ある日の人魚と時計 シレーナ海。あらゆる海産物がとれることで有名なこの海は、釣り人にとって格好の場所であった。そんなシレーナ海には、『人魚が住んでいる』なんて言い伝えがあった。実際釣り人が人間の髪の毛によく似たものを釣り上げたことがあったり、魚にしては大きすぎる鱗がとれたりとその言い伝えは釣り人の間では確信に近いものがあった。
そんな海に彼……キオは今日も向かっていた。片手には果物を包んだ袋をさげ、片手には以前ルロの店で譲ってもらったオルゴールを持っていた。
「ふむ、マーレは気にいるだろうか……まあ、気に入ってくれるだろう」
ぼそりと呟く。今日シレーナ海に向かったのはその言い伝えの『人魚』である少女、友人のマーレのお願い事を叶えてやる為に向かっているのだ。賑わう港や水遊びに興じる人の多い砂浜をずっと歩き、端っこの、人気の少ない岩場の洞窟。少し昔、キオとマーレの出会った、思い出の洞窟に入る。遠い所に穴が空いてるからか日光が入るため全くの暗闇ではなく、ぼんやりとした明るさは月明かりを思わせる。
マーレと出会う為には更に一手間をかける。
洞窟には手頃な石が沢山転がっている。足場にある適当な小石を拾い、それを海面めがけ投げてみる。
ぽちゃん、と小石が沈む音がした。人魚は基本海面下で生活しており、人間と関わることは本来御法度であるらしい。だが、マーレは人魚の集団からははずれた存在であり、洞窟付近も人魚の集落からは遠く離れた場所であるからか、こうして小石を投げてやるとマーレが寝ていない限り基本来てくれるのだ。
「キオっ、呼んだかしら?」
ぱしゃん、と水飛沫が上がる。
二つに括った空色と桃色の髪。リボンのような形をした衣服を纏い、腹から下は……鱗のついた魚の鰭。澄んだ水色の瞳は、アクアマリンのようだ。
彼女こそが人魚のマーレである。マーレはニコニコと上機嫌な笑顔を浮かべた。
「ああ、呼んだ」
「うふふっ、なんのようかしら? ……まあ! その袋、もしかしなくても前話していた、ふるーつ?って言うものを持ってきてくれたの!?」
「うん。あと君が好きそうなからくりも。これ」
「あら、何かしら? これ……。時計、ではないわよね。フィオ兄様に借りた本には出てきた事がないわ」
「オルゴールって言うんだ。こうしてここのゼンマイを巻いてやると音が鳴る」
カチカチとぜんまいを回す。その様子をマーレはキラキラとした目で見つめており、その様子は幼い子供のようだ。彼女は海中のものなら何でも知っているが、人魚という性質上いかんせん陸に上がることはできないから、陸にあるもの……人間の作ったものには特に興味を示す。
昔見せてあげたびっくり箱にも純粋に驚いていたのは少し面白かった。
キオは勿論だが、その友達のジアにびっくり箱を見せてやっても「だから何よ」と一切動じなかった。ルーチェなら驚くだろうと思い見せてやっても、昔受けた酷い経験からかそれなりの度胸があるのか「わ〜! すごいね!」と驚きからではなく、びっくり箱の仕組みの方に関心を示していた。多忙な父が送ってくれたびっくり箱の使い道を見出せない中で、彼女は面白がってくれる。キオはそんなところを、どこか無自覚で気に入っていた。
ぜんまいを巻き終え、手を離してそこら辺の岩の上に置いてやる。すると、最初は崩れたテンポだったが次第によく知るリズムの音楽が流れた。マーレは目を瞑りその音を楽しんでいた。目を閉じると彼女の睫毛の長さがよく分かる……昔、キオは母親にこんな事を言われた事があるのを思い出した。人魚は人間を食べる為に美しい整った容姿をしているのだと、その容姿に見惚れている人間を海に引き摺り下ろし、殺して食べてしまうのだと。そんな言い伝えを母親に聞かされ、海に近付くのを怯えていた幼少期。
だが、マーレを見ると、とてもそんな風には思えない。人より物事に興味深く、好奇心が旺盛。身体が違うだけで、彼女は単なる年頃の少女にすぎないのだろう。キオはそう思いながら、楽しそうにオルゴールを聴くマーレを見つめた。
「まあ……素敵ね。人間はこんな素敵なものを作れるのね、ワクワクしちゃう! ねえキオ、この曲はなんて曲名なの?」
「白鳥の湖。よく利用する時計屋のお兄さんが譲ってくれたものでね、何だか昔を思い出せそうで」
「昔って……キオの時計が壊れるより前かしら。キオって、その時計が壊れるより前の事をあんまり覚えていないのよね?」
「ああ。ここ数年の記憶しか思い出せなくて。それと、この時計をくれたのは爺様だって事くらいしか」
「そうなのね。私もここ数百年の記憶はサッパリね」
「……数百年?」
「人魚は寿命がすっごく長いから。私は今……何歳だったかしら? もう思い出せないわ」
キオにとって衝撃の発言。彼女はキオと同じ14歳の少女なのかと思っていたが……まさかの数百年。昔の昔、そのまた昔の偉人が生きていた頃に、マーレは海の中で暮らしていたというのか。あまり物事に驚きなどをしない彼だが、さすがにその発言には動じた。
マーレは数百年前の出来事を思い出そうとうーんと腕を組んでいるが、やっぱり思い出せなかったのか、すぐにやめた。
