劇的B・A!注意!
・劇的B(ベスト)・A(アンサー)。
・若き数学者と詩聖のお話。
・空白の一ヶ月、その始まり(幻覚や妄想の類)。
・奏章Ⅳのネタばれを含みます。
・カプではなくコンビで書いています。
劇的B(ベスト)・A(アンサー)
~side M~
若きジェイムス・モリアーティはグラナートの自室で椅子に座ったまま、両腕を組んでいた。
苛立ちを隠しきれない爪先がアパートの床を何度も打ち付けている。
「めしょめしょなボロ雑巾のごとく捨てられていたサーヴァントを拾……保護し、グラナートに帰還してから数時間が経過した訳なのだが」
助けた男は一向に部屋から出てくる気配がない。それどころか時折、鼻を啜る情けない音が聞こえてくるような気がする。いや、隣の音が丸聞こえなほど壁は薄くない。しかしなんとなく、じめっと湿り気を帯びた空気が漏れてきている気がするのだ。とりあえず生きてはいるらしい。が、辛気臭いったらありゃしない。
モリアーティは行き倒れていた男と直接会話していない。だからいまだに彼の真名(なまえ)も定かではない。助けた時の霊基状態は五体満足。しかし心の方が完全にやられていた。憔悴しきっていたのである。虚ろな目。心ここにあらず。何かを問いかけるも上の空。茫洋として、とてもじゃないが会話などできる状態ではなかった。
「……ふむ。ならば推測するまでだ」
モリアーティは持ち前の観察眼と得意の推測でもって相手を見極める。
彼は──おそらくイタリア出身のサーヴァントである。何故ならば、肩に腕を回して引きずり歩いている最中に、ラテン語訛りで女性の名をぶつぶつ呟いていたからだ。
確か……そう、ベアトリーチェと。
そして天界、煉獄、地獄。三界が地続きになっている特異点。そこかしこに溢れる亡者。偉人、賢人、あるいは英霊。
提示される条件から導き出される解答──隣の部屋で引き籠っている男の真名(な)は、おそらく──ダンテ・アリギエーリ。イタリアはフィレンツェに生まれた文筆家。ルネッサンスの火付役。政治家でもあったが、裏切りにあい故郷を追われた男。そして──
「“神曲”の作者でもある、か」
モリアーティは特異点(せかい)を把握するため、召喚されてからというもの、あちこちを探索して回った。ジャンヌのガワを被った者がいる天の裁判所から、グラナートがある煉獄、果ては寒く重い地獄の穴まで。巡回天使が邪魔してくるので、一騎(ひとり)ではせいぜい四層あたりまで潜るのが精一杯だ。かなり無茶をするか、あるいは、もう一騎そこそこ戦えるサーヴァントがいるならば、最下層への踏破も可能ではあるだろう。現時点では危険を冒してまで地獄へ出向く必要性はない。だがしかし、特異点修正のために、いずれは訪れなければならないのだろう。何せ天下に名高き『神曲』だ。原作を軸とした特異点ならば、物語の主人公は『踏破』を迫られるはずだ。そしてもう一つ、不可欠な要素がある。
煮湯のごとく難解な証明問題であれ、ぬるま湯みたいな四則計算であれ、どんな問題にも必要十分な条件が揃っていなければ、正しい解答には辿り着けない。『導き手』が欠けている。賢人であり詩人──ウェルギリウスの役目を担う者が。
だからこそ、と、若き数学者は隣室と自室を隔てる白壁を睨みつける。
返事はない。性懲りも無く沈黙。あまりに腹が立ったので椅子を乱暴に引き、早歩きで壁に詰め寄り、力任せに蹴り上げた。
ガンッ!
