繋ぐ、想い『伊作先輩』
そうやって、こちらの名を呼んで笑うあの子が愛おしかった。
『ああ~……せっかく摘んだ薬草が…』
降りかかる不運にも負けずに、前を見続けるその目が好きだった。
『伊作先輩』
『お慕いしております』
顔を赤くさせて想いを告げてきたあの子のことを抱き締めたかった。
でも、僕はそんなあの子のことを──。
ふっと意識が浮上する。目の前には見慣れた天井。障子から差し込む光によって、今が朝なのだと理解した。
「………ゆめ…」
眠気からくる気だるさを振り払って、よいしょと声を出しながら身を起こした。衝立の向こうを見てみれば、同室は既に居ないようだった。また鍛練にでも行っているのだろうか。起こしてくれてもよかったのに。
……いや、もしかしたら留三郎も落ち着いていられないのかもしれない。だって今日は。
「…いい天気だ」
自分達の卒業式なのだから。
*
六年間過ごしてきた学舎から卒業するのは、なんとも言えない感慨深さがあった。
下級生達は涙ながらに同級達に今までの礼を告げ、言われた彼らはそれに笑顔で応対した。それは伊作も同様だった。特に保健委員の後輩達は、それはもう号泣しながらこちらにすがりついて離れなかった。そんな光景に心があたたかくなりながら、これからも忍として学び続ける彼らに激励を投げ掛ける。もう自分には、それくらいしか出来ないから。
そんな、騒がしいとも言える賑やかのなか。伊作は視線をさ迷わせながら、とある人物を探していた。
乱太郎。
あの子とは、告白されたあの時からいたっていつも通りに過ごしていた。包帯を巻いて、薬草を採って、何気ないことを話して笑う。そんな当たり前の日常が過ごせることが伊作はなによりも嬉しかったし、あの子の優しさに甘えてしまっている罪悪感も感じていた。
乱太郎の気持ちはずっと前から知っていた。いつからかあの純粋な眼差しに恋慕の色が乗せられるのに気がついてからは、それはもう飛び上がるほどに嬉しかった。
そして同時に思い悩んだ。まだ幼い彼の将来を、自分が摘み取ってしまってもいいのかと。乱太郎にはこれから先、数えきれないくらいの出会いがある。その中に、良い娘さんが居るかもしれない。そうして夫婦になって、子が居る喜びを知って、普通の幸せを得る。いずれ来るかもしれないそんな未来を、こちらの勝手な感情で潰してしまってもいいのだろうか。
……それは、ダメだ。
好きだからこそ、あの子には幸せになってほしい。たとえその隣に自分が居なくても。
そう結論づけたからこそ、受け入れないという選択をしたのだ。
「はあ…」
あの夢を見たからか、卒業だというのに気分が沈む。
後悔、しているのだろうか。いやでもあの子のためだと決めたのだと、頭を振った。そんな伊作の元へ、遠慮がちな声がかけられる。
「あの、善法寺伊作先輩」
「…きり丸?」
声の主はいつもなにかと話題の中心になる後輩のもので。そして彼は、乱太郎の同室でもあった。
「ご卒業、おめでとうございます。……それで、あの」
「うん、どうしたんだい?」
「……乱太郎のことなんですけど」
その名前を出されて、心臓がドキリと跳ねた。
顔を見せない後輩。一体どうしたのだろう。まさか体調が悪いとか?いや、昨日は元気そうにしていた。で、あれば。
遂に、嫌われてしまったのかもしれない。
当たり前だ。むしろそうなることが遅すぎた。今まで普通に話してくれていたことが奇跡のようだったのだ。その優しさに胡座をかいていたのは、紛れもなく自分自身だった。
「あいつ、あっちの誰も人が居ないところに行きました。会いに行ってやって下さい」
ぐるぐると渦巻くマイナスの思考に飲み込まれそうになった伊作を正気に戻したのはきり丸のそんな言葉。顔をよく見てみれば、後輩は思いの外真面目な表情で伊作を見ていた。
「俺は先輩が何を考えて、どんな理由であいつを突き放したのかは分からないですけど」
「それでも、先輩が乱太郎を見つめる眼差しはずっと見てきました」
「行って下さい。それで、もう一回あいつときちんと向き合って欲しいんです。…お願いします」
そう言って、頭を下げたきり丸。そんな彼の、友人を思う気持ちを真正面から受けた伊作は。
「……わかった」
今度こそ、逃げてはいけないのだと決意した。
*
