誘う「幽霊だァ?お前、まだそんな与太話信じてんのかよ」
「だって! 自殺未遂した子たち、みんなその話するんだもん」
“自殺未遂”などという不穏な言葉を口にしながら、由衣は夕飯の蕎麦を麺つゆにくぐらせる。一方、向かいに座る敢助は呆れ顔のまま蕎麦を啜っていた。
2人は現職の刑事だが、夫婦という関係上、配属先は異なっている。敢助は捜査一課。由衣は結婚を機に同課を離れ、現在は生活安全課に配属されていた。
生活安全課とは名前の通り、地域住民の「生活の安全」を守るための部署であり、業務範囲はかなり広い。銃器や刀剣類の管理、DV・ストーカー対応、行方不明者の捜索、少年非行の対処など、様々な事案を取り扱っている。
由衣の現在の担当は少年少女の不良行為だ。中でも多いのが、オーバードーズや飛び降りによる自殺未遂である。
これが“死亡”に至った場合には、敢助ら捜査一課の管轄になるわけだが、オーバードーズは早期に応急処置を施せば助かるケースが多く、飛び降りも着地の状況によっては命が助かる場合もある。結果として未遂の段階では、生活安全課が担当することの方が多かった。
「で、生き残ったやつは、みんなその“幽霊”とやらを見たってのか?」
「うん……というか“そいつに引っ張られた”って……」
「おいおい、それは幽霊なんかじゃなくて――立派な殺人未遂じゃねぇか」
幽霊が傍観しているだけならまだしも、それに“引っ張られて”飛び降りているのだとすれば、話は変わってくる。
敢助は手前の皿に盛られた海老天を頬張った。
「場所は全部違うのに、三人とも同じこと言うのよ。死ぬのをやめて屋上から引き返そうとしたら、後ろから“茶色いジャケットを着た、三十代くらいの男”に腕を掴まれて……気づいたら落ちてたって」
「三十代くらい、ってことは、顔がはっきり見えてんのか?」
「そうみたい……でもね、いざ似顔絵を作ろうと思って、もう一度聞き取りをしようとすると、みんな急に“怖い”って言い出して、思い出せなくなるの」
「……ま、事件寸前のことを無理に思い出させようとしてるわけだしな」
そもそも自殺未遂を図るような子どもたちの心が健全であるとは言い難い。さらに事件後のPTSDも考慮すると、恐怖心から犯人を思い出せないというのも無理はないのかもしれない。
「被害者に共通点はねぇのか?」
「うーん、全員女の子で、黒髪のロングってことくらいかしら。特に顔見知りって訳でもないし、共通の知人もいなかったわ」
「ほぉ……」
敢助は海老の尻尾をバリバリと咀嚼しながら思考を巡らせた。
SNSなどで長髪の女性を探しては突き落としている?相手が自殺願望のある人間ならば、失敗しても自殺として処理されるとでも思っているのだろうか。いや、事件そのものが誰かへのメッセージという可能性もある。
動機も気になるが、最も引っかかるのは“三人とも生きている”という事実だった。そうぽんぽん高所から人を突き落として、全員が意識を保てるほどの怪我で済むものか?
