ゆきてかえらぬ1、顔のない男 2026.1.29
【事の発端】
――これは一人の男の一生を追いかけた、素人によるルポルタージュである。実在の地名や本件に無関係の人名は伏字を使用し、場所についても特定を避けるためフェイクを挟むものとする。
▽▽
一月末から二月の香港は、朝晩の気温がぐっと下がる季節だ。とはいえ、日中はポカポカと暖かいことも多く、大抵の人間はシャツ一枚で過ごしている。しかし空が灰色に染る今日は、午前十時を回ったのに肌寒く、俺は珍しく厚手のジャケットを羽織っていた。一九八○年代に流行ったヴィンテージ物で、年季の入った黄褐色と、くたびれた羊革の質感が気に入っている。
この体感温度は、建物の外だろうと中だろうと、特に変わりはなかった。外がどれだけ寒かろうと建物内の空調が止まることは殆どないため、頭のてっぺんから涼しい風が吹き付けてくる。特に此処は近所の婆さんが細々と経営している小さな茶楼で、空調の調整などという気の利いたことはやってくれない。年中開きっぱなしのガラス扉からは、たまに雨が吹き込んでくる。それもまた居心地の良さに繋がっているから、誰も文句は言わないが。
この寒さに耐えかねたのか、目の前に座る男が「ヘクシュッ」と大きなくしゃみをした。店の奥を陣取っていたご近所の〝老婦人〟たちの視線が、いっせいに突き刺さる。俺たちは彼女らに申し訳ないと手で合図して、話を再開した。
「それで、話したいことってなんだよ」
「……俺、最近になって部署異動したんすよ」
部署異動。こいつの職場がなんだったか忘れたが、昔と違って手に職をつけ、わりと充実した生活を送っているようだった。
「俺たちってもう、三十代半ばじゃないですか。さすがに同じ仕事ばっかりじゃ芸がないかと思って、移動の打診をしたら、これがまたスムーズに決まって。一応、給料も増えたし」
にひひ、と笑う顔も昔と変わらない。俺たちは長い付き合いだ。出会ってから、かれこれ四十年近くになる。ここで、お? と思った奴らは、その感覚を大切にした方がいい。出会って四十年近く、ということは、出会ったのが十代であれば少なめに見積もっても五十歳を越えている。なにをどう計算しても今の年齢と食い違いが生じるが、それもそうだ。なんせ俺たちは、フィクションにありがちな転生という世にも奇妙で複雑怪奇な体験をしている。
――一九八○年代後半。かつて黒社会に身を置いていた俺たちは、何の因果か文字通り生まれ変わったあと、記憶があろうとなかろうと、各々が比較的真っ当な職に就いていた。特にコイツ(以下、Kとする)は、昔から世渡り上手でちゃっかりしているところがあったので、今世ではそこに安定というものをプラスし、こうして時々俺に飯を奢ってくれる。
生まれも育ちも、おまけにあの頃と名前も違うため、同じ立場の人間を見つけることは中々に難しい。しかし見た目はさほど変わりなく、出会ってしまえば、そこからは早かった。俺にも、Kにも、記憶があった。俺は上手く生きるという点において、今も昔も、とてつもなくド下手くそだった。だから、大人のような言動をする気味の悪い子供だと避けられ、疎まれ続けたあの頃を経て、昔の記憶を保持する仲間を見つけるということが、どれほど嬉しいか。きっとこの気持ちは、誰にも分かるまい。
「仕事内容がどう変わったかっていうと、俺いま、サーバーの移行に伴うデータベースの引越し作業をやってるんですけどね。そのデータっていうのが……」
Kは一息ついて、すっかりぬるくなっただろう奶茶を飲み干した。
「行旅死亡人のデータベースなんです」
「コーリョシボウニン?」
呆れたような視線を感じる。日常生活に何の関係もない単語を知っている方がおかしいだろ。Kはテーブルに置いていたスマホを素早くタップして、表示された画面を俺に見せた。
行旅死亡人……行旅中死亡し引き取り手が存在しない死者を指す言葉で、行き倒れている人の身分を表す法律上の呼称でもある。また、本人の氏名または住所などが判明せず、かつ遺体の引き取り手が存在しない死者も行旅死亡人と見なす。
「移行ついでに、発見されたのに消し忘れてる〜みたいな事がないか確認してるんですよ」
Kの指が、どこかのリンクを叩く。繋がったホームページは、発見日、発見場所、性別、年齢が横並びに記載され、さらに右端の詳細をクリックすると、詳しい情報が表示されるようになっていた。〝性別から探す〟の欄を見ると、男性(八一九○)、女性(一七三四)、その他(一○三五)という、莫大な数字が確認できる。
「簡単に説明すると、身元不明の死体っす。で、本題なんですけど」
一度スマホを持ち上げたKが、すいすいと指を動かして、とあるページを表示させた。
住所・氏名不詳、推定年齢四十歳以下の男性、身長一七○センチ〜一七五センチメートル体格痩せ気味、着衣は白色シャツ、黒色長ズボン、黒色スニーカー、黒色腕時計、金細工のアンティークジュエリー(ネックレス)、サングラス。
上記の者は、二○二○年一二月二五日午前九時二○分頃、××山觀景台において発見されました。身元不明のため遺体は火葬に付し遺骨を保管していますので、心当たりの方は、社会福祉管理課までお申し出ください。
二○二○年一二月三○日 ××署 Y局長
俺は一文字ずつ噛み締めるように読んだ。引っかかることはいくつかあり、それを言語化してしまえば、俺の中の何かがすべて崩れ落ちてしまいそうだった。しかしKは俺の反応にまったく気にせず、「それで」と言葉を続ける。
「少し古くて五年前の情報なんですけど、この一ヶ月後にアップロードされた情報がまた興味深いんです」
下部に表示された矢印をクリックする。パッと画面が切り替わり、また別のページが表示された。先ほどよりも字数が少ない。いつの間にか砂漠のように乾いていた喉を鳴らしながら、行旅死亡人の情報を心の中で読み上げる。
住所・氏名・年齢・性別・体格不詳、火葬済み死体(焼骨)、持ち物・アンティークジュエリー(ネックレス)
上記の者は、二○二○年一月二八日午後三時四○分頃、××海浜公園付近にある洞穴で、遺留された骨壺の中及びその周辺にて骨片の状態で発見されました。遺骨はこちらで引き取り保管していますので、心当たりの方は、社会福祉管理課までお申し出てください。
二○二一年二月一日 ××署 Y局長
「ね、アンティークのネックレスを持っている死体が二つ。しかも同時期に発見されるとか、珍しくないっすか」
「……だからどうしたっていうんだ」
「俺、思うんですよ。もしかしたら、この死体のどっちかが王九兄貴なんじゃないかって」
心臓が止まるかと思った。コイツはいつだって、遠慮なく物事の核心を突いてくる。痛いところを突かれたと感じるのは、俺の心に未だ迷いが残っているからだろうか。柄にもなく手が震えて、水が入ったグラスを落としそうになった。
「俺は……そうは思わない。考えてみろよ、兄貴の遺体は俺たちの手で埋葬しただろ。だとしたら、焼けた遺骨は辻褄が合わない。それに五年前に発見された遺体は四十代未満だから、こっちも年代が合わない」
一夜にして地獄と化した要塞から九兄貴の遺体を取り返し命からがら脱出した俺たちは、海が見える小高い丘の上に、冷たくなった体を埋葬した。きちんとした葬式をあげられなかったことは悔やんでいるが、あの当時できる精一杯の弔いだった。寒いはずなのに、首の後ろに汗が浮かぶ。嫌な動悸が止まらない。自然と息が上がる。
