『君にはデレデレ』箱根学園の朝は、いつものように騒がしかった。荒北靖友は自分の教室の窓際で、鋭い目つきで教科書をパラパラめくっていた。だが、その視線は時折、廊下を歩く黒田雪成を追う。黒田は別の教室に向かう途中、ノートを抱えて同級生と話しながら歩いていた。荒北は「黒田ァ、相変わらず真面目くせェ」と心の中で呟き、なぜか口元が緩む。
「なぁ、靖友!」背後から、新開隼人の声が響く。振り返ると、新開がニヤニヤしながら近づいてきた。「ルーズリーフ一枚くれよ。ノート、家に忘れちゃってさ」
荒北は即座に仏頂面に戻り、冷たく返す。「やァだ、東堂にもらえヨ。あいつなら、字ヘタクソすぎて紙いっぱい持ってんだろ」
「靖友ォ…」と泣きながら新開が去っていく。そのやり取りを、たまたま廊下から見ていた黒田は、クスッと笑って首を振った。荒北のそんな態度、他学年の自分でも噂で聞いてて、なんだか憎めなかった。
授業開始直前、黒田が慌てた様子で教室を飛び出し、偶然荒北の教室の前で立ち止まった。「やばい、筆記用具忘れた…」と呟きながら、廊下で困った顔をする黒田の声が、たまたま教室のドア近くにいた荒北の耳に届く。黒田は意を決して、荒北に声を掛けた。
「すいません、荒北さん! 筆記用具、自分の教室に忘れたんで、貸してくれませんか?」
荒北は一瞬、黒田の少し焦った表情にドキッとする。後輩が物を借りに俺に声掛けて来るなんて、と思うと、なぜか胸がざわつく。筆箱から少し角が欠けた消しゴムとシャーペンを取り出し、「ア? 別にいいケド」とぶっきらぼうに差し出した。
「ありがとうございます!荒北さん! 助かります!」黒田はパッと笑顔になり、消しゴムとシャーペンを受け取る。その笑顔に、荒北の心臓が一瞬高鳴った。廊下の喧騒の中、なぜかその瞬間だけ空気が柔らかく感じられた。
「お前もドジだナァ、黒田ァ」と荒北は誤魔化すように笑い、頭を軽く掻く。黒田は「え、そうですか?」と照れながら返す。教室の入口でその様子を見ていた新開は、「靖友、黒田に甘すぎだろ」とニヤニヤしていた。
昼休み、荒北は部室で過ごそうとしていたが、黒田が部室の前で「荒北さん、お昼一緒にどうですか?」と声を掛けてくる。後輩がわざわざ誘いに来るなんて、と思うと、荒北は一瞬固まり、「まぁ、…いいぜ」と答えた。校庭のベンチで黒田と弁当を広げる荒北の表情は、威圧感とは裏腹に、どこか穏やかだった。
「靖友、最近黒田にデレデレじゃないか」と後で新開にからかわれても、荒北は「うるせェ」と一蹴するだけ。でも、心の中では、黒田が自分を頼りにしてくれたことを思い出し、ちょっとだけ満足げに笑っていた。