この作品は完結しました。 1
オレがウィスパーさんを知ったのは、大学生になってすぐのことだった。
友人のシルバーやリドルに助けてもらいながら、無事高校を卒業して大学生になったオレは、三人でルームシェアを始めた。大学が家から遠いこともあって、初めは一人暮らしを予定していたけれど、「カリムだけでは心配だ」というリドルの発言や、リドルは「母親のもとを離れて自分の意思で生活したい」シルバーは「将来マレウス様に役立つように今から自立しておきたい。」、という意見の一致もあって、ルームシェアを始めたのだった。
共同部屋一室に各個人の部屋。三人の生活は個人の生活のずれが多少あっても、気負うことはなく賑やかでとても楽しい。ただ料理だけは三人とも苦手で、都合があう毎週水曜日の夜は共同のキッチンに集まって料理に挑んでいる。その中でもオレは特に苦手で、この間半ナマのじゃがいもの入ったカレーを作ってしまい、元々そこまで好きではなかったカレーが更に印象が悪くなってしまった。
そんな賑やかな共同生活を終えて眠る準備を整えると自室に戻る。けれど今日のオレは、いや最近のオレは、就寝する前にサイドテーブルの灯りだけをつけて横になり、スマホを開くことが日常と課していた。本当は目が悪くなるし眼精疲労の素だから「寝ながらスマホを見るのはおよし」とリドルに言われているけれど、オレはどうしても気になることがあったのだ。
マジカメのアプリを開くと自分のアカウント。プロフィール画像にはオレの顔が写っているし、ユーザー名はカリム・アルアジーム。トーク欄の一番上にはシルバーの名前。タイムラインには学校の知り合いや猫にやたら好かれる親戚、それから妹や弟たち、いろんな人達の色とりどりの日常の一コマが映えていた。でも今はこれが見たかった訳じゃない。
マイページにいき、指先でトントン、と二回アカウントをタップする。するとオレは別人になる。アイコンは前に楽器屋で働いている友人のフロイドが描いてくれた紫と青が混じった貝のイラスト。ユーザー名はカイ。トークの一番上にはフォロワーさんの名前。タイムラインにはフォロワーさん達が今日読んだ本だとか、漫画だとか、自身の書いた創作作品がコメント付きで溢れていた。
オレは物語が好きだった。外で遊ぶことももちろん大好きで、幼い頃はよくダンスやスケボ、家の中を冒険して転んでアザや怪我をして怒られていた。けれどオレはもう一つ好きな時間があった。日中は外で遊んでクタクタになって寝る前。母ちゃんが傍で絵本を読んでくれるその時間がオレはとっても好きだった。母ちゃんは読み聞かせをしながら早い段階で寝てしまうので、オレは母ちゃんの手元から本を抜き取っては寝落ちするまでその物語を夢中で読んでいた。特にお気に入りだった物語は、一国の姫と元コソドロが身分違いの恋に落ちて、結ばれる話。特に主人公の元コソドロは、貧しくても心は美しい青年でオレもこんな風に許せる人間になりたいって思ったし、二人が結ばれるシーンは今思い出しても、胸が高鳴る。
そんなオレは大学に入るなり、たまたま隣の席に座ったやつとその話で盛り上がると、調べて行くうちに創作サイトとそのアカウントに辿り着いていた。
ウィスパーさんは主に男同士の恋愛を文字で描く。最初こそよく分からず色々な人の作品を読み耽っていたオレは、いがみ合いながらも徐々に惹かれあっていく二人に心を奪われた。友情と恋慕の境目があやふやになって、本来なら惹かれ合うべきでない性に、まるで運命にだけ引き寄せられているような、そんな初めての感覚に感情を掻き乱されて気づいたら朝になっていた。衝撃や、充実感、睡魔からその日は一日中ぼーっとしていたのを覚えている。次の日は一日しっかり眠って、作ったばかりであんまり使っていなかったマジカメのアカウントからウィスパーさんにチャットを送った。ウィスウパーさんはフォロワーさんの数的にも、この界隈ではかなり人気みたいで、本人のプロフィールにも簡素な物言いの羅列の中に「感想ありがとうございます。全てに返信はできませんが、楽しく拝見しています。」と記述されているので、返信は期待していない。それでも感想を伝えたかったからオレはこの人に会えて幸せだし、ずっと応援していきたいと思った。それがウィスパーさんとオレの一方的な出会いだった。
サブアカウントのタイムラインを見ると、既に読み終えたウィスパーさんの読者たちが『ネタバレ感想注意』の文字の元、それぞれ感想を叫び合っていた。
やっぱり更新されてたんだな……!と嬉しくなりつつその文字たちを追ってしまう。
『今日のウィスパーさんの作品みた?最高の萌えをありがとうございました……』
『オメガバもめちゃくちゃ良いね。苦手気味だったっけど新たな扉開いたかも』
『創作BLの中で今一番熱いカプ……ノレリム!』
『もうリムくんモブに食べられちゃう……!と思ったらぎりぎりのところで迎えに来たノレ……!まってたぜェ!って思わず声に出て家族に睨まれたわ』
『家族がいるとこでよく読めたな?だが早まる気持ちはよくわかる。その後のノレのリムに対する——。』
「あーーーっ!これ以上は駄目だ!」
「!カリムうるさいよ!」
「わっ。わりい!」
作品が気になるばかりに文字を追う目が止まらなかったオレは、ネタバレを食らいまくり(正確には自分から突っ込んでいったんだけれど)さすがにダメだーってなったところで声と共に自分の目を覆った。よかった、もう少しで結末まで読んでしまうところだった気がする。ナイスオレ。と思うのも束の間、丁度自室に戻ろうとしていたのか扉越しにリドルから叱責を受けて慌てて謝る。これで夜はスマホ没収とかになったらオレは生きていけない。この二人の幸せを見届けるまではッ!
そう、みんなも言っている通り今ウィスパーさんが連載している話がオレはとても好きなのだ。登場人物はノレとリム。二人とも男だ。リムはお金持ちの大富豪の息子で、ノレはリムの従者。そんな身分違いの恋だった。登場人物はいつもその二人で、二人を軸に色々な話を書いているのがウィスパーさんだった。だから、長編もあれば短編ものもあって。身分違いで男同士、と。場所や時によっては非難される関係性の二人がどんな経緯があって惹かれていって、どんなことがあって幸せになるのかの、結末を見ることがオレの毎夜の楽しみになっていた。今回更新された話は恐らく短編な気がするけれど、オメガバースというのは初めて聞いた単語だったからどんな話なのかとても楽しみだ。オレは分泌されすぎた唾を飲むと、ウィスパーさんの『新作投稿しました』という文に貼り付けられたURLをタップして、今度こそ物語に飛び込んだ。
2
朝、眠い目を擦りながらリドルに添削してもらった履歴書と筆記用具をバックパックに入れて、クロスバイクに跨るとバイト先(予定)の古本屋に向かう。シェアハウスからも大学からもちょうど良い位置にあるその店は、学部の先輩に紹介された。
十分ほどで到着した面接を受けるその店は、外観は古びていて木造のように見えるけれどそういうデザインなのだとわかる。手をかけると重厚そうな扉はあっさり開いて、オレを本の世界に誘ってくれる。
新書と違って人に一度や二度、もしくはそれ以上。手に渡ったであろう本たちは、その場の空気を吸い込むだけであの独特の匂いが肺いっぱいに雪崩れ込んでいく。
(うん、オレの好きな匂いだ。)
小さい頃何度も読んで夢中になった夜を思い出して、心が躍る。とっても気にいった。ここで働けたらオレの大学生ライフがもっと鮮やかになること間違いないと口元が緩んだ。その為にも今日は頑張らないとだ。少し緊張するけれど、店内を散策してとりあえず従業員らしき人は探した。すると絵本のコーナーっぽいところに黒い長髪をおろして、オレより背の高い黒いエプロンを着用した女の人が古びた本を陳列していた。
「あ、っとそこのお姉さん」
「………」
声を掛けてみるも、黒髪が綺麗な女の人は振り向く気配がない。
(聞こえなかったのか?)
