小さい頃から何をやっても失敗ばかりで、お店の仕事を手伝うつもりが、よけいな仕事を増やして周りを困らせてしまうことなどしょっちゅうだった。
「秀作坊ちゃんは、ただ笑ってくれてるだけでいいんですよ」
落ち込む幼い自分に、お手伝いの人が掛けてくれた言葉。失敗してもやってしまったと笑っていれば、みんなしょうがないなと笑い返してくれる。それが嬉しくてまた笑って、怒られて泣いたり落ち込んだりすることもたまにあるけれど、笑うことは自然と小松田の一部となっていた。
そんな自分が成長してもへっぽこはやはりへっぽこのままで、何をやっても中途半端で終わってしまう。
町の忍者塾では中身のたっぷり入った墨池をひっくり返してしまい、慌てて立ち上がった拍子に隣の席の子にぶつかり、その子もまた墨を磨っていた硯をひっくり返し、その隣の子が机上から溢れる墨を避けようとした足を絡ませて後ろの席へと転けてと、室内にいた生徒全員を巻き込む不運な事故の連鎖が起こった事がある。
悲惨な状態となった教室を掃除するため皆が動き出し、小松田も転がった硯や筆を回収しようとしたのだが、伸ばした手が掴まれ「おまえは何もするな!」と怒鳴られた。
何を言われたのか咄嗟に理解出来ず、ふんっと鼻を鳴らして立ち去る子の背中をぽかんと見つめる小松田に、別の子が気を使って「先生に言って、桶と雑巾もらいに行こう?」とこそりと提案してくれたのに頷くことしか出来なかった。
その時思い出したのがお手伝いさんの言葉で、あの時『笑ってるだけでいい』と言ったのは、『何もするな』ってことだったのかなと初めて言葉の裏側に隠された意味を理解した。かけてくれた声の優しさを否定するつもりはなかったが、そういう意味もあったんだろうなと思うと、そっかとなんだかとても納得できた。そこに悲しみや驚きの感情は湧かなくて、ただそうなのかと納得し、「ごめんね、ありがとう」と眉を下げて隣の子へと笑いかけた。
元凶は自分なのだから、これ以上何もするなと言う方が当然であり正しい。もしそれで嫌われてしまったとしても仕方のない事なのだと思う。
だから、拒絶するように向けられた背中を忘れないよう彼の言葉を『笑っている自分』に抱えさせる事にして、それもまた小松田の中の一部とした受け入れた。
それからまた月日が経ち、小松田は縁あって忍術学園の事務員として働くようになったが、相変わらずへっぽこなのはそのままだった。
忍者になるという夢は諦めていない。忍者のたまごである学園の子達が頑張っているように、自分もいつかプロの忍者として活躍したいと常々思っている。幸い学園の教師や生徒は皆優しくて、一年生の授業に一緒に参加させてくれたりと、小松田の夢を温かく見守ってくれている。そんな彼らの事が小松田は大好きで、学園で働けた事にも感謝している。
それでもただひとつだけ、小松田にとって困った事もあった。
「利吉さんこんにちは!入門票にサインをお願いします!」
ずいっと差し出した紙と筆に「はいはい」と苦笑してサインをするのは、小松田の理想をそのまま描いたような存在で、プロの忍者である山田利吉だ。
「山田先生にご用ですか?」
いつものようにサインを貰い、これもまたここでの恒例となる言葉を吐くも、利吉は珍しくうん、まあと歯切れの悪い答えを返してくる。
「それもあるけど、食堂のおばちゃんの料理が恋しくなってね」
「食堂のおばちゃんの料理がですか?」
「うん。ここしばらく忙しくてまともに食事というものも取れなかったんだけど、ようやくゆっくり休める時間が出来たんだ。何食べようかって考えてたらおばちゃんのご飯の味を思い出してしまって」
「ああ、なるほどぉ!」
食堂のおばちゃんの料理は確かに美味しい。それは数多の城から誘いが来るほどの腕前なのはもちろんのこと、彼女の料理は本人の人柄が出ているように温かくて優しい味がする。恋しくなって食べたくなるのも当然だと、うんうんと深く頷いて同意する。
「授業が終わるまでもう少し時間があるので、今のうちに食堂に行けば混む前にご飯の用意してもらえると思いますよ!」
食堂のおばちゃん優しいので!と笑って付け加えれば、「じゃあそうしようかな」と利吉も目を細めて笑い返してくれて、どきりと少しだけ胸が跳ねた。
