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    ひわこ

    CP表記に注意しておたのしみください なんか倫理観がぶれたものとかにょたとかもそのうちかくはずの雑多箱

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    ひわこ

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    ※性愛には至らないふたりの話です
    ※けれど距離的には+じゃない方向へ行くのでCP表記で
    8/6-7 曦澄オンリー用、半分公開です。よろしくおねがいいたします。

    【曦澄】好かずとも、愛でずとも握られた手は僅かに汗ばんで、目の前の男が確かに人間であることを江澄に伝えていた。
    血が通い、語りつくせぬほどの熱情は目元から涙になって零れんばかりで、優しげな一枚下に獰猛なほどの渇望が渦を巻く。なんとなくそれはわかる。
    端正な鼻先は興奮で桃色に染まり、口元は言葉の最後で開いたまま閉じることを忘れたよう。並ぶ歯の貝のような白さも、その奥に覗く舌先でさえ余すところなく美しい男。それは見ればわかる。きっと衣服をとれば爪の先から茎の皮まで綺麗なのだろう。なんだか頭痛がしてくるようで、江澄は身動ぎも出来ぬままひたすら眉間の皺を深くした。

    視野の端で興味深そうにひょこひょことしている黒い影はおそらく魏無羨だ。固唾をのんで見守る男の傍に、ぼんやりした白い影が微動だにせず佇んでいた。興味がないのか、心底くだらないと思っているのか、あるいは忌々しく思っているのか。どれにしたって、今一番江澄の心境に近いのはかの男であろうと思えた。藍忘機、とりあえず今お前に急に盛りがつくのは大歓迎だ。催してその黒いのを連れて、どこへなりと飛び去ってくれ。

    「……江晩吟、答えはいただけませんか」

    ああ、そうだ、問題はこの男だ。

    しかし実際、なにが問題でこんなことになったのかは全くわからなかった。なんとかしなければならないのに特に何も思いつかない。呼ばれる名すら他人事のようだった。手を振り払う機会すらみすみす逃したのは、きっとあまりにも理解を越えていたからだろう。
    そうして今も、わからないのだ。

    江澄はそっと息を吐き、ごく単純に伝えることにした。

    「……藍曦臣、藍宗主。私には、あなたがなにを言っているのか皆目理解できない」

    えっ、と魏無羨が声を上げる。手の力が緩んだのを認め、江澄はじっとりと濡れた指先を引き抜いた。礼を失するのは覚悟で軽く自らの胸元で拭う。溜息が止まらない。江澄には責のない気まずさが胸元で渦を巻く。
    目を見開き、まるで芝居がかった調子でゆっくりとうなだれていく藍曦臣は、萎れる様子までどうも作り物のように美しかった。



    ◆◆◆



    思えば江澄と藍曦臣に、繋がりとも言えない縁ができたのは、閉関明けからようやっと一年ほどが経った頃のことだった。
    日々の雑事や肝要な会議に、どうも拙い誤りが増えた藍曦臣を支えるべき弟からは、本人のありかたはどうあれ醜聞が切り離せない。あの道侶を伴って雲深不知処を離れることも多い。藍啓仁に頭を下げられ、世家の力関係を鑑みれば金凌にまで影響が出るとなると、まだ世代の近い江澄が重い腰を上げざるを得なかった。なにせ射日の征戦から観音堂の事件を経て、藍曦臣を支えるべき知己はあまねく死んでいる。
    聶懐桑も藍曦臣とは浅からぬ仲だったものの。奇妙なことに藍曦臣の方が聶懐桑を避けた。私を見ると兄が思い浮かぶのかもしれないね、と首を傾げる聶懐桑は、どうにも軽い調子で困った困ったと繰り返し、これまたじっとり江澄を眺めてくるものだから余計に困った。

    とはいえ、江澄のしたことはどうにも、金凌への薫陶にも似ていた。
    清談会の前にじっくりと打ち合わせをし、書面を読めばいいほどに整えて渡しておき。蓮花塢からでも雑事に粗があることに勘づけば書を送って藍啓仁と藍思追、藍景儀に報せた。いざ本番でなにか失言をすれば、あたりの反感をあえて引き寄せつつ庇いに入る。見守る相手が増えたようなもので、江澄の身は大いに削れたが困ることはなかった。