「飛び降りた場所ってのは、どこなんだ」
「それが……三人全員同じ場所ってわけじゃないのよ。一人目は学校の屋上、二人目は雑居ビル、三人目は山奥の崖。場所も高さもバラバラで……」
「現場には行ったのか?」
「ええ。でも、怪しい人影も、めぼしい証拠もなかったわ」
「……こいつはとんだ難事件だな」
「はぁ、ほんと困っちゃ……あっ、何だろ」
由衣のオンコール用スマートフォンが鳴った。
「はい、うえはら……あ、すみません!大和ですけど……えっ? ……あ、はい!」
焦った様子で応対する由衣は、机の上にあった買い物レシートをひっくり返し、電話口で告げられた病院名を走り書きした。
「ごめんなさい、もう一回言ってもらえますか? ……あの、もしもし? ……切れちゃった……」
不思議そうな表情でスマートフォンを見つめる。どうやら向こうから一方的に切られてしまったらしい。
「こんな時間に珍しいな。何かあったのか?」
「それが……また、突き落とされたって人が」
「……また?」
「今度は病院。患者だった被害者が自殺を試みて、やっぱり断念しようとしたら後ろから……」
由衣の顔色が、すうっと青ざめていく。
「他の人たちも立て込んでるし、この件はずっと私が追ってきたから、今から代わりに行って現場検証してくれないかって」
「立て込んでるにしたって、わざわざ非番のお前に電話してくるか? 誰からの電話だったんだ」
「えっ? ……あ、公衆電話からだ……多分、吉田警部だと思う……」
「多分って何だよ」
「風の音がすごくて、よく聞こえなかったのよ」
ともかく行かなきゃ。
そう言って由衣は髪をお団子に結い上げ、仕事用のカバンを引っ張り出した。
(嫌な感じがする……)
刑事としての勘か、それとも単なる予感か――このまま由衣をひとりで行かせたら、二度と戻って来ない気がした。
「俺もついて行く」
「えぇ? ダメに決まってるでしょ、それ立派な謁見行為よ」
「ガイシャは喋れんのか?」
「……今はICUで寝たきりらしいわ。飛び降りた直後、発見者に“誰かに突き落とされた”って言ってから意識を失ったみたいで」
「なら死んだら、どのみち一課預かりだ」
「ちょっと! そういう縁起でもないこと言わないでよ!」
「ともかく行くぞ」
「も〜! 敢ちゃんってば!」
車のキーを由衣より先に手にすると、敢助はジャケットを羽織って家の外へと出た。
***
病院は、長野の市街地から離れた山奥にあった。夜間ということもあり、山の中から見えてきたのは、橙色の古びたライトに照らされた病院の看板。それを目にした由衣が、助手席から「キャッ!」と小さく悲鳴を上げた。
「おいおい、ただの看板だろうが」
「だって……この辺り、道も暗いし、看板も不気味なんだもん!」
「そんなんで犯人捕まえられんのかよ……」
「ゆ、幽霊は管轄外よッ!!」
「はァ〜……先が思いやられるな」
病院に到着した二人は車を降り、電灯の切れかかった夜間救急入口から院内へと足を踏み入れた。
消灯中の病棟内で、唯一煌々と明かりが灯っていたナースステーションへ向かうと、1人の大柄の男性看護師が姿を現した。奥を覗き込んでも、他に看護師がいる気配はない。当直が一人きりということは考えにくいので、おそらく巡回中なのだろう。
「夜分遅くにすみません、長野県警の者ですが」
由衣が改めて警察手帳を差し出すと、看護師はその顔写真と名前を無表情のままじっと見つめた。数秒後、ようやく口角をわずかに上げ、看護師は口を開いた。
「“大和”刑事ですね。お待ちしていました。先ほど患者さんが目を覚まされまして……お話、されますか?」
「えっ、そうなんですか? ……被害者の体調に支障がないようでしたら、ぜひお願いします」
「わかりました。医師からは面会許可が出ていますので、僕がご案内しますね」
看護師の案内で、二人は長く続く暗い廊下を進んでいった。足元の誘導灯が頼りだったが、それも先ほどの看板と同じ橙色で、どこか不気味に感じる。
「回復が思ったより早くて、ICUから出られて一般病棟に移ったんですよ」
「落ちた割には軽症だったってことか?」
敢助の問いに、看護師は振り返ることなく答える。