学園には、大きな桜の木がいくつか植えられている。そのなかの一本、忍たま達が集まっている場所から離れた木の下に、探し人は居た。
「乱太郎」
伊作の呼びかけに、彼が振り返ることはなかった。それを特に咎めることもせず、隣に並び立つようにして近寄った。
桜を見上げる。透き通るような青空を背景にした桃色は、ため息が出るほどに美しかった。
「伊作先輩」
「うん」
「ご卒業……おめでとう、ございます」
述べられた祝辞は、涙で濡れていた。
ああ、僕は最低だ。こうして乱太郎が自分のとの別れを惜しんでくれていることを、嬉しいなんて思ってしまう。
「先輩は、戦場医になるとお聞きました」
「うん。色んな所からスカウトはきてたけど、これが僕にとって一番いい道だと思ったんだ」
「今後学園には顔を出すんですか?」
「それは…どうだろう。今はまだ何も分からないかな」
風が吹く、桜が舞う。その景色の一部となり、最後になるかもしれない乱太郎との会話。
隣を見ることはしなかった。見れば、きっと抑えられなくなってしまうだろうとわかっていたから。
「伊作先輩」
「うん」
「好きです」
「……え」
予想もしていなかった二度目の告白に、バッと隣へと顔を向けた。伊作の視線を受けた乱太郎は「やっとこっち見てくれた」と悪戯っ子のように笑っていた。
どうして。
「どうして、って顔してますね」
「……そうだね」
「私、あれからずっと考えてたんです。考えて、考えて。一人だとぐちゃぐちゃになったから、きり丸とシンベヱにも相談しました」
だからきり丸はあんなに真剣な顔をして伊作の前に立っていたのか。他でもない、乱太郎のために。
「でも、それでも伊作先輩が考えてることが分からなくて……この気持ちをどうするか、すごく悩みました」
「…悩んだ結果が、さっきの?」
「はい」
そう言った乱太郎の顔は晴々としている。そして大きく深呼吸をしてから、まっすぐと伊作を見つめた。
「この想いは、きっと先輩には迷惑なのかもしれないけど」
「それでもこれを捨てることなんて私にはできませんでした」
「多分、これから立派な忍者になっても、おじいちゃんになっても、私は伊作先輩を好きになったことを後悔なんてしないです」
「伊作先輩」
「好きです、大好きです」
「ずっと、あなたのことが好きなんです」
その、眩しいほどの恋情は。伊作にとって、泣きたくなるほどに嬉しいもので。生涯、手放したくないと思ってしまうものだった。
「乱太郎」
「はい、なんです─っ⁉︎」
衝動を抑えることをせずに、小さな身体を力一杯に抱きしめた。細い肩、ふわふわとした癖毛。自分よりもずっと小さくて、守るべき存在。
うん、諦めよう。
自分はどう足掻こうとも、この愛おしい存在を手放すことなんてできないのだと。
「い、伊作先輩……?」
「乱太郎」
「はい…?」
「僕も、好きだよ。乱太郎のことが」
一度身体を離し、視線を合わせるようにしてそう告げれば、メガネで隠れている瞳は大きく見開かれた。そしてすぐに水膜が滲み歪んだ。信じられない、と言った様子だった。
「うそ…」
「嘘じゃない。ごめんよ、僕が臆病なばかりに辛い思いをさせてしまった」
「せんぱい」
「許してくれなんて都合の良いことは言わない。でも、信じてほしい」
「ひぐ、う…っ」
とうとう堪えきれなかった涙は、乱太郎のまろい頬を伝って流れていく。その光景に目を奪われながら、なんとなく勿体無いと思い雫を口で掬い上げた。
「ひゃあ」
まさか舐め取られると思っていなかった乱太郎は、素っ頓狂な悲鳴をあげて顔を真っ赤に染め上げた。そんな姿も可愛いななんて、抑えることをやめた脳みそが場違いな感想を思い浮かべた。
「な、舐めっ……!」
「ごめん、つい」
「びっくりしたじゃないですか!」
もう!と怒る顔すら可愛い。あ〜、どうしよう。この子がこんなに可愛いなんて。
同級に聞かれれば「三禁!」と叫ばれそうなことを考えながら、未だ真っ赤な頬をするりと撫でる。その感触に、びくりと肩を震わせる乱太郎。そんな彼に伝わるように、伊作はゆっくりと言葉を紡いだ。
「五年…いや、三年待って」
「え…?」
「遅くともお前の卒業までには、どうにか環境を整えてみせる。だから乱太郎」
乱太郎の隣に居る権利を、どうか僕にくれないかな?
そう言って告げた、自分の本心。少しばかり時間を置いて理解をした愛し子は、泣き笑いをしながら伊作に抱きついた。