    たまに疲れて深酒をした時など、ここで金凌を抱え込み、四大世家を二大世家にせんと覇を唱えて蓮花塢の乱でも起こしてやろうかと頭をよぎるものの。それはごくごく頭の中の戯れで、全くその気は起こらなかった。なぜか聶懐桑に勝てる気がしないのと、なにより戦火を見たくはなかった。挑まれるならばやってやるが、もう江澄の人生の半分以上は戦火に奪われ、金丹もやったのだから、追いかけてくるなという気持ちの方が強い。
    愛する人の死も、人の肉を斬る心地も、鼻の奥にこびりつく腐臭も、腹からどろりと出る血液やらよくわからない汁をさんざ浴びて過ごすのも、虫のたかった屍に明日のおのれの姿を見るのも、もうたくさんだ。

    痛みはせいぜい竹簡で手を切るほどで、夜狩を丹念にし民を守り、蓮を愛でて祖先の墓を守りながら生きてゆく。多くは望まない。幼すぎることはわかっているけれど、いつか共に歩むことのできるひとが傍にいてくれれば十全だろう。
    無くなりはしないが、塞がった傷の疼きも、絶え間なく腹の底で怒る苛立ちも。すべて平穏に溶ける日を願う。

    そうして気分が良くなって微睡んで、板の間で全身を痛めながら目を覚ます。
    坊ちゃんは変わりませんね、と、すっかり背の曲がったかつての生き残りの家僕がこちらの尻を布巾で叩いて小言を言うのに、江澄は少年のように唇を尖らせる。
    こう名付けていいのかはわからないが、平穏無事ではあり、しあわせではあった。

    だからこそ。こんな馬鹿馬鹿しい椿事は困るし、身に添わないし、なにより。

    よく解りもしないのだった。



    ◆◆◆



    あの不明な醜態が、魏無羨と藍忘機の前に晒されてからひと月ほどが過ぎた。
    あの場にいたのは魏無羨と藍忘機だけとはいえ、夜狩の帰り際、ほんの隙をついてのことだ。誰が聞いていたかもわからない。口に戸は立てられないだろうと藍啓仁にいち早く相談し、彼から深い謝罪を受け、江澄はますます厭になっていた。かといって果たしていた仕事から手を離すこともできない。恋だか愛だか肉慾だか知らないが、心に抱く方は勝手で楽しそうでなによりだなと江澄は思う。眉間に消えようのない皺を寄せ、明らかに誤りの増えた書状に懇切丁寧に返しながら、頭の中でふと図を描いた。

    澤蕪君がなしてきた善行を百とすれば、若い時にしておくべきだった失態や素行不良がその裏に万とあり。年を経るごとにきっと何割かの割合で増えて行って、たっぷりと抱えた借財をいま支払っているのだろう。みっともなく、無様で、年の割に浮ついた恥ずかしい姿を江澄に一括払いしている。いらない。

    あのひともきっと、遊ぶべきだったのだ。

    失敗しておくべきだった。魏無羨の真似をして、美しい仙子だと思って老婆に揶揄う声をかけて面罵されて当惑したり。酒をたっぷり飲んで道端で目を覚まし、泥だらけで家に帰って足跡を詰られたり。馬鹿にされたり、怒って怒鳴り返して嘲ったり。そういった直情的なやり取りをもっともっとすべきだったのだ。
    そうしたらきっと、同世代の男の振る舞いを愛に取り違えたりはしなかっただろう。

    とはいえ江澄も根元のところはよくわからないが、他人の恋のことは何となくわかる。
    恋はじっとりしていて、人を愚かにする。けれどそれがおそらくはたから見れば手を伸ばしたくなるような、羨ましくなる光沢を帯びている。
    その愚かしい煌めきをたっぷり湛えたあの目を思い出しながら、江澄は払いのけるように首を横に振った。

    手元には書き終えた手紙がある。丁寧に畳み、家僕に託した。
    手紙は直接藍曦臣に送るのではなく、今では藍啓仁を介してやりとりをしている。


    ふと吹き込んだ風があちらこちらに垂らした天幕を巻き上げる。強い水の匂いに蓮の香りが混じる。じっとりとした暑さで膚の上にうすくかいていた汗がすっと冷え、そろそろ陽が傾くころか、と立ち上がった。閉じた花から薫る蓮の香りは心なしか重く眠たげで、幼いころと変わりない季節の訪いを感じる。目を閉じればあのころと、何も変わっていないような。

    一枚羽織っていた上着を脱ぎ、家僕に預け私室へ戻る。通りかかった祠堂へ引き寄せられるように足を踏み入れた。丁重に拝み、座して父を、母を、姉の名を眺めながら口を開く。