「いつまでうじうじしているつもりだ。あまり湿度が高いと、今に頭やら肩にキノコが生えてくるぞ!」
途端、びくりと空気が震える気配がした。モリアーティの気分がわずかに上昇する。
あの天然メッシュパーマにキノコ。……少し面白いじゃないか。キノコ栽培における最適環境条件を考え始めた自分の頭に、いや違うそうじゃないと思わずツッコミを入れる数学者。いかん、重要なのはそっちじゃない。この妄想は暴走状態になりやすいため非常に危険だ。思考を元に戻そう。
特異点の成り立ちを見るに、どう考えても隣の部屋でベソベソしている文系サーヴァントが原因であることぐらい一目瞭然なのだ。どういった経緯で、どんな目的で特異点を形成したのか興味は尽きないが、まあこの際どうでもいい。失意塗れで地面に這いつくばっていた状況から察するに、おそらく「取って代わられた」と推測するのが妥当だろう。そして、あのメンタリティの弱さからか、はたまた元来の善性からなのか、激昂はあれども、やり返そうなどという復讐心は皆無であるようだ。
「全くもって理解不能だ。僕なら使える手札(もの)を総動員させて、完膚なきまでに叩きのめすか、もしくは同等の屈辱、あるいは絶望を与えるものだがネ」
イコールとは天秤であり、釣り合いが取れていなければ美しい解ではない。つまり、奴の行動理念という数式には、元より復讐が組み込まれていないということ。あの阿呆な男風に言えば、「死んでも絶対やりたくない」と言ったところか。
「……情、か。僕には死ぬまで理解できないものだろう。目的のためなら他者の、自らの感情さえも利用する僕には、決して──」
情を抱いているダンテ。呟いていた名前。──ああ、だからお前という男(てんさい)は。
ずっと迷っているのか。
「ま、だからといって現状維持などもってのほかだ! 運命の女神は気まぐれだからネ。あっという間に走り去り、ありもしない後ろ髪さえ見えなくなってしまう。未来(さき)にあるのは敗北だ。モリアーティ(ぼく)はまだ誰にも負けたくないし、負けられない。だから少々荒療治と行こうじゃないか」
目標達成に感情さえも組み込むモリアーティは、ツカツカと歩き、自室から出て、重苦しく閉ざされていた扉の前に立つ。
そして思いきり、その長い右片脚を、後ろに引いた。
ズダーン!
「たのもー!」
「……嘘でしょ。落ち込んでいるサーヴァントの部屋の扉、蹴り一つでブチ破る? 君、常識とか慎みとか他人への配慮とか、どこかに置き忘れてきちゃったタイプだったのか。サッカー選手でも目指していらっしゃる?」
「扉は後からいくらでも直せるから問題ない。サッカーは好きだが、僕はどちらかというとプレイよりチーム運営の方が性に合っている。君、阿呆みたいに些末なことを気にしていたら今に禿げあがるぞ」
「サーヴァントは禿げないよ。めっちゃフサフサだし」
見てみなよ、私の美しいインナーカラー入りの髪を。ダンテが床に体育座りをしながら、髪を摘んでモリアーティに見せつける。モリアーティは華麗に無視し、床に座る文豪の前に進み出て、堂々と宣言した。
「僕らで弁護士事務所を立ち上げるぞ、ダンテ!」
「……は?」
後に、若き天才数学者はこう語る。「あの時のダンテの驚きようは面白かったなあ! 良いことを思いついた。今度鳩と豆鉄砲、あとは腹を空かせた金魚を用意しておこう。君たち、並んで写真を撮りたまえ」と。ダンテが落ち込んだ様子で、静かに嫌味を返したのは言うまでもない。
驚き、呆気に取られているダンテなどお構いなしに、モリアーティは弁護士としての活動をつらつら語っていく。端々に細かすぎる仕事内容を挟むのは、理想が高すぎるが故の弊害だ。
「──とまあ、こんな感じだ。裁判が鍵を握る世界ならば必ず弁護士が必要となる。僕一人でも上手くやれるとは思うのだがネ? しかし君という要素があれば、より確実な勝利を掴めるはずだ。だから君には弁護士になってもらわなければならない。異論は認めないヨ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。話の展開が早すぎて着いていけない……。第一、私は……私、は……」
まだ何者かさえも告げていないのに、と困惑を隠せないダンテ。彼からすれば、モリアーティは知り得ない情報を言い当ててきた、とんでもない奴に見えるはずだ。警戒するのも仕方ない。まあ……理解不能な人間だと評価されるのは正直慣れている。いやはや天才で申し訳ないネ!
