【大泉の猫 】 ──彼の猫は、何時から其処に居たのか。何処から遣って来たのだろうか。止むに止まれぬ事情があって、押し入れの中に潜った私の傍にいる。薄暗がりのなかで、まん丸の青い眼がふたつ私を見ていた。
そこで間抜けな主人公は、にゃぁんと鳴いてみせるが、子ネコは親に鳴き方を教わっていなかったので、おおよそ猫らしからぬか細い声をあげる。
急いで書き付けて来たのだろう。家の方々から集めたらしい質の良くない紙は、ささくれていて所々に墨が滲んでいた。まるで、猫の足にでも踏まれたような有様だ。
「……知っていたのか?」と聞けば、玉森は神妙な顔つきで「やはり、そうなのか?」と答える。
彼の想像力は底なしだから、青い眼をした子ネコにも同じ能力を与えてみたというのが、この物語の真相のようだ。漱石の猫なら最後は、麦酒に酔って水瓶の中に溺れてしまうけれど、玉森の(大泉の)猫は、六月の雨水を遡って時間を行き来する。
「──放ってきたのは、かわいそうだったかな」
「なに。大泉の奥さんが、気まぐれに世話をしているだろう」
「そうか、……まあ、そうかもしれないな」
「だろう?」
「猫は家につくと言うからね。たぶん、居着いてしまったんだろう、……なあ、玉森」
──コンナ話ヲ、俺二読マセルナンテ。
などと、零すつもりはない。
その代わりに拳ひとつほど、開いていた玉森との距離を詰めた。
「ど、…どうした?」
詰めた分、また玉森が後ずさりして俺から離れる。
今度はくるりと回って、膝頭を玉森に向けた。
「ま、…ま…、まだ、精進落としもしてないのだ」
不心得ではないかと言われて首を振る。玉森と故郷へ帰ってきて今日で七日、法事もひととおり済ませている。あとは来月、新暦の盆まで何もない。
「さっき、折詰を食べただろう?」
「ああ、美味かった。田舎の仕出し屋と言っても、……」
さすがに駅の弁当を売っているだけのことはある、と。
言った口が、そのまま開きっぱなしになった。
「うん、そういうことだから」
俺は玉森の驚いた顔がおかしくて、つい笑ってしまった。
玉森こそ喪中に何をしていたかと思えば、六月の十九日の雨から三日間(いや、本当はもっとたくさんの時間に違いない)頭の中で練っていた物語を書いていたのだという。そういえば、山のお堂で玉森が「読んでくれるか」と言ったのを聞いていた。
「お前、私をからかっているだろう」
「いや、……うん。まあ、そうかもしれないな」
「やはり、からかっていたのか」
「玉森がそう思うなら。でも、俺はからかうつもりじゃなかったよ」
「デハ、ドウイウツモリダッタノダ?」
コツンと膝小僧に玉森の骨が当たった。玉森は俺を問い詰めたつもりだろう。でも、間近に向き合う瞳が黒いことに安堵する。「感想、言わないでもいいのか?」と言ってやれば、まさしく「それだ」とばかりに玉森は頷いた。
そこで、また
──コンナ話ヲ、俺二読マセルナンテ。と、ふりだしへ戻る。
「猫の生涯に不思議な因果律を感じた。水瓶のなかの金魚はひとつとして同じ金魚ではないだろう? 溜まっていながらに流れる一本の川だ。一度、別の川へ落ちてしまえば二度と交わらない。──玉森は猫を飼ったことはないのか?」
「無い」
「そうか、俺にはときどき、玉森が猫のように感じられるよ」
そっと肩を引き寄せれば、何食わぬ顔で俺の手を追い返す。ひらりと身体をかわして「にゃはは」と笑う。餌をやっても三日経てば忘れるし、立ち上がろうすれば、なぜか邪魔をするように、膝の上で寝ているのだ。
ほら、今も──
玉森は俺の腕をすり抜ける。
