覆水盆に返らず「なあ、ヌヴィレットさん。本当にあんた入らなくて良いのかい？」
　リオセスリの声が湯船の波音と共に部屋に響く。
ここは稲妻の城下町に店棚を構える秋沙温泉。ヌヴィレットとリオセスリは稲妻来訪の折、旅人からの計らいで数ある温泉のうち、室内風呂を一つ貸し切りにしてもらった。
　部屋には広めの湯船が一つと、その脇には湯上がり後のちょっとした休憩場所が設けられている。現在夜の九時をちょっと過ぎたところ、リオセスリは湯船に胸元まで浸かり、湯舟の淵に腕を乗せながら、背後の壁際に座るヌヴィレットに声をかけた。
「俺ばかり心地よくなっていてなんだか申し訳ない気もするが、本当に入らなくて良いのかい？」
「うむ、先ほどの入浴でかなり温まったからな。それに少々湯には当てられやすい事も…分かったからな、今回は遠慮しておこう。」
「了解、あんたを待たせる訳にも行かないな。直ぐに上がろう。」
「いや、それには及ばない。うむ…湯に浸かる君を眺めながら飲む水もまた、いつもと違う味わいがするというものだ。」
そう言いながら用意されていた稲妻の名水を味わうヌヴィレットを見て、リオセスリは思わずくく……と喉を鳴らして笑う。冗談とも至極真面目な回答とも取れる発言に、それもまた愛しく感じられて思わず笑いが漏れてしまった。

「しかし、あんたとこうやってゆっくりと過ごせるのも、何だかんだと三ヶ月ぶりか…。」
んん…と軽く伸びをしながらリオセスリは独りごちる。
　日々の業務に追われて、気がつけば二人きりでこうして会うのも数ヶ月振りという、公人たるものの宿命か…と首を左右に伸ばしながらため息をつく。ひと月まえには密輸業者の捕縛、先だっては男女数人による痴情の縺れ、そして昨日までは期末の書類に追われていた始末。こうして旅人が声をかけてくれなければ、ここからまた危うく数か月は「オアズケ」となるところだった。

　ふう、と大きく後ろに伸びをしたままリオセスリは後頭部をごろんと淵に乗せる。喉元が露わになる体勢になり、ふと瞼を開けるとヌヴィレットとばちりと視線が絡まった。
「なんだい、ヌヴィレットさん。そんなに俺を見ていて楽しいかい？」ヌヴィレットさんも存外俗物的なところもあるじゃないか、と笑っていると、不意に視界が翳る。いつのまにか壁際から移動して来たヌヴィレットの顔が頭上に現れた。ぱらら、と耳にかけてあった長い髪が落ち、水面に広がる。リオセスリは髪が濡れてしまうことを伝えようとしたが、ヌヴィレットの瞳に捕らえられて声を発する事が出来なかった。そのまま唇が降ってくるかと息を詰めていたが、ヌヴィレットはふっと口元を弧に歪めると、顔を起こし水面に落ちた髪を耳にかけた。
「ふ……、どうやら君は私に嬉しい期待をしてくれている様だ。」
「なんだい、最高審判官さんがいつそんなズルい事を覚えて来たんだか……んっ。」
一度顔を上げ、リオセスリが視線を外した瞬間油断していた口を塞がれる。そのまま左手で顎を掬われ、くいっと上に少し持ち上げられると歯列をこじ開けて細い舌が忍び込む。
咥内をざりっと這いずった舌が、リオセスリの舌をぐるっと撫でるとそのまま引き抜かれる。去り際に唇を軽く噛むのも忘れずに。
短い時間だったが顎を抑えられ上向きになっていたリオセスリは肩を揺らしながら酸素を吸い込んだ。

「どうやらズルくはない様だが、なんとも大胆な事も覚えたもんだ。」
「なに、君がそうさせたまで。それに君の存外ほら、乗り気な様だ。」
ヌヴィレットは、つと視線を湯舟に走らせた。リオセスリも同じくヌヴィレットの視線を追いかけ、にやりと口角を上げくるりとヌヴィレットの方に体ごと向く。ヌヴィレットの手が頬に触れるか否かでスス…と首を振り避ける。

「続きは部屋に戻ってからにしよう、な？」