FunFanService 太陽の光など生まれてこのかた知らない曇天と、人ひとりの姿さえ見られず存在意義を失った大通り。亡者が居住しているはずの建物の扉は、皆一様に固く閉ざされたまま。色欲区はまさにゴーストタウンじみた有様だった。
「色欲区というから一体どんな場所かと身構えていたが……僕の想像とはかなりかけ離れていたよ」
色欲、というからには、そこかしこに「情欲を抱いた人間」がわらわらしていると予想していたのだが、異様な静けさだけが居座っている区域内の様相に、モリアーティは肩透かしを喰らった気分になった。
……別にそういう人間が見たかった訳ではない。どちらかと言えば僕自身は(自分で言うのも躊躇われるが)、欲より理性で得られる利益を優先する。だから逆位置にいる人間を目の当たりにすると、どうしても顔が歪んでしまう。醜悪という感情からではない。理解に苦しむ、という意味でだ。むしろ偏桃体やら前頭葉が発達した人間という生き物として、彼らは何も間違ってはいない。過ぎる欲望は身を滅ぼすが、欲や願いがなければ人は生きる情熱を失ってしまう。ちょうど薪の類と同じ原理だ。みずからを燃やしてエネルギーを獲得し前進していく。きっと、おかしいのは僕の方だ。僕は薪ではなく、ちょっと他人より効率がいいだけの石炭なのである。
ともあれ、これから顧客となりうる相手に晒していい表情ではないことなど百も承知だ。だから正直、色欲区の現状にどこか安堵しているのも事実だった。感情が揺れ動かないのは実に好ましい。冷静な判断を下すにあたって、焦りや怒り、迷いは邪魔な要素でしかない。
「フフ……禁欲のため家に籠っているのだろう。なにせ彼らにとって外界は誘惑だらけ。他人と直接会うなんて身体にも精神にも猛毒だ」
ダンテが作者らしく(特異点創作者らしく?)、自信を滲ませた声で解説した。
脳内で弾き出した結論とほぼ一致している。僕の論理展開はそこまで逸脱したものではなかったという裏付けが得られた。
「なるほど。君もそう言うのなら、やはりそういう罰(もの)なのだろう。まあ僕にとっては大変度し難いものだがネ」
「……フフ、そう返してくるか。…………マジか」
一ミリも困っていないような穏やかなアルカイックで、ダンテは困惑を露わにした。
その台詞、そっくりそのまま返してやる。だいたい欲望を遠ざけたところで人間の本質は変わらない。根本的な解決になっていないことに誰も、まして罰を受けている本人たちでさえ気付いていない時点で、罰し方としては破綻しているのだ。僕から言わせれば、非常に、そして非情にナンセンス。ある意味、滑稽とも言えるだろう。
彼らは己の行いを改めようとはしていない。ただ罰を享受することにより、思考を停止させ、安堵を獲得したいだけなのである。
「あのっ!」
いきなり背後から呼び止められ、モリアーティとダンテは少々驚きながら振り返った。一人の女性が立っている。息を荒げ、肩を大袈裟なほど上下させ、視線はモリアーティとダンテ、それから人っ子一人いない色欲区の建造物を忙しなく往復していた。成人して間もない年頃の頬に、わずかばかり朱が差しているのは、どこからか全速力で駆けてきて血の巡りがよくなったことと、異性に声をかけた羞恥心からだろう。なんとも奥ゆかしい女性である。
「何か御用でしょうか? Dominula(お嬢さん)」
ダンテが柔和な空気を醸成させながら女性に優しく問いかけた。