「不幸中の幸い、でしょうか。……彼女は飛び降りて下の車のボンネットに落ちたあと、そのまま生け垣に転がり落ちたようで。カルテに記載がありました」
「なるほどな」
由衣は隣で、こっそり敢助の服の裾をつかんでいた。本当は、深夜の病院が怖いのだろう。しかし職務中ということもあり、必死に堪えている様子だった。
たしかに、やたらと暗い病院だった。敢助は通り過ぎる病室の扉に書かれた名前を横目で追っていたが、この病院は広さに反して入院患者が少ないようで、空室が目立った。
「……随分、空きが多いんだな」
「あー、今は閑散期と言いますか……いや、病院でそんな言い方はよくないか」
「閑散期?」
「この近くの山で、毎年冬になると“ミステリーハンター”の企画をやってるんですよ」
「なんだそりゃ」
「名ばかりの、ただのお遊びですよ。……まあ、僕も毎年参加してる常連ですけどね。実態はただのハイキングです。ほら、よくあるでしょ?テーマパークの近くの病院に、パークで起きた事故の患者が運ばれてくるって。あれと一緒です。登山中にケガをした人たちが、みんなここに運ばれてくるんです。だから、うちは整形外科が主体で――」
しばらく看護師の駄弁に付き合っていると、彼は急にぴたりと足を止め、くるりと踵を返してこちらを向いた。
「……なんだ?」
「すみません。ここから先は、あちらの病棟看護師の持ち回りなので。僕はここで失礼します」
そう言うと、彼は「この先です」と薄暗い渡り廊下を指さした。その先に目を向けると、まるで亡霊のように、じっと立ち尽くしている男の姿があった。
「ひっ……」
「バカ、何びびってんだよ」
「だ、だって、さっきから気味悪くて怖いんだもん……!」
「はあ……」
小声で喚く由衣に溜息を吐くと、敢助は看護師に「道案内ありがとう」と頭を下げ、渡り廊下を進みはじめた。
廊下の両端には大きな窓があり、外の景色が見えるようになっていたが、時刻も時刻、景色などあるはずもない。そこに広がるのは、ただただ深い闇だけだった。窓際に飾られていた花瓶の中では、植物が原形を失うほど枯れ果てている。
コツコツとヒールの音を響かせながら、由衣が不安げに口を開いた。
「ねぇ……病院って、夜になるとこんなに暗いものなの? これじゃ、患者さんだって歩けないじゃない」
「古いから仕方ねぇんだろ。さっきの話じゃ、経営も黒字じゃなさそうだったしな」
「はぁ……敢ちゃんが一緒でよかったぁ」
「あのな……」
2人がちょうど廊下の真ん中に差しかかったその時、渡り廊下の天井からドサッと鈍い音が響いた。まるで、外から何かが落ちてきたような音だった。
「えっ、な、なに? 無理無理無理!」
「だから落ち着けって! 何もねぇから」
敢助にしがみつく由衣に、「仕事中だろ」と言い聞かせるも、由衣はなかなか離れようとしない。呆れてため息をついたその瞬間、再び天井の上からドサッと、何かが落ちてきたような音が響いた。
「きゃあアッ!」
「チッ、何なんだよ!」
「多分、タヌキとかでしょう。怖がらせてすみません。よくあるんですよ、ここは山奥ですから」
2人の騒ぎを制するように、待ち構えていた看護師が声をかけた。
「ああ、申し遅れました。私は担当看護師で、看護師長の安尾司流(やすおしりゅう)と申します」
安尾はぺこりと一礼し、かけていた眼鏡の位置をくいっと直す。どうやら眼鏡のサイズが合っていないようだ。安尾は中肉中背の男で、先ほどの看護師よりはやや小柄に見える。彼は移動用のパソコンラックを押しながら「こちらです」と2人を被害者の病室へ案内した。
「ええと、患者は立岡絢さん、17歳女性です。負傷部位は両足の骨折と……あれ? すみません、電カルがフリーズしてしまって」
そう言って安尾はノートパソコンを再起動させた。しかし、しばらく経っても画面はうんともすんとも言わず、真っ黒のままだ。安尾は「すみません、すぐそこがナースステーションなので、ご一緒いただけますか?」と由衣に声をかけた。
由衣は敢助の方をじっと見つめた。“早く済ませてとっととここから帰りたい”という思いが視線から読み取れる。