そう思いもう一度声を掛けるけれど振り向く気配はない。オレは益々頭の中がはてなまみれになって、三度目の正直だ!!と今度は気づいてくれるように肩に手を掛けた。正直もう面接の時間が過ぎそうなので少し焦ってるんだ。
「なあ!ちょっといいか?!」
瞬間、書店員の女の人は持っていたらしい本の山をそこにどさりと音を立てて落とした。いや落としたというよりは力を込めておもいっきりそこに置いた。オレは音に驚いてドキドキしながらその背中を見つめていると、そいつは髪を揺らしながらゆっくりとこちらを振り向いた。ちょっと井戸から出てくる幽霊に似てると思った。
「チッ」
「あ、忙しい時にわるいな!今日ここで面接予定のカリム——」
「お断りだ」
「エッ」
(声低い……)
オレは思った以上に低い声にマジマジと彼女を見つめてしまう。やっぱり彼女の髪は綺麗で長くて、前髪も長いから顔半分は隠れてしまているけれど、想像以上に整っていて。率直にいうならこんなに綺麗な人に出会ったのは人生で初めてだった。色黒の肌に髪の隙間から見える切長の三白眼気味な目にはチャーコルグレーが埋まっていていてこちらを射抜くように見つめている。
「おい、聞いているのか」
「はっ」
いつの間にか見惚れていたらしい本人の声によって現実世界に引き戻される。ていうかこの人誰なんだ、店長……ではなさそう(あまりにも聞いてきた特徴と異なるからだ)だし、そうしたらやっぱりここの店員さん、というのが筋が通ると思う。エプロンしてるし、本を運んでいたし。つまりオレはそんな人にお断りをされたのだ。何を?働くことを、だ。
(そ、そんな、オレはここで働いて楽しい大学生活を送りたいって思ったばっかりなのに。)
「ま、まってくれ、そう言わずにさ、オレこの店すごく気に入ったんだ。」
「だからなんだ。君がここを気に入ってもこっちが君を気に入らなければ、願い下げだ。」
ゆらり、と上半身だけをこちらに傾けてそれがわかった上できたんだろう、と耳元で低い声で囁かれる。それはなんだか嘲笑ってるような声でもあって、少しだけムッとした。オレのこと何も知らないくせに。
「まあ、バイパー君。そう言わずに」
「店長」
う〜〜っという反論を、拳を握り口を引き結ぶことで探していたとき、もう一人エプロンと丸眼鏡をした痩せ型のおっちゃんがこちらに歩いてきた。その人は、黒いエプロンの下には白いワイシャツとジーンズを着て、折られた袖からはひょろりとしているけれど、しっかりと筋肉のついた腕が伸びている。そしてネームプレートに『店長』という文字。ひらひらと緩く手を振りながら機嫌が良さそうに歩いていた。じゃなくて、挨拶をしなくては!心のリドルがそう言っている。
「は、ハジメマシテ!きょ……本日アルバイトの面接をお願いしてたカリム・アルアジームだ!よろしくお願いします!」
「元気な挨拶ありがとう。この古本屋の店長のモリタです。よろしくねアジームくん。いや長いからカリムくんでいいかな」
「もちろん大丈夫だぜ!」
出された左手に自分の右手を差し出す。店長の手はオレより少し大きくてなんだか包容力がすごいなぁと思った。
「あ、それからカリムくん採用ね」
「ほんとか?!やったー!!」
「は?待ってください店長」
喜びも束の間、するりと前に出たのはさっきの店員であろう女の人だった。
「俺ひとりじゃ力不足だとでも言いたいんですか。それにこんな温室育ち丸出し人間絶対使えませんよ」
「ナ?!」
こちらを一目も見ず、そう言い放たれてさすがに声が出た。さっきからなんなんだ!オレこいつになんかしたか?!
「まあまあ。でもバイパー君以外アルバイトいないしさ。人がいてくれた方がこれから助かるでしょ。色々と」
「それは、まあ」
「それにただでさえ廃れている店なのにこんな無骨な男二人じゃあそれこそどんどん客足減るってもんさ」
続いて何か言い返したくて唸っていたオレは、店長の言葉で首を傾げた。
「男二人?」
「ん?」
男二人ってオレと店長のことか?と思いながら、でもオレまだ数に入れられてない気がするし、というかさっき店長この人のことバイパーくんって言ったような。あれ、というか俺って言ってたような……まさか。
「そうそう。僕とバイパーくん。今はこの店男二人なんだ。だから来てくれると助かるよカリムくん」
「え!!」
和やかに笑う店長と、はーーーーっとため息をついた黒髪のバイパーくんと呼ばれたその美しい人。その人は心底嫌そうな顔をすると、今度こそ振り返ってオレをじとりと睨んでいた。やっとか、と目が言っている。
「俺が無理です」
前言撤回だ。オレがなんかしてた!!わるい!!!
***
見事バイト先の面接に合格したことをシルバーとリドルに伝えると、二人はとても喜んでくれた。特にリドルは面接の練習も履歴書の書き方も、敬語の使い方も丸々オレのために対策をしてくれたから、とても誇らしげだった。それを見てオレも嬉しかった。
オレの初バイト合格を記念して小さなケーキを食べて幸せいっぱいの夜の後。いつも通り画面を二回タップしてアカウントを切り替える。昨日の今日だからたぶん作品はアップされてはいないだろうけれど、小さな呟きでも、フォロワーさんとのお喋りも楽しいから今日はそれが目的だ。瞬間、オレは目を見開いた。
「え、ええええぇぇ?!」
あまりにもでかい衝撃にでかい声を上げていたオレは、手元にあったスマホを勢いのまま落としてしまったし、体は学習用の椅子ごと後退りをした。手汗がすごい。
(え、え、どうしよう)
落下した液晶画面が僅かに光るスマホをみて、まだどきどきと胸が高鳴っている。こんな時はどうするんだっけ。そうだ!息を大きく吸って吐いて、深呼吸だ。すーはー。よし。少し落ち着いた。唾を飲みびしょびしょの手でその四角い箱を拾いあげようとすると、コンコン、というノック音にまた驚いて今度こそひっくりがえってしまった。いってぇ!
「どうした?!カリムなにかあったのか?」
「だ、大丈夫だシルバー、ちょっと転んじまっただけだ」
ドシン、の音を聞いて勢いよくドアが開かれた。自室には鍵はあるけれど、オレは閉め忘れることが多い。駆け寄ってきたシルバーに手を借りる状態で起き上がって、掌を表にしたり裏にしたりして確認される。怪我はなさそうだな、と呟いて手は自由になった。
「びっくりしたよな、ありがとな〜」
「それは大丈夫だが……なにかあったのか?」
スマホを拾おうとした指先がびくりと僅かに揺れる。
「いや、なんでもないぜ!」
オレはなんでもないと平静を装いながらそそくさと今度こそスマホを拾うと、スウェットのポケットに入れる。財布もついでに持って、熱い顔を覚ますためにシルバーに断りを入れると外に出ることにした。
スニーカーを履いて外に出ると、5月でもまだ夜は少し肌寒い。高校生の頃からお気に入りの白いカーディガンを着てきてよかった。最近は雨も降ってじめつく空気も今日はカラッとしていて風が気持ち良い。星も綺麗だし折角だから近くの海でも見に行こうと思い、クロスバイクに跨ってペダルを漕ぐ。
(ウィスパーさんから返信来ちまった……!!)