うっかり「おいて、行かないでくれ」と、言ってしまった。
その勢いのまま、玉森の背中を床に押しつける。
まだ、日も高いのに。
夏至を過ぎてまもなくの午後は、日暮れも遠い。ちょうど学校の終わる時間になったのか、あぜ道を行く子どもの声もいくつか聞こえる。戸の隙間から入ってくる風は、青臭く草いきれの匂いがした。
また、今夜も雨が降りそうだ。
「急に、どうしたのだ」
てっきり追い払われるものだと思っていたが、押し倒した腕は、玉森の手によって捕らわれている。まだ、玉森はこちらの意図に気付いていないらしい。真顔になって「私は、猫ではないぞ」と言った。
「……玉森は、迷子になりそうだから、心配だ」
「猫だって、そうそう迷子にはなるまい。本来、動物には帰巣本能があるというではないか」
「雄猫は、またに帰り道を失うんだよ」
「たんに餌が足らなかったのではないのか? 裕福な家で可愛がられたなら、ケチな大家のいる下宿など戻っては来まい」
捕まえられた手を取って俺は床から玉森を引き起こした。細身の背中に腕をまわせば、ちょうど七日前に食んだ跡が、玉森の首筋に残っているのを見つける。襟足よりも背中ほうに近いから、玉森からは見えなかったんだろう。気付けば、恨み言のひとつも聞かせてくるに違いない。
この玉森は、七日前に想いを遂げた玉森だ。あれから毎日、顔を見に来ているが、雨の降る日は特別気がかりで、何度も彼の家まで足を運んでしまった。
「……ちゃんと、帰ってきたじゃないか」
「そうだな」
もう橋姫はお前に憑いているくせにと、玉森は不服そうな声で答えた。彼女らの力を知ってしまったなら、今度は自分がおいて行かれる番だと思うのも不思議ではない。
「言っておくが、迷子になりそうなのは、水上、お前のほうだからな」と詰める。
「えっ、……俺が、か?」
「自覚がないのか」
「……すまない」
全て打ち明けなくては、玉森には分かってもらえないだろうか。仕方のないことだが、まだ俺は玉森に疑われているような気がした。顔を上げられないでいれば、ごつんと額同士がぶつかる音がする。もう一度「ごめん」と謝ると、玉森は「犬だって、間抜けな奴はいるのだぞ」と唇を小さく尖らせた。
「俺は、犬か、……」
「少なくとも、猫には見えん」
あんまり大まじめな顔で言うので、つい笑ってしまった。
「大丈夫だよ、玉森を見つけるのは難しくない」
生まれ変わるたびに見つけてきたのだから、これから先も見失うことはない。そう言っても、玉森は俺を信じてはくれないだろうけれど──。
「……口づけがしたい、と言ったら怒るか?」
「な、……なにを考えている」
待テ、と。
玉森は俺の口を両手で塞いだ。
「そうだな、やっぱり、ここだと少し気が引けるか」
「だいたい、お前、唐突過ぎるぞ」
「理由を話せば、納得してくれるのか?」
「場合による!」
──一応、話は聞いてくれるらしい。
その前に、座敷の奥にある急作りの祭壇へ手を合わせた。いつ、どこで用意しておいたのか。玉森も知らなかったユズさんの遺影は、むかしと変わらず優しく微笑んでいる。ずっと彼を大事にしてくれた人の前では、さすがに不埒な想いを告げるわけにはいかなかった。
「奥の襖を、開けてもいいか?」
「すごく、散らかっているぞ」
「なら、少し片付けていこう」
「おい、お前…、なにを、っ……」
じたばたと玉森の手足が揺れる。
まさか、俺に持ち上げられるとは思っていなかったようだ。でも、玉森くらいの重さなら家で使っている荒櫂や試し桶よりも軽い。大泉の家に来ていた猫もこちらから抱いてやろうとすると、爪を出して威嚇してくるのだった。やっぱり、猫と玉森はよく似ている。