    「母上、困ったことがあるのです。……いや、くだらないことで、母上が今ここにおられたら、俺をお打ちになるとは思うのですが……」

    当たり前よ、あなたの気の緩みでしょう。
    母の声が聞こえてくる気がして、江澄は頬を緩めた。本物の母の前ならきつく叱り飛ばされる顔つきだが、叱るものはもういない。

    「それより父上がお困りになるでしょうか。よく考えて、俺にお返事をしろと言われるかもしれませんね。それともまず魏無羨の意見を聞かれますか。残念ですが、あいつはもう姑蘇藍氏にずっぷりで、頭のてっぺんまであちら側です。そんなことを言うなと言われそうだな……まあ、事実そうなのです。魏無羨が大人しく尻を差し出せと言っても俺はごめんです。……ああ、いや、父上の前で言っていい言葉ではないけれど…………いや、本当はこれぐらいの按配が良かったですか。年を重ねると、すこし見えてくるものもありまして。……子も妻も、ありませんが」

    困った顔の父が口ごもる。まあそうだろう、と江澄は隣に目を向けた。

    「一番最初に相談したかった。姉上。……本当に、姉上ほどうってつけの相談相手はいないんだ。俺は、姉上のされていた恋は、まあ相手はともかくとして、すごくすごく眩しくて嬉しくて、俺もこういう風に人を愛したいと思って、羨ましかったんだ。なんでここにいないんだ。俺は恋なんてよく解らないよ。いくら考えても駄目だった。知ったふりをする間もなく偽ることもできず、もう今になってしまった。このことを姉上にだけは伝えておくべきだったな、おられなくなってから、せめて姉上がいらしたらと……」

    頬が濡れていることに気づき、江澄はそっと目頭を拭った。汗と交じっていくらか襟を濡らしている。鼻の奥がきな臭い。ひとつ鼻を啜って、ぐしゃぐしゃと派手に袖で拭った。
    真っ赤になってしまうわよ、と。姉はいつも懐から柔らかい手巾を出して頬を拭ってくれたものだった。癇癪を起こしてぐしゃぐしゃになった涙も鼻水も。大きな手巾の違う場所を使って、大切に大切にすこしずつ、やさしく拭ってくれた。
    あの手巾は今はないが、懐に入っている自分の手巾を出すでもなく。江澄はなかば意地になって袖で目元を拭った。

    「恋する奴はみんな勝手だ……ひとの、迷惑を考えない。姉上のことじゃない。姉上は別だけど。俺は今更、こんなことで思い悩んだりしたくない……」

    傷つけてしまった、と思った。
    あの時、手を振りほどき返事をして。見開いた瞳の奥でなにかが粉々に砕けるのを見た。なにかかけがえのないものの喪失と。これから永遠に江澄は、藍曦臣という人から遠ざかるであろうこと。
    それが己に関係がない押し付けられたものでも。それが己が手をすり抜ける感触こそが、江澄を痛めつけたことに彼は気づいているのだろうか。

    気付くまいと思う。恋は人を愚かにし、慾と混ざって勢いをつけ、愛という名前で言い訳をする。

    姉にここにいて欲しかった。
    返事はいらない。言葉もなくていい。
    ただ、優しく微笑んでいてほしかったし、彼女はそうするだろうと思った。



    ◆◆◆



    久しぶりに会う黒衣の男は、我が物顔で露台に座し、湖に足首を浸していた。
    客用の茶杯を片手で重ね、江澄も履き物を脱ぎながら、片手間に茶を手に取って隣へ並んだ。脚で湖に突き落としてやるのが一番ふさわしいように思えたが、そんなちょっとした反撃で今更なにかを許されたような気にしてやるのも癪だ。
    男、肉体を乗り換えた魏無羨と江澄の間は、もう縮まりも隔たりもしない。喪失の痛痒がゆるく膚を掻いてくるが、今日はこれでちょうどいいようにも思えた。
    魏無羨はちらりと江澄を見、礼をすることもない。江澄も同じく、床に茶杯を並べて適当に茶を注いだ。びしゃびしゃに濡れた茶杯を互いに手に取り、口に運ぶ。

    「お前が蓮花塢に入れてくれると思わなかった」
    「お前は姑蘇藍氏の客だろう」
    「間違った、……入れてくれない方が良かった、かも」
    「今更媚びるな」
    「それはそうだな。いやあ、なんの話をするかなんてわかってるだろうに、それでも入れてくれるのがさすがだなと思ったんだよ」