海に近づくにつれ胸がドキドキと高鳴っていた。だって、憧れの人だ。オレが大好きな言葉を紡ぐ人だ。その人がオレだけに返信をくれたのだ。内容はまだ確認し切れていないけれど、確かにチャットの横の表示には通知の数字がついていた。
いつもならシルバーやリドルにすぐに言いたいくらい嬉しいことだったのに、今のオレはただそれが嬉しくて、もっと噛み締めたいと思ってしまった。
キキ、と音を立てながらコンクリの上にバイクを止める。海に近い柵に近寄ると黒い海からはほんのりと潮の香りがする。近くても全力で漕いでしまったから、温度の低い風が頬に触れて気持ちがいい。ぐっと背伸びを一度して、スマホの画面を凝視する。そこには確かに簡潔ながらも丁寧な言葉が連なっていた。
『カイさん。感想ありがとうございます。返信がかなり遅くなってしまい申し訳ありませんでした。カイさんの素直で率直な感想とてもうれしかったです。なんだか初めて感想を貰った時の新鮮な気持ちを思い出しました。これからも楽しみしてくれたら嬉しいです。ウィスパー』
「くぅ〜〜〜!!!」
あまりの幸福度に内に秘めてられずにじたばたと足を動かしてしまう。ただ嬉しい!!
(今日はなんて最高なんだ!!!)
大好きな人に返信を貰えたことも、働いてみたいと思ったバイト先で働けるのも。
(バイパー?だっけ……はちょっと怖いけど)
それでも今日は嬉しいことが沢山で、直ぐに寝られそうになかったから。落ち着くまで大きな海に向かって感情を受け止めてもらった。
***
「あいつ、なにやってるんだ。」
バイト帰り、小腹が空いてコンビニでアイスを買って帰る夜。満天の星の下、いつもは無いそこに白い影が照らされていた。間違いなく今日の昼、第一印象が最悪だったあいつだ。
ずっと誰かを探している。その感覚だけは胸の内にある。覚えているのは何度も会ったことだけだ。会いすぎて、何度も会いすぎて忘れしまったのかもしれない。遠い昔が言葉通りに遠いのだ。
(けど)
スマホをぎゅっと握っていた。
もしかしたら、探していたのはこいつなんじゃないかってやつを最近見つけた。素直で、男で、ロマンチックなやつ。唯一覚えている特徴を持った人物が俺が書いた話を見つけた。だからそうなんじゃないかって思ってしまった。
いつも貰う感想は返信をしたことがない。最初は返信をしていたけれど、出会いを求められてからはやめてしまった。けれど、気になって数日別のアカウントからフォローして眺めていれば益々確信は強くなった。だから返信をしてみた。まだ返信はないがこれから始まる。初めは友人でいいだろう。こんな話に興味を持つ男は珍しいからな。それでももし、もっと接触して好きだと感じてしまったのなら最終的にはその顔を拝んで、引っ捕まえて、少しずつ口説いて。もう一度胸の内から焦がれるお前と始めたい。その正体を暴きたい。そう、今から始まるってとこなのに。
目先には白い影。バイト面接に受かったくらいではしゃいでいるのだろうか。なんて単純だろう。そんな単純で、俺よりも小さな体をしている癖にこの俺を女だと間違えるような失礼で物覚えの悪そうな新人を、俺がこれから育てなきゃいけないことは明白だった。
(今日は最悪だな)
乗っていたママチャリのペダルを再度漕ぐ。面接に来る前、十数年使っていたお気に入りの臙脂色の髪紐が切れた今日は、やはり厄日だったとため息をついた。
3
「今日から君の面倒を見るバイパーだ。よろしくな。カリム。」
「よろしく頼むな!!バイパー!」
(よかった、割と普通だ。)
この間のことは水に流してくれたのかもしれない、とほっと息を着く。あれから3日経って初めての出勤日。店の入口から入って、店長にレジ横の暖簾から従業員の部屋に案内されると、そこには髪を結んだバイパーが居た。あの時は長い髪の男を見たことがなかったからか分からなかったけれど、その顔つきやエプロンのつけていない身体はあまりにもがっしりとした男のそれで。なんでオレはこの人を女の人と間違えたのか自分で不思議な気持ちになった。
良い奴だ。もしかしたら仲良くなれるかもな。ううん。折角だし仲良くなりてぇな!そんな風に思いながら握手しようと手を差し出した。けれど。
「言っておくが、君と馴れ合うつもりは無い。君が失礼なやつで、嫌いなことに変わりはないからな。」
フン、と丸く輪を作った髪を揺らしスタスタと前を行くバイパー。う、やっぱり意地悪なやつだ。と思いながらも「早くこっちに来い。給金は常に発生してると思え」と促され、それはまずいな!と思い足早にその背中について行った。
従業員入口と更衣室を教えてもらい、持参したメモ帳に教えてもらったことはしっかりと書き込んで行く。メモ帳を持っていくように言ってくれたシルバーには感謝だ。
(でも早く書かないとまた怒らせちまうかもしれないな)
そう思ってなるべく早く書くようにすると、ミミズのような字が沢山生産されていた。
「で、これがうちの制服だ。」
そう言われてクリーニングの後についてる薄いビニールを纏った制服を手渡される。オレは畳まれたそれを受け取ると、好奇心のままに広げて裏表を見る。
「へーーー!!!」
「制服と言ってもエプロンだけが指定で、それ以外は奇抜でなければ特に問題ない。ああそれと、スリッパは駄目だ。足元は本を落としたりすると危ないからな」
「ふへーーー!!!これが制服か〜!!」
「おい聞いてるのか」
初めてのバイトの制服に興奮していると、剣呑な視線を感じてはっとする。なんか言っていた気もするけれど、なんも聞いていなかった。
「これが制服なんだな!!オレバイト初めてだからなんか嬉しいぜ!!」
たぶん制服の話をしていたんだろう、とおどけてみたけれど逆効果だったらしく、とてつもなく深い溜息を吐かれてしまった。
「今日みたいな格好なら問題ない」
「お!そうか?」
Tシャツに、ジーパンにスニーカー。なるほどな!!これも忘れないようにメモしとこう。そう思い気合を入れてペン先を動かす。けど、その軸は長い指によって止まってしまった。
「ゆっくり書け。見返しても読めなければ意味が無い」
「あ…そうだよなぁ!」
「別にそれくらい待ってやるから」
「……!うん!ありがとな!」
なんだ、やっぱり良い奴だな。と少し緊張していた糸が解けてしまえば、にっこりと笑顔になれた。そうしたらバイパーは着ていたパーカーの帽子に手を掛けて被ってしまった。
「お、パーカーもいいんだな!」
「あ、あぁ、そうだ」
「被ってもいいのか?」
「被るのは駄目だ」
そう言いながら、スっと帽子を外したバイパー。
「そっか!」
(やっぱり帽子は駄目なんだな〜。大学の講義に初めて行った時講義中は帽子を脱げって怒られたっけ)
そんなことを思い出しながら、メモを取る。駄目なこともちゃんと身をもって教えてくれたことが嬉しかった。
「で、ここが本を削る場所だ」
「本を削るぅ?!」
ある程度の業務を教えてもらい、最後にレジ奥の扉を開けた先には小部屋があった。そこには機械と、紙やすりの束とアルコール、拭き取り布。さらに奥には本棚と机があってかなり古そうな本や汚れの目立つ本が山積みにされていた。
「そうだ。特に古本はこういう本の上下。つまり天と地が日焼けしている本がかなり多いんだ。だから紙やすりとか、この書籍研磨機で削ってある程度綺麗にしてから店内に本を並べることが多い」
バイパーは1冊本を取ると、オレに本の上の部分を見せた。確かにそこは黄色くなっていてかなり長い間色々な人が手に取ってこられた年月分かる。機械にスイッチを入れてその本を充てると、音を鳴らして本が振動していく。作業が終わると研磨されたことで出た粉を軽く叩いて同様にオレに見せてくれた。
「ほら」
「おぉ〜〜〜!!」
受け取って確認すると、さっきまで黄色だった上部は白く綺麗になっていて、下部と比べても同じ本とは思えないほど綺麗になっていた。
「オレもこれやってみたい!」
「駄目だ」
見せてくれたからやらせてくれるんだと思い、目を輝かせながらジャミルを見るとぴしゃりと断言されて「なんでだ?!」と咄嗟に非難の声を上げる。
「お前にはまだ早い」
「早くない!」
「いーや、早いね」
やっぱりやってみたくてもう一度引き下がっていたけれど、オレから本を取り上げて、べ、と舌を出すと「次だ」と言わんばかりに部屋から出て行ってしまった。