「覚えてますよ。俺も一緒に埋めたんで」
「それなら何でこんな馬鹿げた話を」
「俺は、昔の話なんてしてません。今の話をしてます」
唐突な耳鳴りと目眩に襲われて、左手で額を押さえた。右手の震えは止まらず、溢れた水がテーブルに濃いシミをつくる。
「どっちかが、俺たちと同じように生まれ変わった九兄貴なんじゃないっすかね」
ガタン! とコップが倒れた。慌てて布巾を持ってきた店主が濡れた箇所を綺麗に拭き取り、新しいコップになみなみと水をそそぐ。
「……お前はどっちだと思う」
俺は努めて冷静に答えた。この世の中は、認めたくないことだらけだ。認めたくないことは、認めなくてもいい。かつての俺なら、そう言うだろう。――九兄貴は、きっとどこかで、幸せに暮らしている。俺はそう思いたい。けれど、その一方で、真実を知らなければ前に進めないという気持ちも確かに持ち合わせていた。
「可能性としては、こっち……山で見つかった方が濃厚かと」
「理由は」
「これは開示されてない情報なんですが、ちょっときな臭いというか、因果めいたものを感じるというか」
「言え」
「こわっ。兄貴って、キレてる時めちゃくちゃ言葉少ないっすよね。……えーっと、この文章を読んでみてください」
Kがスマホ内に保存していた写真を覗き込む。文字が印刷された藁半紙を撮影、部分的に拡大したものだ。大きな文字が目に飛び込んでくる。
「指の欠損。右手の……?」
「中指(ちゅうし)、環指(かんし)、小指(しょうし)。……ほら、因縁めいたものを感じません? ワクワクしますよね?」
因縁。高揚感なんて、あるはずない。どちらかといえば、湧き上がるのは怒りと不快感だ。九兄貴に馴れ馴れしくまとわりつく憎々しい影が明確な形を作り上げそうになり、俺は慌てて頭を振って追い出した。
「俺としては、あんたにこの行旅死亡人(ジョン・ドゥ)の身元を調査して欲しくて」
「お前自分でやったらよかっただろ。俺がどんな気持ちになるか知ってて、こんな話もってきやがって……」
「だってぇ……。どうせ暇ですよね? この前、仕事クビになったって言ってたから」
再び、痛いところを鋭い槍で突かれる。俺はこいつと違って、日雇いのような仕事を繰り返していた。つい先日までとある工事現場の作業員として従事していたが、同僚と些細な意見の食い違いで口論になり〝ついうっかり〟相手をぶん殴ってしまい、Kの言うとおり現在は無職だった。
「……お前、本当に何考えてる?」
「いやいや、単純な話です。面白いじゃないっすか、映画みたいで。あの頃と違って今の生活って刺激がないし。それに、知りたがると思ったから」
Kはヘラヘラと笑う。しかしその表情はすぐに曇り、それからすぐに真顔になった。
「でしょう? ……××兄貴」
Kが絞り出すように吐き出したのは、今世における俺の名前だった。何年経っても、馴染みのない単語だ。とうの昔に使われなくなった、蛙仔という愛称が一番よく耳に馴染む。
「さあて、兄貴が承諾してくれたところで」
「まだしてねえぞ」
「俺が知ってる情報、ぜんぶ教えます」
【入手資料】
××山觀景台においてトレッキングに来ていた婦人会の女性が、男性の遺体を発見。死後一週間経過、軽度の腐敗あり。
右手、指の欠損。(中指、環指、小指)
顔貌確認不可。(火傷のため)
死因、頭部外傷による脳挫傷。
サングラス、黒色硝子部分消失フレームのみ。金細工のアンティークジュエリー。(ネックレス) 星座早見盤、ポケットサイズ。バタフライナイフ。(刃こぼれあり) 表紙、全ページ白紙の本一冊。(B5サイズ)
「これがサツの方で公開している情報です。なんか死者に関しては個人情報の保護の適用外らしくって、色々と教えてくれました」
Kがテーブルに広げたA4の紙には、行旅死亡人データベースには書かれていない情報がたくさん並んでいた。軽度な腐敗。まだ九兄貴と確定したわけでもないのに、その一文に心が痛む。指の欠損、サングラス、バタフライナイフ。嫌な予感ばかりが脳裏をよぎる。ただ、星座早見盤はまだ分かるが、白紙のノートは何のために持ち歩いていたのか。それに。
「顔に火傷?」
誰かに殺されたのでは、という考えが頭をよぎる。指の欠損に、顔の火傷。一九八○年代を生きる俺たちであれば時おり小耳に挟む日常茶飯事の出来事だろうが、今は違う。四十年も先の未来だ。それなのに、この遺体だけが、なんだか過去に取り残されているような気がしてくる。掘り下げれば掘り下げるほど、この行旅死亡人の存在がどこかぼやけていくような、そんな感覚を覚えた。
「それも、身元が判明しない要因の一つです。火傷の痕も、指の傷も、随分と古いものらしくて。……あ、奶茶おかわり!」
Kが、テーブルの横を通り過ぎた店主に飲み物の追加を頼む。お前はどうする、という老女からの視線をひしひしと感じたので、俺も前にならえで同じものを頼んだ。
「……で、まあ、話を戻すと。警察側の捜査状況は、まずネックレスを販売していた店を割り出し、その場所に向かったものの店は五年前に廃業。まあ、運良く経営者のじいさんは生きていたみたいで、話を聞けたそうっす」
Kの話によると、そのネックレスはイギリスから取り寄せたもので、販売数は五点ほどだったらしい。実際には、値段が高すぎて実際に購入した人間は三人。しかし販売名簿等の売買履歴はなく、購入者を絞り込むことは不可能という結論になったようだ。
俺は、九兄貴の胸元で美しく輝くネックレスの存在を思い出していた。単調なチェーンではなく、膨らみのある飾りが等間隔に施された、洒落たデザインだった。いつだったか、そのネックレスをどこで手に入れたのかと問いかけたことがある。バラした死体が煮溶けるのを待っている手持ち無沙汰の時間にふと湧き出した、ちょっとした興味だった。兄貴は「忘れた」とだけ呟いて、それっきり分からず終いだったが、こんなところで答えが見つかるとは。人生、何が起こるか分からない。
「これまた運が良いことに、何年か前に金具の手入れに出した男がいて、遠方から来ているから終わったら此処に送るようにって、後日住所を……」
「紡績工場? 職場に送れって?」
「住み込みで働けるみたいです。会社なら従業員名簿も残ってるだろうって、聞き込みに行ったんですけど、結局は空振りでした」
××紡績工場。ネットで検索すると、今もなお現役の工場だった。香港北部、大埔地区の海沿いにある××村は、電車で一時間半程度の場所にある。いくら遠方とはいえ、これくらいの時間であれば受け取りにくることも出来そうだが、何か理由があったのだろうか。
「従業員名簿はあったようなんですが、なんていうか、大半が偽名な上に退職した奴の記録は削除するらしく、顔写真もなかったって」
「さすがにきな臭すぎるだろ。黒社会と関係あるんじゃねえのか、それ」
「んー……企業的には白ですけど、ま、関係があるといえばあるっすね。ムショ帰りのやつとか、ワケありのやつとか積極的に雇ってるっぽくて」
Kは「所在不明の人間が多すぎて、これ以上は追えないって話で、捜査は打ち切り」と言って肩を竦めた。
「死因になった脳挫傷も、周辺に凶器が落ちているわけでもなく、つまるところ事件性なしってことで終了です」
パンパンというKの手拍子にあわせて、タイミングよく追加の飲み物が到着する。脳みそがとてつもなく疲れていた。ほどよく温かい奶茶が、頭と体と心に沁みる。