モリアーティは腕を組み、自信満々に胸を張る。畳みかけるように言葉を続けた。
「君が特異点を作ったんだろ? 僕を誰だと思っている。天才数学者ジェームズ・モリアーティさ(予定だけど)。皆まで言わずとも、散りばめられた証拠から大体の事情は把握できるのだよ。もっとも、こんな真似事は探偵の専売特許であり、本来の僕の仕事ではないはずなんだがね。僕に『ダンテ』と呼ばれ、君は否定しなかった。ならば僕の推測は概ね正しかったと言える。この特異点の惨状を見たまえよ。天界、煉獄、そして地獄。神曲の著者以外に誰が作り上げることができるのかね?」
「っ! ……」
伝えていないにも関わらず真名を看破し、あまつさえ特異点を形成したのはお前だろうと、知られたくない罪を暴かれてしまったのだ。彼──ダンテは、口をきゅっと引き結んだまま、俯いて動かなくなった。
「……」
「黙秘か。自衛の一つではあるが、半落ち状態とはかなり不快なものだ。ならば、『どう思われようと文句はありません』という意味で汲み取ろう。勝手に君の思考を言語化し、勝手に結論付けてやろう。僕は理系だが、あえて! 君のフィールドに飛び込んでやるとも」
ここで立ち止まられては困るのだ。君には動いてもらはなくてはならない。真に君が天才だというのならば、僕の煽りに喰いついてみせろ!
「君は、『彼女』と対峙するのが怖いだけだろう? また拒絶されたら立ち直れないと、孤独に絶望しているに違いない。そしてこうも思ったに違いない。『ああ、やっぱり会わない方が良かったんだ』とも」
ひとえに君の自己評価の低さ、自信のなさ故の産物かもしれないがね、とモリアーティは前置く。続けて、無慈悲にもこう言い放った。
「甘えるなよ」
床に座り込んでいたダンテの胸倉を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「いつまで暗い部屋の中でうじうじしているつもりだ? お前は、同じ過ちを、性懲りもなく、繰り返すつもりか?」
決める時は潔く、カッコよく決めたまえよ、とモリアーティはダンテの自尊心に油を注ぐ。突き放すように地面に下ろしてやると、ダンテは服の皺を伸ばしながら再び俯いた。
「だが私は……彼女に拒絶されて……」
「では何故君は生きている? 何故グラナートにいる? 本気で拒絶されたならば、君は既に退去していなければならないはずだ」
赤と黒──地獄を旅した天才が、はっと息をのむ。顔は伏せられたままだったが、彼の中で確かに火が灯るのを感じた。
やっと気がついたか。だからお前は阿呆なのだ。
「グラナート……赤い柘榴石……神意ではなく、真意は……」
ぼうっと視線が定まっていないダンテを、モリアーティは黙しつつ、具に観察する。
男の思考時間を奪うべきではない。ここで水を差すのは、彼自身の意志や決意をまるっきり無視する無粋な行為に他ならない。人形は必要ない。僕が欲しいのは、考えて動く葦だ。
「ありがとう、モリアーティ……だったか? 危うく道を間違えるところだった。危ない危ない。君のおかげだ」
ダンテが立ち上がる。
──初めて気が付いたのだが、この男、僕と身長も体型も、ほとんど同じである。もっと小さくて痩せ細っていると勝手に認識していた。
「分かればいいのだよ、分かれば。さて、僕らはこれからとんでもなく高い場所にいる天使様を法廷に引きずり出すんだ。飛べない鳥のように、みっともなく地べたを走り回るぞ! まずは事務所の内装からだな。シックで落ち着いた色合いにしよう。阿呆みたいに重厚そうな机だと最高だ。新しい本棚も調達して、と。何事も形から入るのは、案外馬鹿にできないものでネ。良質な視覚情報と整理された空間情報は気分高揚させ、思考をクリアにし、結果的にモチベーションアップに繋がる。ありがたいことに仕事はいくらでもあるんだ。裁判の知識獲得と、まだ見ぬ依頼人への宣伝もひつよ──いや、我ながら突っ走りすぎた。何はともあれ君の食事からだな。君、ひどい顔をしているぞ」
