今、この瞬間たけは 城内ですれ違う者たちは平然と過ごしている――表面上、ではあるが。
ひりひりと張り詰めた空気は重く、肩にかかって息が詰まる。
眩しい日が城を照らしても淀みが消えることはない。
皆、気持ちの整理に時間が必要だった。
宛城で張繍から曹操を救出して数日経った。
命からがら帰還できたものの、少しでも遅れていたら今この世に曹操はいなかった。
血を分けた息子、親類、忠臣の典韋が犠牲になり命を落とした――いや、捧げたのだ。
彼が思い描く天下のために。
曹操ひとり生かした代償は大きかった。
悲しみに暮れる者もいれば、復讐に心を燃やす者もいた。それは当然だと思う。
でも自分にはそこまで込み上げるものがなかった。
悲しくないと言えば嘘になるが死んだという実感が湧かないのだ。
曹操が亡き者に涙を流し仇討ちを決起するならば、彼らのように心が動いたかもしれない。
しかし、あの男はそのようなことはしない。
歩みを止めずただひたすら突き進む。怒りや悲しみに囚われずに。
それが散った命の報いだから。
*
「紫鸞」
背後から呼び止められた。俺をこの名で呼ぶのは一人しかいない。
――曹操。
「此度は先陣を切って活路を見出だしたと聞いた。よくやった」
「いえ」
眼前の男に向けて小さく頭を下げた。
見定めた英雄を失うわけにはいかない。当然のことをやったまでだ。
この男は群雄割拠の乱世を収める力がある。
上に立つ者の覚悟と矜持も。
そして掲げる理に惹き寄せられる者の多さがその人望を語っている。
太平の要として、天下を統べるにふさわしいのは曹操――ひとつ懸念を除けば。
「捕らえた張繍とその配下の賈詡、私のもとで才を発揮してもらう……しばらく城のざわめきは続くだろう」
「……」
言葉が上手く出なかった。
大切な家族と忠臣を葬った奴らをも己の天下のために取り込もうというのか。
表情ひとつ変えないで父親の死に嘆きもせず、その死を進軍の理由にし、徐州へ侵攻したことを思い出す。
私情を挟まない姿勢は統治者に必要だ。
何かあるたびに心が揺さぶられては足元をすくわれるか、悪意のある配下が傀儡にする。
その点を考えれば統べる者の素質は充分だ。
だが、充分過ぎるそれは時に冷淡に映り、この男に血は通っているのかと不安になる。
「まだ混乱は収まっていない。お前を必要とする場面はすぐやって来るだろう。だが紫鸞よ、お前は囚われずに自由に戦場を駆け巡れ」
こくり、と小さく頷いて曹操の顔を覗いた。
あの日、宛城の宴へ行く前と変わりのない、いつもの顔。
何事もなかったと思わせる顔つきと仕草。
ただ……曹操の纏う雰囲気と言えばいいのか、上手く言い表せないが違和感が垣間見えた。
淡々とした声色のなかに微かなひびが生じているような。
ほんの僅かに感じただけだから思い違いかもしれない――だけど何故か見過ごせず、つぐんでいた口を開いた。
「俺が言える立場ではないが……少しでもいい、休める時があれば休んでほしい。忙しいのは分かっているけど……」
尻すぼみに言い終えた途端、どうしてこんなこと言ってしまったのかと急に恥ずかしくなり、目を逸らす。
曹操から見れば一介の兵である自分が体調を気遣うなんておかしく思っただろう。
逸らした視線を徐々に戻すと、そこには目を丸くして固まる曹操が映った。
やはり変なことを口走ったと後悔する。
いたたまれなさに耐えきれず、徐々に顔が熱くなる。きっと顔も赤くなっているのだろう。
恥ずかしくて再び目を逸らした。
「……すまない。余計なことを言った。忘れてくれ」
曹操から……いや、己の羞恥心から逃れたい一心で足早にその場を去った。
*
あの会話の後、胸に残る羞恥心を振り払いたくて鍛錬場に向かった。