「……サツが追えないなら、俺たちには無理だろ」
「ところがどっこい、そうでもないんです。俺たちなら、この続きから始められる」
「どこから出てくるんだ、その自信」
Kが口元をぐっと弓なりにしならせ、確信的な表情を浮かべたまま、バンッとスマホをテーブルに叩きつけた。そこに映し出されていたのは、名簿の写真だった。おそらく、件の紡績工場の従業員名簿だろう。なぜそんなものがスマホに保存されているのか聞けば、「隠し撮りっす」と、あっさりとした答えが返ってきた。こういう所も、ちゃっかりしている。
「俺たちなら、追えます」
「二回も言うな」
「だって俺たち、コイツを知ってるじゃないですか」
コツコツと指が示す先に視線を向けた。
「……ッ、なに、なんで……ウソだろ、」
――藍信一。ここで、その忌々しい名前と再び巡り会うことになるとは、夢にも思わなかった。
2、謎を紐解く 2026.2.2-3
【緊急連絡先】
Kと話をしてから四日後。俺は行旅死亡人(ジョン・ドゥ)の元勤め先を訪れるため、電車を乗り継ぎ、ある港町を目指していた。片道一時間半。短いようにも思えるが、二回の乗り継ぎが必要なことを考えると、その手間のせいで妙に遠く感じる。昔はもっぱら車移動が大半で、電車に乗ることなど皆無だったと言っていい。理由は単純で、モノを運ぶにしろ、ヒトを運ぶにしろ、その方が都合が良かったからだ。
しかし今の俺には、車がない。一九八五年当時の俺は、中古車の密輸のおこぼれによって手に入れた、黒光りするトヨタ・センチュリーを大変気に入っていた。暇さえあれば洗車して、ピカピカに磨き上げていたほどだ。金が無いというよりも、あれ以上の車を見つけられない、というのが大きい。
揺れる車窓は都会の街並みから山林に入り、田舎町をぬけて、トンネルに突入する。暗がりの中では、ガタンゴトンと一定のリズムを刻んでいた電車もガクンと速度を落とした。尻を蹴りあげるような激しい振動が何分か続き、辺りがパッと明るくなる。海だ。灰色の雲が立ち込める空の下、荒れた海が白波を立てる。
すぎゆく景色を眺めながら、鼻歌を口ずさんだ。九兄貴がよく歌っていた曲だ。俺はごく稀に兄貴を隣に乗せることがあり、海が見える通り沿いに差し掛かると、彼は何でもないような顔でこの曲を歌っていた。兄貴に似つかわしくない、湿っぽいラブソングだった気がする。曲名も定かではないし、歌詞はてんで覚えちゃいないが、あのゆったりとしたメロディーは俺の記憶の底にこびりつき、今も消えることなく繰り返されている。
十分ほど経つと、電車が下車予定の駅に到着した。閑散とした田舎の駅だ。寂れた駅舎のトタン屋根が、潮風によってカタカタと揺れる。Kから送られてきた住所を検索すると、紡績工場は駅から徒歩二十分程度のところにあった。タクシーも見当たらないので歩くことにして、日差しの下に一歩踏み出す。海沿いを走っていた時の天気とは違い、空は正しく晴天だった。舗装されていない道路は歩きにくいが、潮風の匂いも相まって、どこか懐かしい気配がする。俺のように一人フラフラと歩いている人間は少ない。平日の昼間だ。都会と違って、大抵の人間は仕事に出ている。観光客がいるような雰囲気でもない。驚くほど静かな町だ。しかし穏やかとも違う、殺伐とした空気を感じる。
鼻歌の続きを歌いながらしばらく歩くと、件の紡績工場が目の前に現れた。高くそびえ立つ門の向こうには大きな建物が二つか三つ建っていて、周りには事務所か寮か分からないが、小さな建物がいくつか並んでいる。広大な敷地だ。門の横にある守衛室に行って、なにやら新聞を読んでいる老人に声をかけた。
「あのー、社長に会いたいんですけど」
「……お約束で?」
老眼鏡をずらした老人が怪訝そうな顔をする。
「いや、してないっすね」
「……一応聞いてみますけれど、不在かもしれませんので、そこでお待ちください。どんなご用事ですか?」
「あー……えっと、人探し……?」
「……たまにみえられますよ、貴方のような方」
フォローのつもりなのか知らないが、老人はそう言ってから、どこかに電話をかけ始めた。守衛室の外壁に寄りかかって社長の返答を待つ。足を止めた途端、全身から汗が噴き出した。ジリジリと照りつける太陽に頭皮を焼かれる。朝はこれでもかというほど冷え込むくせに、陽のあたる場所はとにかく暑い。脱いだジャケットを小脇に抱え、頭の後ろでテキトーに髪をくくる。そうして待つこと数分、門の脇についている小さい扉の鍵が開く音がした。
「どうぞ。突き当たりを右に行くと、事務所の入口です」
歩道が整備されているため、迷うことはなかった。案内に従って進むと、扉の脇に小綺麗な女が立っていた。
「こちらの二階になります」
吹けば消えてしまいそうなほど、か細い声だ。その女の後に続いて階段をあがり、奥の部屋に通される。中にいたのは、枯れ木のように痩せた男だった。五十代後半……いや、六十に差し掛かってもおかしくない見た目だ。デカい会社の社長といえば、まるっと太った腹を高そうなスーツで包み高慢ちきな態度で人を見下している、そんなイメージだったが、紡績工場の社長はヨレたワイシャツの上から作業着を羽織り、おどおどした雰囲気で額の汗を拭っている。
「はじめまして」
名刺を手渡された。生憎だが俺はそんなもの持ち合わせていないので、名前だけを名乗る。
「どうぞ、座ってください」
腐っても、田舎では一番大きな紡績工場の社長(以下、Y氏とする)だ。社長室は思っていたよりも立派で、客人用のソファーはふかふかだった。ただ、尻があまりにも深く沈み込むので、座り心地は悪い。先ほどの女――秘書だろう――が、飲み物を乗せたトレーを運んできた。テーブルにアイスコーヒーが置かれたと同時に、Y氏が話を切り出す。
「人探しだと伺いました。この前も警察が来て、誰かを探していましたが……何か関係が? 事件ですか?」
「いやぁ、事件ってわけじゃなくて」
正直なところ事件かどうかも不明だ。Y氏が「では、誰を?」と言って首を傾げる。俺は本題に入るべく、この世でもっとも口に出したくない名前を舌に乗せて吐き出した。
「藍信一。働いてましたよね?」
「藍……ああ、藍さん。覚えてますよ。あの人はちょっと特殊だったから」
「特殊っていうと?」
「言い方はアレですけど、元締めというか、なんというか」
Y氏は当時のことを思い出したのか、目を細めて語り出した。
「うち、元々は祖父がはじめた小さな町工場だったんです。私もそこで従業員として働いていて、糸を造ってたんですよ」
しかし、一九九二年。海外からの輸入品の増加により、工場は窮地に立たされる。倒産寸前に追い込まれた町工場を救ったのは、ある日突然ふらりと現れた一人の男だった。
「とてもハンサムな人で、男の私でも目を奪われたのを今でも覚えています。顔に傷があっても、整った顔というのは崩れないものですね」
その男は藍信一と名乗り、出資するから代わりに行き場のない者たちを引き取って欲しい。と、そんな話を持ちかけてきたらしい。当時の社長――Y氏の父親だ――からしてみれば、願ってもない申し出だ。当然、その旨い話に飛びついた。Y氏は心配したそうだが、特に詐欺のような兆候はなく。資金と働き手が増えたことにより、紡績工場として生まれ変わった会社は、みるみるうちに大きくなっていった。
「結果的には良かったですよ。ほら……」
Y氏は声をひそめた。
