元気になるおまじない ――瞼が重い。
周瑜は執務室でひとり溜息をついた。
ろうそくの灯火を頼りに、机の上に積み重なった竹簡の山を見て嫌気が差していた。
片付けねばならない仕事がまだ残っているのに、睡魔に襲われて体が言うことを聞かない。
窓を見れば月光が差し込んで、青黒い床を白く照らしている。
今すぐ自室の寝台に倒れ込みたいが、そうはいかない。
当主の孫堅が襄陽で亡くなり、その息子兼・周瑜の親友である孫策が跡継ぎになった。
忙しくなるのは予想できていたが、当主が変わって諸々の手配やら周知やらで連日連夜目まぐるしく日々が過ぎる。
最後にちゃんと寝床で寝られたのはいつだろう――そんなことを考えながら、指で目頭をぐりぐりと押した。
それに……気になっている人物――無名に会えていないと思った。
*
孫堅が彼を見込んで孫呉に呼び寄せてきた。
武芸の腕前は言わずもがなだが、周瑜の瞳には戦場を舞う美しい鳥に映った。
何者にも囚われずに自由に舞う美しい鳥。
それからだろうか、無名を目で追うようになった。
普段城内で過ごす時は掴みどころがなく猫っぽいのに、戦では美しくも鬼神の如く敵に猛威を振るう姿にただただ圧倒された。
気にならない理由がどこにあろうか。
いつのことだろう。
表情には出さないが心がささくれ立っている時があった。
あれは軍議の最中だったか。
自分が意見を出すと、「口先ばかりの若輩が」と孫家に長く仕える老将に毒を吐かれた。言葉の節々から悪意が滲む。
昔からこんなこと言われ慣れている。別に構わない。
軍師と言えど、年若い自分に指示されるのを面白くないと感じる人間がいることも分かっている。
いつもなら気に留めずあしらっているが、その老将はあからさまに周瑜の揚げ足取りばかりして、しわだらけの顔を歪ませていた。
それを見て、ぽたりと黒い淀みが体の奥底に滴った。
――ああ、うんざりする。
そう思いながらも柔和に笑い、角が立たない言葉で老将に返事をしたが、微笑の裏で己の心に毒がふつふつと生み出されているのが分かった。
軍議が終わると周瑜は気分転換に庭を散策することにした。
しかし、歩けど歩けど気分は晴れやかにならない。
あの老将の歪んだ表情が頭に張りついて苦しくなる。
次の軍議でまた顔を合わせることを考えたら柄にもなくむしゃくしゃし、道端に生えた雑草を、じり、と踏みにじった。
そんな時。
「……周瑜、どうした?」
同じく散策中だった無名に声をかけられた。
その声に自然と体が反応し、振り向いた。
おそらくだが、無名以外の者であれば適当な理由をつけて立ち去っていたと思う。たとえ孫策であっても。
だけど、声の主をこの目に映すと、胸の奥がふわりと和らぐ感覚があった。
ただの偶然かもしれない。
それでもいい。嫌な気分を取り払えるなら、と。
「……軍議が上手く行かず煮詰まってしまったんだ。ああそうだ。ところで――」
自身の胸の内は明かさないまま、他愛のない話題を振った。
自分と話す彼の表情、声、仕草。
今、自身の内側は刺々しい状態であるのに、苛立つことも、つまらなさを感じることもなかった。
むしろ話に夢中になっている自分がいたのだ。
見つめると吸い寄せられそうな紫の瞳が、柔らかく笑いかけてくれる。
――もっとこの時間が欲しいと思った。
話が終える頃には、淀みで曇りを帯びた心は霧消し、根付きかけた毒は跡形もなく溶かされていた。
以降、そんな場面がいくつもあった。
ちょうど良く無名と出くわすのか、それとも無意識に探しているのか――どちらかは分からない。
言えるのは出会うたび心をなだめてもらい、助けてもらっていることだ。
助けるだなんて、君にそんなつもりはないだろうけど――話しかければ嫌な顔せず付き合ってくれる優しさに、どこか甘えてしまっている。
それと同時に、この優しさは自分だけであってほしいと淡い期待を抱くようになった。
無名は後ろ盾を持たない流浪の武芸者だ。
だからといって自分に媚びを売るとか、すり寄って地位を得ようだなんて下心は一切見られない。
……いや、純粋な気持ちで自分を見てほしい。身勝手なわがままを押し付けているだけだ。
それでも――君の特別でいたいと、いつしか小さく願うようになった。
無名と過ごし、重ねる時間がいつの間にか、周瑜の中で代えがたいもの――胸を密かに温める、大切な存在になっていた。
「無名……」
つい独り言がこぼれた。
疲れている時こそ会って癒されたい――しかし、そんな都合の良いことあるわけない。
そう思い、気乗りしない手で竹簡にのばすと、
「呼んだか?」
……え?