小松田の前では怒る事の多い利吉だが、時折こうして優しく笑ってくれる事がある。
自分で言うのもあれだが、そんなつもりはまったくないのに、小松田が利吉と話すと何故か怒らせてしまう確率の方が断然高い。だから今のような笑顔は大変貴重だ。食堂のおばちゃんのご飯様々である。
今日は機嫌がいいのかなっと思うとむくりと欲が出てきて、時間があるなら手裏剣の練習に付き合ってもらえないだろうかと期待が膨らむ。それが無理なら、まともに食事も出来なかったというのがどういう状況だったのか詳しく聞かせてほしい。それも駄目なら、仕事のことじゃなくてもいいから、何か話をしてほしい。
小松田の理想の忍者である利吉が見ている景色がどんなものなのかを知りたい。
そわそわと逸る気持ちが抑えきれず、あの!と思った以上に大きな声が出てしまった。小松田と利吉の視線が交わったのとほぼ同時に、背中を向けていた門の方からも「あれ?」と誰かの声がした。
「利吉さん?」
「あ、本当だ利吉さんだ!」
わいわいと賑わう声と気配に振り返れば、そこには野外演習に行っていた四年生の子達がちょうど帰ってきたところで、利吉の姿を確認すると我先にと駆け寄り囲っていった。
「利吉さん今来られたんですか?」
「今日はゆっくりされるんですか?」
「ご飯もう食べられました?」
「利吉さん、よかったら忍術の指導をしてほしいのですがお時間ありますか?」
「あ、おまえずるいぞ!」
次々に上がる声は質問から忍術指導のお願いへと変わり、それを聞いた途端、遠目に見ていた子達もぼくも私もと輪の中へと加わっていく。
こうなっては話すどころではなくなり、小松田はあわわとおしくらまんじゅう状態となった人垣の中から這い出した。
「小松田さん、大丈夫ですか?」
「まったく、あいつらも子供じゃないんだから」
脱出に成功し、ひと息ついていれば頭上から声がかけられる。顔を上げれば心配そうに小松田を見ている浜守一郎と呆れたように四年生達を見ている田村三木ヱ門がいて、大丈夫だよとへらりと笑って立ち上がった。
振り返れば教えを乞いたいと目を輝かせる生徒達と、中心で苦い笑いを浮かべてなだめている利吉の姿が見える。
くのたまの子達にサインを求められていた時も囲まれてはいたが、今はほぼ一組分の人だかりだ。利吉は男にもモテるのかとほへぇと感嘆の声を上げた。
「利吉さん人気者だねぇ」
「そりゃあ、先生以外のプロの忍者に教えてもらえる機会なんてそうそうないですし、なんといっても“人気の”プロの忍者ですからね」
「そこ関係あるのか?」
「あるに決まっているだろう!」
小松田にはよくわからないが、三木ヱ門の力説によると優秀で人気というところが重要らしい。重要性はともかく、その部分だけなら小松田にも理解が出来て、まさしく利吉さんの事だなあと改めて彼の凄さを実感した。
「二人は教えてもらいに行かないの?」
ふと疑問に思って口をついて出た言葉に、三木ヱ門がぴたりと動きを止め、守一郎はあーっと苦笑して頭巾越しに頭を搔いた。
「なんというか、出遅れたというか、俺は編入生だしあの中には入りにくいというか…」
「わ、私には照星さんという師がいるので!まあ、私も学園のアイドルなので人気者の大変さもわかりますし?」
「照星さんも凄い人だもんな」
胸を張って語る三木ヱ門と、流石同室というか後半部分を華麗に躱して上手い具合に相槌を打つ守一郎の会話を聞きながら、小松田は未だ賑わう輪の中心にいる利吉の方を見ると、あ!と唐突に声を上げた。
「侵入者の気配!!」
言うや否や、駆け出した小松田の背中は二人だけでなく、何事かと振り返った四年ろ組の生達の視線を集めて見送られる。
「相変わらずだな」とか「お疲れ様です」とか後ろから呟きや声援が聞こえてくるが、小松田はそれに反応することなく、侵入者の気配に集中して足を速めた。
門から離れ、背中にも視線を感じなくなると、小松田にとってはいつも通りのいつもの日常に戻り、走りながら小さくほっと息をつく。
利吉の顔を見た時に侵入者の気配を感じたのも本当だが、先程まであんなに話を聞きたいと思っていたのに、利吉と目が合った瞬間に脳裏に過ぎったのは守一郎と三木ヱ門の言葉だ。
生徒である守一郎が編入生だから輪の中に入りにくいと言うのなら、自分はなんなんだろう?