あれから全体の業務を一通り教えてもらって二回目のバイトを何とか終えた。今日はリドルとシルバーと三人で料理の日なので、わくわくとしながら帰路に就く準備をしていた。エプロンを外して、バックパックを背負う。ロッカーについている小さな鏡を見てピアスを確認すると扉を閉めた。そこでやっとバイパーと目が合った。
「ん?なんかついてたか?」
「あ、……いや。お前のそれは地毛か?」
不意に目が合ったのに驚いたのか、少し慌てたようにオレの髪を指す。バイパーも今日はもう上がりみたいで、エプロンを外して支度をしていた。
「あぁ!うんそうだぜ!珍しいか?」
「まあな、白銀は初めて見たから染めたのかと思った」
業務以外の話が持ち上がりつい嬉しくなってテンションが上がった。
「そうなのか?あ〜染めたこととかはないけどさ、友達によく染まりそうな色だなって言われる!」
「そうか。お前は随分派手なヤツなんだな」
「派手なヤツかどうかは……わかんねえけど、でも楽しいことは好きだぜ!」
オレはニカっと笑って、親指を立てる。すると。
「そういうところだよ」
「そういうところ?」
「?いや、なんでもない。忘れてくれ」
「???」
バイパーは自分で言ったことに神妙な顔をして首を傾げていた。なんだ?と思う前に「お先」と従業員出入口に手をかけたバイパーをただ見送った。
***
眉間がぴくりと動き、目がひくついていた。
俺はとんでもなく大きな壁にぶち当たっていた。胸が高鳴り息が苦しくなって、どうしようも無くなった感情は、眉間にしわを寄せる要因になっていた。
梅雨は明けて、2つ折りのシャーベットが美味くなった時期に季節は移ろっていた。扇風機を回しながら、項の熱が少しでも発散されるように髪を高くあげていた。
(容姿を変えたい。リムの容姿をとんでもなく変えたい)
最近、課題を提出し終えたパソコン画面に向かって思うことはその事ただ一つだった。因みに言っておくと、リムは俺がWEBで書いているBL小説の受けの方だ。大富豪でおおらかで大雑把な性格をしている。本題に戻るぞ。
リムの容姿はノレと同じ黒髪にしていた。どうしてもぴたりと重なる色が思いつかなかったからだ。けれどずっと違和感があった。それがここ最近、具体的に言うならばあのカリムに出会ってから「白銀がいいな」とじわじわと思考が支配されていった。
あれからカリムには「ジャミル」と呼ばれるようになった。理由は簡単だ。一つしか歳の差はないし、俺はカリムを下の名前で呼んでいるから「おまえもそう呼べばいい」と言ったら、嬉しそうに「ジャミル」と呼び始めたからだ。カリムは期待を裏切らない。アイツと初めて会った夜、ため息を吐いたくらいには作業の手際が悪かった。まあ、初めてのバイトだと言っていたし、よく話を聞けば割とボンボンの坊ちゃんのような金銭感覚だったので、わたわたと忙しなくも働く意欲だけは見せているカリムに何度か息を吐いて呆れていた。
一番大声を出したのはカリムが初めて研磨機を使ったとき。珍しく混んでいた店内でレジ打ちをしていた俺は『試してみるか』とばかりにカリムにまだ処理されていない本を数冊託した。やり方は初回で教えたし、書いていたメモも確認したから問題ないと思った。けれど俺は大声を上げた。一通り捌けたレジ前で半分になった本を渡されたからだ。
『ジャミルごめんっ、オレどこまで削っていいかわかんなくなっちまって』
元々あった体積の半分になった本を抱きしめて眉を下げているカリムに頭を抱えた。『なんか削っても削ってもずっと黄色い気がして……。でもさすがにこれ小さいな?ってなったんだ』とか弁解するように呟いていた。(いやおまえ、玉ねぎじゃないんだから)とか、(こいつ絶対料理もできねぇな)とか。そんなことを思いながら、半分になった本を店長に報告すると、人当たりの良い彼は笑い転げてから嬉しそうにカリムの頭を撫でていた。二人のそういう穏やかな空気を肌で感じて店に対する危機感を覚えた俺は、研磨機の部屋を出禁にした。勿論カリムをだ。
けれど悪いところばかりでもなかった。これはこの一か月“とんでもない世話の焼ける新人”と一緒にいて俺の中のハードルがみるみると下がってしまったとしか言いようがないと信じたいが、まあ、素直でスポンジみたいなやつだと思った。できないくせにやらなかったり、できないくせに人の話を聞かないやつは論外だが、カリムはそのどれにも当てはまらなかった。カリムはできないこと、わからないことは何度だって聞いてくるが、決して無駄にしないように努力することができる、そんな奴だと知った。まあ努力をするだけで足りない部分のほうが多いのだが、正直扱いやすくて覚えたことも少しずつ増えて、確かに店に貢献できている。その歩みは亀のようなマイペースさではあるが別に嫌いではなかった。そんな感じの印象を今は抱いていた。
机に置いていたスマホを取る。俺は絵は描けない。が、たまに読み手の絵師さんからファンアートを貰うことがあった。写真フォルダに保存していたイラストを見るためスマホ画面をスクロールする。どれも素敵な絵だ。俺にはできないことをこうやって何かに表現してくれることはありがたいことだと思う。
(けれど)
俺自身がそうキャラクターの設定したのだから、こんな感情はとても不本意だが、どうしてもこの容姿への違和感が拭えない。
(あの時は派手だと言った髪が窓から射された日に照らされたのを見た時、カチッと脳内で嵌ったんだ。この色だ、と)
うん、と一つ唸ってもう一度スマホを取る。先日返信が来たカイさんの文章。読んでくれている人の声も大切だと改めて思った。
***
「ん?」
ブ、とバイブレーション鳴ったスマホを手に取った。バイト先や大学では基本的にマナーモードにしないといけないので、たまに通常モードに戻すのを忘れることがある。
(通知?)
大学の勉強に遅れないように学年首位のリドルに、シルバーと一緒に見てもらったノートを自室で復習していた。オレは人より少し吞み込みが遅いけど、ちゃんと見てくれる人がいることは有難いことだと思う。2人にはいつだって感謝なのだ。あとはジャミルにも。
ジャミルとはまあまあ仲良くなったと思う。ジャミルは先輩だけれど普段はどっちかというと兄ちゃんみたいな感じで、気兼ねがなくて優しい。それに勉強もバイトの業務もできるだけじゃなくて、みんなに頼られているみたいだ。この間、店長に新しいポップを作ってほしいといわれて、ジャミルは丁寧で分かりやすく購買意欲の上がるような文章を書いていた。色遣いは黒が多くて「ここもうちょっと派手にしたいな!」ってポスカをたくさん持っていったらオレに任せてくれて、なんかすげー嬉しかった!そこからはオレが色付けと簡単なイラスト、ジャミルは文章と役割を貰えて、精巧な文章と綺麗なポップが映えると中古と言えど本は前より売れたみたいだ。
初めての給料ももらった。五万円だった。なるほど、お金を稼ぐのは難しくて、今なら三人で家を決めたときリドルが格安を求めた理由がわかった。
通知のもと、画面を見るとマジカメの通知だった。マジカメの通知で設定しているのはウィスパーさんだけだ!と思ってすぐに手を取った。
『簡単なアンケートです。よかったらお願いします。リムの容姿について』
スクロールするとそこには文字通りアンケートが設置されていた。選択肢には『今のままがいい』『変えてもいい』『どちらでもいい』の三択だった。すでに何件か投票されているようで、ハートのマークの横にIDが付いている。
(どうしたんだ?ウィスパーさん)
今まで数十の作品のノレリムを見てきたけれど、ウィスパーさんがこんな風に問いかけるのは初めてだった。オレは少し迷って、タイムラインを見直す。そこには読者の各々の反応があった。
『リムの容姿の変更?ウィスパーさんなんかあったのかな?』
『まあ性格変わらないなら私としては良いと思うし、めっちゃ変わるってなると今までの絵師さんのイラストちょっと見れなくなっちゃうかもな……』
『たしかに、どれくらいかわるんだろ』
などなど、複数の意見が書かれていた。
(そうだよな、どれくらい変わるんだろう)
オレもウィスパーさんの作品だけじゃなくて絵師さんのイラストを見ていたから、イメージがイラストに寄っている。ウィスパーさんも積極的にハートを押していたからイメージに合っているんだと思っていた。でも違ったのか?
