或る夜の話「人が誰かを忘れるまでに、どのくらいの時間がかかるんだろうね」
利吉さんの言葉は、問いかけなのか、ひとりごとなのか、曖昧なものでした。
縁側に向かって座る利吉さんの表情は、布団に横たわったままでは見ることができません。客間の障子は半分ほど開いていて、まだ暗い空に弓なりの細い月が浮かんでいます。利吉さんが会いに来てくださるのは満月か、あるいはその前後が多いので、新月が近い今日のような日を選ばれるのは珍しいことでした。
「そうですねぇ……」
ぼくは利吉さんの言葉を問いかけと受け取って、返事をしながら緩慢に身を起こしました。
月明かりはほとんどなく、灯明皿のちいさな火だけが客間を照らしています。その火も利吉さんがいる場所までは届かず、陽光のもとでは鳶の羽を思わせる色の長い髪が、今は底知れぬ昏い川のように見えました。
おざなりに纏っていた寝巻きを肩に羽織ると、利吉さんの隣に座ります。
「利吉さんはどのくらいだと思いますか?」
「さぁ……どうだろう。覚えていたいと思う人があまりいなかったから」
「そうですかぁ……」
「君はすぐに忘れてしまいそうだね」
「えーっ、そんなことありませんよ!」
忍たまの子たちや先生方は毎日会うのでもちろん覚えていますし、忍術学園に来られたお客さんのことも出来る限り覚えておくようにしています。忍術塾で一緒に勉強したみんなのこともまだ覚えていて、それから……。
「……たくさんいるんだね。覚えていたい人が」
順番に思い出しているぼくを見て、利吉さんはかすかに笑いました。
「もちろん、利吉さんのことだって覚えていますよ! こうして会いに来てくださるので、忘れたりしません」
実際のところ、人が誰かを忘れるまでにどのくらいの時間がかかるのでしょうか。
どれだけ会ったか。
どれだけの刻を共に過ごしたか。
どれだけ覚えていたいと願ったか。
宛がうにふさわしい尺の正解は分かりません。前の二つのどちらかによるものだというのなら、ぼくは利吉さんと頻繁にお会いできるわけではなく、共に過ごせる刻も限られていますから、長くは覚えていられないということになってしまいます。
ですが、後の一つなら。
利吉さんの声、まなざし、交わした言葉、だけでなく、話さずともそばにいた刻、ふれる指に、やっと息を止めずにいられるようになった口吸い、重ねた肌。他の誰にも明け渡したことのないぼくを利吉さんに差し出して、初めて見る利吉さんの姿ひとつひとつを積み重ねて、そのたびに利吉さんの存在がぼくの深いところに根を張り、いつまでも覚えていたいという願いを生むのです。
「…………」
忘れたりしない、というぼくの言葉に、利吉さんはなにも答えませんでした。月を眺める横顔はただ穏やかで、どうしてか胸に不安が押し寄せます。このまま話を終えてはいけないと、そう思いました。
「えっと……次はいつ来られますか?」
「…………」
「あーっ、忍務のことは話せませんよね!」
「…………」
「でも、でもっ、大体のご予定とか……」
「…………」
「…………」
無理やり浮かべていた笑顔は、いよいよ保てずにぼくの表情から消えていってしまいます。
「……また、会いに来てくださいますよね?」
「…………」
次はいつ来るかって?
さぁね。
仕事が終わって、時間があればそのうち。
だからはっきりした日は言えないけど……待っていてくれる?
いつものような言葉は一つも返ってくることはなく、質問をするたびに、月を眺めていた利吉さんの視線は伏せられていきます。
膝に置かれていた利吉さんの左手を掬い上げると、その冷たい手がぼくの手を振り払うことはありませんでした。痛いくらいに強く握ってくるその手は少しだけ震えていて、ほどけてしまわないように、ぼくからも強く握り返しました。
「お仕事の前に、会いに来てくださったんですね」
「……うん」
プロの忍者に憧れて、プロの忍者を目指しているのに、ぼくはまだ事務員のままです。
利吉さんとお仕事がしたい。それが叶わずとも、せめて利吉さんの忍務が成功して、そのあと怪我なく生きて帰るためのお手伝いができればいいのに。
「……利吉さんの手裏剣になりたいなぁ」
ささやかな願望が声になって出てしまい、それを聞いた利吉さんは張り詰めていた表情をわずかに崩して「なにそれ」と笑ってくださいました。ぼくは嬉しくなって、もしも話の続きを語ります。
「手裏剣になれたら、暗殺も、攻撃も、追手の足止めもぼくに任せてください。全力で利吉さんのお役に立ってみせます!」
「本当に? 勝手に私の手から離れて、どこかへ飛んでいってしまいそうだけど」
「それは利吉さんがしっかり掴んでいてくださらないと」
「……やっぱり手裏剣はダメ。回収できないことも多いから」
「ほへ? ならどの武器になればいいですか?」
「毒薬、とか?」
「暗殺用ですか?」
「いや……、そもそも、武器になんてならなくていいよ。君にしか頼めないことだってあるんだから」
一体どんなことでしょうか?
首を傾げるぼくに、利吉さんはまっすぐ前を見据えながらこう告げました。
「……ここで待っていて。会いに来るから、君に」
「……!」
それは、今日が終わる前にどうしても利吉さんから聞きたかった言葉でした。
不安が消えたわけではありませんでしたが、利吉さんがそうおっしゃるなら、ぼくのすることは決まっています。
「あんまり遅いと……利吉さんのこと忘れちゃいますからね」
嘘をつきました。想像したくもありませんが、もしも利吉さんが会いに来られなかったとしても、ぼくは生涯、この人を忘れることはないでしょう。
「誰でしたっけ? って言われないようにせいぜい頑張るよ」
「はい。……お待ちしています」
いつしか月は沈み、夜明けを迎えました。
昏い川のようだった利吉さんの髪は、朝陽を浴びて、たおやかな色を取り戻していました。