本来ここにいるはずの無い、聞き馴染みのある声が横から聞こえた。
突然の出来ごとに思わず心臓が跳ねて、声を一瞬失った。
声のほうへ顔を向ける。
「っ……驚いた。なぜ、君が?」
やはり。
そこには、ろうそくの灯火に照らされた無名の姿があった。
「邪魔してすまない。根を詰めてる頃だから様子を見てこいと、孫策が」
それは淡々とした言葉に聞こえた。
孫策の指示。自分の意思で尋ねてくれたわけじゃないのかと少し寂しい気持ちになる。
でも心は正直なもので、無名がこうやって会いに来てくれて嬉しかった。
「それにしても凄い量だな……俺にも何かやれることはないか?」
「いや、特にないな。この山積みの竹簡は私宛てがほとんどだ。一通り目を通さないと。でも、君の気持ちは受け取らせてくれ」
気遣ってくれる優しさに返事をして、隣に佇む彼に視線を送る。
単純なもので、会えた嬉しさからだろうか、疲弊した心は遠くに行ってしまった。
「せっかく来てくれたんだ。休憩するとしよう。無名、私の隣に座ってくれ」
「ああ、では」
脇にある椅子を指さして教えると、周瑜の隣に持ってきて無名はちょこんと座り、机に頬杖をついて竹簡の山を眺めている。
「一人で……こんなにも?」
「これでも結構片付けた方だ。もっと多い時もある」
「……そうなのか」
と、やや引きつった表情で言う無名に、周瑜は目を細めて笑った。
凌統との鍛錬や、魯粛から食事に誘われたこと、韓当の財布が危うくなるまで食べたなど――無名にまつわる話題は飽きなかった。
予想以上に将から誘いを受けている事実に思わず妬いてしまったが。
内容をいろいろ交えつつ、自分の幼い時のことを周瑜は口にした。
普段はこんなことは言わないが、なぜか話したい気分になった。
振り返れば子供らしい子供とは言えない幼少期だったと思う。
孫家と縁深い出自ゆえ、生まれた時から当主の右腕として責任を背負ってきたこと。
同年代の友人と遊ぶより、勉学と教養を身につける教育を受けてきたこと。
年相応は許されず、それ以上の能力を常に求められてきたこと。
窮屈に感じる瞬間はあれど、未来の孫呉を支えるため、ひとり己を励ましてきたこと。
子供ながらにそんな自分を誇らしく思っていたこと。
――だけど。
子供の頑張りを認める声より、「可愛げがない」と何も知らない大人たちの陰口に拳を握りしめたこと――初めて誰かに打ち明けた。
こんなことを話すなんて。ただ受け止めてもらいたかったのかもしれない。
不意に無名の方へ顔を向けると、少しだけ目を丸くして驚いた表情をしていた。
「……」
言葉はなかった。
反応に戸惑うことを言ってしまったと周瑜は思った。
「……いきなり昔話を聞かせてびっくりさせてしまったな。かわいそうとか、そんな風に思われたくて言ったわけじゃない。君に――君だから聞いてほしかったんだ。それだけだ」
いらないことを口走ったと後悔した。
聞いてほしかっただけとは言え、さすがに重過ぎた。
無名なら――と勝手に期待してしまった。
気持ちを悟られたくなくて視線を目の前の竹簡へ戻す。
この楽しい時間も終わりか、と気持ちが沈みかけた瞬間――頭に柔らかい感覚がふわりと伝わってきた。
……何だ?
反射的に無名の方へ再び見ると、頭を撫でられていた。
思いもよらぬことをされ、周瑜は固まる。
ろうそくの光が、涼やかな無名の顔を柔らかく染め、ほころんだ口元でこちらを見つめる。
何を言うわけでもなく、優しく、ただ撫でるだけ。
なぜか少しくすぐった気分だ。
無名の手のひらから伝わる温もりに、胸の奥底から徐々に込み上げるものがあった。
嬉しいのか、寂しかったのか。この気持ちはどんな名前なのだろう。
――ふと。
胸の中にいた幼い自分が物陰から顔を出して、はにかんだ表情を浮かべた気がした。
もしかしたら――誰かにこうやって頭を撫でてほしかったのかもしれない。
「頑張ったな」と幼子の成長を受け止めるような。
昔も――おそらく今も。
あの時に欲しかった、包まれるような感覚に少しだけ目が熱くなる。
でも、それを知られたくなくて目を閉じた。
震えかけた喉をぐっ、とこらえて息を呑み込んだ。
この瞬間が暗い夜でよかった。
自分の情けないところを見せるのはまだ恥ずかしいから。
ゆっくり流れる無名との時間を、周瑜は静かに過ごした。
*
隣にはまだ無名がいる。
もう飽きているかもしれないと思いつつ、側にいてほしいとお願いしたら、「分かった」と返事をされ、そのままいる。
お互い特に喋ることはなく、周瑜は淡々と仕事を片付け、無名は頬杖をついて眺めている。
