一条×ジョイクルーモブその日は最悪だった。
ジョイクルーの店舗裏、従業員の休憩場所でもある場所で、私は電話先の相手にブチ切れていた。
「あ、そう。もういい。あんたみたいな根性無しとこの先付き合っていく必要が無くなってよかった。」
大学生時代から遠距離恋愛していた彼氏が、好きな人ができたと言ってきた。結婚しようと誓い合った相手だった。
「さよなら。」
電話を切って、はぁーーと深いため息をついた。
悲しみと共に怒りが込み上げてくる。
私の夢見た将来ってなんだったの?好きな人ができた?こっちはフリーターしながらコツコツ結婚資金貯めてたのに?
「あははっ。」
乾いた笑いが出る。
「つい寂しくて、わかるだろ…。」というなよなよした彼氏の声を思い出し、マグマが噴火するように私は声を上げていた。
「バーカッ!!勤め先倒産しろ!!野垂れ死ね!!!」
そのとき、ふと背後に気配を感じて寒気が走った。
ガバッと振り向くと、そこには。
「一条、くん。」
ホールスタッフの、一条聖也くんがすごいものを見たという顔で立っていた。
彼のその端正な顔を見ているうちにサーーッと血の気が引いていくのがわかった。
「……聞いて、ました?。」私は声を絞り出すように聞く。
「…すみません。全部聞いてしまいました。」
カチコチの表情で一条くんは言う。
私は普段、調理スタッフとして真面目に、それは真面目に働き、自分で言うのもなんだが大人しく目立たない地味な女だ。
そんな女がえげつない暴言を空に向かって吐いていたら、どんな感情になるだろう。
一条くんとはバイト仲間と一緒に飲みに行ったことがあるくらいで、個人的な接点はない。
なんかすごい華のあるミステリアスなイケメンだなと思っていた。
よりにもよってこんなイケメンに自分のダミ声を聞かれてしまうなんて。
(男運が尽きたらしい。)
「…実は婚約者にフラれて…仕事中に別れ話切り出されるなんて思いませんでしたよ。はは。」
半ばヤケクソのような気持ちで、私は中年のおじさんのような口調で説明していた。
(どうしようどうしようどうしよう。)
パニックが押し寄せてきそうで、必死に自分を抑える。
消えたい。めっちゃ今死にたい。何でこうなる?私が何したっていうの?未来が突然消えてしまうなんて。
(泣きそう。)
目頭が急激に熱くなってきて、私は顔を伏せる。それでも涙がつうっと流れてしまった。
ぼろぼろと零れ落ちる涙。
恥ずかしい。一条くんは何を見せられているんだろう。そう思うと涙と共に床に溶けてしまいたかった。
取り敢えず泣き止まなきゃ。そう思った瞬間。
「…よかったら。」
紺色のハンカチが目の前に出てきた。
えっ、と思って見上げると、涼しげな表情の一条くんがいた。
「あと、この時間の休憩、他にはもう誰も来ないと思います。」
それは暗に、軽くは無い事情を抱えた泣き顔の私を安心させるための、不器用な一言だった。
「本当にすみません。ハンカチ洗濯して返します…。」
「ああ、いえ。」
私と一条くんは並んで座っていた。私が落ち着くまで、一条くんは無言だった。
落ち着いてくると先程の暴言に対する恥ずかしさが込み上げ、私も無言になってしまう。
(でも一条くん、なんて声掛けていいかわからないよね…こんな奴に…。)
思い返せば飲み会などでもあんまり話さなかった。私は会話を聞く専に徹していたし、公の場であんまり自分をさらけ出したくないタイプだ。一条くんもそうなのか、美沢くんにツッコミを入れつつ自分のことはあまり語らなかった。
(どんな人なのか全く分からない…。)
ハンカチからほんのりと柔軟剤の香りがして、ざわざわとした心が落ち着いていく。優しい人ではあるようだ、とハンカチを見つめながら考える。
「あの、ナマエさん。」
「はい!」
不意をつかれて私は背筋を伸ばした。
「タイミング悪く盗み聞きしてしまって、すみませんでした。」
淡々とした口調で一条くんは謝る。
「そんな…ここ休憩場所ですし。タイミングが悪いのは私の元彼です…。」
あと怒りに任せて叫んだ私。と心の中で呟く。
一条くんはそれを聞くと「それは確かに。」と淡々と言った。
「婚約者がいらっしゃったんですね。」
「…はい。仕事が軌道に乗ったら、結婚すると言ってました。」
はぁ、と私はため息をついた。
「寂しかった、という理由で浮気したっぽいです。それはお互い様なのに、笑っちゃいますよ。」
投げやりな私の言葉に、一条くんはクスリと笑った。
「…それは、言われてた通り“根性無し”ですね。」
(うっ…!!)