彼の──相手に反感を持たれにくい──人当たりのよい接し方には感心する。今の僕では到底マネできない芸当だ。もっとも、僕がそれを突き詰めていった場合の未来は確定していて、どうにも黒幕で胡散臭い腰痛持ちのアラフィフになるらしい。……本当になるのだろうか? ……まあ、なるだろうネ。致し方ないさ。
自身の確定事項に辟易しているモリアーティの傍で、低いサイドテールが印象的な女性は胸の前で十字を切った。
「私、アロネと申します。色欲区に来てからというもの、みずからの罪と向き合い、敬虔に、禁欲的に、慎ましい日々を送り、主への祈りも欠かしたことはありません」
「ほう。感心だね」
モリアーティは「僕自身は無神論者だから理解できないが、君の生き方自体を否定するつもりはないよ」という言葉を隠したまま、短い感想を口にした。
率直な意見や相手を批判する言葉は、なるべく口にしないようにとダンテに念を押されていたからだ。おおむね同意見であるため、必要に迫られない限り口を噤もうと努力している。まあ、つど指摘したくなって仕方ないのが実情だったりするのだが。
女性はモリアーティに褒められたことで気が緩んだのか、乱れた呼吸を整えつつ、わずかに二騎へと身を乗り出してきた。
「ですが本当に無欲になりきれているのかどうか、自分自身でもよく分からないのです。真に誘惑に打ち勝てるだけの強靭な精神が宿っているのか不安で仕方ありません。そこで、私に一つ、試練を課してくださるよう、ご協力いただけませんか?」
報酬はきちんとお支払い致しますと、アルネは顔を伏せ、二騎のサーヴァントへ祈りを捧げた。
モリアーティはダンテをちらりと見る。同じ仕草のダンテと目が合った。
「(どうする? この女性の依頼を引き受けるのか?)」
「(私達は事務所を立ち上げたばかりだ。軍資金としての報酬ならばいくらあっても困らないし、喉から手が出るほど欲しい。話を聞いてみるだけなら損はないのでは……)」
「ちなみに試練の内容を聞いた時点で契約成立とさせていただきます。途中の契約解除は受け付けておりません。もし解除したいということであれば、相応の違約金(QP)を支払っていただきます」
アイコンタクトの会話を傍受していたとしか考えられない条件を女性──アロネが付け足してきた。
この女、見かけによらず交渉に長けている部類の小賢しい人間だった!
「(おい待て! 一気にヤバイ案件になっていないか!? 急に目の前の女性が人の姿をした怪物(ナニカ)に見えてきたのだが!?)」
「(フフ……どうにも私達を逃がさないという強い意志を感じる。どんな条件を提示してくるのか恐ろしい。──まあ非力な亡者だ。いざとなったら私と君で対処できるだろう。あとちょっとネタ的に面白そう)」
「(作家としての悪癖が出ているよネ、君? 僕はやめておいた方がいいと思うぞ)」
「(……まあまあ。)分かりました。依頼として引き受けましょう。それで、課してほしい試練とは?」
ダンテの了承に、やっちまったとモリアーティは目を覆う。
嫌な予感が強まっていく。こういう時の胸騒ぎは大抵当たるものなんだ。頼む、実現可能でマシな依頼であってくれ!!
アルネは大きく息を吸って、ぎゅっと瞼を閉じ、意を決したように試練内容を大声で宣った。
「貴方達お二人で、キスしていただけませんか!!」
は?
はぁ。
……ハァ?