ダンテを指差しながらモリアーティは笑いながら揶揄う。ダンテはぼんやりと遊ばせていた頭を叱咤させながら、己の頬をぺちぺちと叩いた。
「一つ教えておくけど、サーヴァントに食事は不必要……」
「さっき言ったばかりだろ。気分が重要なのだよ、気分が!」
ダンテの背中を軽く押し、部屋を後にしながら、モリアーティは考える。
まずは第一段階をクリアした。凡人はここで安心する。……訂正しよう。普通に振る舞わなければならないという焦りや、上向いた気分の高揚感からか、「自分はもう大丈夫だ」と思い込む。まだまだダンテは本調子ではない。彼の根底にある、「見放されることへの恐怖」の色が薄れていない。この場合、自分を拾ってくれた僕に対して顔色を伺っている節がある。
(僕は聖職者でも心理学者でも編集者でもないのだが)
それでもまあ、と、若き天才は薄く笑む。
(あと一押しってところカナ)
根差した思考を変えることなど不可能に近い。しかし、それを持つが故に、彼が天才と呼ばれているのもまた事実。重々承知だ。中には破滅へとまっしぐらな人間もいるようだが、彼はギリギリで踏み止まっているらしい。何とも精神がしなやかで強靭。大変稀有な男である。
だがこれから仕事をしていく上で、その思考に足元を掬われては本末転倒だ。「見捨てられてしまうかもしれない」と常に他人軸で行動されてしまっては、安心して背中を預けられない。目的は「特異点を修正すること」であり、「僕の機嫌をとること」ではないのだ。仲違いの可能性も生じてくる。それを燃料として前進することもできなくはないが、それはあくまで瞬間的なブースト。コントロールの効かない暴走状態でしかない。結局は判断を誤り、暗い部屋に逆戻りする羽目になる。パフォーマンスが落ちるのは生産性に響いてくるから勘弁して欲しい。不安感をなくせとは言わないが、もう少し弱めなければならない。
加えて、天才と呼ばれる人間は得てして、自分なりに、完全に納得しなければ動けないものである。本人の意見を批判するならば、よりよい代替案を提示し、かつ行動で示さなければならない。かなり厄介な性質である。……何故分かるのかって? 他でもない僕がそうだからさ!
だからこの問題を解決するには時間をかけていくしかない。ただ言葉で説明するだけでは納得しない者を分からせるには、時間をかけて、必要に迫られればとんでもない行動力をもって証明する必要がある。
(まあ──何とかしてみるさ)
証明問題は得意分野だからネ! と、理系の天才は難問を前にしたときと同じ胸の昂ぶりに、人知れずほくそ笑むのであった。
ガーネットの石言葉「実り・真実・友愛・忠実・生命力・活力・秘めた情熱・束縛」
ルビーにも似た石言葉があり、どちらも転じて「愛の疑惑を消し去る」という意味があるらしいです。
~side D~
カチコチ、カチコチ。
チクタク、チクタク。
気付いた瞬間──意識が没頭の海から浮上したと同時に、時間経過の無情さを認識する。ダンテは部屋の壁掛け時計に目を遣った。
──午後七時。もうこんな時間か。
遅めの昼食(サンドイッチ)を無理やり胃に流し込み(隣人に、いいから食えと脅された。……怖い)、隣人から頼まれていた三界の簡略地図を描きつつ、隣人がせっせと集めていた、仕事に繋がりそうな案件を纏めること数時間。ペンを持つ指が疲労を訴え始めたので、休憩と称して眉間を揉み解したダンテは、時計の針にあった視線を真向いのソファへ動かした。(ちなみにソファは隣人の部屋から持ち込んだものだ。領域(テリトリー)形成能力が高すぎる。末恐ろしい)