「そういえば、君の探している人間はいつ頃出会った人間なんだ? 君が数百年生きているのならもう生きていない可能性だって」
「ええっ!? 人間ってそんな簡単に死んじゃうの!?」
「死ぬだろ」
「えっ……嫌よ! キオ、私を置いて死なないでね?」
「寿命の問題があるからな」
「ええ〜っ……!!」
「まあ……善処はするさ。この時計が直るまで簡単に死ぬわけにはいかないし……死ぬつもりもない」
そう言うと、マーレがふ、と柔らかに微笑んだ。彼女の容姿はやはり、惹かれるものを感じる。好き、とは違うが何か……心から感じる、言語化出来ない何かを感じる。物語のセイレーンの歌声を聴いた船員はこんな気持ちなのだろうか? かのクレオパトラを見つめた人間はこんな気持ちなのだろうか? そんな事をキオが考えていたら、マーレが口を開いた。
「ふふっ、そんなキオの優しいところ私好きよ」
「前も言っただろ、君は僕を買い被りすぎだ。僕は優しい人間でも無いし、君を助けたのだって気まぐれさ」
「でも助けてくれたのは事実じゃない? 貴方が買い被りすぎだって言っても、私からしたら素敵で優しい人間よ。そうでなければ私は貴方に人探しなんて協力してもらおうなんて思わない。私、人を見る目は結構あるつもりなんだから」
ふふん、と自慢げな顔で力説するマーレ。キオはその姿を見てふ、と吹き出してしまいそうになる。
彼女の思う優しい人間と自分の思う優しい人間は恐らく違うのだろうが、少なくとも自身が優しいはずがない。時計を直す為なら人命を捧げる事になったとて僕なら躊躇いもなく差し出せると思っているし、それが友人でも、家族であっても、迷えるかと言われると返事に困ってしまう。僕は優しい人間なんかじゃない。卑下しているわけではなく、それは単なる事実として存在するだけだ。
「マーレってやつは」
「まあ、私の言う事に呆れたなんて言わないわよね?」
「君がそう言う事を恥ずかしげも無く言えるのに感心したのさ」
「嘘よ。全くもう!」
「はあ、君のように容姿が可愛らしい人がそう言う事を平気で言うのは危ないからやめろ、と言えば気が済むかい?」
「あら! キオは私をそう思ってたの? うふふ、私もキオの事をかっこいいと思ってるわ」
「それこそ嘘だろ」
「まあ、バレた? 私は可愛いと思ってるわ。ふふっ」
他愛もない話をしていると時間を忘れそうになる。マーレと話すのは苦ではない。何の話も楽しげに聴いてくれる彼女は、もし人間として生を受けていたらきっと人気者で、キオとは関わりのない交わらない縁だっただろう。そう考えると不思議な縁だな、と思う。
マーレはキオが持ってきた熟したマスカットを口にした。一粒が大きく、その姿はまるで食べる宝玉だ。マーレに続いてキオも房から一粒ちぎり、口に入れた。口の中に優しい甘みが広がる。鼻をぬける爽やかな香りは、マスカットならではの味わいだ。
「これ美味しい! 見た目はポルポと食べるのに似てるけど……味は違うのね」
「ああ、それはクビレズタ……海ブドウってやつだろ。これは白ブドウっていう、海ブドウとは違う、植物の実」
「へ〜! キオは物知りね、フィオ兄様みたい」
「フィオ兄様って、誰だい」
「フィオ兄様はね、すっごく物知りなの。本を沢山読んでて……確か人魚族の貴族?ってやつだった気がするわ。幼馴染なんだけどね、私とは全く違うの! 時々本を借りて読ませて貰うこともあるわ。もしかしたらキオの時計の事も知ってるかも」
「! 知っているかもしれないのか!?」
「わあ。キオは時計の事になると真剣ね。フィオ兄様に聞いてみるわね……って、もうこんな時間。私ポルポのところ行かないと」
洞窟の穴を見つめると、空が赤色に染まっていた。もうそんな時間になっていたのか。マーレと話しているとやはり時間があっという間だ……そう思いながら片付けをする。
「空が赤いな。僕も帰らないと、婆様に心配をかけてしまう」
「じゃあ今日はお別れね。白ブドウありがとう、美味しかったわ! 私も次会う時何か持ってくるわね」
「楽しみにしてる。それじゃまた今度」
「ええ! バイバイ、キオ」
洞窟を後にする。先ほど水遊びに興じていた子供達はもう帰っていたようだ。自分も、夕ご飯の時間までに帰らないと、爺様が作った処理のされてない魚を使用した余り物パイを食わされてしまう。キオはその余り物パイが非常に苦手であり、昔の記憶を覚えていなくても身体が覚えている。あの味は毒と同じものだ。身体が口に入れた途端、拒否反応を起こす。マーレに食べさせてあげようか……なんて思ったが、マーレに食べさせるのは恨みを持っているようでやめておこうと止めた。
次はマーレに何を持ってこようか。家にあるからくりでも、身体が覚えている好きな味をした婆様特製のスコーンでも、隣町にできた面白い菓子屋の新作でもいいし、何なら紅茶でも持っていってみようか……きっとマーレは紅茶の渋みに対して苦い顔をするのだろう。そう思うと微笑ましい、そうだ。次は紅茶でも持っていってみよう……そんな事を考えながら、キオは帰路についた。