「…………?」
「モリアーティ、口が半開きで目が細くなって眉間の皺が険しくなっている。二、三周回って間抜けに見えるからよした方がいい。何より依頼者に失礼だ」
「なるだろう!? 逆に何故、君は平然としていられるんだ!?」
「そういう趣味をお持ちの女性もいる」
「嘘だろ……闇が、業が深すぎる! 僕らを巻き込まないでくれたまえ! そこらへんにいる適当な亡者にでも頼めばいいだろう!」
「ダメなんです! 彼らはどノーマルでフツメンだし、折れずに目標に向かって進む信念とか、言葉を失うような凄惨すぎる過去がある訳でもないから、全っ然、期待していた絵にならないんです! 例えるならば、こう……光と影! 陰影要素が少なすぎるんです! 人間性が浅すぎるんです!!」
「知るか! 訳の分からない単語ばかり使うんじゃない! ええい、ダンテ! 彼女の要求が如何に馬鹿げたことであるかを君からも説明してあげたまえ!」
叫ぶモリアーティ。ものすごく叫ぶモリアーティ。彼は「こうなればQPでも何でも支払って、とっととこの場を離れるぞ」と続けるつもりだった。だったのだが──抵抗や拒否を示す間もなく、気付けば何かが頬に軽く当たっていた。
──思考が飛ぶ。よく分からないまま、ゼロ距離まで近付いていたダンテの顔が、モリアーティの顔から少し離れた。
ダンテが横目でアロネを見遣り、ふっと小さく微笑んだ。
「Paenitet. Non est peritus in osculandis. Quaeso mihi ignosce nunc.(すまない。彼はキスが得意じゃないんだ。これで勘弁してくれ)」
ダンテが、かなり訛りのきつい早口なラテン語で、何事かをアロネに告げる。
……ダンテの癖毛が顔に当たる。存外に痒い。早く離れて欲しい。
……ん? 自分の指摘がおかしい気がするのだが、何がおかしいのかピンとこない。
混乱で上手く思考できていないモリアーティなどそっちのけで、アロネは大袈裟に身を震わせていた。
「ありがとうございます! いえいえ間違えましたやはり私はまだまだ禁欲的に罪を償わなければならないと再確認したので帰って原稿描かなくちゃああああ! あ、私のことはお気になさらず! これ約束の品です受け取ってくださあああい!」
意味不明な欲望だだ洩れ発言を大声量で叫びつつ、彼女はダンテの両手を掴んで上下に激しく振った後、彼に何かを握らせて早々に去っていった。取り残されたモリアーティとダンテ。ダンテはアロネから渡されたモノを摘んで、曇り空に翳しながら眺めていた。
段々と状況を把握していくモリアーティの脳細胞。ギ、ギギギ、と歯車やら接合部やらが錆びついたロボットのようにモリアーティはダンテを睨みつけた。
「……おい。おいダンテ。何だ今のは」
「フフ……良いモノを貰ってしまった。これ、何だと思う? これね……聖杯の雫」
「そっちじゃない! 頬に!」
「……フフ…………えーっと……………リップサービスだ」
「意味が違う! というか依頼だからって僕にする奴があるか! なに『私、上手いこと言った』みたいなドヤ顔を晒しているんだ! おい待て先に行くなダンテエエエエ!」
怒涛のツッコミを全て受け流しながら、スタスタと色欲区を去ろうとするダンテ。背後から追いかける理系は、巨大な三角定規(三十度と六十度の直角三角形)で文系の背中や頭をポコポコと叩く。痛みに耐えかねたダンテが、「君、持ち前のスキルは使わなかったのか?」と無神経に言い放ち、殴るスピードと力が上がったのは言うまでもない。
その後、彼らが色欲区へ赴いたという記録は残っていない。双方とも平静を装いながら仕事をこなしていたのだが、身体を張ったバラエティなどキャラではなかったため(特に理系)、しっかりと精神的ダメージを受けていたのである。
「どんなに仕事や資金繰りに困ったとしても、二度と色欲区になんて行くもんかっ!」
時々、色欲区の話題が出た後、事務所で絶叫するモリアーティがいたそうな。
長すぎるあとがき
多分、二騎のことだから初めは律儀に行ったんだと思います。でも案の定な結果だったから、「二度と行かねえ!」になったんじゃないかな?笑 そういうのが好きなお姉さま方やお兄さま方、いらっしゃいますものね。うふふ。でも彼らに、これ以上は求めないかな。プラトニックでいて欲しいし、いつまでも漫才みたいな会話して欲しい。
ラテン語あってる? 翻訳機で調べて書いたから、ちょっとよく分からない。間違っていたら申し訳ないです。雰囲気で読んでくださいな。ラテン語とかイタリア語って難しいね……。
ちなみにAronneはイタリア語でモーセのお兄さん──ヘブライ人で最初の大司祭であるアロンさんのお名前。そのローマ字っぽい読み方をしたのがアロネさん、というどうでもいい設定を書き記しておきます