空き教室から自分のクラスへ。丸一日空いただけなのに久々に話せたような気がして、なんだか少し嬉しくなってしまった。