    手にした茶をかけてやろうかと頭をよぎる。気に入りの、甘みと風合いのある茉莉花の香りが鼻を抜けていく。溜息が口をついた。水面ばかり見ている魏無羨の目を眺める。視線に気づき、魏無羨はちらりと江澄を見、困ったように笑ってまた水面へ視線を戻した。ゆらゆらと揺れる水面が、真昼の陽を照り返して眼を灼いていく。

    「お兄さんの話、したら聞くか」
    「……お前がなにを言いたいのかは汲む気はないが、俺は役目は果たしてる」
    「それは知ってるさ。……ああもう、俺は昔からこういう交渉事みたいなのは向いてないんだよ」
    「藍曦臣がお前に交渉しろと言ったのか」
    「するわけないだろう、俺が見ていられなくなっただけだ」
    「また身代わりか」
    「そうだな、俺ってやつは、そういうところは変わりようがない……」

    ああそうだな、言われてみれば本当にそうだ、俺は学ばない、と大声で叫ぶ魏無羨が、空になった江澄の茶杯に茶を継ぎ足してくる。

    「お兄さん、普通にしてるんだよ」
    「なによりだな」
    「そうだな。閉関していたときより、修行を終えた直後よりもよっぽど笑顔が増えて。ぱっと見たら俺たちの知ってるただの澤蕪君だ」

    魏無羨の語気が強くなっていくのを聞き流しながら、江澄も湖へ足を浸した。水の中の足は生白く見えて、温い水の中で揺らめいて。なにか別の生き物にも見えた。

    「……でも、違うんだよ。簫を手にとっても一曲も奏で終えられずに手を離す。冷泉から下手をすると一日出てこようとしない。けれど体面を保たないといけない時だけは、すっかりいつもの澤蕪君を演じてる。あんなの嘘だ、あのひとはずっとつけもしない嘘をついてるんだ。…………血を流しながら歩いてるみたいでさ、見てるとつらい。お前、あのひとのこと嫌いじゃないだろう。傍にいてあげられないか。……せめて、友達に戻るとかさ」
    「友になった気はない」

    小さな魚が煌めいて、江澄の足先の傍を抜けていく。水面をついついと虫が移動する。湖一面に広がる蓮の下、湖底に広がる泥濘の温さと柔らかさを思い起こし、江澄は僅かに目を細めた。

    「お前はまだ、そんなものが優しさだと思ってるのか」
    「思ってないさ。自分勝手だとはわかってる。けど俺が勝手じゃなかったことなんてなかっただろう。せめて、せめてさ。顔でも見てあげてくれよ」
    「それは藍曦臣も望まんだろうさ」
    「それもわかってる。だけど、俺から見たら閉関してるときよりあの人危ういんだ。寂しそうでさ。……俺も知ってる、ひとりは寂しいんだ。誰が傍に居たってそんなのかたちだけで、いてほしいやつがいてくれないと、寂しいんだよ」

    ひとりが寂しいなんてのは、お前よりもわかっている。

    眠っていた人間とは違うのだと、唇まで上がってきた言葉を胃の腑へ押し返しながら天を見上げる。魏無羨の知らない悲しみだって知っている。「いてほしいやつ」でなかった者の気持ちは、奴は永遠に知るまい。
    やはり体を乗り換えたとて魏無羨は、こと江澄を傷つけることにはいつでも長けているように思えた。もう十三年と少しほど前ならば、ちゃんと怒りで命を奪ってやれただろうに、いや、と思い巡らしまた水面へ目を戻す。

    答えを待つ魏無羨に、江澄はゆるりと、光で眩んだ目を向けた。



    ◆◆◆



    まあ見ていてよ、と遠ざかっていく金凌を目で追いつつ、江澄は三毒を引き抜いた。土の匂いが強い。闇に沈んだ森の中、しかし月光だけでもあたりの様子はうかがえた。まだ昼の気配を残した大気が熱を帯びて体へ纏わりつく。その中に確かに邪気が覗く。的確に追う金凌の足音を聞き分けながら、江澄もまた後詰を果たさんと森の中へ爪先を向けた。

    一刻ほども追っただろうか。案の定現れた凶屍に金凌の放った矢が突き立つ。射線に入らないように間を取りながら、矢の一撃にふらついた足を引っ掛け確実に首を刎ねてゆく。葉と土を踏みしめてのろのろと歩いてくるそれは格好の的だった。月光に照り返される粘ついた表面が忌々しい。