いつか立派な忍者になりたいとは思ってはいるが、今の小松田は忍者どころか生徒でもないただの事務員だ。
三木ヱ門は人気者は大変と言っていたが、利吉は時間がある時ならば生徒達の訓練にも付き合ってあげるし、上級生達と一緒に遊んでいるところを見かけた事もある。囲まれて困ってはいたが、嫌がっているようには見えなかった。四年生になると授業内容が過酷で厳しいものになると聞いているので、きっと利吉は不安の多い彼らの為に今日でなくても時間を作ってくれると思う。なんだかんだで優しくて面倒見がいい人だから、皆から慕われ好かれるのも当然だ。
なのに、小松田が頼むと悩む間もなくすげなく断るし、あまりしつこく言うと忙しいんだと怒ってくる。
扱いの差にちょっとだけ凹んでしまいそうだ。
「よく怒らせちゃうし、やっぱり嫌われてるのかな?」
「え?いや、俺に聞かれても…」
捕まえた侵入者が疲れた表情でもう帰るというので、じゃあこっちにもと出門票と交換してサインをもらっていたのだが、返された入門票に書かれた利吉の名前を見て、考えていたことがつい口からぽろりと出てきてしまった。
何の話だと戸惑いの声を上げる侵入者に、そうですよねぇとあははと笑う。
『秀作坊ちゃんは、ただ笑ってくれてるだけでいいんですよ』
大丈夫だよ、本当はちゃんとわかってるから。
迷惑ばかりかけているから自分と関わりたくないんだろうし、もしかして嫌われているのかな?と思った事だって何度かある。
ただ、今日は笑ってくれたから。嬉しくって、もうちょっとだけ話がしたいと欲が出てきてしまった。
わかってる。利吉だけでなく、忍術学園にいる教師や生徒達と自分が同じ目線に立てないことくらい。たとえ何か事件があっても、誰かが帰って来ないとか、学園全体に関わるような事でなければ小松田がそれを知るのは全て終わってからで、詳しい内容については教えてもらえない事の方が多い。
それでも、いつかプロの忍者になりたいと夢をみている。依頼を受けて、誰にも気付かれず暗躍する存在がかっこよくて、へっぽこな自分が誰かの役に立てる姿を想像して胸を踊らせた日からずっと。
知らず知らず力が入ってしまった指先に、くしゃりと紙に皺が寄ってしまい慌てて指で撫でて伸ばしていく。
普段から入門票を手に走り回るし、ドジを踏んで転けたり穴に落ちたりと動き回っているので少し跡がついたくらいならまだ綺麗な方なのだが、端にだけついてしまった不格好な跡がなんだか周りからはみ出した自分を表しているようで、はあっと息をついた。
目を閉じれば『お前は何もするな!』と怒る子供の声と背中が映し出される。
うん、そうだよね。何もしない方がいいんだろうなってこともわかってる。でも、それでも…
「あー…」
思考に耽っていた小松田の耳に男の低い声が届き、はっと顔を上げて侵入者の顔を見る。
気まずそうに差し出された出門票に、そうだったと思い出して受け取り礼を言うも、男が立ち去ろうとしないので不思議に思って首を傾げれば、その、と布に覆われた口が小さく声を上げた。
「事情はよくわからんが、怒る事が嫌いに直結するとは限らないぞ」
視線を逸らしてぽそぽそと紡がれた言葉に、小松田は驚いてぱちりと目を瞬かせた。
これはもしや慰めてくれようとしているのだろうか?