「海外との貿易で色々な産業が衰退したり、九龍城砦が取り壊しになったり、あの頃の香港は目まぐるしく変化していましたから。人も、会社も、変わらなければ時代の流れに取り残される」
俺は一九九〇年の夏に死んだ。生まれ変わって物心がついた時には、世界は凄まじい変化を遂げた後だった。ついていけるわけがない。俺の心臓はまだ、一九八五年に取り残されている。
「……でも、結局は時代の流れによって、紡績工場は閉鎖。今はダンボールを作ってます」と、Y氏は笑った。
「そうそう、藍さんといえば……。たまに様子を見に来る程度だったんですけど、いつだったかな……二○○一年頃、急にうちで働くと言い出して」
「……は?」
「ね? そう思うでしょう? 本当に突然、なんの脈絡もなくですよ。しかし世話になった手前、無理ですとは言えなくて」
俺たちは、互いに顔を見合わせる。Y氏の当時の困惑がひしひしと伝わってきた。
「二○○五年に退職するまで、従業員として働いていました」
「たった四年で辞めちまったんですか」
「ええ。理由は分かりません。聞いても教えてくれませんでした」
「じゃあ、その、藍……さん関係で何個か質問していいっすか?」
「私にお答え出来れば良いんですけど」
カランと涼しげな音が響いた。結露したコップの中で、氷の山が崩れていく。俺は右の手のひらで結露を拭いとった。その冷たさに、少し冷静になる。
「藍……さんと関わりの深い従業員、誰かいませんでした? めちゃくちゃ仲が悪いとか、一方的に敵視しているとか」
「いやぁ……藍さんは人当たりも良かったし、現場の中では歳食ってるぶん人付き合いも上手くて。……ああ、そうだ。妙に気にかけている従業員ならいましたよ」
Y氏は壁際の棚からファイルを一冊手に取り、テーブルの上に広げた。例の従業員名簿だ。Kが隠し撮りしたものと同じだろう。藍信一の名前がある。
「この人です」
枯れ枝のような指が、名簿の端に載った名前をトントンと叩く。露魯(ルールー)。明らかに偽名だ。Y氏は「在籍していたのは、二○○一年から二○○六年までの五年間です。たぶん未成年だったんじゃないかな」と呟いて、汗でべったりとした頭を掻いた。
「随分と大人しい人でした。まあ……彼、口がきけなかったから、仕方ないんでしょうけど。そういった理由で藍さんも気にかけていました」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 口がきけないって、話せないってことか!?」
「そうです。事故の後遺症とか、なんとか」
焦りで敬語が外れた俺の様子を特に気にすることなく、Y氏は言葉を続けた。
「うちに来た時から話せなかったので、詳細は知りませんけどね。でも私、実は見てしまって」
「何を……っすか、」
「偶然更衣室で一緒になって、その時に。首に縄、いや、あれは紐……ワイヤーロープみたいな痕がぐるりと……」
思い出したのか、まるで自分の事のように首をさする。首にロープの痕、だなんて、冗談じゃない。これじゃあ前にも増して、因縁というものを意識せざるを得なくなる。いや、まて。まだ分からないだろう。嫌なものを連想させる材料が揃ってるからといって、それは確定にはならない。顔写真を見るまでは、判定できない。
「顔、顔に火傷のあとは」
「いえ、綺麗な顔でしたよ。髪も長くて、パーマっぽかったな……少し古くさい髪型でしたけど、逆にそれが洒脱っていうか」
さっきまで頭のなかでぼんやりしていた像が、急に形を結んでいく。俺は氷が熔けてすっかり薄くなってしまったコーヒーをひと口飲んだ。
「従業員の何人かとは、手話でやりとりしてて」
手話。たまにテレビの端っこで手を動かしているアレだ。九兄貴が言葉の代わりにせっせと手を動かしているところを想像してしまう。
「……でも、それも事故でね。不幸ってのは、どうしてこうも同じ人間に降りかかるんでしょうねぇ」
「事故っていうのは、」
「うちは工場なので」
Y氏は、これ以上は何も聞くなというふうに首を横に振った。指を失った経緯は、ここにあるとみて間違いなさそうだ。
「ちなみに、写真とかって残ってませんか」
「残念ですけど……退職した人間の記録は消してしまうんです。それに嫌いみたいでした、撮られるの」
「連絡先は」
「それも……あ、待てよ……もしかしたら、」
そう言って立ち上がり、奥のデスクからノートパソコンを持ってくる。しばらくカタカタとキーボードを鳴らしたあと、「あった!」と嬉しそうに手を叩いた。こちらに向けられたモニターを覗き込む。何人かの名前と電話番号、住所が記載されている。しかし露魯という男の情報は無い。
「緊急連絡先の名簿です。別フォルダにデータを分けていたので、消し損ねていたようです。全員分は揃っていませんが……」
「そうみたいっすね」
「貴方がお探しの情報は残っていますよ」
Y氏がマウスをクリックして、俺が知りたい情報とやらを拡大した。途端に、藍信一の名前が目に飛び込んでくる。乾いた喉がゴクリと鳴った。
「辞めたのは随分と前なので連絡が着くか分かりませんが……。藍さんの緊急連絡先です」
藍信一の緊急連絡先である電話番号と住所が書かれた紙をもたされ、俺は紡績工場改めダンボール工場をあとにした。Kにその旨を連絡すると、すぐに『どうでした?』と返事が来る。それにぼちぼち現状報告をしながら、駅までの道のりを歩く。行く時よりも足が重い。行旅死亡人(ジョン・ドゥ)が九兄貴ではないことを確かめに行ったのに、より強い情報を与えられてしまったからだ。日は落ち、心做しか冷たくなった風が足元を通り抜けていく。
「まっじで連絡したくねぇな……」
次々と飛び出しそうになる恨み言を飲み込む。昔も、今も、俺の邪魔をすることに変わりは無い。どこまでも不愉快な男だ。小石を蹴っ飛ばしながら更に一歩踏み出すと、後ろからドカドカ小煩い足音が追いかけてきた。
「おおい! そこの……おい、アンタだよ!」
薄汚れた作業着に身を包んだ年寄りが、俺を目掛けて一目散に走ってくる。頭のてっぺんを薄くなった白髪で囲った、小太りの男だ。工場からたいして離れていないはずなのだが、すでに息切れを起こし汗をかいている。
「あんたが、藍さんたちのことコソコソ嗅ぎ回ってるって聞いたもんでね」
「コソコソって……。堂々と社長から聞いたっすよ」
「まあまあ。俺も二人について話したいことがあってなぁ。せっかだし、聞いてくれんか」
五十代後半かと思いきや、まだ五十一歳だった。歳の割には老けて見える。男はふうふうと荒い息を整え、「ベンチに座って、ほら」と俺を近くの公園に誘導した。寂れた公園だ。遊具のほとんどは取り壊され、地面から突き出したタイヤの跳び箱と、ブランコ、それから俺たちが座るベンチを残すだけだ。男から公園の出入口にある自販機で買った缶コーヒー、それも冷たい缶を手渡される。
「俺ァ、特別に仲が良かったわけじゃないが、わりとアイツらのことを見ていたんだ」
男はプルタブを引き上げ、冷たい風が吹き始めた空の下、冷たい缶コーヒーをぐいっと呷った。
「そうだな……露魯はとにかく、やかましい男だった」
やかましい? 馴染まない単語に疑問を抱く。
「社長から、喋れなかったって聞いたんすけど」
「騒がしいってのはなにも、声や言葉だけじゃないよ。なんていうかなぁ、身振り手振りが大袈裟で、派手っていうか」
「身振り手振り……つまり手話?」
「おう。ここに来たばっかりの頃は何も話せなくて、いつも隅っこにいたけどな。変わったのは、藍さんのおかげだ」
