鼓動 文字通り、命を懸けて仕事をする自分のことを気に入っている。
かすかな風吹く、月のない夜。
庭園に植えられた黒松の影に身を潜め、屋敷の様子を伺う。情け容赦など通じる相手ではない。万が一にでも見つかれば、生きて逃げ延びるのは困難だろう。
死と隣り合わせであることを自覚して息を詰め、騒ぎたがる鼓動を鎮める。もし武器を取らねばならぬ状況になれば不都合だと、手汗さえ引っ込めた。屋敷に住まう者たち以外、敷地内に生きた人間はいない。咎を追求し、力を削ぐための証拠を手に入れようとする人間はいない。最終手段として、首を狙うことになるであろう人間はいない。生理現象すら意のままに、存在を感じさせぬよう気配を消し、ただひたすら、生き物としての自分を殺して機を窺う。
表立っての噂はご法度。裏の世界で評判を重ね、依頼されるようになった高難度の忍務。
たゆまぬ自己研鑽で得た技術と仕事にかける誇りを胸に、闇と駆ける時間が好きだった。
◇
秋風が髪揺らす、晴天の空。
忍術学園の門を叩くと、向こう側から何やらわぁわぁと騒ぐ小松田くんの声と鳥の羽ばたきが聞こえたあとで、慌ただしい足音が駆け寄ってきた。
やがて潜り戸が開き、小松田くんは出てこようとして持ったままのほうきを戸に引っかけ、つんのめった。その原因となったほうきに食い止められて幸い転ぶことはなく、ほうきを横に持ち替え改めて外へと出てくる。その身に着けている頭巾は、なぜかやけに乱れていた。
「お待たせしましたぁ……って、あ、利吉さん!」
「一体どうしたの、それ」
息を切らして立つ小松田くんの頭巾を指さすと「さっき鳥にやられたんです」とゆるんだ布の端を引っ張った。なるほど、先ほど聞こえた間抜けな声と羽ばたきはそのときのものだったらしい。
「まったく……なにをしているんだ」
「ですよねー。あの鳥、入門票も出門票も書かずに出て行っちゃったんですよ。まったく、なにしてくれてるんだって話です」
「いや鳥じゃなくて。君がね」
まるで話を聞いていない小松田くんは「それより、利吉さん中に入られます? でしたら入門票にサインをお願いしますね」と呑気にバインダーを差し出してくる。
やれやれと受け取ったとき、ゆるんでいた小松田くんの頭巾がとうとう解けて、はらりと宙を舞った。「あっ、わっ」と彼が手を差し出すものの掴み損ねたそれを、地面に落ちる前につかまえて返してやる。
「わぁ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
入門票にサインしながら、正面の小松田くんをこっそり盗み見る。頭巾を巻き直すためにうつむいて布の形を整えていて、つむじが見えた。
あ、小松田くんのつむじだ、と思った。
小松田くんの身体の一部も、持ち物も、それぞれに彼らしさを感じられる。一目見れば、今のように『あ、小松田くんのだ』となにやら腑に落ちるような気持ちになった。
「サインできたよ」
バインダーを返そうとすると、まだ頭巾を結んでいる最中だった小松田くんは、それを受け取るに受け取れずにじたばたと手を動かした。それがおかしくて思わず吹き出すと、つられた小松田くんも手を止めて笑う。
「いいからさっさと結ぶ」
「はぁい」
このままでは、いつまで経っても学園の中に入ることができなさそうだったから。仕方なく小松田くんを急かすと、ようやく頭巾を結び終えた小松田くんが、入門票を確認しながら「本日は山田先生にご用ですか? それとも土井先生?」と私に尋ねた。
「いや」
「では学園長先生?」
「いや……」
「だとしたら……ぼく?」
「まあ、うん……そう」
私が忍術学園を訪れる理由のうち、小松田くんが選択肢に存在することを知ってもらえるようになったのは、進歩といえば進歩である。とはいえ、脈ありとはあまり思えず、小松田くんが『だとしたら……ぼく?』と聞いたことに他意はなく、単に消去法で残ったからに過ぎないのだろう。
違う、本当はこんなはずじゃなかった。
たとえば―—そう。君ってプロの忍者に憧れているんだよね? なら、もっと私に近付ける方法を教えてあげるよ、とかなんとか適当なことを言って、なし崩しに関係を持ったってよかったのだ。変装してそばについていたとはいえ、小松田くんを螢火の術に利用した頃の私なら、多分できた。事実、頭の中でなら何回でも言えた。
それがどうだ。小松田くんに抱いている己の感情をはっきりと自覚してしまった今では、ぞんざいに扱うような台詞は言えそうにない。
理由など分かりきっている。
彼に、嫌われたくない。
過去の私よ、おかしければ笑えばいい。存分に笑ってくれて構わない。おまえだっていずれ同じ目に遭うのだから。
「分かりました! では利吉さんのこと、全力でおもてなしさせていただきますね」