もう一度ウィスパーさんのアンケに戻ると、皆思うことは同じようで何件かコメントが付いていた。中には攻撃的なものもあるようで、そのコメントに対して意見をしている人もいて、少し混乱気味だ。
(こんなのはじめてだけどウィスパーさん大丈夫か?!)
何度かタップをしてウィスパーさん宛にチャットを送る。
『ウィスパーさん、カイです。アンケート見たぜ。突然だったけどどうしたんですか?』
すぐに既読がついてポン、と鳴った。
『カイさんこんばんは。すみません混乱させてしまいました。特に理由はないのですが、ついリムの容姿を変えたいと思ってしまって。でもさすがに唐突過ぎました。いつもはもう少し考えてから行動するようにしているんですが……。すみません。一度アンケは取り消してもう一度上げなおしてみたいと思います』
『そっか!ウィスパーさんのお話、オレもみんなも大好きだからさ。それだけは変わらないと思います。だからあんま気にすんなよ!』
思っていたより早い返信に驚きつつ応援と喜びが混ざった文を返す。感想以外のやり取りをしたのはこれが初めてだった。
そして数日後。
『以前は突然すみませんでした。混乱させてしまいました。今回は以前イラストを描いてくださった方に依頼をしてイメージ絵を描いて頂きました。再度アンケートご協力いただけると嬉しいです』
そう連ねられた文の上には、透き通るような白に水銀の交じった髪を特徴とした短髪の少年が笑っていた。
4
7月の終わり。定期テストを終えて大学は休みに入っていた。店長も夏休みは家族で何泊か旅行したいから、とオレは快くシフトを増やしていた。ジャミルも夏休みはほぼ毎日いるみたいだしな!いっぱいジャミルに会えるのはとても嬉しい。研磨機は未だに触らせて貰えいけれど、ジャミルに教えてもらった業務にも少しずつ慣れてきていた。レジの合間に売られてきた本達を振り分けしやすいようにジャンル分けしていると、短い暖簾をひょいとたくし上げて店長が出てきた。
「今出て行った人たち、多分恋人同士だねぇ」
「そうなのか?!」
「多分ね」
いつも通り穏やかに微笑んだ店長にオレは、目を瞬かせて既に影もない二人の背中を見つめる。
(だって、さっきの二人は……)
「今の二人男同士だったよな?」
自然と思い出すのは最近心待ちにしているウィスパーさんの小説だった。同性婚とか、パートナーシップ制度とか。ニュースでは切り取られていた、同性に対する恋人に近い関係を示す言葉を聞くことはあったけれど、実際に出会ったのは初めてで少しの興味に心臓が高鳴った。
「そうだな」
「!!ジャミル!」
ぽつりと出た声に反応したのは、いつの間にかエプロンを身につけてタイムカードを片手に持ったジャミルだった。
「お、バイパーくん。お疲れさま」
「おはようございます。お疲れ様です、店長」
「お疲れ様ジャミル!」
「オツカレ」
店長がまた奥に戻って行くのを横目で見ながら時計を見ると、気づけば時刻は十七時の十五分前。オレと店長は水曜日が17時上りだから、これからシフトのジャミルとバトンタッチだ。店の営業時間は20時までだから、これから三時間程はジャミルが一人でここを任せられている。閉店作業もまだ碌にできないし、オレ一人じゃまだちゃんとはできないから、やっぱりジャミルはすごいなって思う。
「なんだそんなに見て。俺の顔に何か付いてるのか」
「え、いや!別になんにもねえけど!」
「ふーん」
いつの間にか見つめていたらしいことを指摘されて慌てて取繕う。
「あ、そうだ、オレも夏休みはいっぱいシフト入るからよろしくな!」
「ああ、せいぜい手間はかけるなよ」
「もちろん!」
(えっと、そうだ、そろそろレジの点検しなきゃだよな)
そう思いメモに書いた点検方法のページを見ながら作業をしていると、タイムカードを押し終えたジャミルも近くに来て、オレを見守ってくれている。ゆっくりやるものの間違えそうになると、長い指先が数値を指して「袋代は売上から引いて」とか淡々とした口調で的確に優しく教えてくれる。
「よし!!」
最後にバインダーにサインを記入して、引き継ぎの点検作業が滞りなく終わったことへの達成感の篭った声が出た。今日はいつもよりジャミルから指摘も少なかったし、いつもよりスムーズにできた気がして(オレも成長してるんじゃないか?!)と嬉しくなる。帰りにアイスでも買って帰ろう。もちろんリドルとシルバーの分も。
そう意気込み、ジャミルにもお礼を言いながら手渡されたタイムカードを17時ぴったりに押し込んだ。これで完璧だ。あとはエプロンを外して、バックパックを背負ってクロスバイクに跨って……と、ふいにジャミルが言葉を紡いだ。
「いまどき、同性同士の恋人なんて珍しくない」
「ん?」
振り返るとレジ前の丸椅子に座っているジャミル。手元には数冊本を取ってはさっきオレが分けた本を確認して、トントンと整えていた。
「この店にもよく来るし、俺も偏見はない」
「そうなんだな?」
「カリムは苦手か?」
「えっ」
綺麗なチャーコルグレーがこちらを向く。先ほどからよく分からないまま頷いていたけれど、さっきの同性同士の恋人について聞かれてるんだ、と分かった、から。苦手かと言われて、「そんなことない」と声に出ていた。反射的にウィスパーさんの紡ぐ大好きで、オレの胸をじくじくとさせて離さない物語を思い出していた。だって、オレは。
「全然そんなことない。むしろオレは、その関係性を何よりロマンチックだと思う!!」
なぜかなんとなく悔しくなって、オレは拳を握りしめて力説するように鼻息を荒げていた。そんな様子をみてジャミルは少しだけ目を瞬くと「いや。なら、別にいい」と言って、また背を向けて作業に戻ってしまった。
***
(ジャミルがそっけない……気がする)
最近は軽口を交わせるほど仲良くなれてきていたと思っていたのに。あの日からバイトに行くと挨拶だけで、ジャミルと話す機会が減ってしまった。こちらから話しかけようとすると、オレ出禁の研磨機のある部屋に入っちまうし。横目で見た横顔は少し寝不足気味なのかいつもはきれいな目元を保存している肌にくっきりと隈が目立っていた。
(うーん。オレがなんかしたのか?それとも単に忙しいのか?)
例え後者であっても、オレには前科があるので前者を否定しきれずぐぬぬぬ、と脳内の記憶を漁っても眉間にシワが寄るばかりだ。理由が分からない。
(今日も隈が酷かったらさすがに聞いてみようジャミルが突然倒れたりしたら心配だ。すごくすごく心配だ。店長は旅行中でしばらく帰ってこないし、店も潰れちまう!)