社長の話と、この男の話しでは、露魯の印象は百八十度変わる。働き始めた頃は静かだった、という点だけが一致していた。
「藍さんが手話を教えこんで、露魯のやつも物覚えが早かったから、すぐに使えるようになった。俺もたまに眺めていたから、なんとなく覚えて、朝の挨拶くらいはしてたよ」
冷たい缶を両手で揉むように転がす。
二○○一年に藍信一が紡績工場の従業員として働き始めたのは、十中八九、露魯という存在の為だろう。そして、自分は使う必要のない手話を彼に教えていた。つまり教えるために自分で勉強したことになるから、露魯を相当気にかけていた、ということが分かる。初対面に近い赤の他人に対して、そこまで情をかけてやれるだろうか。確率としては、本当に本当に一割程度の確率だが、やはり露魯が九兄貴の生まれ変わりであるという可能性が頭をかすめた。他人の空似である可能性は、まだ九割残っている。
「たまに美味しい果物の見分け方なんかも教えてくれて……。彼も俺も、手話ってやつをかじっただけで、深い会話なんて出来なかった。ぜんぶ大袈裟な身振り手振りだ。それでも、不思議と伝わるものだなぁ。きっと果物が好きだったんだろうな」
手の中の缶を握り潰しそうになる。――好きとか嫌いとか、そういう次元の問題じゃない。俺たちの生活の根っこの部分には常に果物の存在があって、見分け方なんて知っていて当たり前の知識だ。ああクソ。認めたくないはずの確信に、どんどん自分から迫っていく。
「あと彼、いやに喧嘩っ早くてねぇ。絡んでくる奴らを片っ端からぶん殴ってたよ」
「……その人、なんで指を失ったか知ってますか?」
「指? ああ、事故って聞いたが……。俺、その前後一ヶ月くらい入院してて。だから知らないんだ」
男は「そうだなぁ」と言いながら、翳り始めた空に視線を泳がせた。
「もしかしたら、事情を知ってるやつと連絡が取れるかもしれない。アンタの電話番号を教えてくれ」
その会話を最後に、男と別れた。俺は歩きながら、人によって齟齬が生じる認識の違いに思いを馳せる。たとえば、あの頃も。俺が知っている九兄貴と、藍信一が知っている王九は、まったくの別物だったのかもしれない。本当なんて、どこにあるのか分からない。本人以外は知り得ないことだ。
俺は駅のホームに立ち、帰りの電車が来るのを待った。都会のように本数が多いわけでもないので、ここで暇を潰さなければならない。ふと思い立って、露魯という名前を検索してみた。一応、何かしらの手がかりになるものが見つかるかもしれない。けれど、それは淡い期待でしかなく、大昔に死んだ学者と、すでに引退した俳優しか引っかからなかった。
ということは、やっぱり藍信一の緊急連絡先に電話をするか、教えられた住所を訪ねてみるしかないのだろう。電話。電話か。忍び寄る冷気が俺の背中を撫でた。ジャケットを羽織り直して、髪をほどく。電話口にアイツが出たとして、怒りに任せて怒鳴り散らさないことを祈るばかりだ。
【手がかりを求めて】
アパートに戻った次の日、Y氏に教えられた住所を調べると、そこは旺角花墟の通りを一本裏に入ったところにある床屋だった。その単語を見て「ああ……」と、思わず頭を抱えてしまう。床屋といわれると、藍信一に足してもう一人、嫌な人物を思い出すからだ。衝動的に消してしまった地図アプリを再び開いて、もう一度検索する。そして赤字で記載された〝閉業〟の文字を眺めた。住所が床屋だったということは、電話番号も店のものであり、今は使用されていない可能性もある。そう思って電話をかけてみると、呼び出し音が鳴った。ワンコール、ツーコール、スリーコール。直後にスマホを床に落とし、間違えて電話を切ってしまった。極度の緊張で手が滑った。
番号は生きていた。店舗兼住宅なのだろうか。もう一度かける。しかしコールが続くばかりで、誰かが出ることは無かった。三十分ほど待ってかけ直すが不在。さらに一時間待ってかけてみたが、やはり不在だ。
仕方がないのでKに連絡を取ると、『知り得た情報をもって担当警察署に行ってみては?』という返事が戻ってきた。それもそうか、と思ったが、まず何をどう聞けば良いのか分からない。俺は請求書や広告を雑にしまい込んだ箱を開け、裏が真っ白なチラシを取り出した。状況を整理したかった。思考を文字に起こすと考えがスッキリまとまるのだと、そんな話をよく聞く。けれど俺は文字に起こすということ自体が苦手で、書類作成に関してはからっきしだ。インクが掠れたボールペンで紙の端っこにグルグルと円を描き、ひとしきり悩んだあと、ペン先を右上に持ってくる。
二○○一年、紡績工場に入社。首に傷あり、火傷の痕なし、話せない、退職までの間に指を失う。
二○○六年、工場を退職。その後の動向は不明。
二○二○年十二月三○日、××山觀景台で遺体発見。
「……何もわかんねぇな」
せめて二○○六年以降の行き先と、顔写真があれば良かったが、人生そう上手くはいかないものだ。床屋に連絡がつかなければ、完全に手詰まりになる。Kが言うように警察に聞き込みに行くというのが、今できる最大限の調査かもしれない。
テーブルの上をそのままに、必要な資料だけをその辺にあった紙袋に突っ込む。ドアを開けると外は雨だった。ポツポツと降る程度だったが書類が濡れると困るので、玄関前に立てかけていた傘を開く。何処かの店の傘立てから持ち帰ったものだ。毒々しいほどカラフルな花々が咲き乱れた柄は目に痛々しく、雨粒が跳ねるたびに、甘い花香が空中に滲み出る錯覚に囚われる。
データベースを更新した担当の××警察署までは、バスに乗って二十分、最寄りのバス停から徒歩十分のところにある。最寄りのバス停で降りると、雨は上がっていた。けれど、幸先がいい、という気持ちは、××警察署の窓口で担当者と会話する頃にはすっかり萎んでいた。
「あーっと、資料は……こいつかな」
二、三年前に退職したのではないかと思える陰気臭い爺さんが、分厚いファイルをカウンターの上に広げた。爺さんは瓶底みたいな眼鏡を揺らし、持っていたペンを耳に挟む。怠そうに欠伸をするのは職務怠慢じゃないのか。苛立ちに任せてカウンターを叩きそうになるが、爺さんの「俺そこに座ってっから。なんかあったら聞いて」という言葉に気勢を削がれる。俺はわざと大きな舌打ちをかまして、開かれたページを覗き込んだ。そこに書かれていることは、Kから教えられた情報と同じだ。目新しい情報はない。しかし、視線を上に持ってきた途端、遺品の写真が目に飛び込んできた。
泥で汚れたサングラスのフレームとネックレスは、どこか見覚えがあるような、ないような、遠目の写真では何とも判断がつかない。バタフライナイフも量産されていそうなデザインだ。特別な要素は見当たらず、星座早見盤は一度濡れて乾かしたのかぐにゃりと歪んでいる。ノートは表紙がくしゃくしゃで、思っていたよりもサイズが大きい。全ページ白紙の本、と書かれているが、ページどころか表紙まで真っ白だった。まあ、今は泥で茶色に染まっているが、元は白かったのだろうと想像がつく。
俺はカウンターの奥で窓の外を眺めている爺さんに声をかけた。
「この遺体……首に傷痕とか、なかったですか」
「傷痕? あー……」
爺さんが隣のデスクに置いていた違うファイルのページをめくった。パラパラと紙の擦れる音が響く。