この人に全て聞かれていたことを再認識させられ、顔が赤くなる。
「…いやほんと、忘れてください。頭に血が上ってて…。」
「いや、今事情を聞いて更にスカッとしました。その後の勤め先倒産しろというのも、野垂れ死ねというのも。」
「うわーっちょっと待って。」
「思いっきり叫んでて俺は良かったと思いますが。」
慌てる私に対して、一条くんの語尾には次第に楽しさが混ざっていた。でもその楽しさ、は自分が優位に立ったときのいたずらっ子の愉悦、みたいで。
長い睫毛に縁取られた三白眼が、チェシャ猫のように細められた。
「…勘弁してください。」
両手を上げ、白旗を振る捕虜のような気持ちで私はそう言った。しかし一条くんは尚も続ける。
「どうしてですか?俺も多分同じことを言いますよ。浮気なんてされたら。」
「え……野垂れ死ねって?」
「…もっと酷いことを言うかも。」
そう言うと、釣り眉をスっと上げて意地悪そうな笑みを浮かべた。
(…なんかこの人、怖い。)
直感的にそう思った。近くで見ると肌も綺麗だし、美人なのが際立ってわかるが、浮かべる表情が少し普通の人と違う。
「一条くんは…モテそうだけど、彼女いるんですか?」
おずおずと聞いてみる。
「いないですね。男と同居してるし、去年はクリスマスパーティーをジョイクルーの男メンバーとやりました。」
冷めた表情を浮かべながら一条くんは答えた。
高身長、細身、綺麗な顔立ち。髪が長いので一見背の高い女の人かと見違うことも。
(相当モテると思うんだけど。)
女性バイト仲間も一条くんのことをかっこいいと色めき立っていた。だが告白した人はいないと聞く。
「ナマエさん、飲み会でもあんまり自分のこと話さないし、どんな人なのか全然わかりませんでした。」
「あ、はいまぁ…。」
(それは一条くんも同じだと思うけど。)と私は内心付け加える。
「まさかこんなに元気な人だとは思いませんでした。」
「それは…どういう意味でしょう…。」
「どういう意味って、そのままですよ。」
一条くんの目がキュッと弓形になる。…不思議。笑ってるのに全然笑ってないように見える。
「そろそろ休憩終わりますね。」
「あ、そうですね。」
時計を見て驚く。もうこんな時間か。
「頑張りましょう。全員野垂れ死ねって勢いで。」と一条くんが言う。
「…からかってますよね?」
「いえいえ。」
するりと私の言葉をかいくぐりながら彼は立ち上がった。立ち上がると私より頭一つか二つ分くらい大きい。
「俺は結構、本気で思うこともありますし。」
涼しい顔でぼそりと、ちょっと恐ろしいことを一条くんは呟く。
その横顔を見上げながら、こんな完璧そうな人でも人間らしいことを思うんだとぼんやり思った。
「行きましょうか。」
そう言って私に背を向け、歩き出す。
私は、狐に摘まれたような気分になった。泣きじゃくって怒り狂ってたのに、頭は冷水を浴びせられたように冷静になり、元彼のことなんて今はどうでもいいとさえ思った。
それよりも今は、目の前にいる人のことが気になる。
(一条くんて、なんか…。)
…いや、上手く言えない。
私は一条くんの後を着いていきながら、そのもやもやとした実体のない感覚に、心を奪われていた。
「お疲れ様です。お先に失礼します。」
「あーっ、ナマエちゃんちょっと待って!」
退勤しようとした私を、先輩が引き止めた。
「今日この後って空いてたりする?久しぶりにまた飲みに行こうって話になってて。」
(飲み、か。)
このまま一人で家に帰るのは嫌だなと思っていた矢先、有難い話だった。
「行きます。」
「お、よし!じゃあホールスタッフ組来るまで外で待ってようか。」
私は先輩、他数名と外に出て他愛のない話をしながら待った。
(…そう言えば一条くん来るのかな。)
なんか気まずいな、と思った。あんまり関係値も無いのに婚約者にフラれたという重い事情を知られている、という状態な上、誰にも見られたことの無いような姿を見られてしまったのがとても気まずい。
「お、来た来た。」
先輩の声に顔を上げると、ホールスタッフのメンバーが店の裏口から出てきた。
その中には、一条くんもいた。
(うっ…。)
いるーーー。
私は間違っても目が合わないようにそっぽを向いた。
「乾杯!お疲れ様〜。」
皆それぞれの飲み物を口に運ぶ。ぷはーっという声が口々に上がった。
私はビールをちびちびと飲みつつ、腹痛のときのような顔をして視線は下に向いていた。
何故なら。
(何で一条くんが目の前の席に。)
真向かいだ。ばっちり目も合う。でも今更席を変えてくれなんて言えない。
「お腹空いた〜。」と、私の隣に座る先輩が唐揚げに箸を伸ばす。
(食欲無いっ…。)私はサラダをもさもさ食べながら必死に机をガン見する。
「ナマエちゃん、春巻きいる?好きでしょ。」と先輩が声かけてくれる。
わぁ、いつもなら大好物。食べたい。でも喉になにか詰まったような感じがして、今日はキツい…!!