「あー!!ラッコちゃんいたー」
「?……フロイド!」
頭を抑えて唸っていると講義室前方から大きな声が聞こえて顔を上げる。気づけば夏休み特別講義は終わっていて、周りの人達は片付けたり、次の講義が目当ての生徒たちと入れ替わったりしていた。それらに混ざって手を振りながら忙しなくこちらに向かってくる青い影。
「どうしたんだ?!フロイド?!」
「まーまー。はいこれぇ」
机を挟んでしゃがんだフロイドは、白い紙袋を開きっぱなしのノートの上においた。
「なんだこれ?」
紙袋を持つと少し温かい。それにいい匂いがする気がする。
「開けてみ」
「いいのか?」
ご機嫌そうに頷くフロイドを確認してから三つ折りされていた紙袋を開封する。すると温かな蒸気とふんわりと香るパンの匂いに、昼飯がまだのオレの口内はじゅわっと唾液が自然と出る。何とか堪えて中を覗けば、焼かれる時にバターがうっすらと塗られたであろうきつね色が鮮やかな美味しそうなパンが、三つ入っていた。
「美味そう!!これなんだ?!」
「なんだと思う?クリームパン!」
「クリームパン!!」
「そー。なんかこの間カニちゃんに貰って超ー美味かったから無限に食いたくて作ってみたけど、さすがに飽きたからラッコちゃんにもあげるー」
「カニちゃん?」
「そ、割ってみ。中からクリーム出てくるから」
ご機嫌な声とともにパンをひとつ取りだし、ふかふかのパンを半分にちぎってみる。すると中からとろりとした生成り色のクリームが。出口を見つけたとばかりに溢れてきたのにびっくりして慌てて口に放り込むと、突如口内に広がる甘味が溶けて、舌がビリリとした。
「うまぁい!!!」
「でしょー!クリームパンって甘くて柔らかくて、幸せになるって謳われたりすることも多いんだって~」
「そうなのか!」
フロイドは満足気ににっこりしていて、オレは初めて食べたうますぎる味に秒でひとつ食べ終えた。二つ目を取り出そうとして、はっとした。オレの脳内に名案が浮かんだからだ。
「フロイド!これ他の人にあげてもいいか?!」
「んー?もうラッコちゃんのだし好きにすれば?」
「そっか!ありがとな!!」
そうなれば即実行。オレは急いで帰り支度を整えると、バックパックを背負い紙袋を引っ掴んで大学を後にした。
「ジャミルーーーーーー!!!」
「?!カリム?!」
古本屋の駐輪場に到着すると、そこには昼休憩から帰ってきたのか、ママチャリを丁度停めているジャミルがいて大声で名前を呼んで手を振る。オレも急いで自転車を停めて、顔を顰めたジャミルをもう一度呼び止めて駆け寄った。
「はいこれ!!」
「……なんだこれ」
さっき貰った紙袋を押し付けるように渡すと、訝しげな顔をするジャミル。正面からの顔を見てやっぱり昨日より濃くなった隈に向けてぐいぐいとさらに押し付ければ、やっと手に取り紙袋を覗いた。
「パン?」
「そうだぞ!!クリームパン!!」
「クリームパン?」
オレみたいな反応をしている珍しいジャミルに頬が緩む。
「知ってるか?クリームパンってパンの中にカスタードクリームが入ってて幸せの味がするんだ!ジャミルも食べてみてくれ!」
「わかった、わかったからくっつくな、さすがに暑い」
「わるい!でもジャミルが倒れたらオレ嫌だよ!」
「は?何の話だ、倒れそうなのは今なんだが」
「じゃあ早く食ってくれー!」
「だから、中で食うから!一旦離れろ!」
炎天下でへばりついた汗を剝がすように、ジャミルはくっついていたオレを軽々しく剥がした。
「うまいな」
店を二人で閉めて、従業員用スペースの冷蔵庫に入れていたクリームパンを取り出して、二人で頬張っていた。昼の時ジャミルは家で昼飯を食べたみたいで、バイト終わりに食べよう、という話になったのだ。
「だよな!オレは焼き立て食ったんだけどさ、クリームが温かくておいしかったぜ!」
「へえ、冷たくても美味い。相当料理ができるんだな、そいつは」
「そうなんだ!でも結構気分屋で、頼んでも気分じゃないと作ってくれないからたぶん貴重だぜ!」
「それは付き合うとなると厄介そうだな」
「そうか?」
「俺は腹の探り合いは嫌いだからな。でも俺の性格的にそうなるんだ。そういうやつが大学にいるが相性が悪い。カリムは気にしなさそうだがな」
「褒められてるのか?」
「褒めてるよ」
よく意味が分からなくて聞き返すと、ジャミルはご機嫌そうに笑ったので、そういうことなんだろうと受け止めた。
「で、ジャミルはなんでそんなに疲れてるんだ?」
「は?疲れてない」
「隈すごいぞ?」
冷たいクリームパンを味わいながら自身の目の下あたりを指差さした。ジャミルは目を細めた後、スマホの内カメラで自身の眼の淵をなぞっていた。
「あ……はあ。いや、まあそのなんだ。課題の締め切りが迫ってて」
「そんなに難しい課題があるのか!?」
夏休みまで課題を出すなんて大学では珍しい気がするし、どんだけ成績がぎりぎりなオレでも個人的な授業や課題はないので不思議に思う。それだけ二年生は大変なのかもしれない。専攻が違うので学校で会うことはほぼ無いけれど、ジャミルとは同じ大学だ。もしそれが共通の学問だったら、と少し青ざめる。それを悟ったのか、ジャミルは口を開いた。
「大学からの課題じゃない。個人的に進めている課題だ。来年は俺も研究室に入って実験三昧だからな。少しでも先行研究として課題を進めているだけだ」
「そうなのか!さすがだなジャミル!でも締め切りがあるんだな?」
「ああ、SNSで繋がった友人たちと成果の発表をしよう、という話になって。……だから締め切りがあるってだけだ」
やっぱりジャミルは頭がいい。あんなにバイトを卒なくこなすのも、こういう影の努力があるからに違いないんだろうな、と尊敬する。けれど、頬を人差し指で搔きながら目線をそらすジャミルにオレは固まった。なぜなら先日ウィスパーさんとある約束をしたことをも思い出したからだ。
(あれっていつだっけ……!?)
唐突にエピソード記憶が覚醒して残ったパンを置くと、ばっ、と音が出るくらいにポケットからスマホを取りだした。外ではあまり見ない画面を開く。チャットの中からウィスパーさん個人とやり取りしたルームを開いてスイスイと何度か指を往復させた。ウィスパーさんと会話をするのはもう寝る前の日常くらいには溶け込んでいた。
(確か7月のはじめくらいに……あった!)
その情報を追ってオレは「ああああ!」と大声を上げて突っ伏した。横で驚いたジャミルが「どうした?」と怪訝そうにしているのを感じる。
『カイさん。こんばんは。突然ですが、8月16日に開催される夏コミでスペースを貰ったので、出ようと思っています。都合が付きましたら是非、当スペースに遊びに来てくれると嬉しいです。』
『ウィスパーさんこんばんは!夏コミのスペース?!すげーぜ!昔、友人から夏コミは外れることも多くて難しいって聞いたことがあります。でもウィスパーさんの実力じゃ当然だな!もちろん買いに行くぜ!ウィスパーさんの新刊楽しみにしています』
過去の楽しそうな自分が今になってはとても毒だ。備え付けのカレンダーを見れば16日まであと一週間。店長が旅行から帰ってくるのは10日後のことだった。海外に16泊は羨ましいぜ!
「なんだ、どうしたんだ」
いつの間にか冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲んでいたジャミルにスマホを覗かれそうになって避けた。益々ジャミルの顔は訝しげな表情へと変わる。
「……」
「や、16日ってジャミル暇じゃないよな?」
「悪いがさすがにその日は無理だ。例の発表会だからな」
「そう、だよな~!!」
あああ、やっちまった。
「なんだ何か用事でもあったのか?」
引き続き突っ伏すオレの頭上から淡々とした声が聞こえた。
「うん、大好きな人に会う約束があったんだ」
「……ふうん」
再びあと二口くらいになったクリームパンを一口で食らいつく。やけ食いだ。自分のせいだけど。
「おい、ついてるぞ」
「ん!?」
気が付けば長い指がオレの口元によっていて、口端に柔らかい指先があたって神経がそこに集中した。
「ほら、こんなについてる」
「おう、おうありがと!わ!めっちゃついてたな!」
一瞬の胸の高鳴りはついていたクリーム量で緩和された。
5
『そうなんですね、残念です』
『ごめんなあ、オレがスケジュール調整ミスったから』
『いえ、気にしないでください。都合が合えばっていう話だったんで』
夏コミに参加できないと知ってオレがウィスパーさんに連絡ができたのは、夏コミの三日前だった。ジャミルは無事修羅場(ジャミルが言っていた)を乗り越えたのか、いつも通り肌艶はよくなっており、目の下の隈は綺麗にそのなりを潜めていた。それどころか、16日がよっぽど楽しみみたいで差し入れをどうしようか、とかオレにも聞いてくれた。オレは色遣いのセンスがいいから参考にしたいらしい。頼られるのは素直に嬉しいぜ!