    「くそ、新鮮な凶屍のようだな!」
    「叔父上、それとそれって、言葉の相性が悪くない?」

    心底厭だ、という調子で金凌が矢を放つ。話していても乱れのない弾道が確実に凶屍を射抜いてゆく。矢羽根の鳴く音が心地いい。今日の金凌の仕上がりは上々といってよかった。

    ふと目の前に金の衣が翻る。澄んだ音が耳を射る。歳華のきらめきが夜闇を裂く。

    音もなく藪から飛び出してきた凶屍が金凌の刃をあやうく避け、大きくのけぞる一瞬の間に。
    剣を納めながら金凌は大きく身を翻す。青年になりかけた体は柔軟にしなり、しっかりとその両手に戻った弓矢から渾身の一撃が放たれた。居抜いた先の腐れた頭が、粉砕されて地面にべちゃりと散っていく。

    「よくやった!」
    「当たり前!」

    叢に崩れ落ちる姿を確認し、あたりをぐるりと見まわす。門弟を呼ばえばあたりにもいくらか成果はあったらしい。狩りの興奮に目の色を変えた門弟たちが、静けさを乱しながらぞろぞろと集う。
    金凌はと見れば、斃れた凶屍に歩み寄って容態を確認しているようだった。あのあたりのそつや、屍への無為な恐れがなくなった原因を考えると、忌々しいが悪くはない影響だった。
    叔父上、と呼んで金凌が持ってきたものを検分する。遺されていた札の作法は夷陵老祖に酷似しているが、本人のものでないことは厭でもわかった。筆致はともかくとして、拙すぎる。金凌も同じことを考えたらしい。嘲るように鼻を鳴らし、手をはたきながらふんぞり返る。

    「は、こんな出来なら俺でも書ける」
    「二度は聞かんぞ」

    反射的に唸る紫電にあからさまにびくりとして、気配を消そうとしているのか急に小さくなる甥の背を軽く叩いてやる。まだびくついているのがどうにもおかしくて、思わず愁眉を緩めながら、江澄はその両膝と肩をぐるりとはたいてやった。幼い子にするような振舞いに気づいたのか、今度はいごごちが悪そうにもぞもぞする少年があまりにも愛らしく、門弟たちもそっと口元を隠す。
    周りの空気が緩んだことに気づいた金凌は余計に憤慨したのか、今度は唇を尖らせ始めた。

    「今日はよくやった。調べと片付けはこちらに任せろ。……ひどい深追いをした。ここからなら姑蘇が近いな。小双璧のところにでも遊びに行けばどうだ」
    「遊びにって、叔父上、俺はそんなにこどもじゃないんだよ。そのへんのガキが近所の子と遊ぶみたいに言わないでよ!」

    上ずった声で訴えてくる甥をいなしつつ、門弟にいくつか指図をし、森を抜けて高台に出る。剣に乗ろうと三毒を引き抜いて、わかりやすく口をもごもごとさせている金凌と目が合い。江澄は軽く首を傾げた。

    「お、叔父上はさ」
    「なんだ」
    「姑蘇、だいじょうぶなの」
    「解りやすく言え」
    「言いたくない」
    「なら黙っていろ」
    「ああもう、じゃあ言うよ。澤蕪君を振ったんでしょ。き、きまずくないの……」

    江澄は思いのほか、静かな気持ちでその訴えを聞いていた。月光をまっすぐに浴びながら暫し迷うように地を見、天を見る。どうも先ほどと言い、今日は言葉がうまく選べないようだった。

    「ぶん殴った相手の前に行くような気まずさはあるがな、お前が想像するような繊細なものは俺にはない」
    「へ」
    「魏無羨か、小双璧か、誰が流し込んだかは知らんがな。藍曦臣が詩情たっぷりに俺を愛し心を告げたとしても、俺はきっと、正しい気まずささえ持ってやれん」
    「それってどういう……」
    「よくわからん。そのままだ。お前が藍先生の講釈でよく眠ってしまうぐらいに、俺にはわからん」

    きょとんとした金凌の顔は、落ちる影は大人びているのに、表情がいとけなくてなんともちぐはぐだ。じんわりと愛おしむ気持ちを噛みしめながら、江澄は思うままに頬を緩めた。

    「阿凌、笑え。俺はお前に、恋だけは教えてやれん」

    一拍置いて、笑えないよ、と小さな声で甥が言う。まあ確かになと江澄は頷く。困惑しきった甥を見て、その垂れ下がった眉と緩んだ口元を見て。つられてよけいに頬が緩む。手を伸ばして頭を撫でれば、やめてよと小さな声で言うばかりで、金凌は一向に逃げようとしなかった。