瞼の重さはあるが不思議なもので、一人でやるより集中して取り組むことができた。
あと少し。
「……終わった」
竹簡の山を何とかさばき切って、周瑜は達成感で満ちあふれた。
「お疲れさま」
「ああ、有難う。君のおかげだ」
腕をのばすと、強張った体の緊張が解けた。疲労が全身を巡り、一気に重さを感じた。
椅子の背もたれに体重をかけ、酷使した目を伏せると「もう寝てくれ」と言わんばかりに体は睡魔を呼び寄せた。
「周瑜、大丈夫か?」
「……思ったより疲れが溜まってたみたいだ。後片付けが終わり次第、自室に戻ろうと思う」
そう言って立ち上がると、周囲の景色がぐにゃりと曲がった。
突然の目眩に襲われたのか、足元がぐらりと崩れそうになる。
まずい、倒れる――
このあと来るだろう体の痛みを覚悟していたが、何かに支えられたのか、来なかった。
「……危なかった」
間一髪、無名が抱きとめる形で支えてくれた。
自分が思う以上に、どうやら疲れがきているらしい。
「すまないな……」
「部屋に戻る前に倒れそうだ。途中まで一緒に行く」
「……そうしてもらえると助かる」
無名の言うとおり、このままだと廊下に倒れて寝ていそうだ。
支えてくれる体に安心を覚えつつ、そっと離れようとした途端、無名の足に引っかかり互いの体が揺れる。
「あっ」
「うわっ」
そのまま二人して床に倒れ込んだ。
無名がとっさに機転をきかせた動きをして怪我はなかったが、いかんせん体勢がよくない。
床に寝そべる無名に覆い被さってしまっている。
「無名、大丈夫か……? どこか打ったりはしてないか?」
「ああ。受け身を取れたから問題ない。それより、周瑜は?」
「私も問題ない」
どかないと――そう思っているのに目眩がして動けない。どうしてこんな時に。
ぐらつく景色を遠ざけるように手で顔を覆った。
「っ……どくから、待っててくれ」
「ゆっくりでいいから気にするな。それに……つらかったら、しばらくこのままでもいい。俺は構わないから」
……このままでもいい?
覆う手を外して無名を見下ろすと、床を照らす月明かりの直線が、彼の頬を少し染めていることを知らせた。
それを見て、胸が微かに疼く。
「君は……優しいな」
自然と手がのびて、無名の頬にそっと触れる。
ずっと触っていたいと思うような、滑らかな肌。
「ん……」
触れた途端、ぴくりと彼の肩が跳ね、初めて聞いた甘さを含んだ声が小さく響く。
その声に思わず唾をごく、と飲んだ。
指先を静かにのばす。
「あっ……」
すりすりと耳の裏をなぞるように撫でると、目を閉じて無名は吐息を漏らした。
可愛らしい、と思った。
そして艶めいた仕草に胸の疼きが深くなって熱くなる。
先ほどより頬を赤くし、この行為に戸惑いながらも拒まずに受け入れている。
無名を覗き見れば、どこか期待しているような――そんな瞳だった。
彼の頬に触れている親指を、そっと唇に添えると、ぺろ、と無名が舌を当ててきた。
生温い舌が親指の先をはむように舐めてくる。
そのまま親指を口の中に入れると、唾液を含んだ舌とぶつかった。ぬるりとした感触と湿った吐息がかかる。
――来て、と誘われた気分がした。
「無名……」
少しだけ、先に進んでもいいだろうか。
周瑜は覆い被さったまま、無名の顔へと近づける。
唇と唇があと少しで触れ合う距離――柔らかな感覚を想像した、その時。
「周瑜! そろそろ終わった頃かー? 入るぞ!」
二人の時を引き裂くように、執務室の扉が勢いよく開く――孫策だ。
小声で「えっ」と無名が驚いた声を出した。
「無名に様子を見に行って来いって言ったけどよー中々戻らないから……って……あ」
もう少しで口づけをする寸前の二人を見た孫策は、明るい顔から苦い表情に一気に変わった。
――あとちょっとだったのに。
じろりと孫策を睨みつけると、下を向いてひどく申し訳なさそうな表情で返された。
「……あー、その、あとで溜まってる竹簡を持って来いって程普が……すまねぇ、邪魔した! 悪い!」
そう言うと、扉を強く締めて孫策はそそくさと出て行った。
せっかくの雰囲気が台無しだ。
はぁ、と周瑜はため息をつくと、くい、と袖を掴まれた。無名と目が合う。
「周瑜、仕事も終わったし部屋に戻って寝よう。それに……さっきの続きも……」
恥ずかしいのか、目を逸らしながら無名は言った。
まだ赤いままの顔を見て、散り散りになった気持ちが少しずつ戻ってきた。
「……そうだな」
――まだ夜は続くのだから。
闇で塗られた城内を月光を頼りに密かに歩く。
互いの指先をほんの僅かに絡めながら、部屋へ向かうとした。