「おや?」
そこに座って法律事務所の看板を楽し気に作っていた男が、忽然と姿を消していた。部屋を見回す。かっちりとした銀髪は、野生生物のように壁際をうろうろしている。
「……えー、っと、モリ、アーティ?」
「……」
呼び慣れていない名を、勇気を出して控えめに呼びかける。返事はなし。予想通りの反応に、ダンテは苦笑いで言葉に詰まってしまった。
無視している訳ではない……はずだ。こういう時の彼は、きっと、思考、あるいは試行している最中なのだ。数手先の未来。あるいは無数に散らばる道筋をシミュレートしている。例えるなら、そう──チェスだ。彼は、取り巻く現状と事象を盤面に、自らの思考を駒に、複数の事件を対戦相手に遊戯をしている。
だから多分おそらくきっと! 無視されているわけではない……はず! と、ダンテは悲しみに沈みそうな考えを強引に浮上させる。青年には存外に、愛想というものが欠如しているようだ。とても冷たい。
それにしても、若者の考えというものは理解できない。いや、若者だろうと何だろうと、私にとって他人の考えなど理解することは難しい。それでもまあ、私は年長者であるからにして、相手の行動で感情を推し量ることぐらいはできる……はずだ。私の真名を看破した相手。何か深い考えを持っているのだろう。だから、とりあえず見守ってみることにした。
モリアーティは壁の至る所を、コンコンと人差し指の第二関節で叩いていく。反応はなし。当たり前だ。壁の向こうは隣人の部屋であり、隣人である彼自身は、現在ダンテの部屋にいるのだから返事などある訳がない。
「厚さは数センチといったところか。音を遮断する機能は備えているが、強度はさほどない。構造的には……うむ、壁一枚が消失したところで支障はないだろう。……多分」
「?」
ぶつぶつとした呟きは聞こえるのに、彼の真意が汲み取れない。彼は、何をしようとしている?
「ダンテ、壁に近付くんじゃないぞ。危ないからな」
危ない? 理解に苦しむ言葉を置き土産に、彼は部屋から出て行った。
隣室の扉が開いて、閉まる音。
数秒の後──
ドゴーン!!
とんでもない音がした。
隔てていた白い壁に、三十センチ程の穴が、それはもう見事に開いていた。穴から英国風の書斎が見える。もしかしなくてもモリアーティの部屋だ。
「なっ……!」
開いた口が塞がらないという表現がある。まさか現実の我が身をもって、一日に二度も、体験するとは思わなかった。
「ふむ完璧だ。これで煩わしい移動時間を短縮できるぞ」
穴の向こうで武器を片手に、晴れ渡った表情で、清々しく笑うモリアーティがいる。何が「完璧だ」なんだろうか。馬鹿なのだろうか、この男。
「なんてことだ。こんなことをして……また管理人に叱られるぞ!」
今度こそ地獄の門が開きっぱなしになってしまうぞと、ダンテは持ち得る限りの表現で危険信号(アラート)を発する。
気づけ馬鹿者。何ということをしてくれとんねん。つい数時間前に扉を吹っ飛ばして怒られたばかりだろう。
あの『彼女』を内包したサーヴァントにそっくりな管理人が、沈黙したままマジギレする様子を思い浮かべ、ダンテの顔が青ざめる。超個人的な事情により、管理人からは怒られたくない。絶対に。
得意満面のモリアーティだったが、ダンテの言葉を受けて急に真顔になり、目を数回瞬かせる。それから何か考えるように上方を険しく見つめた後、自分がしでかした事の重大さが実感できたのか、失せた血の気を抑えるように手袋に覆われた手で目元を覆った。
「……あー、まあ、その、なんだ。その時はともに潔く頭を下げようじゃないか」
この小僧、何も考えていなかったのか!!