    ◆◆◆



    全てを父と母のせいにするには、それは生来のものであり過ぎた。
    気がつけばそうであった、と言っても嘘にはならない。恋に憧れ、羨み、理想の相手を思い描くことまではできても。絵空事以上の恋愛は、江澄にとってどうも理解ができないものだった。

    もし美しい仙子が江澄の手を引いて褥に連れ込めば役目は果たせるだろうが。ただその仙子と花を見ていたとしても、書を読んだとしても、あるいは襟首をつかまれて頬を打たれたとしても。さほど響きは変わらないだろう。

    目の前の人を独り占めしたい。誰よりも慈しみたい。家族に対して大切に思う気持ちはいくらでも立ち起こっても。他人に対して、身を焦がす物語のような情動が起きたことは一度としてなかった。

    恋という事象は知っていても、認識はしても理解ができない。いつまでも待っているのにも疲れてしまった。そうして待つことに意味がないことも、少しずつ分かってきてしまった。
    愛や恋なしに家族を探せば、情が無いやら失礼やらとあらゆる見合いで痛罵されるのもやるせなかった。
    そんなものあってもなくても変わらない、俺の父と母を見てみろと言えば罰の雷ぐらいは落ちてくるだろうか。脳天を貫いて、いっそ頭を作り変えて欲しかった。

    そう考えてみると、藍曦臣という男は。
    江澄が散々棚上げしてきた問題のど真ん中に、やっと落ち着いて眺められそうだったその池の水面に。手前勝手に巨石を投げ込んできた迷惑な男に相違なかった。



    私室の卓で酒杯と炒った豆だけを置き、もそもそと食らいながら、江澄はようやく結論へたどり着きつつ眉根を寄せた。溜まっていた仕事を終えて。明日は昼まで眠れるように整えて。荷風酒は自ら街へ出て買いに行き、豆も手ずから塩を振って炒った。

    常ならば飲んでだらついて、怠惰を噛み締めるひとときだというのに。どうもあの迷惑な男の姿がちらついてならなかった。



    金凌を連れて雲深不知処へ顔を出し、藍啓仁に迎えられ。あの恥知らず二人が旅に出ていると聞き、江澄はほっと胸をなでおろした。
    ならば是非にと、小双璧と金凌が楽しげにしている姿を見ながら一夜の宿を請うた。客間は清潔な設えで、湯も浴びることができた。仮眠のあとの朝飯は最悪だったが体は休まり。夜狩り明けとは思えないほど万全の体調で帰路につくことができた。

    金凌も小双璧の部屋へ泊めてもらったらしく、話が尽きなかったのか絵に描いたような隈を三人とも作っていたのがみっともなかった。藍啓仁は彼らをちらりと見、すっと目を外して咎めはしなかった。長ずるとわかってくることだけれど。小言を言う人は思ったよりもこどものことは隅から隅まで見えているものであるし。適切な時には見逃しもしてくれる。

    なんだか小さな自分が見えてくるようで、懐かしさも感じながら、江澄は金凌を伴い雲深不知処を後にした。



    その間中、藍曦臣は衣の端すら姿を現さなかった。

    「……気色が悪い……………」

    せめて姿を現し。謝ってもいいし、謝らなくても構わない。けれどできることはあるだろう。
    藍啓仁に頭を下げさせ、江澄のことを避けて。

    「そんなものが、何の解決になるものか……」

    指先で豆が砕ける。勿体ないので掌で集めてもぐもぐと食む。この場合の解決は事態の風化だろう。だが人生が常人より長いとはいえ、意味のない時間の空費は厭うべきだった。
    藍曦臣は堂々と出てくればよかった。いつも通りに振舞ってもいい。江澄にだけは気まずげにしてもよい。閉関というほど塞ぎ切ってもいないくせに、半端にしているからこそ魏無羨の目にも痛々しく映るのだろうに。

    もう一杯、と呷った酒がきつく喉を焼いて肚へ落ちていく。
    ふと合点がいった。どうも頭が冴えている気がする。棚に並んだ書の文字一つ一つがくっきりと見え、舌にぶつかる塩味にはいままでわからなかった焦げの風味も混ざって奥深い。

    解決を人任せにしているのは江澄も同じことだ。だからこんなに腸が煮えるのだろう。恋に溺れ自分勝手に傷ついて血を流す、絵物語の一部のような藍曦臣が許せないのなら。べたついた悲劇がありふれた喜劇になるように江澄の手で塗り替えてやればいい。いくら粗雑な筋立てでも手前勝手な、役者の面構えだけに頼った陶酔的な見世物よりはましだろう。