「……わかった。俺は先にガイシャと話してくる。詳細はお前が聞いてこい」
「ありがと!お願いね」
由衣はようやく電気の点いた場所に行けることにホッとしたのか、少し小走りで安尾のあとについて行った。
1人になった敢助は、被害者の病室のドアを横にスライドさせた。立て付けが悪く、途中途中で引っかかる。やはりこの病院の経営はよろしくないらしい。
中は4人用の大部屋だったが、今この空間にいるのは、立岡絢ただ1人だった。
(……カビ臭ぇ)
病院に入った瞬間から感じていたが、どこもかしこもじっとりとした湿気があり、カビの臭いが立ち込めていた。特にこの病室はひときわ酷く感じる。空きベッドには薄っすらと埃が積もっており、まるで時間が止まっているようだった。
「夜分遅くにすまない。長野県警のモンだ。話を聞かせてもらうぜ」
敢助はそう言って、カーテンの仕切りを開いた。ベッドに横たわっていたのは長い黒髪の少女、立岡絢だった。絢の両足は大きなギプスで固定され、天井から吊られている。足が吊られているのだから自然と上半身に向かって血が巡るはず。それなのに、絢の顔色は青白いままだった。
彼女は瞬きもせず、じっと天井の一点を見つめている。
「刑事、さン……?」
か細く、掠れた声が返ってきた。
「ああ。辛いとこ悪いが、犯人確保のために協力してくれ」
「は、犯人はァ? ……わ、わたシ、たちィ?」
言葉の抑揚がおかしい。語尾が不自然に引き延ばされ、動揺しているのか焦点の合わない視線が天井を泳ぎ始めた。
「ゆっくりでいい。何があったか、落ち着いて話してくれ」
敢助は言いながら、絢の揺れる肩にそっと手をかけた、その瞬間。がくんと彼女の首が不自然に揺れた。肩にかかっていた黒髪がばさっと落ち、白く細い首筋があらわになる。そこには、明らかな索条痕が残っていた。
「おい、アンタ……!落ちる前に誰かに首を絞められたのか?」
「く、くビ?」
「そうだ。その痕……そいつは誰が……」
『アンタも知ってるじゃない!』
絢から叫ぶように放たれたその言葉は、頭の中に直接響いてくるようだった。
「な、っ……」
絢の意識が、ふっと途絶えた。
何だ、今のは。
まるで、死人が一瞬だけ息を吹き返し、言うべき台詞だけを言って、再び堕ちていったかのような。
「……おい、おい!大丈夫か!」
彼女の胸は動いておらず、モニターがけたたましくアラート音を鳴らし始めた。
「クソッ……!」
敢助はベッドサイドに置かれたナースコールのブザーを押すが、主電源が切られていて繋がらない。
「はぁ!?ンなバカなことあるかよ!」
まだ重要な情報を聞き出せていない、こんなところでガイシャに死なれちゃ困る。ナースステーションは部屋を出て右手か。敢助はベッドを離れ、廊下に飛び出した。
ナースステーションの前では、消えかけた蛍光灯が頼りなく明滅している。
「おい! 誰かいねぇのか!」
声を張り上げるも返事はない。代わりにコツン、コツンと薄暗い廊下に、ヒールの音が響いていた。
「……由衣、……由衣!」
由衣はナースステーション前の階段を上っているようで、敢助もその姿を追うように、階段を駆け上がった。しかし上階に到着しても、そこには由衣も、安尾の姿もなかった。
それどころか、この階全体が暗い。
ナースステーションも、廊下も、照明はひとつとして点いていない。非常灯すらないその空間は、完全な閉鎖病棟だった。
「どうなってんだよ……チッ!」
敢助はスマートフォンを取り出し、ライトで辺りを照らす。だが、白光に浮かぶのは静まり返った廊下と、埃の積もった器具棚だけだった。
上からは、またコツン、コツンとヒールの音が続いている。間違いない。由衣だ。敢助は躊躇うことなく、さらに上の階へと足を運ぶ。その先は屋上だった。
壊れかけた鉄扉の隙間から、嵐のように強い風が吹き込んでくる。今日の天気にこんな予報は無かったはずだが……敢助は扉を押し開け外に出ると、風に煽られながら再びスマホのライトをかざした。
フェンスの向こう側、そこに由衣が立っていた。
「由衣!」
一緒だったはずの安尾の姿はどこにもない。由衣は髪を下ろし、風になびく髪をそのままにして、敢助の声に振り向くことなく黙って地面を見下ろしていた。