「そこまでは分からんね。首元は状態が悪くて。ほら、あそこ山の中だから……動物なんかが噛んだり引っ掻いたり、首から肩にかけてはめちゃくちゃで」
うっと嘔吐きそうになる。グロテスクな死体なんてごまんと見てきたし、解体だってお手の物だったが、体は素直な反応を示した。逆流する胃液が喉を焼く。俺は、九兄貴の綺麗な首筋を想像した。肌に残る紐の痕。痕跡をかき消すように、めちゃくちゃに荒らされた肉。屍肉の間からのぞく骨。吐き気が迫り上がってくる。立てかけていた傘に左足がぶつかって、バタンと倒れた。
「こっちの……骨壷については?」
スマホに表示した、××海浜公園で見つかった骨壷のページを見せる。念のため確認しておくに越したことはない。
「こいつと同じ時期だから、たぶん数ページ先にあるんじゃないか……おっと、これだ」
そのページはシンプルなものだった。データベースに掲載されている概要と同じで、ほとんど情報がない。骨壷の写真が貼り付けられているくらいだ。傷だらけだが、いたって普通の骨壷だった。白磁器で、胴の真ん中あたりを金の凹凸がぐるりと囲んだ特殊な模様になっている。ネックレスについては、骨壷の中に入っていたようだ。泥汚れもなく新品同様に美しいままだが、デザインについてピンとくるものがない。
よくよく考えたら、九兄貴のネックレスをまじまじと見たことなんてないのだから、判断できないのも仕方ない。俺は兄貴の後ろ姿ばかりを見ていた。今もそうだ。俺は後を追うばかりで、その姿かたち、存在すら掴めていない。
口を閉ざしたまま写真を眺めていると、ポケットの中が振動した。スマホの通知、いや、着信か。この連続した震えはおそらく電話だろう。カウンター越しの爺さんに断りを入れ、警察署の出入口に向かう。表示されているのは、アパートを出る前に何度か掛け直した床屋の番号だった。俺は慌てて応答ボタンをタップし、電話口を耳に押しあてる。
「はい」
『あの、もしもし?』
女の声だ。息を潜めるような喋り方のせいか、言葉が聞き取りにくい。
『……どちらさまでしょうか』
電話をかけてきた側としては、おかしな物言いだ。だが、知らない番号から複数回の不在着信が入っていれば何事かと掛け直すだろうし、開口一番の問いかけとしては間違ってない。
「ええと、その、藍信一……さんの自宅っすか? 俺は、藍……さんと連絡が取りたくて」
『……うちにはいません』
「彼の緊急連絡先だと聞いたんですが」
『緊急連絡先? ……××紡績工場の社員の方?』
俺は反射的に「はい」と答えていた。
「ちょっと藍、さんに話が聞きたかったんすけど。紡績工場で働いていた露魯っていう人物について」
『……紛らわしくてごめんなさい。より正確にお伝えすると、彼は亡くなりました』
驚きでひゅっと喉が鳴る。死んだ。藍信一はすでに死んでいる、と、電話口の女は宣った。
『……事情は分かりませんけど、うちのものが何か知っていれば、お話できるかも』
「うちのもの?」
『床屋の店主です。彼とは旧知の仲で。店は閉業しましたが、店舗兼住宅なので、今も住んでいます』
俺は彼女と――床屋の店主と――実際に会う段取りをつけ、早々に電話を切った。通話を終える前に確認したところ、藍信一は二○○五年に亡くなったのだという。二十年も前の話だ。二○○五年といえば、奴が紡績工場を辞めた年でもある。
爺さんに帰る旨を告げて署を出た。雨上がりの空気は蒸し暑く、ジメジメと肌にまとわりついてくる。バスには乗らずに、××山觀景台を目指すことにした。途中、警察署に傘を忘れたことに気づいたが、取りに戻らなかった。どっちみち俺の傘ではない。××山觀景台までは、此処から歩けば二時間以上かかる道のりだ。思考と感情の整理をつけるには丁度いい。
俺を追い越していく車の群れを横目に、急ぎ足で歩道を進む。アスファルトの窪みを埋めるように溜まった水が、あちこちに点在している。その水溜まりを踏みつけながら跳ね回る子供たちの集団が、楽しそうにケラケラ笑いながら俺の横を走り抜けた。ふいに、甘酸っぱいオレンジの香りが頬をくすぐる。足を止めて振り向く。そこには遠ざかっていく子供たちの背中があるだけで、あの人の姿はない。懐かしい香りは、あっさりと空気に溶けて消えた。
街をぬけて山の麓に辿り着き、山道の入り口に足をかける。ハイキングコースが整備されているため、誰でも登りやすいようにと、手すり付きの階段がずっと上まで続いている。木々は高く伸び、青いはずの空を覆い隠していた。風に飛ばされた落ち葉が、段差の部分を埋めるように敷き詰められている。腐りかけの葉だ。爪先で踏み付けるたびに、カサカサと音を立てる。
背中に滲んだ汗が、襟首の緩んだTシャツをぐっしょりと濡らした。うねる筋肉が体内の熱を暴走させる。はぁ、はぁ、と荒い息が漏れた。体力が落ちていることを実感して、なんだか情けない気持ちになる。滴り落ちる汗が目に染みる痛みを誤魔化すように、俺は鼻歌をうたった。
行旅死亡人(ジョン・ドゥ)、もしくは露魯、もしくは……あの人。彼は何を思い、何のために、この山に登ったのか。どうして此処で死んだのか。どういう人生を歩んできたのか。
――俺は、それが知りたかった。
登り始めて一時間が経つ頃、単調な道に変化があった。道の先に枝分かれしている箇所がある。右に入ると、中間地点の広場になっているらしい。そっちの道から降りてきた若い男女が、俺を見て「危ないですよ」と声をかけてきた。
「上まで登るなら明るいうちじゃないと。道は急になってくるし、階段もなくなります。懐中電灯とか、光源をお持ちでないなら引き返した方がいいですよ」
「……どうも」
「じきに日が暮れます。お気をつけて」
二人は並んで降りていった。カラスの鳴き声が響く山道に取り残された俺は、上に続く階段をぼんやりと見る。先へ進めば、日が暮れる。暗い夜道をスマホの明かりだけで下ってくるのは至難の業だ。階段があるとはいえ足場も悪いし、湿気が出てくると滑りやすくなる。
結局俺は、歩いてきた道を急いで戻った。とても、情けなかった。
その日、俺は夢を見た。
気がつくと、黒い絵の具で塗りつぶしたような、何も無い空間にポツンと立っていた。手を伸ばしても壁はなく、歩いてみても終わりがない。何故だか、歩き続けなければ、という気持ちが湧き上がり、俺はひたすら前に進んだ。目的もなければゴールもない。目指す場所が分からず、闇雲に歩く。足が重たくなる。泥濘にずぶずぶと浸かっていくような感覚だ。足を持ち上げる。足を下ろす。その単純な作業を無心で繰り返していると、ふと、数歩先に誰か立っていることに気づいた。
九兄貴。派手なジャケットに包まれた背中が、焦がれ続けた背中が、手を伸ばせば触れてしまいそうな距離にある。触れたい。衝動が俺の体を突き動かした。両足にまとわりつく鉛を振り払うように走る。走る。ひた走る。もう少しで九兄貴の後ろ髪に触れる。手が届く。そう思った矢先、兄貴の髪は俺の指に触れることなく、するりと抜けてしまう。追いかけても追いかけても届かない。兄貴の長い髪。一度も触れることを許されなかった。俺は死ぬまで、いや、死んでも、兄貴の後ろ髪を引けない。
待ってください。叫ぶ声は無音に飲まれる。けれど、兄貴はゆっくりとこっちを向いた。――割れたサングラス。温度のない瞳。血が滴る頬の古傷。暗闇の中で、胸元のネックレスが星のようにきらりと光る。何も喋らない。物言わぬ死体と同じ、ただそこに突っ立っている。俺は足を止めた。止めてしまった。