ダンテも思わず目元を覆う。いや、恐らく考えてはいた。しかしそれは、「壁を壊したことで得られるメリット。壁を壊すために必要な最も効率的で効果的な方法」だけで、「付随するデメリットや管理人からの叱責」は、全くもって勘定に含まれていなかったようだ。考えていたならば、わずかばかりの躊躇があるはずである。彼には躊躇いも迷いも見られなかった。
「フフ、フフフフ……」
口から笑い声が止まらない。必死に止めようとすればするほど、肩がひとりでに震えて仕方ない。救出されてから、たったの数時間という短い時間で、あまりの馬鹿さ加減に腹が立つほど笑えるなんて。生前を含めても、初めて? ではないだろうか。
壁一枚と叱られるデメリット。
ダンテの気分を浮上させるメリット。
二つを天秤にかける間もなく、
男はいとも容易く後者を選び取ったのだ。
やはり馬鹿だなぁ、とダンテは笑う。そんなことしなくても大人だから大丈夫だよ、とか。小僧なりに気を遣っていると君の方こそ将来禿げるぞ、とか。分野の違う天才(直感だが多分天才)にフォローされて嬉しさと悔しさで胸を掻きむしりたい衝動に駆られている、とか。もう色々な感情が混ざりに混ざって、心のキャンバスは黒一色だ。いや、白も入っているから灰色だろうか? 全ての色を混ぜると黒になりそうなものだが、実際には灰色になるらしい。
と、危ない危ない。思考が脱線しかけていた。目の前の男に集中しよう。
とりあえず、まあ詰まるところ、ジェームズ・モリアーティという男は……どうしようもなく馬鹿な理系小僧なのである。
「フ、フフフ……既に頭数に入れられてしまっている。私に拒否権はないのかい?」
私は、やれ、とも、やろう、とも、一言も言ってないんだけど。ダンテが穏やかに呆れを口にする。モリアーティがニヤリと片頬を持ち上げた。まるで「計画通り」という言葉が聞こえてきそうな悪い表情だ。
「素粒子ほどもあるはずないだろう。当たり前じゃないか。──ふむ。やっと調子が出てきたな? 想定より早過ぎるくらいではあるが……。まさかこんなことで持ち直すとはね。結果オーライならば上々。僕はそれを待っていたんだ」
ダンテを穴から覗き見ながら、ふふんと鼻を鳴らすモリアーティ。武器が再び振りかぶられる。気合いは充分に。穴を広げる意志を込めて。
「さあ地獄へ繰り出すぞ、イタリアはフィレンツェの詩聖よ! 迷える亡者(ひつじ)と特異点(せかい)の謎が、雁首揃えてお待ちかねだ。君にとっては二度目の地獄。勝手知ったる庭も同然。道案内くらいは余裕だろう?」
ガゴーン! と躊躇いなく鳴り響く破壊音。その衝撃たるや。しっとりと弱っている和装の天草四郎や、寡黙に全てを見守るアショカ王はもちろん、一階にいる白翼の気だるげな管理人にも届いていることだろう。怠惰な彼女が眠りから覚めて、この部屋にすっ飛んで来るまで、おおよそ一分弱といったところか。
「フフ……任せたまえ。我が師も目を見張る驚天動地な地獄巡りを約束しよう。やる気がありすぎて何をしでかすか分からない若者を監視……もとい、導くのもまた年長者としての役割だ」
「さらっと年齢マウント取らないでくれるカナ!? 腰痛持ちの誰かを思い出すんでね。あと監視ってなんだ。僕は猛獣じゃないぞ!」
口喧しく
ギャンギャンと
喚き散らす
モリアーティ。
ダンテは独特の笑いとともに腰を上げる。
これぐらいの煽りで感情を露わにするようでは、まだまだ青いなぁ、とか。勢いなら猛獣じゃなくて危険外来種並みだよ、とか。さっきの描写は存外にも音とリズムがよかったな、とか。
たった数秒の間に複数の思考が走ったが、とりあえず全部を頭の隅へ追いやっておくことにする。
モリアーティに相対するよう正面に立つ。
隔てているのは窓ガラスよりも確かに固い壁。
一騎よりも二騎の方が破壊作業も捗るに違いない。
ダンテは切先を潰した剣を片手に──とてもいい笑顔で──隣の理系に劣る訳にはいかないと──渾身の一撃を壁に叩き込んだ。