検証中にしては様子がおかしい。この暗闇でライトもつけず、両手もガラ空きだ。
「馬鹿、何してんだ!あぶねェから早くこっちに……誰だ!」
フェンス越しに由衣の腕を掴んだ、その時。背後から、人の気配を感じた。
咄嗟に振り返りライトを向けると。
「お前は……!」
そこにいたのは、茶色いスーツを着た男だった。顔は長く伸びた前髪に隠れ、表情は読めない。男はゆらり、ゆらりと、不自然に身体を揺らしながら、ただ黙って立っている。
敢助は由衣の腕を離さぬようにしながら、ポケットから手錠を取り出した。
「犯人自らおいでなすったか……悪いが、お前はここで」
逮捕だ。
そう言い終わる前に、ぐんと強い力が敢助の身体を引っ張った。掴んでいた由衣が、急にしゃがみ込んだのだ。まるで、屋上から降りようとするように。
「ば、っかやろ!何して……!」
敢助は慌てて腕を引き上げようとするが、由衣は微動だにしない。由衣は背を向けたまま、黙って沈黙を貫いていた。
“しまった”
そう思った時には遅かった。再び顔を上げると、さっきまで距離のあった男が、すでに敢助の目の前に立っていた。
「チィッ……!」
こんなところでおっ死んでたまるか。
敢助は咄嗟に手錠を投げ捨て、腰のホルスターから拳銃を抜いた。男はそれにも動じる様子はなく、敢助の視線を横目に、軽やかにフェンスを乗り越えた。
その時。ようやく、由衣が反応を見せた。俯いていた顔をゆっくりと上げ、その視線が男を捉える。そして、まるで泣いている子供を宥めるような、やさしい声で、彼女は語りかけた。
「……あなた」
男の肩がわずかに震えた。
「もう、全部終わったのよ」
由衣の声をきっかけに、突風のような風が男の身体を包み込む。男の身体は、そのまま宙に舞うようにして暗闇へと落ちていった。
落下音は、しなかった。
由衣は何も言わずに真下を見下ろしている。不意に我に返った敢助は、由衣の腕を引いてフェンスから離れさせた。
「敢ちゃん、あれ?私、何して………」
「戻るぞ。……ここに長居はしねえほうがいい」
「………うん」
屋上の出入り口へ向かうも、金属のドアは錆びついており、力いっぱい押してもびくともしなかった。
「何でだよ、さっきまで開いてたろうが……クソ!」
敢助が悪態をつくと、由衣がフェンスの向こうを指差した。
「あそこ、非常階段があるわ。多分、さっきの夜間入り口の方に出られるんじゃないかしら」
二人は外付けの錆び付いた鉄階段をゆっくりと降りていく。先程まで吹き荒れていた風は、もうどこにもなかった。
ようやく地上に降り立つと、敢助は大きく息を吐いた。
「はあ……一体なんだってんだよここは………あ?」
「か、敢ちゃん!」
ふと前方に目をやった二人は、言葉を失った。
「………う、そ」
「……こいつは、どうなってやがる……」
そこにあったはずの明かりは、もうどこにもなかった。夜間入口の自動ドアは閉ざされており、中は真っ暗だ。ついさっきまで明かりが漏れていた窓は、どれもガラスが破られていた。よく見ると建物の壁面には無数のツタが這い、錆びた看板は、かろうじて読める程度だ。
――《平成18年 廃院》
「はは、マジかよ」
あまりにも不可解で不気味な事象に思わず笑みが溢れる。頼むから夢であってくれ。そう敢助が心のうちで願っていると、二人の背後から強めの風が吹いた。そしてその音に紛れるようにドンッ!と、まるで何か重いものが地面に叩きつけられたような音がした。反射で敢助が振り返ろうとするも、由衣が慌てて手を掴む。
「振り返らないで!……このまま、帰りましょ。私たちの、家に」
由衣の手は力強いが、恐怖で震えている。
「………わかった」
二人は振り返らず、その場を後にした。
あの落下音は由衣が言った通り、何かが終わった音なのか。それとも別の、二人を何処かへ誘おうとする音だったのか。今となっては、もうわからない。
後日、自殺未遂を起こした少女達は、揃いも揃って“茶色いジャケットの男”の記憶を失っていた。
そしてあの晩、由衣に電話をかけてきたという
“吉田寅男警部”
その名の警察官は、長野県警のどの課にも所属していなかった。