あにき、という俺の言葉は小さな泡になって闇に消えゆく。音のない世界の中でなら、あんたに伝えられるだろうか。
兄貴、王九兄貴。俺は。俺はずっと。
3、紡がれる糸 2026.2.5
【日記の存在】
俺は薄暗い部屋の中で、四十代半ばの女と向かい合って座っていた。丸テーブルの上では淹れたての普洱茶が湯気を立てている。食卓と、食器棚、流し台があるだけの手狭な部屋だ。小さな窓が一つしかなく、今日みたいな曇りの日は光も差し込まない。カラカラと換気扇の回る音だけが、静かな部屋に響いている。
「すみません。彼、体調が優れないみたいで。代わりに私が対応します」
それなりに身なりの整った女だ。髪の毛を肩の辺りで切りそろえ、片側を耳にかけている。背筋もしゃんとしていて、意志の強そうな瞳で真っ直ぐにこちらを見ていた。女の話では、床屋の店主は体調を理由に数年前に店を閉め、今は店舗とつづきになっている自宅で療養しているらしい。
実のところ、俺はこの女に僅かな疑いを抱いていた。電話でも、対面している今も、店主の存在を仄めかしているものの、店主本人は一向に現れない。もしやこいつが死亡人の件に何かしら絡んでいるのではないか。俺から何かしらの情報を搾取するために呼び出したのではないか。事件の真実、秘密を知った人間を殺すつもりなら――。
女の「聞きたいことがあれば、どうぞ」という落ち着いた声に、ハッと意識を引き戻された。被害妄想だったかもしれない。死んだ人間の正体、過去を探るという正気ではない奇行のせいで、俺は今、現実と虚構の狭間に立っている。膝に置いていた手を強く握り、開いた手を再び太腿に擦りつけながら、俺は口を開いた。
「あんたは……その、店主とどういった関係で?」
「兄です。義理の、ですけど」
女は「……弟みたいな側面もあるかな」と言って、口元を綻ばせた。笑っていると、不思議と幼い少女のようにも見えてくる。
「彼が体を悪くしてから、通いで身の回りの世話に来ているんです。義兄(あに)は、必要ない、大丈夫だからって言うんですけど。……いつだって頼りになる人だったから、今は私にも頼って欲しくて」
店主の話になると饒舌になるようだ。自身が淹れた普洱茶を一口飲み、ほっと息を吐く。俺はその動作につられて熱い普洱茶を口に含んだ。ほんのりとした渋みの中にあるふくよかな甘さが、鼻の奥に抜けていく。
「貴方は、露魯という方のお話を聞きたいとおっしゃっていましたけど……理由はなんですか?」
「理由……」
「どうして、その人について調べているのか。信一が亡くなって、もう二十年になります。それでも貴方は、露魯という人物の痕跡を求めて、この番号に電話をかけた。何かのっぴきならない理由があるのでは?」
すべてを見透かすような真っ直ぐな瞳に射抜かれ、空気の塊をゴクリと飲み下した。嘘をつくべきか。工場の人間、もしくは露魯の家族に依頼されて、居場所を探しているのだと、出鱈目を言ったところでバレやしないだろう。藍信一が死んだ今、この床屋が重要な情報源だ。選択肢を間違えてしまえば、もう何処にも行けなくなる。
「……身元が分からない遺体について調べている。もしかしたら、露魯という人物が関係しているのかもしれない。そして露魯に繋がる鍵が、藍信一だった。……でした」
散々迷った挙句、俺は真実を話すことにした。もし店主と女がグルで、露魯に関する情報を握っている、もしくは揉み消そうとしている、として。相手は女と病床に伏した男だ。前世で黒社会という反社会的集団に属していたアドバンテージを持つ俺が、相手に圧倒されることは無いだろう。隙を見て逃げ出すことも出来る。嘘をつくよりも、物事をありのままに説明するほうが良いと思った。この女に見つめられると、不思議とそういう気分になる。
「ご家族? ……ではなさそう。ご親戚?」
「いや。赤の他人ですよ」
「知り合いでもない貴方が、どうしてそこまで」
どうしてそこまで。そんなの、俺が一番そう思っている。
「名前を見つけてやりたいんです」
行旅死亡人は身元不明の遺体だ。彼には、名前が無い。……名前が無い。過去を辿れない。つまり、生きた証が何処にも存在しない、ということだ。そんな中、俺は露魯という人物に辿り着いた。偽名ではあったが、Y氏も、社員の男も、露魯のことを覚えていた。生きた痕跡が、確かに存在していた。だから俺は、彼の本当の名前を手に入れて、彼が生きていた証を取り戻してやりたかった。――九兄貴と関係があるなら、なおさら。
「……少しお待ちになって」
女が立ち上がり、部屋の奥に引っ込んだ。ふう、と息を吐くと、ドクドクと鳴っていた心臓が少しずつ落ち着いてくる。嫌な汗が額に滲む。ある種の賭けだったが、俺は勝てたのだろうか。長い時間が経ったような気がした。ぬるくなった普洱茶を飲み干す。水滴が胃に落ちきったところで、女が戻ってきた。手に、何かを持っている。
「これを貴方に渡せと」
テーブルに置かれたのは、一冊の本だった。
「信一の日記です」
「……日記ってことは、」
「知りたいことは、大体この日記に書いてあると思いますよ。……貴方なら、きっと大丈夫だと言ってました」
俺は何も言えなかった。喉元に引っかかった言葉で、呼吸が上手くいかない。
「見つけてあげてください。行旅死亡人(かれ)の名前」
壁掛けのからくり時計が、騒々しい音と共に昼を告げる。我に返って手を伸ばすと、女は日記を遠ざけた。伸ばせば伸ばすほど、遠ざけられる。そんな無意味な時間がしばらく続く。
「……なんの真似だ」
「交換条件、と言ってはなんですけど」
十二時一分。からくり時計の音が止まる。
「教えていただけませんか。貴方が知り得た情報を」
「理由がない」
「そんなことないですよ。案外、役に立つかも」
女は子供みたいな顔で「うふふ」と笑った。
「それで、洗いざらい喋っちゃったんすか?」
「いや……全部じゃねえ」
「でも、俺から話を持ちかけられたくだりも喋っちゃったんでしょ?」
「まあ……」
「それ全部ゲロったって言うんすよ」
Kのバカでかい溜め息がグサグサと刺さる。Kは「まあ、こっちにもメリットがあったのでいいっすけど」と言って、つまんでいたポテトを口に放り込んだ。揚げたて肉厚なポテトのサクッという子気味良い音がざわめきの中に響く。こいつの職場から程近いハンバーガー店は、ターミナル駅から徒歩五分の立地にあるためか、平日にもかかわらず店内は混雑していた。窓際の席を陣取った俺たちは、とりあえず腹ごしらえの為に注文したバーガーセットを貪り食っている。無理くり時間休を取得したのだ、とグチグチ文句を言うKは早々にハンバーガーを食べ終え、残りのポテトをひたすら口に運ぶという作業を繰り返していた。
「……藍信一が死んでたのは予想外だった」
「そうっすね。ま、いいんじゃないですか? 動きやすくて」
ステーキみたいな質感のビーフパテが二枚、塩味が強いベーコン、かための目玉焼き、申し訳程度のレタスとトマトが重なったハンバーガーにかぶりつく。煩わしい包み紙を引っペがしたせいで、圧に押されたトマトとレタスがボタボタとトレーに落下した。
「あーもう、食い方なんとかしてくださいよ」
「うるせぇ」
トマトはトマト、レタスはレタスで別々に食べる。そしてもう一度ハンバーガーを齧る。滴る肉汁がぶわりと溢れる。うまい。口の中で混ざればどうせ同じだ。
「……で、コレが例の日記?」