でもその反対にウィスパーさんに未だ話せていないことに罪悪感が募りっぱなしだったんだ。やっと言えたことに気持ちが軽くなる。オレが悪いのにそういう返しをしてくれるウィスパーさんはやっぱり優しくて、大好きだなって思った。
『そう言えばカイさんは恋人はいるんですか?』
しばらくするとポコンと通知が鳴った。ベッドに投げていたスマホを取るとウィスパーさんだった。
『オレはいないぜ!』
残念ながら未だ恋人がいないオレは素直に打ち明ける。少し止まってまた通知が鳴った。
『好きになる人はやっぱり異性なんですか?』
その質問に目を瞬いた。正直、考えたことがなかったからだ。物語は好きだ。特にロマンチックな恋のお話。でも自分がやるってなると、どうなんだろう。
(確かにこの間クリームを掬われたのはびっくりしたけど)
す、と寄せられた細長い武骨な手を思い出して、背がビクッと震えた。あんな風に触れられたのは初めてだった。
『んーーー。どうだろ、オレ誰かを好きになったことないんだよなあ』
『へえ。そうなんですか。』
『ウィスパーさんは?恋人いるのか?』
『俺も今はいないです。』
『え!!じゃあ前はいたのか??』
『まあ、それなりには。』
『へえ!へえ!!すげーーー!!』
ウィスパーさんの年齢は知らないけれど、あんなに精巧かつ分かりやすい文を書くのだから勝手に年上だと思っている。きっと大人な恋をするのだと思う。駆け引きとか、そういう感じのオレにはできなそうなテクニックをウィスパーさんも行使したりするんだろうか。
(ジャミルもきっとそんな感じだ)
だって、なんか、そういう触り方だった気がするから。
『でも別にカイさんが思ってるような恋人の関係ではなかったですよ』
『そうなのか?でもさ、ウィスパーさんの書いてる小説はきゅんきゅん通り越してぎゅんぎゅんするぞ??』
『ぎゅんぎゅんは大丈夫なのか?心臓握られてないか?……まあ、なんというか、ただの妄想の範疇に過ぎないですからね。』
『そういうもんか?」
『そういうもんだ』
たまにふと緩む文字に、ふ、と空気が抜ける。多分、きっとウィスパーさんも笑ってるんだろうな。そう思うと益々口角が上がった。
『まあでも、気になるヤツはいます』
「えっ」
その文章を見た瞬間、自室に一人だというのに自然と声が漏れていた。えっ、気になるヤツって。
『好きな人ってことですか?』
『好きかって言われると少し違うと思うんですけど、奇想天外で興味があります』
(誰なんですか)
そう指先で紡ごうとして辞めた。だって、聞いたところで相手なんて分からない。オレたちは別に出会うために出会ったわけじゃない。オレが好きな話を書いてる人がたまたまウィスパーさんで、オレが男だったから声をかけてもらったに過ぎないんだから。
(でも、どんな人とか、そういう特徴ならいいんじゃないか?)
指先がトントンとスマホをタップして文章を送る。
直ぐに返ってきた返信を見て、オレは布団に潜り込んだ。
***
(「上手くいくといいですね。」か。)
返信のなくなった箱を置いて、ぎぃと椅子にもたれかかる。ネットの相手で、顔も知らなくて共通部分は性別だけだ。カイは俺の話が好きだからって言うけれど、俺は別に俺の話が好きじゃない。晴れない空を見るように、太陽には手が届かない。あの分厚い雲がずっと邪魔だ。それを窘めるようなそんな気持ちで書いている。もっとわかりやすい例で言うならば、推しカプが原作ではくっつかない、みたいな感じだ。だから俺が叶えてやりたくなってしまう。誰も望んでいないのに。
「大好きな人に会う約束があったんだ」
数日前、クリームパンを持ってきたアイツはそういった。寂しそうに眉を下げたカリム見て無意識の部分に何かが触れた。だからなるべく、カイに会うことを楽しみに。そうやって日々を過ごしていた。
俺の決戦の日も延長してしまった。それだけのことが異様に寂しいような気がしたのは気のせいだ。
6
(疲れた)
でっかいキャリーケースに黒のテーシャツにストレートジーンズを履いて、展示場から帰ってきた。話の通り、『カイ』には会えず、残った感想と言えば『疲れた』ということが大半を占めていた。楽しくなかったのかと言われれば首を振るのだが、満足したかと言われれば首を横に振るのが正直なところだ。やはり会場はBL自体が女性ジャンルに振り分けられていることもあって、圧倒的女性の数だった。
前々から声がかかっていた立体物化に思っていた以上に長蛇の列が形成され、今度は売り子を連れて行こうと心に誓った。本を午前中に捌ききってしまった俺は、周りのサークルスペースを回った。普段はあまり読む側ではないが、何個か目星をつけていた本を手に入れた。その後自スペースに戻ってもよかったが、戻ると声をかけられるのでもう少し時間を潰したくて見て回ることにした。すると目に留まったのがガチャガチャだった。
(ガチャガチャ?)
俺はもう一度目を凝らした。あれはそうだ、カプセルトイ、通称ガチャガチャだ。どうやら、サークル主は自身の推しをグッズ化することに長けているようで、マグカップやアクリルスタンド、それから小説までもガチャガチャに入れているようだ。
『ジャミルすげーぜ!ガチャガチャがある!回してこうぜ!』
(悪くないな)
たぶんあいつがここにいたらそういうだろうな、とかそんな妄想をして一度だけ回してしまった。
「オツカレ」
「お疲れジャミル~!!」
暖簾をくぐると朝から働きづめで疲れたのだろう、水を得た魚のようにぷはーと嬉しそうに笑うカリムがいて胸の内が暖かくなる。安心する。なんだかわからないけれど、こいつは動き回るのが好きだから眼に見えるところにいると安心する。
この間までメモを見ながらレジ閉め作業をしていたカリムはもう居らず、今はスムーズに作業をこなしている。夏休みになってからシフトの数が増えたのも良かったようだ。
17時になって自身のカードを押す。印字をされて戻ってきたカードをとるとカリムのカードも入れようとして辞めた。
「カリム、閉店後に海に行かないか」
考える前に言葉が飛び出していた。前もこんなことがあった。そして多くの人を混乱させた。しまった、と思ったときにはカリムは一連の動きを終えて「ごめん」といった。
「今日は先約があるんだ」
「そうか」
なんとなくカリムは断らないんじゃないかと心の奥底で思っていた影の自分をあざ笑う。
(その場を手に入れていたのはいつの話だ?)
やっぱり思い通りにならない。あいつもこいつも。
(いや、何考えてるんだ俺は)
あいつも、こいつもって。まるで二人が一人を指してるみたいだろうが。
手に持っていたカリムのカードを押す。
今日は特に一日が長く感じるだろうと、予測を立てながら客に渡された本を受け取った。
***
3人で夕飯を作って食べたその日の夜。時刻は21時を回っていた。先程リドルに「お風呂沸いてるからはいりなよ」と言われたのに生返事をしたのは理由がある。今日ジャミルの誘いを断ってしまったからだ。断った理由は本物だ。でもあの時の残念そうに何かを言うのを我慢したように見えたジャミルの顔が頭を過っては離れないのだ。
「海か」
ウィスパーさんに初めてメール貰った日に行ったのも海だった。あの時は嬉しくて体いっぱいになった喜びを発散したくて、大きな海を見たくなった。
(ジャミルは?)
