【不在の記し】 その晩は私のほうが早寝をしてしまったが、彼のほうは随分と夜更かしをしたらしい。同じ床から起き上がれば、隣で水上が安楽な寝息を立てている。
──眠レナイ。
──私が眠るまで片時も離れずにいろ。
昨夜の私は、少しおかしかった。
微熱が出ていた所為もある。
疲れていた所為でもある。
言い訳は山ほどあるが、田端の駅から会津に戻ってくるまで、私は生きた心地がしなかったのだ。汽車から降りて小さな駅舎に水上の姿を見つけたとき、ようやく地に足のつく心地を覚えた。行クナ。と、何度もひきとめた腕を払って出かけた阿呆の私を。意気揚々と「真実を見てくるのだ」など言った恥知らずな私を。水上はたったひとこと「おかえり」と迎えただけで、他には何も聞かなかった。
夜半過ぎまで雨音に紛れて何をしていたのかは、記憶にある。
夢中で縋り付いた水上の腕が、私の蜘蛛の糸であったのも。
その後、私は眠ってしまい、水上はしばらく起きていたようなのである。
──極楽はちょうど、朝なのでしょう。
まるで水上の語り口のような陽の光が、雨戸の隙間から一筋、二筋こぼれている。その先に私のものではないが、中身はよく知っている手帳が閉じておいてあった。
見テハイケナイ。と、
見テシマエ、と。
内々から別々の声を聞いた。
見てしまえば、その手帳の中に私が存在していないことに憤るだろう。あれは水上が読んだ本の感想を書き付けた手帳ではないか。やはり、今でも水上の行動は変わらないのか。私は本能の向くままに従った。忍び足で寝床を離れ、脱いだ着物の片隅に置かれている「それ」を手にする。
──というのも、気になる点がひとつ。
私にクビを言い渡した会社を見限って帰ってきたのは、九月一日。私の乗る下りの汽車は、まだ止っていなかった。あの日も水上は、隣町から戻る私を案じて実家から自転車に乗り迎えに来たのだ。追って二日、東北本線は田端まで乗り入れが可能だと伝わる。ただ、恐ろしく混雑しているそうだと駅員からも話を聞いた。
少し先の記憶のある私は、関東を襲った地震の規模を知っている。しかし、水上は五億年前の記憶を持っていても、ここより先の記憶はない。一日目には通じていた電話も二日目には不通になることが増え、地方の新聞社は特派員を現地に派遣しなくてはならなかった。被害の状況を伝える新聞も流説などを流す始末で、私が東京に発つまで正しい情報など、知る手立てはなかったはずである。
ましてや何も言わず、察するなど。
水上に出来るかと問われたら、私は否定せざるを得ない。
けれど、水上は何も私に聞いてこないのだ。
もしや……、
少々ふらつく足元を気にしながら、私は彼の手帳を取り上げた。
パラリとページをめくった先にまず、夢之久作の名がないのを確かめる。
いや、それどころか他の大作家の名もない。
江戸川乱歩も押川春浪も黒岩涙香の名もない。
──九月四日
昨日、駅で玉森を見送って丸一日経つ。
大泉の奥さんでさえ、田端までしか鉄道が走っていないのは不便だと言い、未だ、水前寺の家にいるというのに。人手不足の取材記者として雇われて、わざわざ東京まで行くなんて。一昨日も俺は、このまま玉森の仕事が決まらなければいいと思っていた。田舎の酒屋でも玉森のひとりくらいは養える扶持はある。六十路と五十路の、お爺さんとお婆さんだって、ずっと働いていてくれるとは限らないのだから、玉森を新しい従業員として雇ってもいい。だから、無事に帰ってこい。もう絶対に外にはやらない。
──九月五日
大阪の朝日新聞に帝都の様子を映した写真が掲載されたと聞く。震災の第一報を伝えに東京より続々と記者達が、各地へ戻っているらしい。たしか帝都には十六の新聞社があったはずだが、四日に新聞を届けられたのは一社のみ。三社を残して全て焼けてしまったというから、玉森が記事をとってきてもまず、印刷するところがない。だったら、すぐに戻ってくるのだろうか。