最後のポテトを飲み込んで、勢いよくシェイクをすすったKが、テーブルの端に置いていた日記に手を伸ばした。
「お前、汚れた手で……」
「やだなぁ。ちゃんと拭きましたー」
置いていかれては敵わないと、俺も三口でハンバーガーを胃に詰め込む。半分残っていたコーラを飲み干し、乾きかけのウエットティッシュで手を拭いて、Kの手から日記を取り上げた。文句を言いたげな顔を無視して、ゆっくりと表紙を開く。何の変哲もない、ごく普通の日記だ。一ページ目から空気が不穏である点を除けば、だが。覗き込んでくるKの顔を遠ざけながら、書き記された文字に目を通した。
日付は書かれていないが、一文目から〝あいつが消えた〟という文章が綴られている。
あいつが消えた。数時間前まで、確かに存在していたはずなのに、跡形もなく、煙のように消えちまった。誰かに持ち去られたのかもしれない。許さない。
気づけば、下っ腹に力を入れていた。ふー、と肺の中の空気をすべて出し、張っていた気を緩める。あの日、城砦から九兄貴の遺体を運んだ俺たちの背中を睨めつける、藍信一の姿を想像してしまった。ページをめくる。裏は白紙だ。それから二ページ目、三ページ目と、しばらくページが破られていて、唐突に〝見つけた〟とだけ書かれたページが出現した。日付は二○○一年三月三日。紡績工場で九兄貴……かもしれない露魯を見つけた瞬間のことを日記に綴ったのだろうか。
二〇〇一年三月五日。
見つけた時の高揚感といったら、どんな表現をしようにも、すべてが言葉足らずになってしまう。死んだような目をしていたアイツは、俺の姿を見つけた途端、その瞳に凶暴な光を宿らせて、威嚇するようにガルルと唸った。ヤツの本質は変わっていない。表現し難い高揚感、血が沸き立つような興奮が、血管という血管を駆け巡る。ああ、嬉しい。この感情を殺意と呼ぶべきか、愛と呼ぶべきか。いや、複雑に混ざりあった結果として、執着と呼ぶべきなのかもしれない。
二〇〇一年四月一日。
アイツは声を失っていた。耳障りな笑い声が響かなくていくらかマシだと思ったが、あのテンポの良い嫌味が聞けないのも、なんだかつまらねぇ。だから俺は手話を覚えて、アイツに教えることにした。細かい動きは無理だが、ニュアンスでなんとかなる。アイツと会話がしたい。そんな衝動に突き動かされた。必死で覚え、いざ教えようとしたら、指がねぇくせに、という目で睨まれた。お前のせいだよ。死ぬほど笑えない話なのに、笑ってしまった。俺も歳を食ったな、と思う。
俺とKは顔を見合せた。アイツ、イコール露魯のことで間違いないだろう。数ページ、数年に渡って、工場勤務での日常が語られている。あたたかい、と思った。不思議と体温が伝わってくるような文章だ。気に食わない。
「……これ、確定じゃないっすか?」
Kの言いたいことはよく分かった。確定というにはまだ早いが、九兄貴と仮定するところまで来ている。
「まだ断言できない。写真がなけりゃ」
「そこまで写真に拘らなくてもいいのに」
「俺は、自分の目で確かめたものしか信じない」
「頭かたいなぁ……いってぇ!」
丸出しの額を指で弾くと、Kは被弾箇所を両手で覆って頭を下げた。その隙に、もう一度日記を読み直す。俺は苛立ちを押さえきれず、ガタガタと右足を揺すった。もちろん、俺が知らないすべてを知っている藍信一に対する苛立ちだ。懐かない猫に歩み寄るように、露魯との距離を徐々に縮めているのも腹が立つ。どの面下げて。と、思わず舌打ちがこぼれた。
二〇〇三年八月二十日。
さそり座、いて座、南斗六星。今日、観測できた星座だ。寮から徒歩二十分の場所にある丘の上は、明かりもなければ人もいなくて、天体観測をするのに丁度いい。暗すぎて互いの手元なんて見えず、俺が一方的に話しかけ、アイツはそれを無視して星座早見盤を天にかざす。その繰り返しだが、俺にとっては大切な時間だった。空は昔から変わらない。俺たちは、きっと、あの時と同じ空を見上げている。
――あの時と同じ空。手に力が入り、危うく髪を引き裂きかけた。心臓を落ち着けるために、氷で薄くなったコーラの残骸を吸い上げる。……俺は気づいていた。九兄貴が時々、夜中に事務所を抜け出すことも、誰と会っていたのかも。手のひらに爪が食い込む。
「続き、読みましょうよ」
Kに促されて、ぶるぶると震える指でページをめくった。Kはそんな俺を見ても何も言わなかった。ただ、歯型のついたストローを噛んでいた。
次のページにも、変わらない日常が綴られていたが、二〇〇四年十二月二十五日。急に、文字が乱れた。乱れたというよりも、怒りに任せてぐちゃぐちゃに渦を巻いたような、感情の吐露にも近いと感じた。何故こんな滅茶苦茶なページが出現したのか。その答えは、次のページにあった。
二〇〇四年×月×九日(字が乱れている)
指を切り落とした三人を××して……処分した。××には×を渡して話をつけた。すべて事故ということで処理する。(以降、字が乱れて読めない)
指を失った経緯だ。事故なんかじゃない。文字が潰れている箇所は、おそらく社長に金を渡して揉み消した、と言いたいのだろう。当時の社長、Y氏の父親だ。Y氏も詳しく知らなかったことを考えると、警察沙汰は回避したらしい。
俺は初めて藍信一の背中を叩きたくなった。よくやった。お前がやらなければ、俺がそいつらを探し出して殺していた。
二〇〇五年二月十四日
アイツは存外落ち着いている。手の痛みも引いたようで、また働き始めた。休んでいる間、ずっと星を見ていた。話しかけても無視された。指がなくたって、手話はできるだろ。俺も同じだ。それなのにアイツは、気力を無くしたように、工場内をフラフラと徘徊するようになった。誰にも会いたくないと、人を拒絶するみたいに。誰を拒絶してもいい。だが、俺を拒絶するな。(以降、字が乱れて読めない)
二〇〇五年六月二十日。
胃の痛みに耐えかねて、診察に行った。なぜ早く来なかったんだと怒られた。検査結果は言わずもがな。薄々勘づいていたことだ。アイツには伝えず、工場を辞めることにした。引き継ぎの準備を始める。
二〇〇五年七月一日。
最後の日。アイツを探して、なにかあれば同僚の李駿豪(リー・ジュンホウ)を頼れと言った。何も知らないアイツは、俺をチラッとみて「べっ」と舌を出した。なんだか安心した。……何も知らないままでいい。何も知らず、知らないフリをして、生きてくれ。
藍信一の日記は、ここで終わっていた。俺たちは再び顔を見合せた。同僚の李駿豪。次の手がかりはコイツだ。Kがスマホの画像フォルダから、例の写真を探し出した。紡績工場の従業員名簿。見落としがないように、一人一人じっくりと目を通していく。
「……いた! 李駿豪……こいつ、今も働いてんですかね」
「俺が知るか。社長と、このまえ話を聞いたオッサンに連絡してみる」
「李駿豪って、前世絡みの何かじゃないっすか? あんな事件起きたあとで、ただの同僚に頼れだなんて、言うわけないですよ」
「もしそうだとして、記憶があるなら万々歳だな。話がスムーズに進む」
「記憶がなかったら? 赤の他人だったら? 警戒されて、話を聞けないかも」
「そん時は根気強く説得する」
「……なんですか急に。かっこつけちゃって」
「巻き込んだのお前だろ。責任取れ」
「ま、解決したらバカ高ぇステーキ奢りますよ」
「嘘ついたら舌引っこ抜くぞ」
Kは「うわ。今の言い方、九兄貴にそっくり」と、苦虫を噛み潰したような顔をした。