「玉森に付けておいた印が、消えてしまったから」
「印だと?」
いつ、どこで、どのようにして付いたものなのか。
未だ手足を振りながら詰め寄ってくる玉森を、寝乱れたままの布団に下ろす。次いで、その端っこへ俺も腰を下ろした。
「玉森には見えない場所だよ。もちろん、服を脱がなければ、誰にも見えない」
このあたりだと、後ろ髪の生え際からシャツの襟元の間に触れる。冬でもないし、手が冷たいはずはないのに首筋を撫でた瞬間、びくりと玉森の背中が飛び跳ねた。
「くすぐったかったか?」
「……少シ」
「そうか。鏡がふたつあれば、玉森にも見せてやれたんだけどな、……そこに、俺の嚙んだ跡がある」
「は、……? なにを言っているのだ」
今度は何も触っていないのに、ふるふると玉森の肩が震えた。振り返った顔は、少しだけ赤くなっている。恥ずかしがっているのか、怒っているのか。ともかく、玉森は言葉以前の声を発して俺の顔を睨んでいた。怒らせてしまったのなら謝らなくてはいけないが、たまに見惚れてしまうから、存外、俺はこの顔が好きなんだろう。
「あのとき、付けてしまったんだ。今、ここにいる玉森が俺を好きだと言ってくれた玉森なのか、印をつけたら分かるだろ?」
「それが、理由か?」
「いけないか?」
「いけなくは、……ない、…が、……」
良いとも言っていない。
でも、許可をとる必要もないという意味なのか。そっと玉森の顎を取れば、自ら瞼を閉じる。一文字に結ばれた唇に口を付けると、玉森のほうから手を重ねてきた。俺の手よりも冷たい。玉森の手のひらは、少しだけ汗ばんでいた。
「んっ、……、……」
唇を離したら、いっしょに玉森の息も零れる。
「…、……っ、……」
唇が半開きになったのを見計らって、もう一度、口づけをした。さっきよりも深く、内側へ舌を下ろせば、玉森が俺の手に指を絡めてくる。
「みな、かみ…、……」
まるで、子ネコが甘えてくるような声だった。
可愛いと言ったら、きっと玉森はすごく怒るだろう。くるりと態度を変えて、散らかっている部屋の物を俺に投げてくるかもしれない。
居間の奥には寝室が、──子どもの頃から使っている玉森の小さな文机と、布団のまわりに広げられた書きかけの物語と、畳まれることもない脱ぎっぱなしの着物と。それ以上は何もない部屋だった。東京に残してきたものもたくさんあったなと、今更、玉森の暮らしていた梅鉢堂の二階をなつかしく思う。
「玉森、……」
跡をつけても良いか、と。
無防備にさらけ出された玉森の襟足に尋ねた。
「……お前以外が、見ない場所なら」
「うん、気をつけるよ」
またしても、「良い」と言って貰えるよりも早く、玉森の肌に触れてしまった。シャツの襟にかかった後ろ髪を払い、露わになった白い首筋へ歯をたてる。猫がじゃれつく程度の甘噛みだから、たぶん歯の跡は残らない。食んだ後から柔らかい肌を吸う。一瞬、玉森の背中が強ばるところは、念入りに愛撫を続けた。
「こんなこと、……何処で、覚えてきたのだ」
「何処だろう?」
恨みがましく、ひとこと。
玉森は、俺に文句を言った。
珍しく、妬かれているみたいだ。
「シラを切るな」
「言わなくては、駄目か?」
「当たり前だ」
「……今生じゃないよ。輪廻のさきで、一度だけ」
言っただろ、結ばれたこともあったって。
そのときは、俺も玉森も女性だったよ、と。
声を落とした玉森の耳が、みるみるうちに赤く染まる。引き寄せた布団に顔を埋めて「だが、ついてるものが違うじゃないか……」とつぶやいた。