東京では電話もままならないどころか、水や食べ物も不足しているだろう。ちゃんと屋根のある場所で寝ているのか、心配でたまらない。今の季節は気候も荒れるから、もしも雨が降ったら……と思う。なんとも心もとない。
──九月六日
大泉の奥さんが上りの汽車の塩梅を聞きに行ったところ、下りの汽車に大勢の人が乗っているのを見て帰ってきた。なんでも当局がビラを配り、罹災者は一時、東京から避難するようにと奨励されているという。駅で罹災民の証明をもらえば、東京鉄道局圏内から圏外へ無料で乗車出来るが、これでも駅舎は著しく混雑しているらしい。今迄と同じように暮らしたかったら、少なくともひと月は待たねばならない。
ミナさん、とてもじゃないけど、未だ帰れないわ、と。大泉の奥さんが愚痴をこぼしていた。上りの汽車も物資の輸送で山のような荷物を乗せているから、そこに俺ひとりくらいは混じれないものか。
日付は私が戻ってきた昨晩まで続いていた。
──これは水上の日記であるな。
水上に店主の記憶があるのではないかというのは、どうやら私の杞憂のようだ。
──しかし、気まずい。
ただでさえ(他人の)日記の盗み見は心象が悪いというのに、それが水上のものであるから、大して良心を持たない私でも少しは胸が痛む。あの無口な男が……、と言っても、近頃は無理に気持ちを押し隠すつもりもなくなったのか。いろいろ私のやることへ口を出すようになってはいた。それでも彼の口から出てきた言葉は、氷山の一角だったのを思い知る。
──ああ、私はこんなにも。
(執念深く、愛されていたのか)
あまりの重さに耐えられなくなり、私は水上の手帳を閉じた。
その音に気づいたのだろう。
寝床から水上が、私を見上げている。
「ああ、今朝は玉森が先に起きたのか」
「よ、よく眠っていたな」
とっさに私は持っていた手帳を夜着の袖に滑り込ませた。
しかし、薄手の夏物は容易く隠し事を白日の元に晒しだす。
「こ、これは……」
まだ読んでいないなどと見え透いた嘘でごまかそうとしたが、まったくの無駄である。
起きたばかりの水上は、その細い目で私の袖口から滑り落ちる手帳を見ていた。
「読んだのか?」と、問われて
「少シ、……」
往生際の悪い私は、全部は見ていないぞと言い訳をする。
「……ああ、読まれてしまったか。いいんだ、別に。隠していたわけじゃない」
「えっ、……いいのか? 勝手に日記を読んだのだぞ?」
「俺は玉森のように筆の立つほうじゃないから、……それが恥ずかしいだけだよ」
「も、文字は上手かったぞ。なかなかに達筆だ」
「そうか、でも褒められたのは初めてだ」
あまりにもあっさりとした幕引きに私のほうが面食らっている。目を覚ました水上は、何事もなかったように私の横を通り過ぎ、水場で顔を洗ってまた部屋へ戻ってきた。
「雨戸を開けよう、もう雨は降っていないよ」
玉森と私の名を呼んで、窓を開けようかと言ったくせに水上は、私の身体を強く抱きしめた。
「……やはり、怒っているのではないか」
黙って日記を読んだのを。
恐る恐る水上の顔を見上げれば、瞳の青が私を飲み込もうとしているところだった。
「無事に帰ってきてくれてよかった、……玉森」
「たったの、一週間だ」
それから数日、地元で記事をまとめたら、また東京へ取材に行く予定なのだ。とは、とても切り出せる雰囲気ではない。私も少し疲れていた。穏やかに見える水面の下にある、水上という男の欲に、轟々と流れる奔流に身を任せてしまえと思うほどには、疲れていたのだ。
「もしも、玉森が……」と水上が、私の首筋に顔を埋める。
──ふらりと猫のようにどこかへ行ったきり、帰ってこれなくなっていたのだとしたら。と、囁いた。
ぽつりぽつりと、温かい水が私の肩を濡らす。
「探して、くれるか?」
これは私のエゴで、甘えだ。
わかっていながら、私は水上に問う。
***
朗読CDの事後から(のつもり)水上くんのお話は、内田百閒の「ノラや」のオマージュっぽく作りました。