そう思ったら迷っていた足は自然と外へと飛び出していた。
蒸し暑い夜だ。もうバイトが終わって一時間は経ってるからいないかもしれいけれど、結局気になって来てしまった。夜の海は暗くて深かった。波辺のほうに降りると潮の香りは一層強くなって波は黒くて、飲み込まれそうなる。あれが本当は透明な水で黒く見えるのは光の反射だったり、夜の色だったり。そういうのが組み合わさってオレの目に見えているのだと思うと落胆する。
(さすがにいないか)
ジャミルはやっぱりいなかった。オレの目に見えていないので、つまりは居ないのだ。断ったのはオレなんだからオレが悪いんだけど。
夜と言っても湿気の多い夜は少し気持ちが悪くて、自転車を飛ばしたこともありシャツはべちょりとしていた。
(ちょっとだけならいいかな)
砂浜に座っていたオレは立ち上がると、ビーチサンダルを脱いで足先をつける。ぴちゃ、と張り付いた小さな粒子たちは一定のタイミングでオレの足を包み込んでいく。少しぬるいけど気持ちよくて、足で蹴ってみたり足踏みをしたりして遊んだ。さっきよりも少し気分が晴れて、ふふと笑いがこみ上げていた。ふと、腕を取られる。
「ジャミル」
「なにやってるんだ、こんなところで」
そこにはコンビニの袋を片手に下げたジャミルがスニーカーごと水に入って来ていた。
「え、ジャミル?!」
「そうだが、おまえは何やってるんだ。こんな時間に」
「行くぞ」という声と共にいつの間にか繋がれていた手をぐいぐい沖のほうへ引っ張られる。力強い力に抵抗もできず海とはおさらばになった。
砂浜まで戻ってくるとジャミルは靴と靴下を脱いでその辺に置いて座った。水分を含んだ俺とジャミルの足の裏は砂がついてざらざらだった。
「ほら」
「くれるのか?ありがとう」
袋に入っていた某アイスを「ん」と差し出されて頂く。サイダーとマンゴーで迷ってマンゴーを取った。袋を開けると少しだけ溶けていたけれど冷たくて美味しい。これはアイスにはまってるリドルとシルバーに教えてやらないと。
「で、こんな時間になにしてたんだ」
「え」
「いつもはいないだろ」
「?」
「俺んちあそこだから、見えるんだよ」
あそこ、と指したのは海近くにある一軒家。つまり、コンビニ帰りにジャミルの部屋からオレが海に入るのを見かけて出てきたらしい。だから、アイス持ってたのか。
「いや、そのジャミルに断っちまったの悪かったなって」
「先約があったんだろ、別に気にしてない」
「そうなんだけどさ~」
あれれ、なんか思っていたよりいつも通りのジャミルに温度差を感じて首を捻る。でももしオレの思いすぎならそれに越したことはないし、ジャミルと一緒に入れるのは嬉しいから(ま、いいか)と思い直す。
「オレ、よくここで貝拾いしてたんだ」
「貝?」
アイスの水滴が乾いた砂にしみこむのを見つめながら砂を撫でる。ジャミルもサイダーのアイスをシャリシャリと食べていた。
「クリームパン作ってくれたともだちがすっげぇ、貝が好きでさ。きらきらしてて海の宝石みてーじゃん?って言ってた」
「確かに、昔は貝殻がお金の役割をしていたこともあるからな」
「昔の人もそういうきらきらしたものが好きだったのかな?」
「さぁな。人間は美しいものには価値をつけたくなるんだろうな」
「あ」
最後の一口の大きさのアイスが解けて砂に落ちた。
「なはは、悪い、ちょっともったいないことしちまった」
「まあ大分溶けかけていたし仕方ないだろ」とアイスの棒も回収される。ガサガサとビニールの音がより際だてられてオレたちの手には何もなくなった。
「おまえの目もそういう類のものなんだろうな」
「目?」
意識して目を瞬いた。
「いや、変なことを言った」
「オレはジャミルの目の方が好きだけどな!」
「は?」
「だってさ接客してる時はにこやかにしてて、本を仕分けてる時とかはすごく真剣で真っ直ぐでさ。オレはバイトをしてるジャミルしか今はあんまり知らねぇけど、おまえがバイトに誇りを持ってることは一番よく知ってるぜ!そういうの全部その目から伝わってくるんだ!」
「いや、俺はそういうことを言ったんじゃないんだが」
(え!違うのか?)とガーンとっショックを受ける。でも今のはオレの本心だからなあ。そう思ってもジャミルには伝わっていないんだろうか?
「装飾品として煌びやかな色だとか、人に好かれるならとか、そういう万人受けの話をしているんだ」
「それっていいことか?」
「悪くはないだろう」
「オレは好きな人に好きなってもらいたいけどな~」
そう口をとがらせると、ジャミルは風の音を聞くように無言になった。そして口を開く。
「会えなかったんだ」
「会えなかった?」
「ああ、ほんとは今日会いたかった人がいたんだ」
隣をみれば、長い前髪がなびいて少しだけ表情が見えた。黒い海に誰かいるかのように見つめながらジャミルの柔らかい部分に触れた気がした。それが針になって今度はオレの柔らかいところを小さく刺激する。
(ジャミルはそいつが大事なんだな)
それはとてもいいことだ。オレだってリドルやシルバーが大事だ。ウィスパーさんが大大大事だ。でも今は一番はジャミルだ。初めて会った時から今までで一番かっこよかったのはジャミルだ。これからもっと知りたいと思うのはジャミルだ。オレに恋愛はわからない。でも、それだけはわかるんだ。
オレは立ち上がると、屈伸運動をする。軽くジャンプもして地面の柔らかさを知る。うん、ふにゃっとしてる。
「じゃあオレ走るな!」
「は」
「オレをそいつだと思って掴まえてみくれよ!」
「はあ?!」
「いくぜ!」
オレはその声と共に走り出していた。
***
夜の海にまた白い影が見えた。
この間は柵越しになにかを騒いでいたようだが、今日は違った。コンビニの帰りに自転車を止めるとその姿が目に入って焦った。
その黒に飲み込まれると思ったからだ。その空想があまりにも馴染み深かったからだ。
「カリム!」
『会いたくて、会いすぎて忘れてしまったのかもしれない』
確か初めはそんな話を書いたと思う。昔から自分が思っていたことを吐露するような物語だった。その話は空想だけれど初めて作った新規アカウントとは思えないほどブックマークは増え続けた。そして、この話の続きがよみたい。という読者との利害の一致のもと、俺は話を書き続けることにした。
そうして紡がれた話の数が二桁に到達したころ、メッセージが送られてきたのだ。
『会いたくて、会いすぎて忘れちまったなんて、寂しいぜ!オレは二度とそんな風に思わせたくない。大好きな人なら尚更!』
そんな前向きな言葉だった。
「掴まえたぞ」
「は、はは、あれ……オレ、足には自信あったんだけどなあ」
こんな夜更けで砂浜で、アイスだって落として、今日もしっかりバイトをして、俺なんか展示場で本も売ってきて、こいつに誘いを断られて。はは、一日にしても濃すぎて何日も経過したみたいな。色付けがやかましいのは誰のせいだ、とか。
「どうだ?会えたか?」
断片的でそれでいて断続的な記憶が覆いかぶさった赤を綺麗に塗りつぶしている。
「オレにもさそういう人がいて、前にさ、言ってたんだウィスパーさん。ずっと探してて、会いたいけどわからなくて、きっと会いたくて会いすぎて、忘れちまったって」
「は」
「だから。オレは二度とそんなふうに思わせたくないんだ。大好きな人だから」
慈しむように細めた目に、深いため息をつく。ああ、だから会えなかったのか、とか。そういうところがお前か、とか。
「カリム」
「なんだ?」
「俺の目を見ろ」
「?」
「……瞳に映るはお前の主」
「え、それ」
小説内でよく使われるノレの言葉。大きく見開かれた目を見て確信をする。俺は静かに口角を上げるとこれからゆっくり口説くことと、未来でするこの日の仕返しを練り始めたのだった。
***
「なあジャミル、本当にもう投稿しないのか?」
「しない。俺はきっかけが欲しかったに過ぎないからな」
「そっか。じゃあ」
現在はもう使われなくなったアカウントがあった。
最初で最後で投稿されたメディア欄には黒髪の青年と白銀の青年が仲良さそうに微笑みあっていた。
『この作品は完結しました。』という一文と共に。