「やりかたは、そんなに変わらないよ」
「……、お前、そんな破廉恥なことを言うやつだったか?」
──破廉恥。
なんて、俺だって玉森の口から聞くとは思わなかった。
「ついてるものの名前まで、出していないけど……」
「まさか、言うつもりだったのか!」
「玉森が、言って欲しいなら、……」
「そ、そんなこと、思ってもないぞ。むしろ、やり方とか、……あからさま過ぎる」
「なら、……抱き方と言ったほうが、良かったか」
「…、……いや、……」
もういいと、玉森が首を横に振った。
「不公平だ。水上に魚の頃からの記憶があるのでは、あまりにも経験で差がつきすぎる」
「今は、玉森に合わせるよ」
「……む、」
「不服か?」
聞き返せば、玉森が引き寄せた布団を思いっきり俺へ投げてよこした。少シ黙ッテイロ。などと、照れ隠しのように言われて苦笑いする。
「やっぱり、ずるいと思われてしまうな……」
玉森から返ってくるはずの答えも聞かないまま、着物の袖をひっぱった。大きく開いた襟元に手を伸ばして、玉森のシャツについているボタンをひとつづつ外す。背中だけでなく、柔らかい腹の内側にも跡を付けたい。俺にしか見えない場所へ、こっそり俺のものだと刻みたかった。
「あっ、……まて、……っ」
「待たないよ、……だけど、最後まではしないから」
「最後、って」
「まだ、身体が辛いだろ? 切れてしまうかもしれないし」
「また、そんなことを」
「ここだけで、いいよ」
「みな、かみ、……それっ、……ちく、…だ」
シャツの中に潜らせた手を玉森の手に押さえられる。指の先に触れた突起は、愛撫を待ちきれずに硬く芯を持ち始めていた。
「違う場所なら、いいのか」
「……ば、場所にも、よる」
ふいっと、玉森が俺から目を逸らした。
緩くなったしがらみを解いて袴と裾よけを脱がせる。玉森が抵抗しなかったのは、体液で下着を汚したくなかったからだ。さっき触ったところ同じく、玉森の性器は上を向いて立ち上がっている。
「……お前は、脱がないのか?」
「俺か、玉森がそう言うなら」
「そうしろ、……二人分も洗濯するのでは、割に合わん」
「なんだか、あんまり情緒がないな」
「そんなもの、あってたまるか」
「……ハハハ、少し期待していたけど、無駄だったか」
布団の上から立ち上がって帯を解くと、自分の下帯もいくらか布が持ち上がっていた。こっちも外すのかと玉森の目に尋ねてみれば、当然だといわんばかりに頷かれた。
「せめて、秘め事だと言ってくれ」
「……それは、まだ」
無理だと言いながら、玉森が俺の身体を引き寄せる。ぴったりと足の間に嵌まったそこは、真夏の水のような熱を持っていた。風呂よりも温く、人肌よりも少しだけ熱っぽい。
「水上、……」と、俺の名前を呼んで玉森が顔をあげた。
「……もう、印はついたのか?」
「うん。背中には」
「他の場所は、……」
まだなのか、と。
玉森の声を聞いて、足元へうずくまる。
──六月の雨を行き来していた猫は、毎回、同じ場所で同じ人間から同じ餌を貰う。水瓶の中へ落ちても変わらなかったから、ぐるぐると回る時間の渦に居着いてしまった。そこでなら、もう飢えることがない。毎日の餌には事欠かない。
「……あっ、…、……」
「痛くしてしまったか」
「…ち、……、う…」
「違うなら、いいんだ」
俺に食まれた玉森の内股が、少しだけ強ばった。身体のなかで一番、柔らかいところへ印をつけたから、しばらくは消えないだろう。たぶん、俺も玉森も赤く浮き上がった痣をを見て、同じ時間にいるのを確かめる。