忘れてくれと思ったが、果たしてヘヨンの記憶は確かだった。頷いてしまった過去は変えられず、居候から恋人に昇格した男は、特に変わりなく日々を過ごしていた。それでも、買い出しであるとか、散歩の付き添いであるとか、日常の細々したことまでデートになってしまった。ジェハンがそう思っているわけではなく、一度ヘヨンが「デートですね」と噛み締めるように呟いていたせいで、殊更意識してしまうようになっただけだ。
　それはそれとして、デートらしいところにいった方がいいのだろうか。日用品の買い出しをデートと呼ぶ健気な男は、今日も大して興味もないだろう野球を見ながら隣で機嫌良さそうにしている。
「……遠出しますか？」
　若者の間で恋人の記念日というものが細かく設定されていることくらいジェハンも知っていた。そろそろひと月になるのだから、何かした方がいいのだろう。お試し期間のような恋人関係であっても。ヘヨンの湯呑みの中のコーン茶が跳ねて、手に掛かる。熱いだろうにそれどころではないらしい。
「えっ、あ、イ刑事が……よければ……」
「日帰りですよ」
「はい、もちろん」
　湯呑みを握り潰しそうな勢いで握り締めて、ヘヨンはこくこくと頷いた。

　潮風に乗って磯の匂いが香った。はけをはいたような雲が太陽を薄く隠し、日差しがないぶん風は少し寒い。晴れていれば日差しに暖かさもあっただろうが、春になったばかりでは仕方ない。食べ歩きというものを提案してみたものの、五十の胃に入る量はたかが知れていた。それでもホットクやトッポッキの感想は聞くに留めるにしても、おでんと刺身は食べておきたい。とはいえ、ヘヨンの「イ刑事も一口どうぞ」によって、すべて味は知ってしまったが。
　ビニールに囲まれた屋台で、捌いてもらったばかりの刺身を並べた。サンチュに刺身を乗せ、ニンニクとサムジャンも合わせて巻いて、ジェハンは口に運び、「うまい」と呟く。
「警部補、どうぞ」
　サンチュに巻いたヒラメを差し出すと、ヘヨンは存外大きな口を開けて頬張った。入りきらなかったサンチュの端が口に消えていく様子に、餌付け、という単語が思い浮かび、消えていく。
「たくさん食べてくださいね」
　グラスに焼酎を注ぎ、もう一度ヘヨンにも勧めたが、首を横に振られる。昼間から飲むのも旅の醍醐味だと少し寂しくもあるが、先日のように酔って何か爆弾を落とされても困る。

　ゆるく曲がった海岸線を歩いていく。ジェハンはゆっくり歩いているつもりでもヘヨンにはやや早いらしく、小動物のように懸命についてくる。波打ち際に程近いところをペアルックの若者が転げるように走っているのが小さく見えた。このままジェハンが波打ち際まで走ったらどうだろうか。それでもヘヨンはついてくるのだろう。
　頭上でまばらな雲が動くたび、海はゆっくりと色を変えていった。厚い雲の下ではどんよりと暗い紺碧色を濃くし、晴れ間の下では鮮やかな緑がかった明るい空色へと移ろう。白く穏やかな波が絶え間なく寄せ、沖を船がゆっくりと通りすぎていった。
　いつしかぽつぽつとした会話もなくなり、ただ海を眺めていた。無線を通して会話していた頃にあった時間の差は埋まった。そうして同じ時間を過ごし、同じものを見ているということは、ジェハンにはやはり貴重に思えた。つんと痛む鼻を啜ると、ヘヨンが隣で小さく笑った。冷たい手の甲同士が一瞬擦れて、離れていった。
　
　列車の揺れに合わせて、こつこつと窓ガラスへ丸い頭がぶつかっている。きらきら光る街の明かりがヘヨンの鼻梁を彩り、一瞬で後方へと流れていく。ヘヨンの方が体力もありそうなものだが、列車に揺られる間に、いつの間にか眠りについてしまった。幼さを削ぎ落としたような顔をしているのに、初めて見た寝顔はあどけなさを残していた。硬く冷たい窓ガラスではなく、ジェハンの肩へと頭を寄せると、びくりと不自然に強張ったような気がした。
　夜を割く電車は時速百六十キロで、二人を家へと運んでいく。