「おじさん…」
「おじさんじゃない、俺はまだ26だ!」
ほあ?と叫ぶ男の唯一見える目をまじまじと見ながら26なら自分よりも10歳は上だなと考える。学園にいる先生達の年齢を思えば確かに若いが、それでいうなら。
「土井先生の方が見た目も若い…」
「…おまえそういうところが怒られるんじゃないか?」
またもやついついポロッと出てきた言葉に、侵入者は呆れた視線を投げてくる。
そうかもしれないと笑おうとして失敗した。口を開いた瞬間、何かが小松田の横腹の辺りに激突してきたのだ。
勢いよく腹を圧迫された衝撃でぐぅっ!?と声にならない呻きを上げる。昼食を食べる前でよかった。
「こらー!小松田さんを虐めるなー!」
「小松田さん大丈夫?」
けほっと軽く咳き込みながら視線を下げれば、空色に井桁模様の忍び装束を着た小さな影が二つ、小松田と侵入者の間に割り込んできた。
片方はこちらを攻撃してきたとも言えるが、小松田の腰に腕を回して心配そうに見上げてくる純粋な瞳とセリフからして、心配して庇おうとしてくれているのだろう。多分。
先程小松田は考え事をしていて俯いていたし、男の方もおじさん呼びを否定して叫んでいたので、勘違いさせてしまったのかもしれない。
もしそうなら誤解を解かねば。
そう思い、視線を前に向ければ小さな体で両手を広げ、眉を顰める侵入者を睨みつける子供の姿があり、あ、と小さく声が漏れた。
最初はただの好奇心だったのがいつの間にか憧れとなり、自分も忍者のように強くなりたいと思うようになっていた。
何もしない方がいいってわかってる。それでも、何をやっても駄目で怒らせてばかりの自分でも、誰かの為に動いて助けになれる存在になりたかった。
小さな背中は、そんな夢を抱いて自分が願った姿で、どくどくと心臓が煩く鳴った。
息が詰まり、声も出せずに硬直していた体は小刻みに震えている子供に気がつき、何かを考えるよりも先に動いていた。
肩に手を置けば、侵入者を威嚇していた強い瞳が振り返り、小松田を視界に入れた途端不安や恐怖を滲ませ揺れ出した。
当然だ。忍たまとはいえまだ一年生で、10歳の子供が大の大人でプロの忍者の前に立ちはだかっているのだから怖いに決まっている。
今にも泣き出しそうな顔を頭ごと抱きしめて「大丈夫だよ、ありがとう」と頭巾越しに頭を撫でて宥めてやれば、子供の手が小松田の服を掴んでぎゅうっと抱きついてくる。するともう一人もまた小松田に抱きついてきたので、「ごめんね」と謝り同じように頭を撫でてやった。
忍たまは忍者のたまごという意味なのだと学園長先生が言っていた。
怯えながらも、忍者ではない小松田のためにこうして前へと出てきてくれたこの子達は将来有望だ。土井先生が胃を痛めている一年は組のよい子達だって、勉強面はともかく実戦経験が豊富で皆肝が据わっているとよく聞く。学年が上がれば今の六年生達のように賑やかで頼りがいのある忍者になるのだろう。
小松田とて夢を諦めるつもりはないが、同じ時を刻もうとも、自分が彼らと同じ目線に立てる時は来ないのだろうということも理解していた。
みんなの事は大好きだけど、彼らと小松田の間には見えない壁がある。目の前にいて、見えているのに壁に阻まれ、近付く事も手を伸ばすことも出来ないし、きっとそれは許されない。
大好きだけど、好きだからこそ、壁の向こう側にいる彼らの事が眩しくて、ただ見ている事しか出来ない自分には眩しすぎて、目を開けているのがちょっとだけつらい。
学園で過ごす中でひとつだけ困ったこと。
時々、ダメな日がある。
灯台の油が切れて灯火が消えるように、フッと息を吹きかけられたように自分の一部として身につけていたはずのそれが上手く作れなくなる。
ごめんね、ちゃんと笑うから。
いつもみたいに笑うから、ちょっとだけ待って。
大丈夫。ちょっと眩しかっただけだから、ちゃんと笑えるよ。
笑って、大好きなみんなを迎えるから。
「ごめんね」ともう一度出した声は自分でも驚くくらいか細くて、俯いた顔が見えないように、二人の顔が上がらないようにと小さな頭を抱きしめた。