(…でも断ったらいつも食べるのにって心配させてしまうかな。)
「ありがとうございます!」
私は笑顔で春巻きを取り皿に受け取った。
一口だけかじり、箸を置く。
(…ビールで流し込め。)
ジョッキを片手に持ち、グビグビと一気に半分くらい飲んだ。
「くすっ。」
真向かいで笑い声が聞こえた。
「そんなに一気に飲んだら、悪酔いしますよ。」
騒がしい場所でもよく通る、響きのあるテノール。
視線をようやく前に移すと、やはりチェシャ猫のように微笑む、精悍な顔があった。
「お酒強いんですか?」
完全に動きも時間感覚も止まった私に、淡々と話しかけて来る。
しかもどこか、私には分からない何かを面白がってるような顔つき。
「…い、や。強くないですけど。」
やっとのことで返答した私に、「へえ。」と何やら興味深げに言う。
「あんまり飲み過ぎない方がいいですよ、ナマエさん。特に今夜は。」
(げっ。)
私の事情をコロコロと掌で転がすようにアドバイス、というか遊んでいる。そんな印象。
「今夜はって?」
横で話を聞いていた先輩が入ってくる。
「何かあるの?」
「……さあ。」
一条くんはそうすっとぼけてみせた。私に流し目をしながら。
(えっ…この野郎。)
話せというのか。薄々気づいていたけれど、この人あんまり性格が良くない。
私は玩具にされている。知らず知らずのうちに材料を与えて。
(言うしかないじゃん。)
他に何を言うかも思いつかない。切り抜けられる方法もない。ええい。
「えと…、実は今日彼氏にフラれて。」
「えっ!?嘘っ!!」
先輩の大声に、他の人達の注目も集まった。
(ぎゃ。)
私は追い詰められたネズミのように周りを見回した。人間は好奇心の塊だ。特にゴシップ、恋愛ものなんかについては。
「何で一条くんは知ってる風なの?」
先輩が一条くんに水を向ける。
「休憩に行ったら、ナマエさんが電話しながらめちゃくちゃキレてて。で、泣いてたので話を聞きました。」
(おいおいおいおいおい。)
「キレるって、ナマエちゃんが?どんな風に。」
「バーーカッッ、勤務先倒産しろ、野垂れ死ねって。」
その瞬間、ヒュッと沈黙が訪れたかと思うと、ドッと笑いが起きた。
「めちゃくちゃ言うじゃん!」
「結構口悪いんだ。」
「想像つかない。」
賑やかに笑いが起こる中で、私は思考停止して、呆然とした。
「というか、彼氏がいるのも知らなかったよ。いつから付き合ってたの?」
「…大学1年の時から、5年くらい…です。」
「うわっ、結構長い。」
「フラれた原因って、なに?」
「浮気されました。」
私はもう機械のように聞かれたことに答え始めた。
「そりゃそれだけ言うはずだよー。」
「今日は飲もうよ。そんな奴のことなんて忘れて!」
乾杯ッッ!と改めて周りの人達からジョッキを差し出され、私はギギギと音がするような動作で応えた。
(何がどうなってるの…。)
今までこんな風に、自分の悩みをさらけ出して慰めてもらうなんてしたこともなかった。
恥ずかしいというか、注目を浴びるのが嫌というか。
「春巻きいっぱい食べて!」
先輩が大盛りの春巻きを差し出してくれる。
(…優しい。)
私は「ありがとうございます…」と言いながら有難く受け取った。
ふと横目で一条くんを見ると、何事も無かったかのように唐揚げを食べていた。
何だ、この人。
場をかき乱した発端のくせに事が終わったらマイペースに唐揚げを…。
私は休憩のときから感じていたもやもやが形になるのを感じた。
一条くんは、人を弄ぶのが好きで、自分本位で、多分、いや絶対、意地悪な男だ。