二 与えられた名前について環生にとって、名前はセーブデータの別に過ぎない。今の人生のセーブデータが「環生」であるだけで、環生が自分だと認識する名前は存在しない。魂に与えられた名前が多すぎて、どれを呼ばれても反応するし、どれを呼ばれても反応しない。小学校に収容されるまでの六年間ほど、親やきょうだい(今回は存在しない)にたくさん呼んでもらうことで、ようやく今の名前に馴染むのだ。だから、
「お前、なんていうんだ」
まだ四年半ほどしか生きていない環生は返事をするのを忘れた。目の前の子どもは少しだけ高い位置から環生を見下ろしている。環生の足元にはボールがあって、子どもが奪おうと仕掛けてくる度に逸らして遊んでいた。元は目の前の子どもが持ってきていたボールである。小豆色の髪をした子どもはちらちらとボールと環生の顔に視線をやり、ボールを奪う瞬間を虎視眈々と狙っている。環生はCDの裏側のようにきらつく瞳で子どもを凝視しながらそれを躱していた。
「おい。無視か? 名前。言えよ」
「んーと、なまえ。わすれた」
「は?」
子どもが呆気にとられたところで、ボールごと子どもの横をすり抜けた。ゴールと定めた白線の中にボールを蹴り込む。公園の中を隠すように聳え立つ木のうちの一本に当たった球が、ころころと環生の足元に戻ってきて、最初からそこにあったかのように足裏に捕えられる。環生はぱかりと口を開けて、今の名前について思い出していた。サツキだった気がする。メイかも。昨日夜にやってたトトロに引き摺られてそれしか浮かばない、カンタとかかも。
「多分カンタ」
「それトトロだろ。馬鹿にしてんのか」
「ホントにおぼえてない。なんだっけぇ」
爪先で跳ね上げたボールを胸で止めて、そのままリフティングを始める。その間もボールは見ない。ただぼんやり青い空を眺めて、名前をいくつか浮かべてみる。サトル、ワタル、ユキジ、オリノ。どれもかつて呼ばれた気がするだけの、いまいちピンと来ない名前だ。首を傾げる環生を、目の前の子どもは怪訝そうに見て、やがて溜息を吐く。
「もういい。それより、お前どっかのチームに入ってるのか」
膝上から頭上まで飛ばしたボールを跳ねさせていると、視界が上下にブレる。子どもはボールの動きを追っているのか視線と瞼が連動して上下していた。「はいってない」環生は簡潔に答えた。両親はいずれは環生をどこかのクラブに、と考えているようだが、今更子どもたちと玉蹴りをして学ぶこともない。その辺で草サッカーをしているそれなりに上手い子どもたちに「いーれーて」と混ぜてもらって掻き乱す方が楽しい。数百年もサッカーをしていると普通に練習をして試合をするだけなのがつまらなくて仕方ない。この小豆色の髪をもつ子どもは上手いことが多い──もしかしたらこれまでも同一人物だったかもしれない──から、見かけてすぐに声をかけた。「サッカーできんの? おれもいーれーて」と。返事は聞かなかった。多分「は?」とか「やだ」とかだったかもしれないが、小豆色の子どもは大抵、ボールを無理やりにカットしてしまえば、エメラルドの瞳に闘志を漲らせて相手をしてくれる。それは自分のボールだと噛み付いてくる相手をするのは、長い生の中でもそれなりに楽しいことだった。
「じゃあ俺が入るチームに来い」
「むりー」
小豆色の子どもは眉根を寄せて環生を見下ろしてきた。見下すが近いかもしれない。環生の足元に降りたボールをすかさず奪って、自分の足元に据えた。「チームに入れ」「むりなのー」埒が明かない。話慣れなくて緩い口元をもにもに動かしながら「なんか、おばあちゃん? のいえに来ただけだから、ウチこのへんじゃないの」汗をかいた髪を掻いて頭皮に風を送りながら、年上らしい小豆色の頭頂部を見た。この子どもより大きい背丈であった場合、ブルーロックに招集される年齢を越えている可能性が高い。そしたらこの当たりの肉体を放り出してリセットする必要があった。そうならなくてよかった。少し安心している。
「じゃあ──」
「たまちゃん!」
公園の入り口で女が環生を呼んだ。そうそう、こんな感じの響きだった。であればあれが母親か。環生は時々スーパーなどで知らないおばさまの手を握って皆々を驚愕させている。あんまり回数が多いから、母親からは相貌失認の疑いすら持たれていた。大きく手を振って母親に居場所を知らせて、「今の、おれのなまえ」小豆色の子に伝えた。彼は環生の母を振り返って、もう一度環生を見て、「俺はサエ」と伝えた。ああ、そんな感じの名前だったねと思いながら頷くと、小豆色のサエはボールを抱えて環生の頭を撫で回した。汗でしっとりした髪を乱されるが、その手には迷いがなく、そう言えばきょうだいがいたのだったかと、ちらりと思い出した。
「タマ、お前はどっかでサッカーやれ。そしたら俺と戦れるだろ」
口をぱかりと開けたままの環生がサエを見上げた。言われなくてもサッカーは続ける。どこかのチームに入るかは未定──限りなく入らないに近い──だが、どこかでサッカーをしなければエゴに見つけてもらえない。環生は当たりの人生を大切にしなければ。
「お前のその顔、リンに似てるな」
サエは四六時中ボールを奪った環生に対して、柔らかい瞳を向けた。
──そういやこいつストライカー向きじゃなかったな。