    さて、と手を伸ばして書簡を手繰る。いくつかの訴えと急ぎでない仕事の山に手を突っ込み、ああでもないこうでもないと吟味した。土地柄、按配、依頼の主。すべて引き比べてこれと決める。少しばかり重くなってくる目蓋を擦りつつ、江澄は豆と酒を遠ざけて卓へ紙と墨を据えた。筆を濡らしてしたためる。

    曰く、姑蘇藍氏の助力をお借りいたしたく。
    しかし邪道にとみに厭な思い出をお持ちの方と同道するため、魏無羨と藍忘機どのは避けていただきたく。小双璧と、念のため藍曦臣どのをお借りしたい。

    ぺろりと筆を嘗めて続ける。日付を書き、その手でもう一枚紙を取って依頼の主へも返書を認めた。すっかり整えて家僕を呼べば、ぎょっとした顔をして受け取ってそそくさと去ったので。なんだ、そんなに口が汚れていたのかと拭ったが。水面で見ても少し黒が覗くほどで、別に目立つものでもなかった。



    ◆◆◆



    夕闇が葉の色を染め換えて、遠くの山並みは緋色を連れて濃紺と混ざってゆく。
    じっとりと湿った草の匂いと、秋めいたひんやりとした夜の気配を頬に感じながら、江澄は颯爽と剣から飛び降りた。目の前には見慣れた白衣の集団が、待ち構えるかのように整列している。

    いや、実際待っていたのだろう。

    あたりを見回せば、何本かの木がなぎ倒され。木の葉も無残に踏み躙られている。生木の枝が端に寄せられ小山になっていた。符と標、縄で張られた結界が粛々と片づけられている。整然と、淡々と。後始末をする白衣の波に、小双璧の姿も見えた。気まずいのかあたりに混ざるように振舞う少年たちに首を傾げながら。夜狩をたった一人で終わらせたのであろう男のもとへ。江澄はいっそゆったりと歩き出した。

    互いに近づき、礼を取る。
    江澄は暫し考えるように目線を彷徨わせ、そしてそっと、その鈍い金色の瞳を見据えた。
    頬は少しこけているが顔色は悪くない。白衣には一点の曇りもなく、瞳を彩る睫毛も、薄い瞼も、唾を嚥下した喉仏まで美しい男。藍曦臣は珍しく頬から笑みを消してそこへ佇んでいた。江澄から目線を外し、小双璧へ向かって頷く。すぐに合点のいったらしい若者二人が、ぞろぞろと鉢巻連中を引き連れて遠ざかっていくのをちらりと見、江澄はようやく口を開いた。

    「約定の一日前、日も沈まぬうちに夜狩とは、仕事の早いことだ」
    「……恥ずべき、行いですね」
    「あなたにもう避けるべき恥などないでしょう」
    「言葉もないな」
    「全く。いや、あなたははっきりすべきなんです。二度と会いたくないと言っていただければいい。もしくは、私から手紙が来た時点で助力を断るべきだ。一日前に夜狩の的を一掃するのはどうにも姑蘇藍氏の振舞いとは思えない」
    「どうとでも仰ってください。……私は、あなたが関わるとなにも御せなくなる」
    「人のせいにしないでいただきたい。金光瑤に対する態度の方が、あなたはまだ潔かったでしょうに」

    江晩吟、と名を呼ばれ、江澄はただ睨み返す。鋭いまなじりは、闇が深まりゆく森の中でもはっきりと藍曦臣の目に映った。

    「藍曦臣。あなたが恋に狂っているのは、俺ではなくてあなたのせいだ。俺はもう恋を断っているというのに、どうしていつまでも忘れまいとするんです。俺もあなたも一人で生きているわけではない。門弟がいる。付き合いもある。どうしてこうも頑ななんだ」
    「江澄」

    耳に届いた声が震えている。湿っぽさを気取った江澄の眉根がぎっと寄せられる。類推は正しかった。美しい男の頬を、すっと涙が伝う。月光を照り返して仄かに光る雫ごと頬を張ってやりたかった。殴ったから泣いたことにすればまだこの腹立たしさも落ち着いてくれるだろう。江澄は拳を固く握り、音もなく泣く男を睨みつける。