彼は嬉しそうにしているが、言うまでもなく、この〝おもてなし〟にも他意はない。共に茶を飲むにはうってつけの理由だという、それだけだ。『客人である利吉をもてなすため』という大義名分があれば、一応はサボりと見做されない。
ではこちらへ! といつものように笑顔で縁側に案内され、しばらく待つように言われる。障子が開いたままの背後の事務室をちらりと覗いたり、見事に色づいた敷地内の楓を眺めたりしていると、やがて小松田くんが茶と菓子を載せた盆を持って戻ってきた。
こぼすか、こぼさないか。圧倒的に不利な後者に賭けて見守れば、今回は珍しく勝ちのようだ。盆は無事に縁側へと着地した。
盆を挟んだ隣に小松田くんも座り、二人でのんびり茶をすする。急いで淹れたのか大分ぬるかったが、今日の気候には合っているので良しとした。菓子を食べながら、最近はどうしていたかとか、他愛ない話をする。
会話が途切れ、風の音を聞いていると、小松田くんが「あの……この前、実家に帰ったときのことなんですけど」と話し始める。視線を感じて隣を見ると、湯呑を両手で握る小松田くんとまっすぐ目が合う。これまでとは違う雰囲気を感じ取り、私は湯呑を置いて「どうしたの?」と曖昧にせず続きを促した。
「夜になってお兄ちゃんと話していたら、こんなことを言われたんです」
「どんなこと?」
「もし将来を一緒に過ごす相手を自分で決めたいなら、慎重に選ぶんだよって」
それとなく居住まいを正して「……うん」と相槌を打つと、小松田くんはなにかを考え込んでいるようで、視線を宙へと彷徨わせた。
「お兄ちゃんが言うには……たとえば『私に憧れているのでしょう?』とか『私のことが好きなのでしょう?』とか理由をつけて、一方的に特別な関係を迫ってくる人は望ましくないねって」
「…………」
「利吉さんはどう思いますか?」
「……そんなやつは、心の臓を貫いて川にでも捨てた方がいいんじゃないか」
過去の自分は棚に上げて言えば、小松田くんは「えぇ~……なにもそこまでしなくても」と困惑した様子だった。
「なら君は、ちゃんと自分で断れるの?」
「それは……一方的なら困りますし、きちんと断りますけどぉ……」
「……一方的じゃなかったら?」
聞かなければいいのに、聞かずにはいられなかった。
「…………」
小松田くんはすぐに答えない。下唇を柔く噛んで、残り少ない湯呑の中身に視線を落としている。
この反応——もしや既に、小松田くんには慕う相手がいるのでは。
そう考えながら吐き出した自分の息は、かすかに震えていた。焦燥から鼓動が速まるのを抑えられず、落ち着こうと湯呑に伸ばした自分の手の平は、じっとりと汗をかいている。忍務では完璧に殺してしまえる生き物としての自分が、想い人の一言一句でこんなにも血を通わせずにはいられないことに、驚きを隠せなかった。
「……、あっ」
「わっ」
動揺は所作に現れ、掴もうとした湯呑をうっかり倒してしまった。普段なら決してしないような失敗。小松田くんのへっぽこを笑えない。
「えーっと、なにか拭くもの……」
小松田くんが慌てて立ち上がろうとしたが、先ほど盆をひっくり返さなかった分がここで返ってきたのか、お茶で足を滑らせた。こちら側に倒れてきたので咄嗟に受け止める。
「っと……、怪我は?」
私の問いかけに、小松田くんが私の胸に伏せていた顔を上げる。瞳孔がはっきり見える距離。
決心がついたらしい小松田くんは、引き結んでいた唇をとうとう開いた。
「……一方的じゃないならどうするか、というお話でしたよね?」
「あぁ……うん」
「憧れていて、ずっと好きで、そんな方から特別な関係になりたいと言われたら……どんな理由であれ、嬉しくなってしまうと思います」
「……いるの。そんな相手が」
「ひとりだけ。……この世で一番、待ち遠しい人です」
胸元に添えられた手に、鼓動がうるさくなる。
「…………」
私は小松田くんの手に自分の手を添えると、鼓動を聞かせるように強く自分の胸に押し当てた。
「……ね、小松田くん」
「はい」
「私は、……君に誰よりも、私の鼓動をたくさん聞いた人でいてほしいよ」
結局のところ私は、文字通り命を懸けて仕事をする自分のことを気に入っている。
生理現象すら意のままに、生き物としての気配を殺し、そうして帰ってきた私が、再び血を通わせて鼓動を響かせる様を聞いていてほしいと思った。そして命が尽きるまでの残りがいくらか、隣で数えていてほしい。
「それなら……」
小松田くんは手をどけると、代わりに頭を預けて胸元に耳を押し当てた。優しく背に腕が回され、抱きしめられる。
「少しでもたくさん聞けるように、ずっとこうしていないといけませんねぇ……」
いたずらっぽく、甘やかで、初めて聞く笑い方だった。
抱きしめ返せば、私と同じ速さで動く小松田くんの鼓動を感じられる。
もしかすると、今この瞬間が一番の死に時と言えるのかもしれない。
けれどそれを選べない私は、せめてこの先、誰よりも君の鼓動をたくさん聞いた人でありたいと、ただ願った。