剣を振れば気持ちの切り替えができるだろう、そんな理由で。
打込台に切っ先を向け、腕を振り下ろす。
己の心を表すような乱れた剣さばきだったが、構わず剣を振るい続ける。
刃が迷いなく打込台を貫く頃には感情は霧散していた。
夜の帳が下りる頃。
鍛錬場を後にし、自室で剣の手入れを始める。
いつ戦場に呼び出されるか分からないから、使用する武器の状態を整えておく。
剣の他に槍、矛など複数の武器を使うため手入れの時間はどうしても長くなる。
銀色の剣身を見つめ、青紫の柄に視線をずらす。
柄の色を見て曹操の顔が無意識に頭に浮かんでしまった。
しかも、よりによって目を丸くした表情。
鍛錬で振り払った羞恥心が再び戻ってきて手で顔を覆った。
思い出したくなかったのに。
ひとり心の中で小さく悶えながら、武器の手入れをいつもより念入りに行った。
手入れがすべて終え、そろそろ眠るかと寝台に潜ろうとした時――コンコンと扉を叩く音が室内に響いた。
誰だろうか。
夜に自分のもとへ尋ねる人間……あぁ、一人思いついた。
荀攸かもしれない。
先日のことだ。
酔いつぶれて俺の部屋に入り、寝台を奪ってそのまま眠ってしまった。
「来てしまいました」ではない。やめてくれ。
はぁ、と小さな溜息をついて扉を開ける。
「荀攸、いい加減に……」
訪問者は荀攸と思い込んでいた俺は扉を開けた瞬間、言葉を詰まらせた。
「っ……」
「邪魔するぞ、紫鸞」
そこには平服姿の曹操が部屋の前でひとり立っているではないか。
この男が俺の部屋に尋ねるなんて。
しかも夜、こんな時間に何の用があるのだろうか。
初めての訪問で戸惑う俺をよそに、曹操はそのまま俺の部屋に入り、すっと椅子へ座った。
「何故立ったままでいる? 隣に来い」
鋭い眼差しが俺を捉えた。
拒否する権利も断る理由もないので大人しく隣に座ると、曹操はゆっくりと口を開いた。
「……紫鸞よ、私は疲弊して見えるか」
「え?」
何を言われるかと思えば、「疲れているように見えるか」と問われた。
どんな意図で聞いているのだろう。
「昼にお前は言っただろう。休める時は休めと」
「あぁ、言ったが」
「顔に出ていたのか」
「いや」
「……では、何故言った?」
「それは……」
一瞬迷った。
あくまで自分が感じたことだ。
やはり一介の兵の俺に言われて気になったのか。
まぁ、伝えたところで曹操は気に留めないだろう。そう思い言葉を紡ぐ。
「綻びるような……声の感じが少し違って聞こえた。例えが難しいが」
「……そうか」
曹操は静かに返事をし、言葉を続けた。
「これまで歩んだ道に後悔はない。何を言われようが、心に決めた信念を貫いてきた。振り返ることはしない。散らした命のためにも……私は立ち止まってはならぬ」
何かを思い出すようにぽつりと曹操は語った。
どう言われようとも未来しか見ない。
その口ぶりはまるで自分自身に言い聞かせているようだった。
「だが、紫鸞よ……今だけは……」
ぐっ、と肩に重みを感じた。
重みの方へ視線を向けると曹操が俺に寄りかかっているのに気づく。
予想外の出来事に動揺を隠せず固まってしまう。
「……?」
「少々休める時が出来たのでな」
はて、どうしたものか。
理由を聞いても意味がよく分からない。
休むのはいいが、俺に寄りかかるより寝台の方がいいだろうに。
「ここじゃなくて自分の部屋で……」
「私に休めと言ったのは紫鸞、お前だ。だから遠慮なく休ませてもらう」
お前の隣でな、と心ゆるぶ声で曹操は言葉を紡いだ。
どうやらしばらく動く気はないらしい。
以降、お互い喋りはせず、部屋はひっそりと静まり返る。
気まずさはない。心地良い沈黙だと思う。
――冷ややかに映る英雄も、ちゃんと人の子だったんだなと思いながら。