    「……江澄、申し訳ない」
    「あなたはなにがしたいんだ、泣いてもなにもよくならないことなど、わかっているでしょうに」
    「わかっている。わかっているよ。……でも、ほんとうに、誰かのせいにしたいほどに。今までの生き方が曲がってしまうほどに。……あなたの言うとおり、私は狂っているんだ」
    「悪い酒に酔っているようなものでは」
    「酒、……」
    「良く寝て水を飲んで、飯でも食って、そうすればもっと……あなたと、ちゃんと愛を交わしてくれる人に恋ができるのでは。だいたい、俺もあなたも、もう年端のいかぬ少年でもないんですから」
    「江澄」

    さっきまで愚図っていた男の声が妙に近くでした心地がして、江澄ははっと背を正した。藍曦臣は美しい目を見開き、涙で幾分束ねられた睫毛を見せびらかしながら。見たことのない顔をしていた。締まらないような。どこか、悟りきったような。

    「あなた、本当にわからないんだ」
    「なにがです」
    「恋が」
    「理屈はわかっています。あなたもご存じの通り、俺の姉は結婚していますし」
    「そうじゃない」

    そうじゃないんだよ、と呟きながら伸ばしてきた手から一歩退く。藍曦臣も自ら出した手を恐れるように引っ込めた。これだから恋に溺れている連中は迷惑だ。そっと俯いて、手の甲で涙を拭った藍曦臣が黙り込む。江澄の説得が胸に響いたかはどうもあやしかった。けれどこうして再び顔を合わせたからには、もうちょこまかと逃げ回りはしまい。ほっと息を吐いて三毒を引き抜く。暇を請おうと振り返った先には。

    ここ数年見たこともなかったような。
    あの、昔日に憧れた姿のごとき。澤蕪君、藍曦臣が佇んでいた。

    立ち姿は堂々とし。片手に朔月を携え。さっきまでべそべそと泣いていた余韻は一切なく。伏せた瞳を柔らかな笑みに歪めながら江澄を見つめていた。なんなんだ、どうしたんだと問いたい気持ちをなんとか肚に押し込める。これはいい変化なのかもしれなかった。江澄が恋を理解できないことを悟られたのは致し方ないが、彼の目が覚めたのなら痛み分けで問題ないだろう。

    江澄の機先を制するように、藍曦臣はゆっくりと口を開いた。

    「もう夜が深くなります。ここからなら彩衣鎮が近い。投宿されてはどうか」
    「しかし……」
    「大丈夫です。もう、あなたを絶対に困らせは致しませんから」

    言うが早いが踵を返し、さくさくと枝葉を踏みしめながら町の方へと歩き出す。ここで勝手に御剣で飛び立っては、礼を失ったのは間違いなく江澄の方になってしまう。暫し考え、刃を払って剣を納めた。困らせはしないという言葉がなんとも真実らしく聞こえてしまった耳を恨みながら、木陰にちらつく白衣をなるべく遠ざけつつ。江澄はそっと後ろへ着き、街への道を歩き始めた。



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    Replies from the creator

    ひわこ

    PROGRESS※性愛には至らないふたりの話です
    ※けれど距離的には+じゃない方向へ行くのでCP表記で
    8/6-7 曦澄オンリー用、半分公開です。よろしくおねがいいたします。
    【曦澄】好かずとも、愛でずとも握られた手は僅かに汗ばんで、目の前の男が確かに人間であることを江澄に伝えていた。
    血が通い、語りつくせぬほどの熱情は目元から涙になって零れんばかりで、優しげな一枚下に獰猛なほどの渇望が渦を巻く。なんとなくそれはわかる。
    端正な鼻先は興奮で桃色に染まり、口元は言葉の最後で開いたまま閉じることを忘れたよう。並ぶ歯の貝のような白さも、その奥に覗く舌先でさえ余すところなく美しい男。それは見ればわかる。きっと衣服をとれば爪の先から茎の皮まで綺麗なのだろう。なんだか頭痛がしてくるようで、江澄は身動ぎも出来ぬままひたすら眉間の皺を深くした。

    視野の端で興味深そうにひょこひょことしている黒い影はおそらく魏無羨だ。固唾をのんで見守る男の傍に、ぼんやりした白い影が微動だにせず佇んでいた。興味がないのか、心底くだらないと思っているのか、あるいは忌々しく思っているのか。どれにしたって、今一番江澄の心境に近いのはかの男であろうと思えた。藍忘機、とりあえず今お前に急に盛りがつくのは大歓迎だ。催してその黒いのを連れて、どこへなりと飛び去ってくれ。
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